微かにスピリチュアルでフィナンシャルなNY紀行
1. 予知夢/リバーサイドパーク
ニューヨークから日本へ帰国するビジネスクラスの機内で幾多の想いを振り返っている。時の流れは煌めくShooting star(流れ星)の様に瞬く間に過ぎ去り信じられない。25年ぶりの大学の同窓会であったクラスや学寮の仲間とも時空をあっという間に超えて再会したとしか思えなかった。その間、皆がそれぞれに数多の人生経験を重ねてきたはずなのにさっと風に流されてしまったかのようである。インターコンチネンタルホテルのスカイヴューラウンジで、スコッチウイスキーのLaphroaig(ラフロイグ※)に耽る。強烈なピートの香りがベイブリッジの夜景と相まみえて大人の空間演出にほろ酔い加減がちょうどよい。人生とは何であるか、どう生きるべきか、思いにふけようかと試みるがさしたる深みに至らずいつも終わってしまう。その一時一時が、かけがえのないものと意識に留めるようにして、リラックスして味わいながら刹那に生きれば、僅かながらでも探求できるかもしれない。生き馬の目を抜く荒波に揉まれながら、多彩な出会いに心を踊らせた情景につき、拙稿を残してみる価値もあろうかと、徒然なるままに綴ってみました。
(登場人物・団体は仮称であり、フィクションと見做してください)
※スコットランド西岸のアイラ島シングルモルト、ゲール語で、入り江の風光明媚な窪地という意味、アイラモルトの王様といわれる名高い銘酒
リーマンショック後、米国ではオバマ政権の下でウォール街を中心とした過剰な投機運用を抑制するべく、金融規制が着々と強化された。お膝元の米国金融機関への締め付けはある程度アメと鞭的な匙加減があったのに対して、自国の利益保全はアメリカの権益優先的な考え方から、在米外銀はよりいっそう厳しい仕打ちを受けていた。米国当局は先にグループの中核である米国銀行に入って権威を振りかざした。根本はショバ代を払えという反社会的勢力の論理と同じである。アメリカでビジネスをする以上、土地を汚すことは決して許さない、きちんと「みかじめ料」(Protection racket) は払ってもらうし、リスクは最小限に抑えることは当然だ。よそ者だけで儲けるのはまかりならん、現地人を採用して雇用創出に貢献しない限り、大それた商売は認めない。現地の事情をよく分かっている現地スタッフが運営する組織でないと持続性がないのだというもっともらしい理屈で改善命令を匂わせて詰め寄ってくる。リーマンショック後、米国監督局は世界の上位に君臨する金融グループを狙い撃ちにして常駐検査という形態をとって進駐していた。海外ビジネス比率が最も高く国際化の進んだ銀行であってもまだ本部やその派遣社員に依存した部分がいたるところにあった。米国のベスト・プラクティスによる管理を強要されると何をどうしていいか戸惑いから始まる。そこで登場するのが4大ファームをはじめとするコンサルタント達で、裏手では当局とつるんでいるのは間違いないのである。例えば、何かの改善指摘を出したときに、その対応策を講じるのだが、当局側は内部で検証したので大丈夫だというのは信用できない、第三者による検証(Third Party Validation)が必要だと切り返してくることが常とう手段 (Routine tactics)であった。そこで高い業務委託費を投入して大手コンサルティングファームをはじめとしたSME(Subject Matter Expert)を称する外部の第三者に保証してもらうという対応を講じた上で、出来ましたと回答することが暗に求められたのである。
コンサルティング業というのは、言ってみればアメリカ発の企業ドクターのようなものであり、昨今は日本最高峰の大学生も官僚を敬遠してコンサルへの就職人気が沸騰しているらしい。表面的には、企業内部にノウハウのない新制度や技術において一時的かつ早急な対処が必要な際に、その分野のSMEを外部戦力として提供する傭兵軍団と云える。特に戦略コンサルは、自分たちで判断できない大企業経営者の不安に付け込んで安心感を処方する商売、時として精神科医になりかねない。MゼンキーやBコンといった超名門コンサルなどは、お高く留まり上から目線で、最上級の知見を授けて経営判断の逡巡を癒すと称するが、アドバイスが効果を上げたか否かの事後検証がなされることはほとんどない。つまり投資家・株主に問われたら、超名門コンサルに診てもらったからと独善的に決めてはいないという口実、自慰行為でしかない。