涼しい風に吹かれて

1

 カツ、カツ、カツ。
 ハイヒールを鳴らしながら一人の女が歩いている。
 カツ、カツ、カツ、カツ。
 やがてその音が二重になり重なり合う。
 カツカツカツカツ。カツカツカツカツ。
 女が足を速めると、その音も速くなる。
 女は怯え、目の前の角を右に曲がる。
 続いて、右、右、右。
 その途端、不意に目の前に現れた女にぶつかり、二人はしりもちをついた。
「わあ!ごめんなさい、大丈夫?」
 突如現れた女はおっとりとした声で、ハイヒールを履いたスーツ姿の女に声をかけた。
「いった……。大丈夫じゃないわよ!こっちは追いかけられてるって言うのに、……?」
 スーツの女がゆっくりと振り返るが、いつの間にか足音も、後ろの気配も消えていた。そんな女に、おっとりとした女はきまり悪そうに声をかける。
「あ、ごめんなさい。さっきの私なの。ちょっと驚かせてみようと思って。怖かった?」
「ちょっと……。悔しいけど怖かったわ。これで満足?」
 スーツの女はイライラと立ち上がると、お尻についた砂を払った。綺麗に結われたポニーテールが揺れる。
「ごめんなさいって。そんなに怒らないで。でも、もしかして……、やけど、は、ない?」
「やけど?なんで転んだだけで火傷するのよ。擦り傷はできたけどね。」
「それなら良かった……。」
 おっとりとした女は両手を口元で合わせ、ほっと胸をなでおろした様子だった。
 スーツの女は呆れた様子でため息をつく。
「良かったって……。はぁ、まぁいいわ。ところであんた、誰?こんな夜道で人を驚かせるなんてよっぽどの暇人ね。」
「暇人って言うか、ずうっと暇だったから。私はレイミ。麗しいに美しいと書いて麗美よ。いい名前でしょ?」
 レイミはふわりと花が咲くように笑った。それに対してスーツの女は興味がなさそうに、
「ふうん。私はユウキ。」
と短く答えた。
「字はどう書くの?」
「字?じ、字なんかどうでもいいじゃない。」
 ユウキは慌てた様子で顔をそむけた。
「聞かせてごらんなさいよ。だって、親御さんからいただいた素敵な名前でしょう?」
「いいって言ってるでしょ!!」
 ユウキは甲高い声でレイミの言葉を遮った。
「ご、ごめんなさい……。」
 レイミはしょんぼりとして小さくなるようだった。ユウキはそれを背中に感じながらため息をつくと、イライラと向き直ると厭味ったらしく声をかけた。
「はぁ……。それで、なんなの?麗しくて美しいレイミさん?」
「私?幽霊よ。」
「幽霊?人を馬鹿にするのもいい加減にしなさいよ。」
 ユウキは呆れた様子で、レイミの頭からつま先までをまじまじと見た。
「幽霊っていったって、足もあるし、体も透けてないじゃない!」
「そんなこと言われたって、本当なんだから仕方ないじゃない。」
 レイミは悪びれもせずそういった。ユウキは呆れはてて呟く。
「あーあ、変なのに関わっちゃった。」
「変なのなんて失礼ね。」
 レイミが不満そうに返事をしたので、ユウキは気味悪そうにレイミを見た。
「聞こえたの?とんだ地獄耳ね。」
「だって幽霊だもの。」
「はぁ……。明日も早いんだから、早く帰してくれる?じゃあね。」
 そういってユウキが帰ろうとすると、
「待って!」
とレイミが呼び止めた。
「なんなのよ。急に大声出さないでくれる?びっくりするじゃない。」
「あ、あの……信じて、くれないのかしら……。」
「はぁ?信じるって何よ。意味わかんないんだけど。だいたい幽霊なんているわけないでしょ。」
「だって!」
 何か言いかけるレイミの言葉をユウキが遮る。
「怪談話だって、誰かの見間違いか嘘に決まってるわ。」
「でも!」
 なおも食い下がろうとするレイミに、ユウキは
「っるさいわね。私は誰かさんと違って、馬鹿話に付き合っていられるほど暇じゃないの。今度こそ帰るから。」
「あっ……。」
「ったく、なんなのよ。」
 カツカツカツカツ。
 ユウキは再び、ハイヒールの音を鳴らしながら去っていった。
 あとには立ち尽くすレイミだけが残された。
「だって……。」


