
【中編小説】市立落ちこぼれ美術館【後編】
あれから三十分近くコンロに座り込んで、音楽に浸り続けた。久しぶりに気分がしっかりと上がった。気分も明るくなったので、電気をつけて部屋も明るくした。二十時に部屋に居て電気をつけていない方が異常なのかもしれない。
雑多に置かれた趣味のおもちゃや空のペットボトル達が、キッチン前に散乱している。そして、キッチンのシンクも夕方の通り、食べた後の容器に水と洗剤を入れただけの状態で、おもちゃや空のペットボトルや食器達が、「ちゃんとしろ」と説教を垂れているように僕は感じた。
それくらいで滅入ったりはしないけれど、それ等の実態がやはり自分は社会不適合者なのだという自覚を強くさせる。
僕は本物の社会不適合者なのだ。
それも、それは国が認めたものだった。
精神障害一級の資格を持っている。
一級精神障害者とは、ほぼ寝たきりだったり、自分では何も判断ができなかったりする人のことをそう扱うようだった。何故か僕は精神障害一級の資格を持っている。
一級の診断を受けたときには、市や医師に抗議した。二級だったのはたまに自分でも感情の制御ができなくなるときがあるから分かるが、何故一級なのだ? と怒りが込み上げた。書類と審査機構が判断したことだと言われたが、何か事件があったときにオズワルド(ケネディ暗殺事件の犯人、だが真相ははっきりとせず様々な陰謀論が囁かれた)にされてしまうのが怖かった。
障害者自体には十年程前に申請を出し受理され、自ら進んでなった。障害者になれば障害者年金を貰えたり、様々な福祉サービスを受けられたりした。
A型事業所やB型事業所と呼ばれる障害者が一般で働くよりは楽だったり、もしくは凄く楽だったり、そういう就労の形も選べた。一般就労と呼ばれるいわゆる障害者雇用(障害を理解して貰いながら働くことをいう。「クローズド」といって障害を隠して働く場合もあり、おそらくこれは障害者雇用として扱われない)というのも選べた。僕としてはかなりキツかったけれど、健常者として働くよりはよっぽど辛くなかった。
同じ宗教の信者が悪口を言っていた福祉施設は笠木さんに紹介して貰ったホームだ。同じ宗教の信者なんかより、ホームの更に近くに住んでいる他宗教のご婦人の方が食材を分けてくれたり、引っ越してきたとき親身になって話を聞いてくれたり、よっぽど良くしてくれた。「信仰とは?」と思った。「夕食冷蔵庫入れておきます!」とラインをくれたのもそのホームの話で、夕食を作ってくれるのもラインを寄越してくれるのも、そのホームのサービスの一環だった。人によくされて心が和らいだのは本当だが、仕事でしてくれているものではあった。
僕もそのホームの一員だが、サテライトと呼ばれる、「一人暮らしの練習というものなのだろうか?」そういうサービス形態にて、近くのアパートに住んでいた。
笠木さんは本当に困った人を見捨てることはない人間だった。このホームに越して来るにあたって、福祉サービスを最初に受けたときにお世話になった彼女に頼りきった。
兄との関係を拗らせて車中泊を繰り返し、兄が出掛けたタイミングを見計らって祖母の家(祖母は認知症でホームに入り、暫くこの家では父と僕とで暮らしていた。父が亡くなってから母や兄と一緒に暮らすようになった)で思いきり睡眠を摂っていた。そんな生活も長くは続かず限界がきて、ここのホームを紹介して貰い、体験生活をし、そのまま半ば強引にこのホームに入居した。
笠木さんやホームの施設長は生活保護を受ける手続きを迅速にしてくれた。審査が厳しいと言われるうちの市では門前払いを二回されて、三回目でやっと取り合って貰えると言われていたが、僕は一回目で生活保護課の門をくぐれた。当時は二級精神障害者だったが、やはり一級精神障害者で間違いないのかもしれない。
ホームの施設長は破産手続きや、車の放棄、様々なことをてきぱきとこなしてくれた。それに生活保護課の門を叩く程どん底だった僕の悩みをとことん聞いてくれた。
本当に福祉サービスを選ぶことにおいて、笠木さんに任せておいてハズレはなかった。
「笠木さん元気かなぁ?」
彼女のことを思うと、また僕が、「死ぬしかない」とか言い出して、「仕方ないなぁ」と笠木さんとそのパートナー(どういう経緯があったかは知らないが、二年前に別れたらしい。ここからは元パートナーさんと表記する)が連れて行ってくれた登山のことを思い出す。僕と彼女は親子程年が離れていたので、息子か甥っ子のように可愛がってくれた。少し紅くはなっていたが、綺麗な緑であった。
どん底から深い緑の中を己の肉体と魂で登っていく。これが大自然の力か、と思い知らされていく。本当に美しい緑だった。
またまた僕の心の名画が、ひょこと顔を出した。己の肉体と魂で見付けた緑が、汚い部屋を覆い尽くす。
さぁ、行こう。
緑色の名画の世界へ。
●
笠木さんとは障害者になってすぐ(実際になったのは十五歳の頃だろうけど、書類上、二十三歳頃だと思う)、A型事業所という一般就労に向けて、技能や心づくりを学ぶ職場で知り合った。
当時彼女はサービス管理責任者という通称、「サビ管」と呼ばれる役職に就いていた。サビ管がどういうモノかは詳しく分からないが、主に全体のメンタルケアや各々の短期目標や長期目標を決めて、それを手助けするものだったように思う。
