【日々これ #16】「私だって頑張ってる」を捨てるのが幸せへの近道かもしれない
ハノイでコロナ感染者になると、ネットに個人情報がさらにされ、あること無いこと含めて叩かれているので、感染しないように、いつも通り自宅に引きこもっています。Anzaki です。
明日は我が身、とはよく言ったもので、人のこと叩く暇があったら、自分のことを大事にした方が良いよなぁと思います。
今日の内容も、はじめは社員に向けて思ったことなんのですが、「自分はどうなの?」と思うとちょっと胸が痛くなったので、
これは、自分へのイマシメとして書いておきます。
「私だって頑張ってるんです」という発言や感情
さすがにかっこ悪くて口にすることは無いですが、たまに思ってしまうことはあります。
そんな弱い自分がいます。
でもこの感情から良いものが生まれることってなくて、そう思っている時間それ自体で損してるなぁと思います。
仮に頑張りを認められても、そのとき手もとに残る結果や成果が無いと、「頑張ったと言われた」だけで、その次に何も繋がりません。
じゃあ、なんでそうなってしまうのでしょうか。。。
たぶん、この時の状況は、あるべき姿や、ありたい姿と、現状の姿のギャップを正確にとらえられていないんだと思います。
おそらく、その差が本当に認識できていれば、そんな発言にはならないはずです。
つまり、できていない自覚があれば、こんな感情は抱かないはずで、「もっと努力しなきゃ」「もっと頑張らなきゃ」という感情になるはずです。
これ、客観的にみると、「考えることを放棄している状態」といえます。
もっと言えば、放棄している自覚も無いはずなので、
「考える」ということが、どういうことか、わかっていないのかもしれません。
「考える」とは、ミリ単位で行われる、精密な行為だと思っています。
これってどういうことかな、なんでかな、具体的には何かな、どういうやり方があるかな、
それぞれどんな結果がでるかな、でそうかな、その理由はなにかな、、、
多分、「頑張れているとき」というのは、「考える」ことを必死にやって、試して失敗、試して失敗、でも次はこれをやってみよう!みたいな状態です。
この時はもしかしたら、「頑張ってるかどうか」なんて考えていないかもしれませんね。
頑張れなくなると、「私だって頑張ってるのに」という感情が湧いてきてしまう。
頑張ってるのに・・・と思うのがダメではないですが(人は弱い!)、そこに立ち止まるのはほんの一瞬だけにしないといけないなぁと思います。
もっといえば「私だって頑張っているのに」の裏は「もう頑張れない」です。
立ち止まっているどころか、その場に体操座りです。
そこにいても、98%くらいの確率で何も変わらないでしょう(2%くらいは偶然の偶然で何か変わるかもしれないけど)。
右か、左か、まっすぐか、時には後ろか、
それとも坂を上るか、下るか、坂じゃなくて階段を進むか、
自転車にのるか、車に、船にのるか、飛行機に乗るか、電車にのるか。
進む方向も進む方法も、きっともっといっぱいあるはず。
全部の道が行き止まりなわけがない。
トンネルの暗闇も一生続くわけじゃない。
そもそもトンネルは、外と外をつなぐために作られてるんだから、
途中で歩をとめない限りはどこかに出るはず。
きっと光も見えてくる。
そう思って、どこに光があるのかを必死になって探していく方が、幸せですよね、きっと。
頑張ることは、考えること。
考えることは無限にできる。
そう思うと、
どこまでも無限に頑張れるはずで、
そのどこまでかに光はあるはずなので、
「必ず光に辿り着ける」ことが決まっています。
頑張れば(考えれば)、ほぼ確実に良いことがあるのです。
体操座りはやめてしまいましょう。
ではまた。
(この話が誰かの何かにつながりますように・・・)
【参考】なし
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