続く会計ファーム系コンサルはそこまでではないにしろ、プライドとブランドを振りかざす一方で、最終責任は企業ご自身にありますと、免責条項に関しては極めて手堅い。大手コンサルは、会計監査を行う大企業を主なクライアントとしているが、顧客の格付けに応じてコンサルタントを派遣してくる。資源は人的ノウハウだけの商売なので、大事なクライアントには最優秀な人財を送り込み、そうでない先には、入社したての右も左も分からないが学歴だけはある人材を実質研修目的で派遣する狡猾さを備えている。新卒のコンサルタントは実務経験などない机上の空論しか持たないので、委託企業を丁度よい研修先に利用することが行われている。実際にリーダー格以外は、よちよち歩きの若年社会人で、業務のフロー図を描いてみたので見てもらえますかなどといった始末。どっちが高いコンサル料を払い専門知見を購入するクライアントなのか、「おまえら違うだろ」と、呆れかえることがあった。
このように、リーマン・ショック後の余波に飲み込まれた数年の間、先鋭を配する大組織の大手銀行ですら、コストを掛けて地場産業に貢献し米国のプラクティスを取り入れたとガバナンスを疎明するのに必死でもがいていた。米国当局は時として裏表を使い分け、相対しているときは、いくつか指摘はあるもののそれ程には悪くないよという雰囲気で接しながら、正式なレターに落とし込んだ時には、がつんと地に突き落とすかのような二枚舌を使いこなす怖い側面がある。なので、主要な欧米銀は当局に受けの良い人材を当局リエゾンとして特別に雇い日頃からコミュニケーションを欠かさずに深耕を深めるという戦略を取っている。まさに邦銀は英語で言うナイーブ、つまり純朴な羊であり、厳粛な洗礼を受けて初めてアメリカのクラブ(村)社会を痛感するに至ったのである。アメリカは他国に比して合理的な精神の国かと思いきや、内実はウエットな功利主義でありドライな合理性はない。国民性こそあれ、人間の性分は世界中どこも変わらないのが実感である。
当時は米国税務を担当していたが、IRS(Internal Revenue Service)という国税庁もその典型であった。会計監査系コンサルタントの税務部門は、皆ワシントンにIRS対策チームを設けて、IRSのOBを配して迅速な情報収集と蜜月の寄り合い関係を築くことによっていざクライアントの税務問題が生じたときにはできる限り良きに計らうことが可能な態勢を取るのである。つまり、コネ社会なのだ。日本所在の外資系企業でもそうであるが、人事体系は日本企業と同じか時にはそれ以上にボスとの相性に依存している。ボスに可愛がられて見せかけでも忠誠を誓う部下、自分を利害関係含みでも慕ってくれる部下を引き連れるボスというお仲間集団なのである。採用形態はJob-Focused Employment(ジョブ型雇用)であり、その分野のプロ集団を形成する雇用体系が背景として関係している。そういったウエットな人脈と仲間を括るテリトリー主義は、ある意味で世界中どこでも大差はない。
最初の赴任から帰国後、国際部で過ごした約6年間は、海外拠点の市場取引システムからリスク管理、国際会計基準のシステム導入に、プロジェクト管理者としてどっぷり携わった。中でも海外拠点のシステム導入は、投資ビジネスのインフラを大規模に入れ替えるべく部門の一大事業として資源を全面投入したもので、一員としてプロジェクトの推進に格闘した。第一弾のパイロット案件である欧州拠点への導入は、まさに中間管理職となった矢先であった。海外拠点とは対極の本部の官僚的なプロセスに直面し、激しいアレルギーを感じつつも悶々とフラストレーションが増大する。一方で、掲げた高い理想と広げた大風呂敷は、これまで想定できたスコープとキャパシティを遥かに超えており、もはやプロジェクトが潰れるかもしれない崖っぷちの局面に追い込まれていった。インドの大手ITベンダーを米国系IT企業へ交代、同時に要件定義の期間を延長付議して、なんとか明らかになった投資額見積りは、当初の概算見積りを大幅に上回り200億円に達して暗雲が立ち込めた。役員クラスでの根回しにエスカレートし、役員会議アレンジから経営会議の資料準備等、不得意な役回りに疾駆八苦、冷や汗の連続であった。最後は社長決裁で承認され危機的な事態の命運を救われたが、終電もなくなり深夜のタクシ―帰りとなった夜は、車中から朧げに首都高速を眺めるにつけ、日本のサラリーマンの悲哀を痛感する。後続のニューヨーク導入では、再び大出張と深夜勤務の連続だったが、メンバー全体が欧州で疲弊した苦い経験を前向きに活かして巡航軌道に乗り始める。だんだんと本来あるべきプロジェクトの姿が描けていき、比較的安定した仕上がりとなった成果は喜ばしい限り。清々しいセントラルパーク一周を走り切って息を吹き返し覚醒する、「やっぱり、俺は海外暮らしが好きだ」。日本を脱出していた出張中のひと時は、なによりも味わい深いコーヒーのように気持ちを高揚させる。
