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地球環境を語るためには、最初に何を考えると良いのか?

山懸さん

以下のnote、ありがとうございます。山懸さんが「この本もブローデルの影響」とかあまりにたくさんの本をフェイスブック上に投稿するものだから、「いやあ、ブローデルってすごいんだ!」と彼のすごさをそれらで再認識している次第です 笑。

ということで、もうそろそろ1年(いま、チェックしたら、最初が2020年8月2日なんですよ。因みに読書会は2020年5月スタート)にならんとする往復書簡のひとつとして、これを書いています。今週、以下の「文化の盗用」に関する記事を書いたこと、一方、山懸さんがブローデルのおかげで人類学の本を面白く読み始めることができるようになり「縦横に走り回れる土壌」を得たこと、これらの二つがどこで繋がるかなあと考えていました。

もちろん、ぼくも一緒にブローデルを読んでいるので、その「ものを言える領域が広がった」感覚はビンビンに分かるわけですよ。

そこでふと思うのですね。

考える対象としての物理的広さに関し、(宇宙はさておき)地球ほど大きなものもないですが、かつて「そんな地球環境なんて身近な話じゃないし」と話していた人たちも、地球環境にまつわる議論やプロジェクトに熱心なんですね。確かにマンズィーニが「地球環境を考慮に入れないソーシャルイノベーションは、ソーシャルイノベーションとは呼ばない」と言うように、これは絶対条件なんです。

その結果、人間中心という考え方ではなく、地球中心(あるいは地球の生態系中心)と考えるべきだ、という論が強くなってきています。人間が好き勝手に地球を弄り回したものだから、それを諫めるわけです(余談ながら、デザイン側の「人間中心設計」という言葉を正統派人文学関係者たちが、「あの人たち、何、言ってんの?」という目で見ていたことを思い出します)。

大量生産的なターミノロジーでサプライチェーンの改革を説いている人に対しても、「サーキュラーエコノミー文脈では一部しか語っていないんだよ」と、とにかく、これまでの視野の外にある「潜在的に大きな影響力のある存在」にいかに気づき、それらを自らの思考と議論にいかに持ち込んでくるかという、言っては何だけど、競争状態に陥っているように見えないわけでもない。広さをめぐる争いですね。

これ、もしかしたら、山懸さんが以前話していた「信奉者嫌い」にも通じるかもしれませんが、やや落ち着かない議論の仕方です。

特にぼくがどうにもしっくりとこないのは、地球環境のために人間中心から地球中心という視点の転換は大賛成なんだけど、人間の欲望の抑制が人権の制限に繋がっているのではないか?と思われるような物言いを目にしたりすることなんですね。

権威国家の方が環境政策がより効果的ならば、そちらを支持するのか?というあたりもそうです(似たような議論で、民主主義国家よりも権威主義国家の方がパンデミックを抑え込んでいる、という危うい表現もありますね)。

文化の盗用の記事でも書いたように、日経新聞のロンドンにいる赤川編集委員は、次のようなことを言っています。

EUの外交関係者から「日本は安全保障ばかりに関心があり、人権問題では頼りにならない」、英国保守党のダンカンスミス元党首が「日本は人権問題でもリーダーシップを発揮して欲しい」と言われました。

この点はぼくもガンガンに感じているし、日本の赤いパスポートは期待するほどには国民を守ってくれないー湾岸戦争で取り残された邦人の救助やスマトラ沖地震の大使館の対応、パンデミック中、検査証明の書式が規定通りではないからとの理由だけで羽田空港から欧州や米国に日本の人を送り返すにいたるまで。あるいは五輪開催を巡る一連の失政ー事例はたくさんあり、根本的に人権意識の欠如という問題があると思っています。殊に緊急事態の最初に弱いと思っていたら、空港でのエピソードにあるように中期的な弱さでもあるのを露呈しています。

・・・とするとですね、人権が空洞化したまま地球中心に走りかねない・・・それは当然、地球中心でもふたたび空洞化現象が生じるであろうと思うとき、かなり空恐ろしいわけです。

だから、例えばSDGsとサステナビリティという2つの言葉の間にある乖離は埋めないといけないと思うのです。サステナビリティに人権が含まれていることを徹底させないと、地球規模への展開が夢想的な話に収束してしまう危険が増すことになります。

最後に。ブローデルがどれほどに人権について考えていたのかは、これまでの読書ではまだはっきりしていませんが、あれだけ無名の人々の日々の営みをこまかく追った人ですから、人権と地球環境について語りだしたら止まらないでしょうね 笑。


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