日常の欠片
小学校一年生から聞こえていた音が止まった。
私の日常にはいつも水槽のブクブク、エアレーションの水の音と、モーターの音があった。
それが今は止まって、時計の針の音だけが聞こえる。
金魚が死んだ。
これで私の飼っている金魚は皆、虹の橋を渡ってしまった。
大方、十三歳といったところだろうか。
今頃、向こうでじい様が世話をしてくれていると思いたい。
金魚が死んでから、私は片付けに必死であった。
すぐに新しく金魚を飼う予定はなく、一度処分できるものは処分することにした。餌、劣化したビニールチューブ、その他諸々。
水槽の代わりにしていた衣装ケースを洗い、底石を洗い、拭けるものは拭いて空っぽになった衣装ケースに詰めていく。
水槽のあった場所は物置となった。
家に帰って部屋の扉を開けても、そこに水槽はなく、キャラグッズの収納箱と菓子の入ったバスケット、化粧品や貯金箱が置かれている。
未だ慣れない景色。床も広くなった。
生活の景色にはいつも水槽があった。
水槽のない景色にはしばらく慣れないだろう。
日常に欠けを感じた時、死を強く意識する。
葬式の時ではない。
日常に何か一点、欠けがあった時にそれは来る。
思えばじい様の時もそうだった。
簡単な家族葬をして、骨を拾っても、じい様はまだ病院に居る気がした。
ばあ様の選んだ写真で遺影を作ったのは私なのに。火葬場で確かに見送り、骨を拾ったというのに。
じい様の死を意識したのは、トイレに入っている時だった。
トイレットペーパーが無くて、「あー、じい様が入ったのか」と思ってハッとした。
そうだった、じい様はもう居ないんだった。
じい様は自分の用が精一杯でトイレットペーパーを切らしても交換までできない。トイレットペーパーが切れていたら大体じい様が最後だった。
おそらく次はブレーカーが落ちた時に気付くのだろう。
椅子を抱えて復旧作業に向かうことに焦りと急ぎは必要ない。酸素の機械が必要なじい様はもう居ないのだから。
金魚もそうだ。
死骸の処理や片付けをしている時はそこまで死について思うことはなかった。
卵から長いこと見てきた子であること、金魚の寿命と老衰を考えていた。
片付けが終わって作業BGMを流していたイヤホンを外した時の部屋の静けさに、金魚飼いとして一つの区切りが来たのだと思った。
エアレーションのない日常はこんなにも静かで寂しいものなのか。
朝起きて最初に聞こえるモーターの音。
餌を求めて大騒ぎする水音は段々小さくなっていき、とうとうモーターの音も止まってしまった。
訪れた静寂の日々に、金魚の居た景色は過去のものになった。