笠木さんは現場(契約を取り付けた清掃場所等)にもバリバリ出動し、僕に仕事のノウハウを叩き込んでくれた。ADHD持ちの僕が後に二年近く、日はまばらとはいえ一般の日雇い派遣会社(クローズド)で働けたのは彼女のおかげだと思っている。
そして、そのA型事業所を辞めた後も、笠木さんとは繋がっていた。彼女もA型事業所を辞め、別の会社で、「相談員」という名称そのままの障害者からの相談を聞き、最適な福祉サービスを提供する仕事をしていた。そして、僕は笠木さんみたいな優良物件を意地でも手放すもんか、と相談員を彼女に指定し続けた。
本当にどうしようもなくなったら、万や笠木さんに相談することが多かった。
そして、本当に嫌なことがあったのだ。
今考えても人として最低なことをしてしまった。自分を見失っていた。もうすぐ三十歳の誕生日が来る頃。本来、経済的に豊かになり、趣味や旅行、買いたいものが買えるようになったり、人によっては家庭を築いたりしてもおかしくない三十代だ。自分達の時代がきた筈なのに、僕は迷いの中にいた。
大事なモノを思い出す為、必要な何かを感じ取る為に、笠木さんと元パートナーさんとで小さな山を登ることになった。
彼の車で二時間程揺られ、小さな山までやって来た。山を見て僕はなんだか興奮を覚えた。生い茂る緑に癒やされ、少しばかり色付いた木々に季節を感じた。
きっと何か実りがあるようにと、麓にある鐘を鳴らす。そして、皆安全に登下山できますようにと願いを込めて打ち付けた鐘は、しっかりと響いてくれた。
くっついて登っていく筈だったのに、先陣を切って勝手にぐいぐいと進んでいった。雑草も酷く生い茂っていて、道が分かりづらくなっている。そんなことは普段抱えている生きづらさに比べれば大したことがなくて、少し道を間違えたらすぐ引き返して正解の道を見付け出して進んでいけばいいだけだった。「現実でもそんな風にできれば」と心から思った。
簡単な山だと聞いていたけれど、しばらく仕事を休んでいた僕は中々に体力と集中力を削られた。途中、手を着かなくてはいけないところがいくつもあって、手すりを掴んで這い上がらなければ登れないところも沢山あった。日光を覆い尽くす程の緑、ときに緑から漏れる優しい光、それ等が僕に安らぎをくれる。
途中にある休憩スポットには、木材やコンクリートでしっかり固められて補整された椅子やテーブルや屋根が用意されていた。綺麗な休憩所を見て、こんなところまで資材を運んで来たのかと唖然とした。綺麗な休憩所とはいっても古びていて、おそらくは人力だけで造られた物のように感じる。それを思うと、自分達は軽装備でこんなに辛かったのに、と申し訳なくなった。
山頂に辿り着くと、汗びっしょりで、「簡単な登山」だと、「ハイキングみたいなもんだよ」と聞いていたのに、かなり身体にガタがキテいた。節々が悲鳴を上げている。だけれど、久しぶりに自分自身の、「全身全霊」を掛けて目的を達成できたことに、確かな満足感を得ていた。
「なんで生きているのかわからない」、とか、「これからちゃんと生活していけるかもわからない」とも思ったけれど、今はっきりと、「生きる」を実感している。
コンビニのおにぎり六個分くらいの量のビックおにぎりを元パートナーさんが作ってきてくれていた。その量もさることながら、おにぎりの具は何が出てくるか全然わからなくて、ガチャガチャみたいでワクワクした。鰹の煮付け、うずらの卵、塩昆布等々食べれば食べる程様々な具材が出てきて、見えない所から現れる驚きは、忘れていた童心のようなモノを思い出させてくれた。
山頂で見た緑の中の優しい太陽。
忘れないと思った。
「生き返るよう」
少しずつ、少しずつ、何かを取り戻していく。
登山のときは凄く大変だったのに、やっぱり簡単な山だったみたいで、下山は登山に掛けた半分の時間で降りてしまった。
疲れた身体で彼の車に乗り、和気あいあいと話をしていると、元々ゴスペル好きで知り合い、同じゴスペルチームで活動していた二人から、「アメイジンググレイス」を歌唱して貰えるという嬉しいプレゼントを頂いた。
アメイジンググレイスは讃歌。生きる歓びの唄だ。
「僕は何も持ってない訳じゃない。人に恵まれないときもそりゃあるけど、充分過ぎるぐらいにいつも助けられてきた。生きなきゃ、ダメだ」
帰りに寄った銭湯、金魚湯。昔ながらの銭湯で、だけど古っぽさが逆に今っぽくて、映画によく出てきそうな銭湯だった。青春を、今を生きている若者、中々芽が出ない売れない芸人、そういう、「夢」を追いかけてる人達が映し出されるかのような銭湯だった。
元パートナーさんとはその日出会ったばかりだったから、お互い何をしていて、こんな状況だ、最低なことをしてしまった、とかを話した。かなり底辺の世界に生きている僕からしたら、立派な車に乗っていて、中々就けないような職に就いている元パートナーさんは違う世界の人のように感じられた。彼女が目を掛けているからとはいえ、こんな僕に優しくしてくれる。それは自然な優しさだった。三十路を手前に、「痩せ型なのに少し腹が出てきたんですよぉ」なんて言ったら、「そういうもんだよ」と笑って聞いてくれた。
銭湯から出て笠木さんと合流して煙草を吸っていると、綺麗な黒猫がトコトコトコと通り過ぎていった。二人は黒猫を、「タンゴ」と呼んだ。おそらく、「黒猫のタンゴ」からきているのだろう。黒猫は不吉の象徴みたいに言われているけど、今回はそういう気を感じなかった。美しい毛並みと体格をした黒猫だった。