2

 一人の男がぶつぶつ言いながら歩いていた。
「もう終わりだ……。何もかもうまくいかなかった。そう、俺は負け犬なんだ……。はは、もう死ぬしかないな。」
 男は、車の行き交う道路にふらりと倒れるように飛び出した。
 男を照らすトラックのライトが、スローモーションのようにゆっくりと大きくなっていく。
 もう終わりだ、と男――リョウタが顔を歪めて笑いかけた、その時だった。
 リョウタを照らしていた光が二つの陰に遮られたのだ。
「えっ……。」
 キキーッ、ドン。
 鳴り響くブレーキ音と、鈍い音。そう、それはまるで、誰かが硬いものにぶつかったような――。
「キャーッ」
「誰か轢かれたぞ!」
「救急車!」
 リョウタが音のした方を見ると、そこには一人の女が倒れている。途端にリョウタの頭の中は真っ白になった。
「だ、大丈夫ですか!?」
 リョウタが駆け寄り、女に声をかけると、女はかすかに笑って、
「大丈夫なわけないじゃない……。それより、早く、通報したら……?」
 そう言い残してぱたりと動かなくなった。
 リョウタは慌てて携帯電話を取り出す。
 その時だった。
 突然ざわめきが消え、シン――と辺りが静まり返ったのだ。
 リョウタが不思議に思って周りを見渡すと、うごめいていた人々の群れが静止していた。
「えっ……?」
「ったく、世話が焼けるねぇ。」
 リョウタの呟きに答えるように、しゃがんだリョウタの上から若い男の声が降ってきた。
「え、あ、あんた誰だよ!?ってかこれどういうこと?」
 気が動転するリョウタに、声の主は落ち着いて
「説明はあと、あと。それよりこの女の子を助けないと。」
「そ、そうだね……。」
 リョウタは気圧されて、救急車を呼ぶため電話をかけ始めた。

 その事故現場の、少し離れたところに、いつの間にか白い服を着た女が立っていた。
 救急車、パトカー、そして事故によって起こった火事を鎮めるために出動した消防車のサイレンが鳴り響くなか、女はぶつぶつ呟いていた。
「事故……火事……火傷…………。いやああああああっ!」
 女は耳をふさいでその場にしゃがみ込んだ。


