雨に打たれて
雨が好きだ。
そう言う人は珍しいだろう。
だけど、私は雨が好きだ。
なぜって、私の頬に流れる涙が紛れるから。
傘も差さずに雨に打たれていると、涙とともに悲しみも紛れる気がする。
大好きだった彼がいなくなった悲しみが。
飼い猫のコタロウが亡くなったのは一週間前のことだった。
猫はもともと自由な生き物だから、ふらっと出かけてふらっと帰ってくることもあるものだよ。
飼いはじめる時、お父さんはそう言った。
だけど、コタロウは猫にしては珍しく、なかなか自分からは家を出たがらなかった。そのくせ私によく懐いて、私とはよく散歩に出かけていた。家の中でもコタロウは私の後をついて回り、お気に入りの推理小説を読んでいる時や、頭を抱えながら雑誌のパズルを解いている時も、私の膝の上にいた。
そんな彼が、二度と帰ってこなくなるなんて。
あの日はコタロウと公園に行って、時間も気にせずに、彼のお気に入りのボールを使ってずっと遊んでいた。
気がついた時にはあたりは暗くなっていて、私たちはあわてて家へと走った。
帰り道の最後の角を曲がった時、私は手からボールを落としてしまった。振り返り、急いでボールを追う。と、
ピカッ!
視界が真っ白な光に覆われた。
思わず足が止まる。
キキーーーーッ!
耳をつんざくようなブレーキ音とともに、足に何かがぶつかった。途端に膝がかくんと曲がり、私はアスファルトに倒れこむようにして転がった。
なに、何が起きたの?
私が混乱したまま起き上がろうとすると、赤いものが目に入った。
それが何か分かった瞬間、私の思考は停止した。
車から降りてきた人が私に駆け寄り何か言っているが、私には何も聞こえない。
ただ、視界にははっきりと赤く濡れたものが――血まみれのコタロウの姿が、映っていた。
あの日から私は、毎日涙を流している。
良く笑っていたあの頃が嘘のように泣いている。
梅雨時だからか、都合よく雨も続いていた。
だけど、今日は午後から晴れてしまった。憂鬱な気持ちで下校し、家の門を開けると、目の前にポン、ポン……とボールが転がってきた。
コタロウのボールだ。
しゃがんでそれを手に取ると、青色のそれにぽたりとしずくが落ちた。
まずい。
涙腺が決壊しそうになったその時、
「あの……。」
と、後ろから声をかけられた。
あわてて涙をぬぐって振り返る。
そこには大学生くらいの男の人が立っていた。
「初めまして。今日隣に引っ越してきた宮尾孝大(みやおこうた)といいます。よろしくお願いします。」
宮尾さんは丁寧に頭を下げた。
その声を聞きつけたのか、物置のほうからジャージ姿のお母さんがパタパタと走ってきた。
「あら、こんにちは。ごめんなさいね、初めましてなのにこんな格好で。物置の整理をしていたのよ。」
そうか、あのボールは物置にしまってあったのか。
私は一人納得する。
隣では宮尾さんとお母さんが楽しそうに話していた。
「ごめんね、娘が無愛想で。もしよかったら暇なときに遊んでやってね。……ほら、挨拶しなさい。」
お母さんに促されて、私はぺこりとお辞儀をした。
「……よろしくお願いします。」
「よろしくね。」
宮尾さんはにっこりと笑った。
その細められた目を見ると、なんだか優しい気持ちになれるような、不思議な感じがした。
彼と仲良くなるのにそう時間はかからなかった。
「孝大でいいよ。」
初めからそう言った彼はとても気さくで、年下の私にも優しかった。
彼が微笑むと、ぽかぽかと暖かい陽だまりの中にいるような、とても幸せな気持ちがした。
毎日のように彼と遊ぶようになると、だんだんと涙を流すことも減っていった。
もうコタロウのボールを見ても、涙は浮かばない。今はこのボールで孝大と遊んでいるからだ。
涙ばかりの日々が、少しずつ笑顔になれる日々へと変わっていくにつれ、雨の日も減り、季節は夏へと近づいていった。
ミーンミンミンミン。
蝉の声が響く。
うだるような暑さの中、私は学校から帰っていた。
今日は一学期最後の日。宿題やら絵の具セットやら、私は荷物をどっさり抱えていた。
「暑い……重い……。」
大荷物で足元もよく見えない。それが余計に嫌な気持ちを膨らませていた。
「うー……。って、あれ?」
熱気で揺らめく空気の向こうに、見慣れた姿が見えた気がした。
「孝大~!」
私が呼ぶと、彼が片手を挙げた。
私は嬉しくなって走り出す。と、
「え?」
足元に違和感があった。そのまま、見えている景色が上がっていく。
躓いて転んだことに気がついたのは、体が地面に叩きつけられてからだった。
プー、プーッ!
嫌な予感がした。音のしたほうを見ると、真っ黒な車がこちらに向かってきていた。
「危ない!」
そう、最後に聞いたのは、誰の声だったのだろうか。
*
雨が好きだ。
そう言う人は珍しいだろう。
だけど、僕は雨が好きだ。
なぜって、僕の頬に流れる涙が紛れるから。
傘も差さずに雨に打たれていると、涙とともに悲しみも紛れる気がする。
突然の夕立だった。
頭上に広がる雲は黒く、大粒の雨を降らせている。
ビタビタと体を打つ雨は痛かった。
これは罰だ。足元に横たわる彼女を救えなかった僕への罰。
だけど、罰だとしたら――と僕は思う。
こんなんじゃ、足りないよ。
僕はあふれる涙を紛らわすように、黒い空を見上げた。
「やっと一緒になれたね。」
後ろから、照れたような声が聞こえた。
振り返るとそこには、生きていた時と同じ姿のままの彼女がいた。
「えっ……?」
あわてて下を見ると、そこに倒れている彼女の頬を伝っていた血は、雨に洗い流されていた。
「えへへ。……わかってたよ、孝大がコタロウだってこと。」
「な、なんでっ……。」
驚きを隠せない僕に、彼女は微笑みかける。
「なんでも。だって私、コタロウとずっと一緒にいたんだよ。そもそも宮尾孝大って、名前からしてわかりやすいじゃん。」
そうだった。彼女は推理小説やパズルが好きなんだった。
「みやお、みゃお、コウタ、コタロウ、なんて。もうちょっと難しくしてもよかったんじゃない?」
「あはは、君はすごいな。」
僕が笑うと、彼女も笑った。
「じゃあ、そろそろ一緒に行こうか。」
彼女が手を差し出す。
「うん。」
僕は頷いて彼女の手を取る。
気がつくと雨は弱まっていて、遠くの雲の切れ間から光がさしているのが見えた。
僕たちはふわりと浮かび上がり、光のさすほうへ飛んで行った。
「ごめん。」
体が薄れゆく中、僕が前を向いたまま小さくつぶやくと、
「これでよかったんだよ。だって私、コタロウが大好きだもん。」
彼女がにっと笑った。
やっぱり彼女には笑顔が似合う。
もう二度と、雨が好きだなんて言わせない。隠したい涙を流させやしない。
僕はそう心に誓ったのだった。