決して会ってはいけない恋人がいた。
当時、死にかけている心でも、情熱を取り戻し、「いつか一緒に激しいタンゴを踊ろう」と、そのときは考えていた。
それは僕が圧倒的に悪かった。僕が犯した間違いだった。
この日を思い返すと、生命力が湧いてくる。緑の中を必死で掻き分け掴んだ、「生の実感」。そして、そのご褒美とも言える、「アメイジンググレイス」は生きる歓びの唄であった。
緑を掻き分け、山頂で見た太陽のよう。
限界の精神状態を笠木さん達や大自然に救われた。緑色の天井からさす後光を今でも覚えている。記憶の中の緑色の名画だ。
彼女に導かれて覗いた風景画。
その題名は、
『スピリット』
だと感じた。
●
生命力が心にも身体にも蘇った気がした。気分はいいままだ。こんなにいい気分でいれることは僕の中では珍しい。上機嫌で煙草を吸って、今度は楽しい気分でダンスを踊る。しばらくそんなことを続けた。
笠木さんのことを思い出していると、次のモニタリング(福祉施設を利用する中での生活目標が達成できたか? または新しい目標を定める)が近いことに気が付いた。福祉の資料が雑多に纏められたところを漁っていれば、やはり自分が障害者なのだと自覚する。折角気分が上がっていたのに、気分が落ちてしまった。そして、そんな物見ても仕方ない筈なのに、リュックから青色の精神障害者手帳を取り出した。
手帳には、県の名前、氏名、生年月日、住所、障害等級、手帳番号、間抜けな顔をした己の顔写真、が記されており、それ等を見ていると心底うんざりした。
いい気分が害されていく。やはり自分が生活保護を受けて、国に守られなければ生きていけない穀潰しであることに変わりはないのだなぁ、とつくづく思った。徐々に徐々に滅入っていく。
部屋の空気も冷えてきた。五月の気温は安定しない。体感する冷たさが、今までされてきた冷酷な事柄を思い出させてくる。記憶の世界へ行くのを必死で抵抗する。どんどん夜も深まっていく、二十二時。暗い記憶の世界へは潜りたくなかった。それでも時間は進んだ。深い深い夜になっていく。暗い、暗い夜。心もそれに比例した。
サブのワイヤレスイヤホンの充電が切れて、少し音質の良いメインのワイヤレスイヤホンに繋いだ。メインのイヤホンの色は青。冷静で、冷酷な色だ。そんなつまらないことに精神障害一級の僕は感受性を持っていかれてしまう。心に蓋をしている部分が暴れだす。悲しい記憶には怒りだって付随している。また情緒が安定しない。
音楽を聴いて落ち着かなければならない。耳を塞いで、心に蓋をして、そうしなければ感情がコントロールできなかった。少しの騒音で滅入るから、イヤホンが手放せなかった。インターホンの音に気付けず後で通知を見て、「あれは誰だったのだ?」と猜疑心に襲われたり、「居留守を使ってしまった」と罪悪感に苛まれたりした。
もう心の蓋から青い感情が溢れ出していた。嫌な、悲しい、みっともない、見苦しい、そんな忘れ去りたい、消し去りたい感情。もちろんそれ等は消えはしない。一生心に深い傷として残り続ける。
「もうこれ以上抵抗しても無駄か……」
青色に心を委ねた。
勢いを増した水流のように凄い勢いで心が呑み込まれていく。
仕方ない、どうしようもないことだ。あんなに嫌なことでも、あのときがなかったら楽しめなかった思い出が山程ある。だから仕方のないことだ、と心を納得させた。
「あぁ、思い出したくないなぁ……」
記憶の世界へ。
●
二十年近く前……。
顔がそこそこ整っていた。中学生ならばそれだけで持て囃された。顔がそこそこ整って? これは珍しいパターンだと思うのだけれど、僕は髪が伸びると美少年になり、短くなると不細工になるのだった(思春期特有の自意識過剰である可能性は大いにあった)。それでも校則はあるし、伸び過ぎれば伸び過ぎたでそれはそれでモサッたくなる。貧乏が災いし技術の低い安い床屋で散髪した。そして、たちまち不細工面に変貌する。
女子達はその一連サイクルの内、しばらくは僕をチヤホヤしてくれていた。実際クラスでも、「山内くん! 山内くん!」とよく声を掛けられ、二年の終わり頃までは、「○○ちゃんが山内くんのこと好きらしい」とか、そういうのをよく耳にした。ただ、立ち振る舞いが分からなかった。童貞だったし、男兄弟で育ったのもある。女性の扱いなんて分かる訳がなかった。小学六年の頃は全然エロになんか無縁でおもちゃで遊んでいたし、中学一年で急に友達から性の話や、それらの映像を仕入れてしまって、膨れ上がった思春期特有の悶々とした欲情が制御できなくなっていた。僕は女子達とどの様に距離を取ればいいか分からなくなってしまった。
可愛い子から好意を向けられても、むっつりして口をすぼめて知らん顔。しかも、変なとこ素直で可愛くない子からの好意は喜べなくて、女の子を仲介してくれた子に、「あの子のどこが可愛いの?」だなんて無神経なことを言っていた。そして、そんなことを続けていれば当然、
「なんであんな奴を好きになったんだろう?」
と、その好意はやがて、「敵意」へと姿を変える。