3

 ピッ……ピッ……。
 機械音が小さく鳴るなか、ユウキはゆっくりと目を覚ました。目に入るのは白ばかりである。
「やっと目が覚めたみたいね。」
 声のした方を見ると、そこにはレイミが、あの夜出会った時のままの姿で立っていた。
「あんた、なんでこんなところにいるのよ!?」
 ユウキが跳ね起きようとすると、
「いたたたたっ!」
「まったく無茶するから。」
 痛みでまるで起き上がれず、レイミに止められ、ゆっくりと寝かされた。
「まさか本当に幽霊!?私、死んじゃったの!?」
「死んでないわよ、安心なさいな。私は幽霊だけど、ここは死後の世界じゃないから。」
「うそ!?」
「本当よ。だって、体に痛みもあるでしょう?死後の世界には、痛みも苦しみもなぁんにもないの。」
「でも幽霊が見えるってことはやっぱり……。」
 ユウキがまだ信じられずに言いかけた時、
「遠坂さん、面会ですよ。」
と、ドアの外から看護師の声が聞こえてきた。
「やっぱり事故のショックか、誰もいないのに一人で話しておられて……。少しでも癒してあげてくださいね。」
 看護師は、面会に来た何者かに話しているようだ。
「ちょっと待って、なんで私が一人で話してることになってんのよ!」
 ユウキがレイミに噛みつき、
「ごめんなさい、それは……。」
 レイミがそう言いかけたところで、病室のドアが開いて二人の男が入ってきた。
「あっ、あの……。」
 リョウタが口を開くと、ユウキが声をあげた。
「あっ!あなたは、あの時の!」
「本当に、申し訳ございませんでした!」
 リョウタが深々と頭を下げる。ユウキはそれを手で制して、
「いやいや、いいのよ。私が勝手にやったことだし。」
「いや、僕が飛び出したりしたからこんな大怪我を……。」
 水掛け論になりそうなところで、もう一人の男、ハヤトが口を挟む。
「まあまあ、俺のおかげで命は助かったんだからトントンだろ。」
「な、なによあなたが助けたって?あなたが通報してくれたってこと?」
 ユウキがハヤトに声をかけると、
「えっ!?」
と、リョウタとハヤトが声をそろえた。
「俺のことが見えるのか!?」
 動揺するハヤトに、
「見えるに決まってるでしょ。友達か何か?」
とユウキが問う。
「なんでだ……!?」
「ちょっと、私のことも忘れないでくださいな。」
 ハヤトとユウキの間に、レイミが割って入った。
「ええっ!?ゆ、幽霊!?」
 ハヤトが飛び退る。
「そう、私も幽霊よ。あなたもでしょう?」
 レイミがハヤトに目をやると、ユウキが聞き返す。
「えっ、どういうこと?」
「そうねえ、私とこの方が幽霊で、こちらの方は生身の人間ね。」
「ゆ、幽霊!?」
 リョウタが後ずさり、幽霊だと示されたハヤトから離れる。
「なんだ、知らずにおれと喋ってたのか?」
「また幽霊!?いやああああ!」
 人間二人は混乱し、レイミとハヤトは呆れ顔だ。
「安心なさいな。でもあなた、幽霊とか怖い性質なの?」
「う、うるさいわね!ちょっとびっくりしただけよ!」
 強がるユウキと微笑むレイミ。そこへ、リョウタが質問する。
「でも、なんで幽霊が二人も?」
「きっと生死の境に迷い込んだから幽霊が見えるようになったんじゃないかしら。」
 レイミが答えると、今度はユウキが続けて、
「ちょっと待って。私は事故に遭う前からレイミが見えてたんだけど。」
「それは予兆みたいなものよ。私のことが見えるのは死期が近い人だけだし。」
「ってことは私、やっぱり死んじゃうの!?」
「そう焦らないで。きっとあのままだったら、あなたは過労死してたのよ。だけど事故に遭ったことで運命が変わったってこと。」
 レイミが説明している間、考え込んでいたリョウタが口を開いた。
「あの……。」
「何?」
 ユウキが聞き返す。
「これは、現実なんでしょうか?目の前に二人も幽霊がいるなんて。」
「わけがわからないけど現実みたいね。さっきも私がひとりごと言ってたみたいになってたし。」
「そうですか……。」
