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若手の悩みに応えられない
「教師としてやりたいことってどうやって見つけるんですか?そういうのないんですよね。」
最近、同じ小学校の若手教員(男性、以下Aさん)に悩み相談?を受けました。
Aさんは、学級経営で悩んでいる時期があったので、私のクラスで取り組んでいる実践を紹介し、それを試してくれて効果も感じていました。しかし、つまみ食い程度で継続には至らずといったところ。
私「なんで教師になったの?」
A「子どもは好きやし授業するのも嫌いではないし。」
私「授業していて楽しいと思う教科は?」
A「何でも楽しいですよ。うまくいけば。」
私「こんな子どもの姿が見れたら嬉しいってある?」
A「笑顔だったり、成長を感じれたら嬉しいですね。」
私「今までやってみて、手応えを感じた実践は?」
A「特にないんですよ。」
こういう時にこそコーチングの技術を駆使すればいいのに、仕事で手一杯なことを言い訳に適当な質問を投げかけては重要なキーワードは引き出せず。笑
「見つけようとしてないから見つからないんじゃない?」
と言ってしまいそうになりましたが、寸前で止めました。
・ホームランを打ちたいなら素振りをする
・チャーハンをうまく作りたいなら鍋をふる
・賢くなりたいなら本を読む
割とシンプルなことだと思っていて。
なので、
やりたいことが見つからないなら、やりたいことが見つかるように行動してみたらいいんじゃない?
って思う私は冷たいのでしょうか。
興味のある本を読むでもいい、勉強会に出てみるでもいい、自己分析して得意なことに取り組んでみるでもいいじゃないですか。いや、でもその行動の仕方を相談されていたのかな。
でも、その後のAさんの発言にとても納得しました。
「SNSで教育の情報もたくさんあるじゃないですか?いいなと思ってやってみたりするんですけど、続かないんですよ。うちのクラスの子も、何かを続けることが苦手で。自分みたいなんです。自分がそうだから子ども達もそうなんかなって。」
確かに現代は情報過多。どれも手軽で素敵な実践にみえるけれど、取っ替え引っ替えでは子どもは育たないと感じます。時代の影響もあるのですね。
しかし、そういう風にクラスと自分を見ているのだな。なかなかやるじゃないか。と感心。
これは教育の世界ではあるあるだと思うのですが…
教師と子ども達の思考がイヤでも似てくる
ということがあります。
例えば、先週のクラス会議。司会の子が多く挙がった意見をうまいこと分解して、全体に話を振ってクラス全体を回していました。
「すごかったね。一度あの意見を整理したところ、あの判断が良かったよ。」
と声をかけたら、
「先生だったらそうする気がしたし、俺もそうしたかったから。」
と返されました。笑
ちょっと恥ずかしくなったので「気が合うやん!!」と誤魔化しましたが、まさに、教師と子どもの思考がイヤでも似てくることを感じた瞬間でした。
他にも、良い点で言えば
・学びの階段みんなでのぼる
・高め合う仲間になろう
・自分らしさを出そう
などが私の学級の合言葉でして、子ども達のそんな姿を見逃さずに写真を撮り掲示して価値づけているので当然そういうクラスになります。3学期では、その姿が当たり前にもなってきます。
また、私が漫才が好きなので、子ども達も好きになります。クラスの半分は漫才を経験していて、3学期に漫才をしてみたいと話す子もいます。他の教師が担任であれば、漫才をするなどあり得ないでしょうから。これも、教師の影響を受けています。
しかし
・きっちり整理整頓
・持ち物管理
・宿題の提出
などについては、私はあまり重要視していません。なので、当然それに対する声掛けは少ないですし、そこの部分に関してはとても個人差があります。
机の上が片付いていなくても学びに向かっていれば問題ない。持ち物がなければ自分でどうするか考えて動けば問題ない。宿題が出ていなくてもそれをどうするか自分で考えて動けば問題ない。
と考えているからです。
やはり、私自身の経験を踏まえても
教師の人間性・思考に子ども達は左右される
ことは間違いないと思います。
若手のAさんは、そこに気付いていたんです。自分の人間性・思考が子ども達に強く影響を与えていることに。彼も気付いていないような場面で、その人間性や思考が滲み出ているのを子ども達が感じ取っているのでしょう。
ちなみに、Aさんの学級での悩みは子どもの横の繋がりが薄く個人主義になっていて、それが1学期から続いているとのこと。だから、今年のクラスは面白くないと話していました。
面白くないなら何とかしてやりたい。
でも、それって私のエゴかな?とも思って。
基本、若手には好き勝手やってほしいのです。教育観が定まってないからこそ、自由な発想とスポンジのような吸収力があるわけで。それを存分に使ったらいいんです。
そんなことを考えていたら、大したアドバイスはできずに話を聴くだけで終わってしまいました。Aさんの表情はスッキリしていたので、アドバイスは求めていなかったのかもしれませんが。
でも、その時に言おうか言わまいが迷っていたことがあって
それは
「子どもは教師以上にはならない。」
という尊敬している方のお言葉です。
つまり、
・担任の力量が子どもの成長を左右する
・力量が不足していれば子どもは育たない
・教師の働きかけなしに子どもは成長しない
という意味と私は解釈しています。
この言葉を、私は忘れずに胸ポケットにしまっています。
だから、たとえやりたいことが見つからなくても、教師という仕事をプロフェッショナルと考えるのであれば、学び続けなければならないのだと思います。
気が引き締まるような言葉ですが、逆を言えば
教師が成長すれば子どもも成長し
子どもが教師に限りなく近づくことはできる
と考えます。
だからこそ、教師の上限を高める必要があるのです。そうすれば、子ども達と教師の成長サイクルに喜びを感じることができます。そこまでいけば、やりたいことが見つかる等、きっと学び続けられると思うんです。
ただ一つ、注意したい点は
子どもと教師の関係は決して上下の関係ではない
ということ。教師はただ、子どもより多く歳をとっているだけですよね。
むしろ、私は逆の思考の方がうまくいきます。
「成長速度が子ども達に負けている。私も成長せねば。」
という教師が下という思考です。私は基本とても負けず嫌いなので、子ども達の成長する姿を見ると、負けたくないって思っちゃうんです。
若手の悩みに応えられない自分のふがいなさに落ちこみながら、帰り道を運転しました。何が学年主任やねん情けない。
みなさんなら、やりたいことが見つからない若手に何て声をかけますか?