二年の終わりまで、誰々が僕のことを好きだと言っていたのを聞いていたが、二年のときは担任の先生がアタリだったのがかなりデカかった。風紀がしっかりしていたし、クラス中割りかし仲良くしていたように思う。
僕は一年の後半には既に一部の女子達からは嫌われていた。部活で走っているときにも話し掛けられていたので、クラスの内外で一年生の頃にはもう校内のいくらかの勢力からは良く思われていなかった。あんな反応を繰り返していたのだから当然だとも思うし、中学に入って内弁慶を発揮し態度が小さくなり、同じ小学校だった子を小学生当時罵倒していたのが返ってきたのだと感じた。小学生のときに友達を無視したこともあった(違うクラスであったので、酷いいじめにはならずに済んだ。ただ、僕は小学校のときは何故かガキ大将だったので、僕のクラスの数名も同調し、自然とハブきの主犯になった。何より僕は元クラスメイトではなく、友達をいじめたのだ)し、中学三年の頃も主犯ではなかったもののハブきに加担してしまったこともある。やはり多少は仕方がないと思った。簡単に理由の付く因果応報で、オマケに僕は単純に性格が悪い、という事実もあった。
だけれどそれでも、「精神障害」を負わされるまでの理由にはなっていないと僕は思う。
二年の終わり頃、担任が産休を取った。今思うとこれが地獄の始まりだった。クラスのムードが一気に悪くなり、二年生当時のクラス内でもすぐにいじめは始まった。二年と三年のクラスはエスカレーターで同じクラスになる。
三年の秋、部活動の無くなった女子生徒達が学校の塀の周りから十五メートルくらい先の僕の家(学生当時は基本的には祖母の家ではなく、生まれ育った家にいた。その家は築七十年くらいのボロ屋で、親戚から引っ越す前提であったとき、「小屋だ」と揶揄される程だった。生まれ育った家は借家であり、誰が見ても貧乏な家だった)に向かって、石を投げたり、罵声を浴びせたりし始めた。石は硝子こそ割らないものの、トタンに当たってパシャーンと音を立てた。
罵声は、「ホモ」や「ゲイ」、「死ね」等バリエーションは様々で、推測するにホモやゲイ等と呼ばれているのは、あんなに可愛い私の友達になびかなかったのは、「こいつが同性愛者だからだ」と、自身等の自尊心を守る為だと考えられた。
罵声とケラケラとした笑い声が鳴り響く。四人いる内の一人は一年のときにクラスが同じで、僕がそいつに片想いしていると思っていた勘違いブスであった。他の三人は喋ったことは特にないけれど、部活でよく見掛ける顔だった。他の三人は美女で、勘違いブスもそいつ等もスクールカーストはきっと上の方だと感じた。厄介な話に巻き込まれてしまったと思った。その日は心底嫌な思いをしたけれど、今日耐えれば続かないと思って無視をした。
翌日その四人が僕のクラスまでやって来て、僕はそのままドスドスと教室の隅まで追いやられて、先生の机と角で挟まれた。
そして、無言の圧。
「誰にも言うなよ?」
次の日の放課後にはもっと沢山、十数人の女子達が家から十五メートルの所に集まっていて、「あぁ、これが地獄か」と思った。
それからはこっそり祖母の家に帰ったりするも、そこに祖母の家があるのも既にバレていてすぐにそっちも押さえられてしまう。もちろん、同時進行で放課後以外の学校生活でもいじめはある。それに僕はいじめられているのを親にひた隠ししていたので、罵声を浴びせられる中、騒音や弱った心を隠すのに必死だった。
二年の終わり頃、代わりに入った先生は力で支配しようとするも馬鹿にされるタイプのハズレの先生だった。三年のときの先生もハズレだった。三年の先生には思うことがある。卒業アルバムに殆ど写真が載ってないまではあるあるだと思うが、僕には卒業文集は渡されなかった。教師として、「こいつに渡さないでいても何も言われないだろう」と思ったのだろうな、と染み染み感じる。そうして、僕は今も何も言い返せない人間になってしまったのかもしれない。
卒業文集はクラス毎で、うちのクラスは表紙に自画像を各々書いて貼っていくというものだった。僕は自分のポジションに迷ってそういうのを書くのが嫌で、結局迷いに迷っておどけたような絵を描いた。僕は忘れられない。その自画像に、「キモい」、「ウザい」等と笑いながら書いている女子達を。そしてそれを書き終えた後の無惨な絵を。
こんなことに一体なんのみのりがあるのだろう? そんなことばかり思いながら僕の心はボロボロになっていく。
クラスで僕を特に嫌っている女子がいた。そいつはクラスで一、ニを争う美女で、友達に相談したとして味方にはなって貰えないと思った。まぁ、そいつどころかほぼ女子全員から嫌われていたし、相談したとて、とは感じていた。そいつは僕と関わるとわざとらしく悪意のある声を出した。明らかに普段と声を変えた低音で、罵詈雑言を叫んだ。取り巻きの二人も僕の方を見て何か言っていて、クラスの他の女子より徹底して僕を嫌っていた。
その後進学した高校で前評判が広まっていて、友達を作るのにかなり苦労した。それはそいつ等が大いに関わっていると思った。何度も携帯で写真を撮られたことがあったし、友達と公園で遊んでいたときに、「○○○が言ってた山内じゃない?」と他校の生徒に言われたことがある。
そうやって塾等の人脈を使って僕の人生のその先まで邪魔してくるのだ。
そして、後日あることを聞く。
