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都市って何なんだ?人口密集地なら都市と言えるのか?
読書会ノート。
ブローデル『物質文明・経済・資本主義 15-18世紀 日常性の構造』第8章 都市 都市自体
都市には人がいないといけない。
フランスでは人口2千、英国では5千を都市である基準として採用していた。1801年、イギリスの都市人口は25%に過ぎないされているが、フランス基準を使うと45%に跳ね上がるのである。だから都市住民の国における割合は、この基準値によって異なるのを前提に観察するのが適当である。
次に都市と農村との境界線だが、原則は商業・政治・宗教・経済の指導者と職人の仕事場となるのが都市である。あくまでも原則であり、これは常に再検討を迫られる。
第三に時間軸だ。農村の生産性の向上によって都市は二次的生成物であるとみなすのも正確ではない。ジェイン・ジェイコブスは、都市と農村が同時に出現すると主張している。なぜなら、都市の需要に合わせて、自ら農村を作り出さなくてはいけない事例が多々あるからだ。
両者は、分離と接近、分割と再編成が同時に働くのだ。季節によって都市居住者が収穫期には、職業を捨て畑仕事をした。ドイツの小都市では、「職人が農民に代わって農業をしている」との苦情も寄せられた。
また、18世紀のパリやヴェネツィアにおいてさえ農業活動があり、1746年のヴェネツィアでは市内及び修道院内での豚の飼育を禁止する必要があった。いずれにせよ、都市が農村の産業活動(鉄の職人仕事など)の仕事の幅を適時変更をすることがあっても、その逆はない。
あるとすれば、農村は都市への労働者供給源との方向だけだ。19世紀以前、都市で出産が死亡を上回るのは稀だったのだ。加えて、捨て子の数が多かった(1780年周辺のパリで、7千ー8千/3万人の新生児が捨て子)。都市の成長は独力ではなしえなかった。「極貧の底辺プロレタリアート」の存在が大都市の特徴をなすのである。
そして都市を都市とするのが城壁である。英国やヴェネツィアなど例外があるが、それ以外では城壁が安全上、必要とされた。城壁はコルセットと同じで、都市の成長と城壁も作り直した。それでも場所をあまりにとる産業は城外に押しのけ、城壁が経済的・社会的分割線との性格もでてくる。
西ヨーロッパでは、インド北部やイスラム圏と同様、中世までの都市は曲がりくねった街路だった。ルネサンス期以降、自覚的都市計画である幾何学的、すなわち碁盤の目の街区が発達していく。それまでにもなかったわけではないが、16世紀以降に雨後の筍のごとく続出したのだ。
城壁が大砲の発達で幅の広いものになるに従い、城壁内の空き地は防衛上に必要となったため道の幅も広くなり、結果、菜園が禁止となり、建物は垂直にのびざるをえなくなる。ジェノバ、パリ、エディンバラでは6階から11階の建物もできてきた。この時代、四輪馬車の普及があり、「世界は車輪をつけて走っているかと思われるほど」に雷鳴が響き渡るのが都市の風景ともなった。
同時に、都市の周辺の郊外が場末町として貧乏人の集まる地域が形成されていく。暗黒ものの舞台である。
<わかったこと>
都市の定義は思ったより曖昧である。これまで農村都市的な農村の大きな集落と小都市、この二つの差異を普遍的にみる基準があるかのように思い込んでいたが、実はなかったのだ。
そして都市郊外の文化性のなさは、20世紀半の工場団地やベッドタウンよりも何世紀前、既に特徴としてあったことから、これが現代的な問題ではないと気づく。常にソフト産業や権力の周囲に、労働力となる人たちが生活する場としての郊外が必然的に成立する。
都市から農業が追い出されたのも物理的空間要因によるものであるなら、現在開発されている都市内植物工場が都市文脈としてもつ意味も大きい。
冒頭の写真(©Ken Anzai)は南チロルのブルニコだが、1万6千人の基礎自治体だ。これを都市文脈で何と位置付けるのが適当なのだろう。