 リョウタが腑に落ちないといった様子になったとき、レイミがその場の空気を切り替えるように言った。
「これも何かの縁ですし、とりあえず自己紹介でもしましょう?私はレイミ。麗しいに美しいで麗美よ。あなたは?」
 レイミがリョウタに問いかける。
「え、えっと……。僕は、リョウタって言います。涼しいに太いで涼太。」
「俺はハヤトってんだ。勇気のある人で勇人。」
 ハヤトが食い気味に言った時、ユウキがぽつりと呟いた。
「おんなじ字……。」
「どうしたの?」
「ううん、なんでも。」
 レイミが聞くが、ユウキは答えなかった。
「お前はなんていうんだ?」
「ユウキっていいます。よろしく。」
「ユウキの字は?さっき何か言ってたけど。」
 ハヤトが聞こうとすると、レイミが慌ててハヤトの口をふさいだ。
「余計なこと言わないの!何か事情があるのよ!」
「もごもがっ、ご、ごめん……。」
 ハヤトの言葉の後に気まずい沈黙が訪れた。
「と、とにかく、ユウキさん本当にすみませんでした!」
 リョウタが空気を換えようと、慌てて声を上げた。
「だからいいって。そんなに謝られても困るだけだし。それよりどうして飛び出したの?話したくないなら別にいいけど。」
 ユウキが聞くと、リョウタは少し黙った後、言いにくそうに口を開いた。
「……僕、負け組なんです。」
「はあ?」
 ハヤトが言うのもかまわず、リョウタは続ける。
「高校受験に失敗して私立高校に通い、大学は誰も知らないような三流大学。就職したのは中小企業でそこでもへまばかりして、ついにはリストラ。頼みの綱だった彼女は結婚詐欺師で財布はすっからかんになり、あとはもう死ぬ道しか残されていないと思ったんです。」
「待て待て待て、どうしてそうなるんだ?」
「そうよ。命は大切にしなくちゃ。」
 ハヤトとレイミが言うが、ユウキは一人、
「でも、本当に考えて考えて、生きているのが死ぬより辛くなったら…。それを止める権利なんて、誰にもないと思う。」
 ぽつりと言った。それにレイミが、
「何言ってるのよあなた。生きたくても生きられない人がたくさんいるのよ。」
「だからそれが押しつけがましいんだって、……!?」
 ユウキは反論しかけた時、それに気づいた。
 レイミが、泣いていた。
「ご、ごめんなさい!なんか僕のせいで……。」
 リョウタが言うが、
「いいえ、あなたのせいじゃないわ。」
とレイミは泣き止まずに言う。
「ちょっと俺、なんか買ってくるよ。」
「幽霊が買い物できるっていうの?」
「そ、そうか……。」
 ハヤトとユウキは二人ともどうにかしようとして空回った。
 重たい沈黙が訪れる。
 しばらくして、レイミが涙をぐっとぬぐった。
「ごめんなさい。もう大丈夫よ。ちょっと外の空気、吸ってくるわ。」
 そういって出ていったレイミを、ハヤトが追おうとする。
「やめなさいよ!」
「でもこのままほっとくわけにはいかないだろ!」
 ハヤトはユウキの制止も聞かず、病室を飛び出していった。
「あーあ、行っちゃった。」
「何事もなければいいんですが……。」
 その時、外から消防車のサイレンが聞こえた。
「火事!?」
「僕らも逃げたほうがいいんですかね!?」
「でも私、動けないし……。」
「僕が背負っていきますよ。ほら乗って。」
 慌てるユウキに、リョウタが背中を向けた。
「悪いじゃない。いいの?」
「はい、それより早くしないと!」
 ユウキは少し躊躇ってから、うん、と頷くと、リョウタの背中におぶさった。
 廊下に出ると、看護師たちが慌てふためいていた。リョウタとユウキはその中の数人に声をかけられる。
「何やってるんですか!」
「何って、逃げようと……。」
「隣の建物が燃えてるんです。落ち着いて病室に戻ってください。」
「でも……。」
 その時、外から女の悲鳴が聞こえた。
「きゃあああっ!」
「大丈夫か!?」
 続いて聞こえたのは、聞き覚えのあるハヤトの声だった。
 ユウキとリョウタは顔を見合わせた。
「まさか……。」