そいつはとても頭が良くて、高校に入った少し後、新聞に載るような文章の賞を獲った。僕の高校の部室の近く(これもまた敷地スレスレにある)で、ウロウロしていた理由が後になって分かった。おそらく口止めに訪れていたのだろう。
そいつが今までの人生で一番嫌いであるという事実は今現在も揺らいではいない。
両想いだった子がいた。
それこそその子に至っては彼女が隣にいるときに、その友達から、「(その子)が山内くんのこと好きだって!」と言われたことがある。
「嬉しかった」
その子は一年のときも同じクラスで、当時から僕を嫌わないでいてくれた。二年になって携帯を買って貰ってからはメールのやり取りもしていたし(他愛のないやり取りだったと思う)、担任が産休に入る前は少しいい感じになっていたこともある。
だけどその子は運がない子で、一年の頃も親友が転校して、三年になってからも親友が転校した。
そして、その子は僕が一番嫌いなあいつのグループに入った。
あぁ、中学生でも分かる。
「この世は地獄なのだ」
やがて高校に進学した僕は当時の過負荷が祟って、高校生活半年にして、何処にいても罵声が聴こえる身体になった。幻聴というものだろう。最初の内は全く知らない奴等の声だったが、その声の主はやがて特定の人物に変わっていった。僕をいじめていた、または嫌っていた、小・中学校のいずれかでクラスメイトになったことがあることが条件であった。
それは本当にそいつ等本人が考えているような発想をするし、こちらが忘れていた筈のことを言ってくる。本当に奴等が喋っているみたいだった。その声は水中や誰も居ない空間でも聴こえてくるし、深夜に一人ドライブしているときだって、いつだって聴こえてきた。しかも、奴等は考えていることに干渉していちいち突っ掛かってくる。
発症して一、二年は常に頭に血が登り、苛々が止まらなかった。実際に身体が熱くなったことを今でも覚えている。
病気の症状はそれだけではなく、ニヤけたくないときにニヤけてしまったり、意識し始めてしまうと近くにいる人に意図せず呼吸を合わせてしまったりしてしまうというものだった。
男を見てニヤけてしまうこともあるし(女性の場合でももちろんニヤけてはいけないと感じると症状が出た)、子供を見てニヤけてしまうこともある。これにより、ゲイやホモ等と罵声を浴びせられていることも相まって、同性愛者説が更に現実味を帯びてしまう。子供を見てニヤけるのも、急に呼吸を合わせてくるのも不審者そのものだ。言い訳をしてもこっちが苦しくなる。これ等の症状はお葬式だとか、笑ってはいけない場で笑ってしまう、そんな仕組みで出ているのだと思った(医学的なことは分からないが)。それが病気として否応なく現れてしまうのだから、それは周りの目に僕を現実として、「異常者」として映させた。
それ等は悪意を助長させる。
中学校の周りで暮らしていて、嫌がらせを受けたことは何度もあった。帰宅時、学校周りを仕方なく車で走っていると、大量に下校する生徒が車の前をゆっくり歩いて、一メートルを二十秒間ぐらいゆっくりと掛けてきた。他には意識が行き届いていなくて、喫煙時に開けた窓を閉め忘れ、曲がり角で停車したときには、左後方の開いた窓から大声で、「ゲイ」と叫ばれて、そいつ等は走って逃げっていった。
実家や祖母の家で暮らしていた間でそういったことは幾度もあった。
これは警察にも相談した話だけれど、「こいつ絶対やり返してこないから」という声がしたので、珍しく両耳のイヤホンを外したままにしていると(外からの声で気分を害すのを防ぐ為に、基本的にいつもイヤホンをしていた)、やはり何やら話し声が聞こえるので、勇気を出して外へ出た。片方は僕から左に三メートルくらいのところにいて、スマホでライトを点けながらこちらを撮っていて、もう片方の背の高い方は右側五メートル先くらいで、電柱の裏に隠れていた。スマホの方に、「何してるんですか?」と尋ねると、「転けました」と訳の分からないことを言っていた。質問を続けていると、右側にいた背の高い方がスマホの方と合流し、反対側でお互い見合っていた筈の二人は合流して、同じ方向に消えていった。
毛皮のマリーズ、ビューティフルの歌い出しは、「私は人生複雑骨折 ドラマ型統合失調症」である。そして、僕も人生を複雑骨折したドラマ型統合失調症であった。
統合失調症には様々な症状があるが、被害妄想の病気と捉えられることが多い。
実際あった様々なことを、「被害妄想だ」として処理してきたことは沢山ある。便利に使った。だけれど、いくらなんでも説明が付かないことが多かった。僕が健常者であるときから嫌がらせは散々受けてきたし、僕はおそらく近所の名物不審者として扱われている。イヤホンを外して気分を害すつもりがないので確認はしなかったけれど、僕が引っ越すまで学校からの罵声は続いた。
ニヤけや呼吸を合わせる症状は三十代に近付くにつれ寛解してきた。それでも、寝不足や具合が悪いときは症状が出た。
アタリの障害者施設を引いたとは思っているけれど、アパートは通っていた中学校のすぐ隣の中学校の近くで、おそらくその伝統は引き継がれた。元々アパートの前が単純に中学生の溜まり場であるし、被害妄想の可能性は無くはないが、まだ嫌がらせを受けているように思う。
嫌がらせしてくる中学生に、「殺すぞ」と言えないのは僕の弱さなのだろうか? 実際に殺さないのは心の弱さなのか?
