Movie Tee
ベトナム戦争の終焉によって精神を失ったアメリカン・ニューシネマと入れ替わるようにしてハリウッドの覇権を握ったのは、ジョージ=ルーカスやスティーヴン=スピルバーグに代表される商業主義色の強い映画であった。興行収入が競われる一方で、関連製品のライセンス事業にも力が注がれ、さまざまな映画グッズが製造された。この時代のファンに向けたグッズとしてのTシャツこそ、「映画Tシャツ」のもっともスタンダードな形式といえよう。
1980年代に入り、ビデオ戦争を制したVHSが急速に普及したことで、配給会社の倉庫に眠るあらゆるフィルムがVHSに姿を変えて世に送り出された。古典映画や劇場では狙っても観ることのできないようなカルト、Z級の作品も手元に置くことが可能となったが、VHSは1本数十ドルの時代であり、主流はあくまでレンタルビデオである。配給会社やビデオ店は、VHSの10分の1のコストで量産できるTシャツを、購入特典としてVHSに付帯させることも多かった。
また、この流れを汲んでか、著作権者の許諾を得てグッズを製造するライセンス事業者も誕生した。中堅ハリウッド俳優が自身の名を冠して立ち上げたStanley Desantis社は、古典映画やTVドラマを中心としたTシャツデザインを1987年の時点で700種類以上有していたという。
ところで、映画の市場は、何もハリウッドだけではない。アメリカに先駆けてVHSが普及していた欧州圏内の国々では、正規業者の代わりに、海賊版業者や個人のシネフィルがTシャツを製作したことで、市場に映画Tシャツが流通する(これについては、アメリカのシネマディクトについても同様と言える)。この場合、各国に跨る多国籍のシルクスクリーンのプリンターによってTシャツに落とし込まれたのは、『時計じかけのオレンジ』や『タクシードライバー』のように象徴的シーンがミーム化した作品が多かった。
ド=ゴールによる文科省設立以降、自国文化の敬愛を謀ったフランスでは、映画がハイカルチャー同様の位置づけを獲得した。官民一体の後ろ盾もあってか、映画業界は、パリ・モード界との関わりを深める。カンヌ国際映画祭に協賛していたフランスのブランドagnès b.は、映画祭で上映された作品のTシャツを自社の製品として取り扱った。
欧米、欧州に次ぐ規模の映画市場を誇るアジア圏で、西洋の映画文化を独自に発展させた日本においては、大島渚監督と山本寛斎のコラボレーションに見てとれるような、スタッフ衣装としての映画Tシャツが制作されており、この点は明らかに世界に先駆けていた。
映画作品自体がそうであるように、映画Tシャツにも各国の特色が如実に現れるのだろう。
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