夜に滑る
やわらかい夕陽色に染まった河原で、一人の男が水切りをしていた。
手近な石を拾っては投げ、二度跳ねては沈む。その繰り返しだった。
もう幾つ投げただろうか。
男はまた石を拾うと、それを少し見つめた。
跳んでくれ。
そう願いを込めて投げた石は、
トン、トン……
二度跳ねて、
ポチャン。
落ちた。
水面に広がる波紋を、男は死んだ目でしばらく見つめていたが、やがて諦めたようにため息をついて空を見上げた。
「……はぁ……」
綺麗なグラデーションを描く夕焼け空が広がっている。燃えるように赤い西の空、そして、闇が滲む東の空……。
パタパタパタ……
その時、その東の方から足音が聞こえてきた。なにやら急いでいる様子だ。
何の気なしにそちらに目をやると、汗だくで駆けてくるポニーテールの女の姿があった。
「……っ」
男は立ち上がって逃げようとした。しかし女が駆け寄る方がひと足早く、男は女に腕を掴まれてしまった。
「……離せよ」
「離しません! 先輩、スケート辞めちゃうって本当ですか?」
女の縋るような声から逃れたい男はそっぽを向く。
「……コーチに聞きました。先輩はスケート界でも絶大な人気を誇る期待の新星なんですよ! なんで辞めちゃうんですか!?」
悲痛な表情の女に対し、男はボソリとつぶやく。
「うるせぇな」
「え?」
途端、男はバッと振り向き
「うるせえな! 俺みたいな中途半端な奴は要らねぇんだよ! いくら練習しても……、クソッ」
歯を食いしばって言葉を切る。男は、彼女の悲しみに歪んだ顔を見続けることができなかったのだ。
「……先輩。私、知ってますよ」
「え?」
絞り出すような彼女の声に、男は思わず振り返る。
「先輩が、毎日残って練習してたこと! 誰もいなくなったスケートリンクで、一所懸命……」
「……見てたのかよ……」
彼女の震え声は、嗚咽まじりになって途切れた。男はそんな彼女に強く当たることも出来ず、独り言のように言葉を続けた。
「でもな、いくら練習したって無理なもんは無理なんだ。結局才能には勝てないんだよ……。俺は、跳べないただの豚なんだ」
男はハハッ、と自嘲気味に笑ってみせる。
しかし彼女の泣き声は収まるどころか、怒りを孕んでさらに大きくなった。
「そんなことっ、言わないでください……!
先輩なら、きっと努力で才能を超えられます! 先輩なら、世界を魅了する選手になれます!」
彼女の語気の強さに、男は少し怯む。
「……お前……なんでそんなこと言いきれるんだよ」
すると彼女は、一瞬あっけに取られた様子で男を見つめ、次の瞬間には涙を拭いながら笑い出していた。
「ちょっと先輩……誰が私にスケートを教えてくれたのか、忘れちゃったんですか?」
「それは……俺だけど……」
その頼りない声を聞いた女は、片手で男の背中をポンと叩く。
「それなら自信もってくださいよ! 先輩が、この冬季五輪日本代表の私を育てたんですから!」
「……まぁ……うん……」
「もう、そんなモジモジしないでくださいって!」
後輩にバンバンと背中を叩かれるたびに、男の顔は明るくなっていく。そして、
「……そうだな」
遂にはボソッとつぶやいた。
「え? 何ですか?」
「なんでもねえよ! ってか、さっきからバンバン叩くなっつーの! 未来の金メダリストを潰すつもりか!?」
男が勢いよく手を振り払うと、彼女はその顔をじっと見つめた。
「……な、何だよ」
うろたえる男に、彼女はにこーっと満面の笑みで返した。
「何だっつーんだよ!?」
「へへーん、その意気ですよ、せんぱーい」
「はぁ!?」
彼女はにんまりしたままくるっと振り返ると、掴んだままだった男の腕を引っ張る。
「おい、どこ行くんだよ?」
「どこ行くって、先輩、決まってるでしょ。夜に滑りに」
「……ん?」
キョトンとして動かない男にしびれを切らして、彼女は男を振り返って言った。
「だから! 今日の居残り練習は、二人でするんです! 早くリンクに戻りますよ!」
「おいおい……」
「異論は認めません! 未来の金メダリストなんでしょ!」
「いや、それはだな」
「うるさーい! 男に二言はなーい! ほら、行きますよ!」
「ったく……」
男はようやく、女に引きずられるようにして歩き出した。
すっかり暗くなった東の空のずっと先には、キラキラと輝く太陽が、ゆっくりと近づいてきていた。