あいつ等は何も考えないで罵声を浴びせてヘラヘラ笑っていやがる。
精神的に限界がきたとき、
「果たして彼等を殺さないでいられるのだろうか?」
と、何かされたときはいつも思っている。
生活保護という制度が必要なのは僕みたいに虐げられている人達を少しでもストレスフリーにしておくことなのだろうと思う。やり返される人が出ないように。
だがしかし、この場合本当に僕が悪なのだろうか?
悪いことをしているのはあいつ等なのに。
今やこの辺りでも不審者扱いされている。僕だって人の心を持っていて、普通に心が傷付くのだ。でも、解決しようがない。しようがないことなのだ。
でも、だけど、一生死ぬまでこれが続くのだとしたら? 僕の我慢に限界がきてしまったとしたら? そんな考えが一日中巡り続けることがある。
だから今日もまたイヤホンで耳を塞ぐ。
音楽は鳴り止まない。人の悪意が無くなるまでは。僕の心に猜疑心が無くなるまでは。
青色の精神障害者手帳が、「君の方が異常なんだよ」と伝えている。
嫌に冷めた青をしていた。
冷酷な仕打ちに何度も気持ちが沈んできた。ただでさえ僕は繊細なのだ。毎度毎度、心が深く沈んだ。とてもとても悲くなる。暗い気持ちが溢れて世界がブルーに染まっている。
こんなもの名画だなんて思いたくはない。だけれど、僕の人格形成に必要不可欠な自画像であった。
題名はやはり、
『悪意に染められて』
か。
●
空気を重苦しく感じる。明るい部屋に居るのが嫌になって電気を消した。部屋の外のアパートのランプが僅かに屋内を灯す。殆ど真っ暗だった。そもそもお酒が弱い上に薬漬けの僕は己の不幸に酔っ払うしかなかった。スマホを弄ると、その灯りに目が霞んで、「このままこの生活を続けたら壊れるよ」と脳が悲鳴を上げている。
スマホの灯りで煙草とライターを確認して火を着けた。その内、目も慣れてきて外から漏れてくる灯りだけで着火できるようになる。嫌なことがあると何本も何本も煙草を吸うから、娯楽費の殆どは煙草代だった。赤い火種が徐々に徐々に口に近付いて、熱さを感じるギリギリまで吸って灰皿に放った。
灯る火種。ジュッと音を立てて消える火種。なんだか自分と重ねてしまって、「僕の灯火は簡単に消えてしまうんだなぁ」と思った。
換気扇はほぼ一日中回っている。僕の代わりに換気扇が働いてくれている。いや、国民の皆様が代わりに働いてくださっているのだ。尚更、自分が嫌になった。
「なんで生きているのだろう?」
やはり巡り巡ってこれを考えてしまう。
煙草のタールで青く包まれた部屋が少しずつ黒ずんでいき、藍色に変わっていく。
煙草を続け様に吸って、明日分の煙草に手を付けた時刻は二十四時。お腹が空いたんだけど、食欲はなかった。煙草の吸い過ぎもあるだろうな、とは思ったけど、単純に気分が沈んでいた。これといって何か起きた訳じゃないのに、勝手に沈んで暗くなっていく。もう気分はブルーなんてものを通り越している。藍色を通り越して、いずれは真っ黒になるであろう。
音楽が鳴り止まない。鬱陶しいが今はイヤホンを外すのは怖かった。友達や福祉関係の人、医療関係の人が目の前にいてくれないと、イヤホンすら外せない程弱ってしまった。こんな貧弱な感性でこの先も生きていかねばならないと思うと絶望する。
あぁ、嫌だ、嫌だ。終わりにしたいのに、終われない。いざ、「死ね」と言われても怖くて死ねないのだ。痛みも恐怖も感じずに死にたかった。
いや、本音を言えばまだどこかで、「幸せになりたい」と思っていた。
何故か今までしてきた自身の最低な言動が脳裏を幾重にも過った。僕だっていじめをしたことはあるし、その他にも特大の爆弾があった。こっちのは民法にだって触れることだった。
一つの家庭を壊してしまったことがある。
完全に壊れたかまでは知らない。修復できたのかもしれない。
でも僕は旦那さんのいる女性に手を出した。
シャッフル再生しているスマホが、当て付けのように、indigo la Endの曲を流した。
この曲は当時なるべく聴かないようにしていた。自身が悪いことをしていると、はっきりと認識してしまうからそうしたのだ。今は戒めの為にダウンロードしている。
この曲はindigo la Endの作詞作曲ヴォーカル、川谷絵音がタレント、ベッキーとの不倫報道のときに描き下ろしたものだ。
タイトルは、
『藍色好きさ』
だった。
彼女のことをどんどん思い出していく。楽しかった記憶が呼び起こされ藍色の照度が上がり、紫が顔を出す。今度は脳内が紫に染められ、嬉しかったこと、悲しかったこと、照れてしまうようなこと、辛かったことが、グルグルと渦を巻いた。
信号機でいえば青は進め、赤は止まれ。
じゃあ、紫はなんなのだろう?
