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でも、今はもういい。

居酒屋の空気は大抵、橙色をしている。
そこで生まれるのは柔らかい空気で、浸かると暖かく心地いい。

「生?」
「んーーー、生で」
「いやぁーーー、生で」

ふざけているのは耳だけでわかる。私は思わずニヤつきながら、備え付けのタッチパネルを操作する。
返事を聞く前から、生ビールをカートに入れていた。
会社だったら間違ってもこんな聞き方しない。けど彼らは、いや私含めて、一発目には生しか頼まない。それに、嫌なら嫌と言ってくる。
もう既に懐かしかった。その信頼も含めて。

手元のパネルをひっくり返し、2人に見せる。液晶画面を三人で覗き込む。
私が適当にタブを切り替え、それぞれが好き勝手に押し始める。

「いや多ない?!」
「全然いける」
「あ、俺米食いたい」
「いけいけ!俺も食おかなー」
「トマト欲しない?」
「一旦!一旦注文しよ」

はやる気持ちを乗せたオーダーが軽快な音とともに送信される。
タブレットを置くと、束の間の沈黙。
私達は、お酒がないと少し不器用だ。

「お酒飲むん久々かもしれん」
「マジで?仕事で飲んだりも全く?」
「せやなー、最近は全然やなぁ」
最初は大抵そんな話。みんなおしぼりか箸を触っている。
目が合ったり、合わなかったり。
会わなかった、会えなかった期間のせいで一層不器用になっている。
それでも少しずつ、肩の力が溶け出していくのを感じていた。

汗をかいたジョッキが運ばれてくると、言葉にならない擬音を発しながら私達はテーブルにジョッキの底を擦りつけ、飲み口を軽くぶつける。
ビールは血管を通り、身体の端へ向かって流れていった。
身体が橙色の空気に馴染んでいく。ビールが内側から不自然な緊張を連れ去ろうとしている。私はなるべく逆らわないように、続けてビールを流し込んだ。

「ちょっと痩せたんちゃう?」
「一人暮らし始めた言うてたもんなー」
「俺自炊続かんかったわー、向いてない」
「焼き鳥うま、この真ん中に挟まってるやつ何?」
「ゆうだい別れたって聞いた?」
「え!!聞いてない、結構長かったやんな」
「俺が言うたって言わんとってな?!」

言葉が加速していく。同時に、感覚が戻ってくる。
あの頃のままだ。この場所はあの頃のまま、まだあった。

「仕事は、どう?」

「俺、辞めて地元戻ろうかなと思ってる」
「そうなん?!地元どこやったっけ」
「博多」
「あーそっか、じゃあこっち来ることはもう?」
「いや別にお盆とかは来れるしさ。やまちゃんは?」
「んー、まぁまぁ?」
「新入社員入ってきた?」
「来た、めっちゃ優秀やからわからんとこあったら聞いてる」
「ええやんそれ、最高やん」
「友達とか転職する人増えてきてない?」
「わかる。25には結婚してるはずやってんけどなー」
「言うてたなーそんなこと。本気やったんや」
「いや、常に本気やし。心外やわぁー」
「ごめんて」

「転職なぁー……ちょっと、仕事楽しくなってきたからなー……」

その言葉に、慌てて息を止める。
漏れそうになった言葉を息ごと飲み込んだ。
顔に浮かんでいるであろう表情が嫌で、すぐ笑顔に書き換える。
私は、こういうことばかり上手くなっていく。

「えっ、いいじゃん!例えば例えば?」
「だんだん顔とか覚えてくれる人が増えて」
「おー」
「こないだ営業で行ったスーパーのおばちゃんがさ、お土産くれてさ」
「おばちゃんに好かれてそうやもんなー」
「そう、だから俺も買って帰ろうと思ってて」
「凄いな、仲良しやん」
「でもさ、無茶言うてくる奴もおるやろ?」
「納期とかどうしょうもないこと言われたらきついなぁ」
「まぁでも、それはしゃあないしなぁ」

そう言って、二人は困ったように笑った。
無理やり飲み込んだ職場の愚痴が、嫌いな上司の悪口が、肺のあたりでゆっくりと循環している。鈍痛さえ伴うように感じたのは、酒の飲みすぎかもしれない。
私は慎重に息を吸い、二人に気付かれないようゆっくりと吐いた。
身体の中から、二人と過ごす今この数時間だけでも外へ出て行ってくれることを願って。
上手く笑えているだろうか。
自信がなくて、ビールジョッキで口を隠した。
私は、こういうことばかり上手くなっていく。

なんとなく、そのまま仕事の話が続いた。
発注ミスでやらかした話、同業他社の同期と仲がいい話、後輩が作りすぎた晩御飯を届けてくれる話、届けてくれた晩御飯が入っていたタッパーを返すタイミングが未だにつかめない話。
一つも愚痴は出てこなかった。
愚痴を綺麗にコーティングした「悲しかった話」の類も一切なかった。
ようやく、私は思い出した。
彼らは、そうだったと。
もう一度気付かれないように鼻だけで深く呼吸をすると、目の前のビールを思いっきり呷った。

「うぉ、いくなぁ」
「なんかもー、幸せな気分なった!最高やな!!」
「どしたいきなり」
「ええ話聞けたなー思って!」
「ん、確かに。あれお姉さん、ジョッキ空いてますけど」
「あれ?お兄さんジョッキ空いてませんけどどうしましたん?」

笑った。循環する不純物を蹴散らすように。
二人も笑った。彼らが愛おしくて堪らなかった。
不意に出た涙を誤魔化そうにも、ジョッキの中身は残っていなくて、私はタブレットを手にする。
笑いすぎてしんどい振りで、目元を軽く拭った。
私は、こういうことばかり上手くなっている。でも、今はもういい。
手元のパネルをひっくり返し、2人に見せた。

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