4

 消防車のサイレンが鳴る中、ユウキの病室に四人が揃っていた。
「本当に、ごめんなさい!」
「そんなに謝らないでって。」
「でも……。」
「何事もなかったんだし……。」
「だって……。」
 申し訳なさそうなレイミに、ユウキとリョウタが言う。
「そうそう。あの時はちょっとビビったけどな。それよりどうしてそんなに……。」
「さっきから一言多いよ!」
 リョウタが慌ててハヤトの口をふさぐが、レイミはしばらくの間うつむいていた。だがやがて、彼女は意を決したように語りだした。
「私ね、1940年生まれなの。つまり戦争中よ。」
 三人は同時に息をのんだ。
「5歳の時に大きな空襲があって、私も家族も巻き込まれたの。空から大きな鉄の弾が次々に振ってきて、あちこちで爆発が起こっていたわ。」
 鳴り響く空襲警報のサイレン。レイミは右手を妹のレイコと、左手を母と繋いで逃げていた。すると突然、近くに大きな弾が降ってきた。
 ドーン。
 大きな音が鳴って、レイミはその音のした左手を見た。
 すると、レイミの母が大きな火傷を負って、……顔がドロドロに溶けていた。
 レイミは小さく悲鳴を上げ、怖くなって、思わず手を放してしまっていた。
 後ろから、残った口で母が呼ぶのも聞こえない振りをして、レイミは妹と逃げた。
「私と妹はどうにか助かったけど、でも……。母は助からなかった。……私は最低な人間よ。母を見捨てたのにもかかわらず、あれから火事が怖くなって。人が火傷をするたびに、母の顔を思い出すの。母に呪われているのかもしれないわ。……いいえ、私は自分で自分を縛り付けているのよ。母を見捨てた自分が、少しでも罪滅ぼしできるようにね。」
「そんな……。」
 レイミが語り終えると、ユウキは言葉を失った。
「ごめんなさいね。こんなこと、突然言い出したりして。私の勝手な事情なのに。」
 レイミが謝ると、ハヤトは決心したように顔を上げた。
「いや、……俺、やってみるよ。」
「やってみるって何を?」
 ユウキが問うと、
「ま、見てればわかるって。」
 ハヤトが前に出て、何やら手で印を結び始めた。
「ひと ふた み よ いつ む なな や ここの たり、
 ふるべ ゆらゆらと ふるべ。
 ひと ふた み よ いつ む なな や ここの たり、
 ふるべ ゆらゆらと ふるべ。
 一 二 三 四 五 六 七 八 九 十、
 布留部 由良 由良止 布留部!」
 すると、ハヤトのあたりがぼうっと光りはじめた。
 やがて、光が一瞬消えたのち、再び光が戻ったとき、そこにはハヤトではなく一人の女が立っていた。
「えっ……。」
「レイミ、久しぶりね。」
「お、お母さん……?」
「そうよぉ。元気そうでよかった。あっ、幽霊に元気も風邪もないわよね。」
 その女――レイミの母は、口に手を当ておしとやかに笑う。その仕草はレイミにそっくりだった。
「お、お母さん!ごごご、ごめんなさい!!」
「あら、いったいいつの話をしているのかしら。もう忘れてしまったわ。」
「えっ……。」
「あんな昔のこと、気にし過ぎよ。」
「でも……。」
「いいからいいから。それより、こんなにたくさんお友達ができたのね。お母さん嬉しいわ。」
 レイミの母は、ユウキたちを見て微笑んだ。
「友達って……。まぁ、いいか。」
 ユウキがため息をつく。
いつまでも昔のことを引きずってないの。ましてや呪いなんて、母さんがかけるわけないでしょう、もう。そんな勇気あるわけないわ。」
 その言葉に、ユウキがびくっとする。
「お母さん聞いていたの!?ほ、本当にごめんなさい…。」
「いいからいいから。」
 そうにっこりと笑ったレイミの母は、やがて、まじめな顔をして言う。 
「………ねえレイミ。私と一緒に来る気はない?」
「えっ……?」
「天国からレイコと一緒に、レイミのこと、ずっと見ていたわ。あなたはずっと、過去に縛られていてかわいそうだった。もしあの時のことを気に病んでいるのなら、もう十分罰を受けたわよ。」
「だって……!」
「『でも』と『だって』が多い!」
「へっ?」
 突然語気を荒げたレイミの母に、三人が驚く。
「よくこうやって叱られたの、覚えている?今でもあなた、そうなのね。ここまで来るとあれも懐かしいわぁ。たくさん叱ってごめんね。」
「お母さん………。」
 レイミの目に涙があふれ出した。
「ほら、泣かないの。それで、どうしましょう。行くの、行かないの?もう時間がないのよ。」
「行っても、いいの………?」
 少し逡巡したレイミが口を開く。
「もちろんよ。」
 レイミの母は大きくうなずいた。
「じゃあ、行く。私、行くわ。」
 花が咲いたように笑うレイミに、母は笑いかけた。
「本当?ふふっ、嬉しいわ。………ほら、皆さんにご挨拶して。」
「うん……。少しの間だったけど、今まで、ありがとうございました。また、いつか、きっと。」
 レイミがそう言うと、レイミとレイミ母の周りが輝き始めた。やがてだんだんと光が消えていき、病室の電気がパッと点いた。
 三人はそれぞれ感慨にふけり、しばらくしてハヤトが口を開いた。
「行っちまったな。」
「そうだね……。」
「って、あんたがやったんでしょ!説明しなさいよ!」
 ユウキがハヤトの胸ぐらをつかまんばかりの勢いで言う。
「あー、だから、その、さっきのは死者を一時的に蘇生させる呪文ってわけ。俺はまだ死んでから時間が経ってないから、そんなに長い時間はできないんだけどな。」
「なるほど……。それにしても、結構何でもできるんだね…。」
「まあな。」
 褒めるリョウタに、まんざらでもない様子のハヤトが呟く。
「ま、死に方が死に方だったからな。」
「えっ?」
「いや、なんでも。」
 聞き返したリョウタに、ハヤトはもごもごと答えた。
「そうなの……?……って、そんな説明で納得できるわけないじゃない!」
 食ってかかるユウキの言葉を、看護師が遮った。
「そろそろお時間ですよ。」
「じゃ、俺たちはこの辺で。」
「し、失礼しました……。」
 そう言って、ハヤトとリョウタは出ていった。
「まったくもう……。だけど………。」
 真っ白な病室に、ユウキの呟きが吸い込まれた。