「本当にごめんね」
紫の世界に呑み込まれた。
●
好きなアーティストの一致で二人は近付いた。出会いはネットだった。彼女はとても優しい人柄だった。旦那さんがいると彼女は端から言っていたのにアプローチを掛けた。初めから多少好意を抱いてくれていたようで、僕に言われたことを彼女はあまり拒まなかった。単純に僕のことが好みだったのだと思う。
彼女は僕を圧倒的に肯定してくれた。そんなことは未だかつてなかった。僕は拗らせているし、単純に頭がおかしかった。地元で不審者扱いされていると思っているから、近場では出会いの場に出なかった(だから違う県の宗教に行っていたのはある)。女性の気持ちなんて今だって分からないままで、交際している間も分からず終いだった。そんなんだから僕はこのときまで誰かとお付き合いをしたことが、生まれてこの方一度もなかった。成長してから同年代の女性にありのままを受け止めて貰えることなんてまずなかったのだ。
電話でお互いの生い立ちを語り合った。彼女は僕の生い立ちにとても同情してくれた。彼女も僕程ではないが中々に厳しい生い立ちだった。この頃から電話の頻度が増えていき、二人の距離は近付いていった。
悪いことをしている気持ちはもちろんあった。ただこんなに優しくされたことがなかった。こんなにも受け止めて貰えることは生まれて初めてだった。
どうしても手放したくなかった。
世間的には彼女も悪いのだろうが、僕の一方的な我儘だった。僕が追い込んだのだ。追い詰めたのだ。好意を弄んだ訳ではない。いや、結果として弄んだ。
紫陽花の咲き始める季節に交際は始まった。紫陽花の花言葉は、「浮気」、「移ろ気」、「無情」だ。最初からバッドエンドの決まった恋だったと今では思っている。
僕は初めての彼女にはしゃいだ。メッセージのやり取りをするだけでも楽しかったし、電話だって嬉しかった。実際に会って少し厭らしいこともした。バレたときが怖くて最後まではしてないから、未だに僕は素人童貞のままだ。実際にバレた後、「してもしていなくても慰謝料は変わらない」という事実を知って、「なら本当に好きな人としておけば良かった」と思ってしまう己を、「塵屑人間である」という自覚ぐらいはある。
付き合って三、四回しか会っていない。期間として三、四ヶ月で旦那さんにバレた。
色々不審なところはあったであろうし、彼女が僕の家の方面へ電車で向かっているのを旦那さんの友人が見掛けて、「何故だろう?」と話題に上がっていたらしい。
大人になってから自分がしっかりとした、「悪」であったことは初めてだった。
最初から後ろめたい気持ちがあったものの、旦那さんが必死に考えているのを思って胸が痛んだ。旦那さんは僕の精神障害のこと等を気にしてくれていたのだ。自分の嫁を奪った男を目の敵にせずにいてくれた。それでも、「法的な手段に出るかもしれない」とは言っていた。僕は酷く狼狽した。笠木さんに登山に連れて行って貰って、少しだけ気持ちを楽にするも、慰謝料なんて払える訳がないし、両親にバレるのも嫌だった。氏名や住所、電話番号や勤め先、素直に全てを話していた(だから情状酌量してくれていたのはあると思う)ので、もう逃げ場なんてなかった。お父さん、お母さん、生まれてきてごめんなさい、とその時は殊更己の存在意義を問うた。
自分は、「悪」の存在を酷く否定する癖に、自分だって子供の頃いじめをしたことがある。更には大人になってからも、世間的タブーに手を出していた。
僕は最初から被害者面した、「悪」だったのだ。
それを証拠に初めて自分を心底好いてくれた彼女をまだ諦めきれないでいた。もう僕なんかを好いてくれる人なんか現れないと思った。単純に僕だって彼女が好きだった。
旦那さんの気持ちを無下にして、一年と少しメッセージのやり取りを続けた。しかし、やがて罪悪感に勝てなくなっていった。
僕は自分が可愛いから、彼女を愛しきれなかった。たぶんあれは愛されていた。僕が唯一愛された一時だった。でも、僕は自分が可愛いから、彼女を大切にできなかった。沢山の、「もう背負いきれない」がドバドバと零れ落ちていた。唯一貰えた愛情は宝物だけど、上手くいかないのは分かってるから、もう要らないって思える自分を心底サイコパスだと思った。
そして、一昨年の末。このホームに住むにあたって、「不倫をしていることは退去理由になる」と嘘を吐き、彼女と別れた。
彼女は、
「最後までズルいんだね」
と言っていた。
その通りだと思った。
「本当にごめんね」
僕は救いようのない屑だった。
名画だなんて言ってはいけないのだと思う。だけど、僕の人生唯一の交際であって、記憶に強く残ってしまうのは仕方のないことだった。
紫陽花を心に浮かべて描いた静物画。
『花言葉』
●
遮光カーテンを引いた真っ暗な部屋の布団で横になった。何への苛々なのかは分からないが、頭の中がぐちゃぐちゃになって酷く軋んだ。モヤモヤして心が不安でいっぱいになった。目を閉じると今日感じた七色の気持ちが浮かび上がってくる。それ等は目まぐるしくコロコロと色を変えていった。
赤、橙、黄、緑、青、藍、紫。
虹色の心達。
虹色はLGBTの象徴ともされている。そういう人達と同じ迫害を受けてきたし、未だにそれを受けている。そんなことは今関係ない話。
それ等の色を心で感じて、嬉しくなって、悲しくなって、なんだか分からなくなって、やがて全ての色が混ざり合い、見るに耐えない、汚物のような、『黒』が生まれた。
生活保護は意味のある制度だと思う。実際にかなりの犯罪が減っているという話を聞く。不正に受給している人以外は国に守られるべきなのだ。
でも、僕の場合はどうだろう?