2度目の赴任は思いもよらずではあったが、実はなんとなく暗示するような夢を時折見ていた気がして不思議な思いである。思えば1年程前から夢の中に、ニューヨークのEast River(イースト・リバー)を船で下ってBrooklyn (ブルックリン)南岸周辺の河口から大西洋に出るような光景が現れていた。なんだか、また呼び寄せられているような気がしつつ、まさか2回目はないだろうとぼんやりと頭の片隅に潜めていた。赴任後、家具の購入にBrooklyn Red hook(レッドフック)にあるIkea(イケア)を何度も訪れたが、ダウンタウンから船上する水上フェリーからの光景がまさに、デジャブならぬ正夢のようにシンクロしていた感じがしてならなかった。前回は30代前半だったが、今度は40代の仕事盛り、過去をリセットして初心に帰って取り組むことかなと自分に言い聞かせるが、税務調査対応など揺れ動く仕事のクロージングと引継ぎ、個人的には自宅マンションの売却などが綱なり、慌ただしい毎日であった。結局、またしても赴任後の事など全く考える余裕もなく駆け足しで成田を出発する。度重なる長期出張もアメリカが多く、再びの赴任には何かの縁を感じざるをえない。
強い日差しが差し込み始めた初夏のManhattan(マンハッタン)に到着すると、拠点には自省の雰囲気が漂い、かつての自由意思は奪われていた。当局による厳しい監視の視線に晒された英語でRemediation、いわば治療を施す業務改善指令が待ち受けていた。次の日から主担業務の把握とともに家探しを始める。仕事はこれまで蓄積してきたノウハウの延長線上で、仕事の勘が働かせられた。家探しは妻の希望が第一でそう簡単にはいかない。なぜなら、東京では赴任が決まってから妻がどうにも嫌になってしまったマンションを売却してきたからである。妻は、Endocrinology(内分泌内科)疾患を患ってから、精神的な不安定感を抑えるために処方してもらった抗不安薬などの副作用で神経が過敏になっていた。隣や上の階のアパートメントから伝わる子供と走る物音などが気になって耐えられない状態。赴任前の2年ほどは引っ越しを考えて物件を探し回っていたが、内命を機に売却をリハウス大手の不動産業者にお願いした。赴任までの約2か月で買い手が見つかるかあてもなく不安であったが、不思議なことに初回に内覧してくれた女性が、すっかり気に入ってくれて2度目に、旦那と父親を連れて再度確認して購入を決めてくれた。もし見つからなかったら、そのまま海外から不動産屋とのやり取りなど面倒であったことを思うと、本当に幸いであった。立ち退く日を決めて、マンションの売却契約・決済手続きを済ませられた。ところで赴任中、妻はMount Sinai Hospital(マウンドサイナイ)という全米屈指の病院で、定期健診を受けていた。毎回採血をするのだが、止血用のパットは、PinkかBlueかどっちが好きか聞かれ、彼女はViolet(すみれ色)と答えたそうだ。看護師はpurple(赤紫色)ってことね、と応じたそうで、日本ではありえさそうである。たわいのない小話だが、アメリカ大陸を語るPrologue序章としてご紹介。
ニューヨークの赴任者は、日系の不動産の日本人スタッフが日本語で面倒を見てくれる。小学生以上の子供のいる家族は郊外の治安のよい住宅地。時代によって変遷があるが、マンハッタンにMetro North(メトロノース)で通いやすいウエストチェスター郡。ハーレムライン沿いのスカースデール、ハドソンラインのライ、ハリソンなどが多い。子供のいない夫婦や子供が幼稚園の場合は、通勤が便利なマンハッタンに居住する。僕は前回6年の赴任で、アッパー・イーストに住んでいたため、今回は逆サイドのアッパー・ウエストにしたいと心の中で決めていた。後は妻が気に入る部屋、間取りであればよいと思っていた。ただ、前回着任した2000年前後も、丁度アメリカ発のITバブルに重なりマンハッタンの地価はうなぎのぼり、当社の家賃上限額は相場に追い付いていなかったが、またして今回も同様に家賃上限を圧倒していた。ニューヨーク駐在員ご用達の日系不動産屋は大手R社と新興のL社などであったが、家が決まるまでの短期滞在アパートを契約した同じエージェントにサポートしてもらうこととなった。