5

 ユウキの病室から、言い争う声が聞こえていた。
「だからやりなさいよ!」
「俺だって、そんな簡単にできるわけじゃねえよ!」
「まあまあ……。」
 リョウタが止めるのも意味はなく、そこへ鋭い声が飛んできた。
「何を騒いでいるんですか!他の患者さんに迷惑ですよ!」
「すいませーん。」
 二人はまったく悪びれる様子もなく謝る。
「ほら怒られたじゃない!」
「お前のせいでもあるだろ!」
「なにをー、いたたたた……。」
 ユウキが暴れようとして、また痛みに顔を歪める。
「ちょっ、無理しないでください!」
「うるさいわね……。」
「安静にしろよな。」
 ハヤトがぶっきらぼうに声をかけた。
「と・に・か・く!なんで、私の頼みは聞いてくれないのよ!」
「だからあんたとレイミの場合は事情が違うだろ!それにいきなりまた死者の一時蘇生しろって言われても無理だって!」
 荒ぶる二人に、リョウタが声をかけた。
「ユウキさん、まずは理由を話したらどうでしょうか…。」
「理由?そんなの決まってるじゃない。子供のころ、道路に飛び出した私をかばって亡くなった人に会わせてほしいの!」
「そんなの聞くわけには、って、今なんて言った?」
 言いかけて、ハヤトが聞き返す。
「だから!リョウタさんの時の私みたいに、飛び出した私をかばってくれた人に会わせてほしいの!」
「待て!それは何年前のことだ?」
「私が三歳の時のことらしいから…、二十二年前かしら。」
「もしかしてその男……、『奥村勇人』って名前じゃ……。」
「名前がわからないから困ってるのよ!……え、『ハヤト』って………。」
 その途端、ハヤトは頭を抱えてしゃがみこんだ。
「俺は……。俺は、二十二年前に道路に飛び出した女の子を助けた。その子を突き飛ばして、俺のほうは……間に合わなかった。目の前に大きなトラックが迫ってきて、ライトに目がくらんで……。ちょうどこの前のユウキと同じような状況だったと思う。気づいたら俺は、その場に浮かんでいた。自分の葬式会場にも行ったよ。それからは……、交差点での事故を察知するたびに、それを止めようと走ったよ。だけど、だめなんだ。誰か、生身の人間が止めようとしなけりゃ、俺は何もできない。不甲斐なさで毎日胃がきりきりしていたよ。……だけど、今回は違った。あんたのおかげでリョウタは助かり、俺はあの時の女の子……ユウキに会えたってわけさ。」
 ハヤトはそう言うと、にっと笑って立ち上がった。
「ハヤト……。あんたが、私が探してた命の恩人だってわけ?まさかこんなちゃらんぽらんな……って、え……。」
 ユウキの手に涙がぽろぽろこぼれ落ちた。
「柄じゃないけど……ハヤト、いや、ハヤトさん。あのときはありがとうございました。あなたのおかげで私は今生きてるんだね……。」
「それを言ったら、僕だって。ユウキさん、本当にありがとう。ユウキさんは亡くならなくて良かったけど……。」
 リョウタも声を上げた。
 そして二人はハヤトの方を見る。
「ま、俺は死んじゃったってこと。気にすんなよな。」
「気にするなって言われても!!」
 頭を掻くハヤトに、泣きながらユウキは叫ぶ。
「だから!俺は、ユウキが生きててよかったと思ってる!こうやって口論できたのも楽しかったしさ。」
 すると、ゆっくりとハヤトの体が透けはじめた。
「ちょっと!お礼もろくにさせないで消えるつもり!?許さないわよ!」
 ユウキが布団から出ようともがく。そのせいで机から財布が落ち、中から免許証が滑り落ちた。リョウタがその文字を見て、思わず読み上げる。
「『遠坂……勇気』……。」
「そうよ!私の名前は勇気。あんたと同じ字のね!」
 ユウキは涙目でハヤトを睨みつける。
「ああ、それであの時!珍しいな。」
するとその瞬間、ハヤトが消えるのが止まった。
「そうよ。男みたいでしょ。父親がつけたのよ。アル中で暴力をふるう父親がね。」
 ユウキが吐き捨てるように言う。
「そんな……。」
「それで、あの時父親から逃げて?」
 ハヤトが聞くと、
「んー、まあそんなところ。……でも、今はそれにちょっとだけ感謝してる。こうやってハヤトさんに会えたもの。」
 ユウキがにっと笑うと、
「そのハヤトさんってのやめろよな。なんか鳥肌立つ。」
「な、失礼ねっ!……まあ、今日くらいは許してあげてもいいわ。」
 怒るユウキの顔には、それでも笑顔が浮かんでいた。
「じゃ、俺そろそろ行くわ。」
 もう薄くなって向こう側が見えそうなハヤトの体が、また透けはじめる。
「待って!」
「俺もお前と会っちまったからな。成仏までもう時間がないんだよ。」
「そんな……。」
 必死で止めるユウキの思いも届かず、ハヤトの体は消えていく。
「じゃ。あの子も言ってたけど、またいつか。」
 そして、ゆっくりと辺りが暗くなっていった。
 やがて真っ暗になってからしばらくすると、病院の電気が点いた。
「行っちゃい、ましたね……。」
「なんなのよあいつ!!レイミはあの子で私はあんたなんて呼んで!!それに、ちょっとコンビニ行くみたいに消えるんじゃないわよっ!!」
 ユウキがむせび泣く。その横で、リョウタはどうしていいかわからず突っ立っていた。
「……。」
 やがて、リョウタは意を決してユウキにそっと近づく。
「ユウキさん。僕は、どんな名前でも、ユウキさんのことが大好きですよ。ハヤトのことも、レイミさんのことも。みんな、言ってたじゃないですか。またいつか、って。だから、きっと。いつか、会いましょう。」
「でも、でも!!それまでは会えないじゃない!だって命の恩人も見つかったことだし、私はどうやって生きていけばいいのよ!」
「……『「でも」と「だって」が多い』!!」
 突然大きな声を出したリョウタに、ユウキが顔を上げる。
「えっ?」
「レイミさんのお母さんが言ってたでしょ。きっとまた、会えますって。だから、もう『でも』『だって』なんて言わずに、一緒に頑張っていきましょう。ね。」
「………。」
 ユウキはリョウタに抱きついてさらに泣いた。リョウタはぎこちなくそれを受け止める。
 涼しい秋風が吹いて、カーテンがふわりと揺れた。