不正に受給している訳ではないし、生活のルールだって守っている。それはまっとうだけれど、国が僕を守らなければ嫌がらせをしてくる奴等を殺してしまうかもしれない。嫌がらせなんて全部被害妄想で、罪のない人だって殺してしまうかもしれない。
なんだか僕だけが居なくなればいいだけの話のように思えてきた。なら自殺しようか? でも、どうせ死ぬなら嫌がらせしてくる奴等を殺した方がいいのでは? なら誰を殺そう? やはりアイツだろうか? いや、アイツも殺したい。別に同じ殺人犯になるのなら、何人殺してもいい筈だ。むしろ何人も殺した方が死刑になれた。
安定剤と睡眠薬をオーバードーズしたけれど、一向に安心しなかったし、眠くならなかった。苛々苛々、モヤモヤモヤモヤ、沸々と湧き上がる怒りと憎しみと不安と破滅衝動がコントロールできない。負の感情は収まる気がしなかった。
今日はどうしてしまったのだろう? ここまで不安定な日は中々ない。もう駄目なのかもしれない。限界がきているのかもしれない。終わりにしたい。終わりにしたいけど、本当に自分自身では終われなかった。
たぶんだけど僕なんかじゃ誰も殺せない。ごみだからだ。僕に抵抗なんてできやしない。何度も言うようだけど、日本も安楽死を導入しておくれ。きっと、僕と同じように腐ってるごみがいっぱい居る。同胞達を救ってくれ。
知ってるよ? 皆、生活保護嫌いなんでしょ? じゃあ、ちょうどいいじゃんね。
「嘘だよ」
本当はこんな僕だって、「幸せ」になりたかった。少しでも幸せに近付きたくて、今だって配信アプリで友達を作ったり、人を好きになったりしている。
「虚勢だったんだよ」
たぶん人を殺すことなんて、こんな腰抜けにはできやしない。だけどね? 限界近くまで追い詰められたとき、心に微塵も余裕がなくなったとき、本当に殺してやるかどうか迷うことは少なくないんだよ。ギリギリで堪えたことが何度もある。
「それは本当だよ」
お金のない家で育って、嫌がらせを受け続け、障害を持って生きている。だけど、いいことだっていっぱいあった。今日思い出した出来事の中にだってそれは沢山ある。
「幸せになりたい……」
いい大人がみっともなく泣いている。涙を流している。別に珍しいことではない。よくあることだった。
だって、本当は、「生きたい」んだから、何度だって言うけど、「幸せになりたい」んだから。
「どんな形でも生きていたかった」
それが本音だ。
本音は気分によって大きく左右されるが、基本的にはそうなのだ。
「生きていたい」
生きものなのだから、それが当たり前だ。
一時、二時、三時、四時、五時、六時、七時と、真っ暗闇から少しずつ明るくなった。遮光カーテンを締め切っている部屋でも明るさを感じられるようになる。空腹を通り越して胃は食べ物を求めなかったが、やがて本当に限界がきて気持ち悪くなり、トーストを焼いて食べた。身体も生を求めているのだ。なんだか気分も少し明るくなってきた。少しずつ安心してきた。薬が効いてきたのかもしれない。ウトウトし始め、眠りにつくか否かを彷徨っていた。
だがしかし、日陰者に安息の時等ないのだ。
「山内ー! 死ねー!」
登校し始めた中学生の罵声を、イヤホンが外れた耳でモロに受けてしまった。
「あっ、殺そ」
●
生きていて嫌なことはいくらでもある。死にたくなることは多い。でも死にたくなっても生活は成り立った。医療費も出して貰えるし、ルールさえ守っていれば保護を剥奪されることはない。寝ているだけでも保護費は振り込まれ、高いものは買えないけれど食費や娯楽費もある。ただ何かがずりずりと抜け落ちていっている感覚がある。その感覚は一つだけではない。人として大切な様々な何かがゴリゴリ音を立てて一斉に削られていくのだ。
日々、少しずつくすんでいっている感覚がある。いや、それは少し違うか。一生懸命に生きている人達には分からないであろう。じわじわじわじわとグラデーションの掛かった夕焼けが、やがて真っ黒な闇に塗り潰され夜に変わっていく、希望の光をどんどんどんどん見失っていく感覚が確かにある。
僕は様々な名画達が集められた美術館で暮らしているんだ。
美術館はいつまでも変わらなくて、でも徐々に徐々に抜け出せなくなっていく。名画達は古びていき、変色したり、失われていったりもする。ただときにより一層美しくなったりする。
名画達の正体は美化されてしまった思い出達で、美術館は生活保護費でまかなわれたこの日常だ。
ルーブルでもメトロポリタンでもない、フランスにもアメリカにもない。立派な公園も外装もない、名画達は実体すらなかった。国民の税金で市から振り込まれたお金で運営している、僕という中年弱者男性にしか観られないこの、
『市立落ちこぼれ美術館』。
消えてなくなっちゃえばいいのにね?
こんなに長い作品を読んで頂きありがとうございました!
おそらくしばらくの間はここが僕の最高到達点です!
進化せねば!
本当にありがとうございました!