米国の大学を出てそのまま不動産エージェントとして従事してきたという前川は、オレンジ色のズボンにチャラいシャツの装いで、素っ気なく案内してくれたものの「今は家賃も高止まりでUSD3,500の予算内であるのは、限られますよ」。マンハッタン駐在員は概して洗濯機が部屋に設置されている物件を選ぶが、我々はさほど気にしていなかった。特に一回目の赴任当時はまだ洗濯機付きのアパートメントは広がり始めたばかりで、共同のコインランドリールームのある物件が主流のご時世。それよりも多感な妻は様々な制約条件があり、カーペットが敷いてある部屋は嫌だなどアレルギー体質を気にするなど、物件選びの難航は予想されたが、如何せん今回も会社の予算を市場価格が超えている局面で、対象物件自体が限られていた。そういう状況下で、後に大統領になるなど誰しも想像しなかったドナルドトランプの開発したHudson River(ハドソン川)沿いの美しい通りに面した物件にすることとした。以前赴任時は賃貸会社からのリースであったが、今度は分譲の賃貸でオーナーは個人、ユダヤ系の夫妻であった。エステール・リーマンという夫人が大家となっていて、Condominium(コンドミニアム)なので管理組合の審査手続きが必要であり、契約申請して受諾されるまで3週間余りかたった。その間、8AvenueのWorld Wide(ワールド・ワイド)というタイムズスクエアに近い短期物件に入っていたが、Studio(ワンルーム)の狭い部屋で約2か月の滞在は窮屈、かつ繁華街の嫌いな妻は居心地の悪さと引っ越し荷物を受け取れない不便さに痺れを切らしてしまっていた。海外引越は、通例だと身の回りの荷物を航空便で先におくり、現地到着一週間程で受け取れるが、船便はニューヨークだと長距離の航路に、通関手続が加わり1か月半から2か月かかる。引越代は会社負担で200万円以上掛るようであり、赴任中の家賃も大幅に補助してくれることを考えると、海外赴任は昔ほど手厚くないにしろ、フリンジ・ベネフィットを享受する。
その大地を五感(Qualia:クオリア)を澄まして知覚するとき、ニューヨーク固有の匂いといものがある気がしてならない。アメリカ全土に共通でもない気がして、そこはよくわからない。マンハッタンのストリートを歩くときに感じるのと、アパートメントの通路からドアを開けて部屋に入る匂いの2つが、ニューヨークに来たことを覚醒させる。日本も居酒屋のひしめく通りの澱んだドブ臭さや、日本のマンション内部の匂いがやはりあるのだけど、それはしょっぱい何か醤油や魚に近い気がする。それに比べて、ニューヨークの匂いは何と表現してよいか、ソース味なのか、和食と洋食の違いか、若干ガソリン臭さとバターが入り混じったと表現すべきか、単純に言いえない。かれこれ20年行ったり来たりしている自分の直感を語れないのがもどかし過ぎる。ただ、少しお世辞を込め言うならば、未曽有の大都市に改めて足を踏み入れたことを触発させる、ダンディーで野性味ある香水の匂いかもしれない。
ニューヨークを舞台にした映画・演劇は数知れず、それほどにドラマチックな街なのでしょう。古き良き演目から遡ると、ブロードウェイ・ミュージカル「West Side Story : ウエストサイド・ストーリー」(1961年)、デミームーアのラブ・ストーリー「Ghost:ゴースト/ニューヨークの幻」(1990年)。リチャード・ギアとウイノ・ライダーのラブロマンス「Autumn in New York:オータム・イン・ニューヨーク」(2000年)は、セントラル・パークの紅葉の秋からクリスマスの雪景色まで映像美が素晴らしい。アン・ハサウェイ主演でメリル・スストーリープがVOGUEの編集長を演じる「The Devil Wears Prada:プラダを着た悪魔」(2006年)では、VOGUE(映画ではランウェイマガジンという雑誌社)のオフィスとして撮影された場所は、会社の真隣りのビルだった。人気ドラマでは、お洒落な女性4人組が闊歩するラブコメ「Sex and the City (セックスアンドシティ)」のロケ地は観光名所であり、「FRIENDS(フレンズ)」の仲良しメンツの住むアパートメントの設定は、オシャレな流行の先端West Village(ウエス・トビレッジ)。アッパーイーストの名門私立校に通う富裕な高校生の恋愛エピソード「Gossip Girl(ゴシップ・ガールズ)」しかり、ロケ地ツアーは充実、NY拠点ドラマは枚挙にいとまがない。アメリカ文学の名作をあげるなら、F・スコット・フィッツジェラルドの「The Great Gatsby:グレート・ギャツビー」(1925年)、トルーマン・カポーティの「Breakfast at Tiffany’s :ティファニーで朝食を」(1961年)など。最近ようやく読んだのは、稀代の青春小説 J・D ・サリンジャー「The Catcher in the Rye:ライ麦畑でつかまえて」だが、1950年代から変わらぬ佇まいにほのぼのした気持ちになった。多くの文芸作品を通じても、永遠のエネルギーを呼び覚ます、パワースポットであることに違いない。
