応接間
ある日①
甥っ子が歩くようになった。ちいさい一歩を重ねて少しずつ進む姿は、もう言葉が出ないほど可愛い。家の近所の公園をお父さんに連れ立って歩く動画が送られてきて、わたしは自宅のデスクで可愛い可愛いと呟いている。さながら推しアイドルのSNSが更新されたファンだ。最近ではその動画のことを「配給」と呼ぶようにしている。
1年前には生まれてきた子はもう歩いている。既に数十年歩いているわたしは、この1年どんな進歩があっただろうか。年末特有の雰囲気に呑まれて、つい振り返ってしまう。
いつのまにかそういう年齢になり、友達がほつほつと結婚した。隔月に1組はそういう報告を聞いた気がする。余談だが、法制度としての婚姻にはあまり賛同できないので「おめでとう」の代わりに「健やかにね」と伝えることにしている。
日常に幼い甥っ子の写真と動画が入り込み、周囲には折に触れて新しい家庭が築かれていく。そんな異性愛と家族愛に殴られる日々に、自分の輪郭にゆがみひずみが入れられていく。いつの日か実家に帰ったときに父が姉夫婦のことを「結婚して、家買って、式挙げて、子ども産まれてってほんと順調だよね」と上機嫌に宣っていた。まだこの傷の治し方をまだ知らない。しかし、世界は私を傷つけないように設計されていないらしい。
ある日②
静かだ。一番乗りで教室に着いたときのような静寂がある。東京とはいえ、ここには高いビルもなければ派手でうるさいトラックもいない。空を見上げれば月星が多少は見えるし、そもそも空を見上げる余白がある。静かだ。ガスヒーターの音だけがじーっと続いている。ここにわたしに仇なすものはなにもなくて、そういうときの頭の中はひんやりと静かだ。
わたしの精神世界はワンルームなんだと思う。どこにいても部屋全体を見回せる1人に最適な部屋。あんまり広くないから人を招きいれることはほとんどなくて、たまに呼ぼうと試みることもあるけれど、気が重くって結局やめてしまう。いや、億劫というよりは、自分だけの空間に誰かが入り込んで壊されるのが怖いんだ。だから、人と関わるときは、わたしは必ず訪ねる側だ。出会ってきた人には精神世界が広い戸建の人もいて、そういう人たちが持っている応接間の存在に驚き、指を咥えて眺めている。自分の家にいながら他人を関わることできるなんてすごい。自分の生活スペースを明かさずに人と関われるなんてすごい。なにより、わたしが人と関わるために(精神世界から外に出かけるために)払っているコスト(身支度)がないなんてすごい。わたしはもうこんなに疲れている。
人当たりがいい人が、すり減らずに人に優しくできている人が、世界にはいる。一方でわたしは根本的に優しい人間ではない。根本的に人と関わることが容易い人間ではない。優しさは作り出すものだ。いざ余裕がなくなると、すぐに優しくないわたしが顔を出してくる。その度に、そういう自分に落ち込んでいる。翌る日も、自らの加害性に苛まれている。来年はいい子になろう。
ちょっといい醤油を買います。