6

 ユウキの病室に、リョウタが花を持ってやってきた。
「具合はどう?」
「もうすっかり良くなったわ。退院は間近だって。」
「良かったあ。あっこれ、お見舞いのお花。飾ってもいいかな?」
「もちろん。」
 リョウタが花を飾ろうとすると、その拍子にユウキの財布を落としてしまう。
「あっ、ごめん!」
「いいのよ。……あっ、」
 財布から運転免許証が出てしまった。そこには遠坂勇気の文字がある。
「これ……。」
「もういいのよ。私の名前は勇気。勇ましい気力で勇気。」
「……見ちゃって、ごめん。」
「いいっていいって。お母さんと私は命からがら逃げたから。未だにあいつがハンコを押さないから、戸籍上は離婚してないんだけどね。」
「……。」
 黙り込むリョウタに、ユウキが明るく声をかける。
「ちょっとちょっと。辛気臭い話はこれで終わり。それより私の退院間近を祝ってくれるんじゃなかったの?」
「そ、そうだった。ちょっとケーキでも買ってくるね。あ、フルーツのほうがいいかな。」
「ダイエット中なんだからフルーツにしてよ。」
「病人がダイエットなんてよくないよ。でもフルーツにするね。」
 口をとがらせるユウキに、リョウタは笑って答えた。
「いってらっしゃい。」
 リョウタはいそいそと去っていく。
「はぁ……。そういえばあいつら、本当にどこ行っちゃったんだろう……。」
 やわらかな風が吹き、カーテンを巻き上げる。それにより差し込んできた光がユウキを照らした。
「まぶしっ」
 そう呟くユウキを、空高くから、ハヤトとレイミの家族が、優しく見守っていたのだった。


おしまい

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