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コロナと自然の摂理
<自然万物のバランス>
自由人の私たち夫婦にとって、ワクチン賛否・功罪は、自由意志に拠る個々の判断であり、決して強制されないとの信条で、一度も接種してはいない。コロナが叫ばれて3年半経つが、多少なり風邪気味や熱ぽかったことはあり、その正体は風邪やインフルエンザの質の悪い変種の流行なのでしょう。製薬業界のテクニークに信用を感じない、欺瞞や副作用の闇が見え隠れするならば、おおらかに自然界の自己免疫力に身をゆだねることも、当然にして有効な選択です。ウイルスと人間は太古の昔から共存し支えあってきた仲間というと、違和感を覚える人は多い。しかし、長い人類の進化を顧みるに、飲食、家畜などを通じて様々な細菌、ワクチンが変異し人間の体内を常に行き来している。ミクロとの共生が、野生の荒波を生き抜く生命力を育くんできたのが、大いなる自然の摂理ではないだろうか。
<ウイルス共存の史実>
コロンブスにはじまり、コルテス、ピサロの南北アメリカ大陸の侵略は、武器や戦闘能力の格差もありつつ、決定的な打撃となったのは、ユーラシア大陸の文明がはぐくんだ病原菌への抵抗力であった。まったく無防備の原住民たちは、新種の細菌やウイルスの感染になすすべがなく、民族もとろも致命的な状況に陥ったのは、明らかな史実。ジャレド・ダイヤモンド氏は名著「銃・病原菌・鉄」にて、ユーラシア大陸は人口稠密で人間が家畜と近い距離にいたことが、文明の進化に地理的な特性が甚大な影響を及ぼしたと説いている。一つの生命体だけがダントツに優位に立つことのないよう、自然界のバランスが成り立っているのであって、各々が多少の犠牲を払いつつ、すべての生命と共存しているのである。地球という自然界のバランスを破壊して久しい人類の全面支配が続く中、わずかながらでもミクロな生命体が人間の横暴を抑止する役割を果すならば、甘んじて冷静に受け止めるべきなのであろう。
<人間のエゴイズム>
コロナ前には、マイクロプラスティックの問題などグローバルな声が上がったが、人間自身が危機に晒されると、多くの人々が沈黙してしまった。身勝手な人間の欲望がとどまるところを知らない、怒涛の潮流となって久しく、環境破壊にもはや焼け石に水であることは、近年著しい異常気象を見れば一目瞭然。ある程度の水準で物質生活の満足を得ている人は、少々自己優先を省みて、自然の調和に思いをはせるひと時の余裕が肝心なのでは。フードロスや衣服ロスの深刻さ、中国ウイグル地区の綿花を大量にむさぼってる構造など、考え直すべきことは山のようにあるはずだ。日本は特に平和で治安のよい時代が続いてきたせいか、世界や社会問題に声を上げる方々もめっきり少なく、内向きに影をひそめてしまったと感じる。
<生かされていること>
モノがあふれる「飽食の時代」といわれたのは確か1980年代ごろだけど、21世紀にはもうそれが当たり前のように、「もったいない」とかすらあまり言われなくなった。コロナのパンデミックは、人間至上主義に、何か大きな疑義を投げかけ、我々に少しでも覚醒する機会を創出したのではないだろうか。自然の摂理に身をゆだねて、地球という奇跡の環境を共有する生命として身の丈にあった慎ましやかな暮らしの尊さ。ウイルス共存の抗体をもたらす深遠な生命の神秘に感謝し、自然界の一構成員として謙虚に生きる思い(原点回帰)を新たにした。