管理組合の承認が下りて、ようやく短期アパートから引っ越しすることとなった。新居はアッパー・ウエストのハドソン川沿いであるが、部屋は川沿いと反対側を向いているため景色はいまいちだけど、遠くの空が少し合間から見えるからよしとしようとやむなく妥協した。だけど僕の気に入ったのは、屋上に共有ラウンジがあり展望テラスからハドソン川の絶景が見られることだ。それとRiverside Parkway(リバーサイドパークウェイ)というマンハッタンのウエスト側の高速道路が、川沿いを走り車の音がうるさいけれど、リバーサイドパークは並木が続き、ハドソン川河口の雄大な流れを楽しむ人々で賑わっている。マンハッタン島の熱気がこもる内陸に比べると、風が抜けてすがすがしく、四季の彩を楽しめる爽快なエリアだ。
その年のニューヨークは6月から急激に蒸し暑く、東京の熱帯夜に近しい淀みがあった。マンハッタンの短期アパートはBroadwayと8 Avenue、繁華街タイムズスクエアから徒歩5分~10分。観光客含めて人通りの多いエリアのせいか、常にバタ臭い人々と車道から込み上げる汗ばんだ暑さが籠っている。日本で見られなくなった歩きタバコの人達に妻が神経を尖らせたが、レストランが全面禁煙になった反動なのだろう。ニューヨークで再び生活するにつれ、徐々に減ってきたのか気にならなくなったが、欧州旅行、特にフランス・パリでの愛煙家の根強さは際立っていた。気温が高くても風通しがある広い空間があれば違うのかもしれないが、なにせミッドタウン・ウエストの中心部は、様々な連中がひしめき、空気の質感も自ずとベタベタ濃くなっている。特に地下鉄のホームは、今でこそようやく一部の駅でエアコンが少々入っているところが出始めているが、東京と違ってエアコンなしなのである。会社の最寄り駅だったEトレインの53丁目駅は、ミッドタウンの心臓部でもあり、ホームが深い階下にある。密集した通勤時には蒸し暑さと篭った空気感がむせ返り、窒息しそうになる。冷房の行き届いた日本の地下鉄ホームとは、大違いであった。
6年前の当初赴任時と変わったことは多くあり、本場アメリカではI-phoneが既にだいぶ普及して、その元祖ともいえるカナダBlackBerry社の端末を浸食していた。電子化の波は著しくアメリカ最大手のBarnes & Noble、古本屋の老舗 Strand Book Storeはなんとか健在ながらも、全米第二位のBordersは、2011年に経営破綻、本屋の店舗は淘汰されている。特に時代の流れを痛感させたのは、The New York Times(ニューヨークタイムズ紙)の紙面数が急速に少なくなっていったこと。以前の日曜版は両手で抱えるほどの分厚さだったが、2度目の赴任中にどんどん減り始め半分以下、遂には三分の一程になってしまった。隈なく読めるはずもないのに日曜版を買ってめくるだけで、勘違いな知的満足感に浸ったものだが、伝統文化が一つ失われていくようで寂寥感を覚える。なにしろ、Billy Joel(ビリー・ジョエル)がニューヨークを望郷するバラードNew York State of Mindでは、Daily News(タブロイド紙の代表格)とThe New York Timesが、痛切に歌われているぐらいだから。話を戻すと、ワンルームアパートに2カ月程も滞在してしまったため妻は憔悴していた。更に、新居探しでオレンジのズボンをはいた、冷淡な日系不動産屋のエージェントにうんざりしたのか、いづれにしてもストレス多寡で、妻の持病が再発してしまった船出となる。これからの身勝手な物語り、拝金主義のメッカにける生々しい金融の内幕は、悩んだあげく少々捨象したが、ひらにご容赦の程。
2. オープンハイウェイ
アメリカは夏休みのシーズンに入り、経営・管理層でない限りは、会社事情と一線を画して、現地社員は家族・子供の夏休みと合わせて、休暇を満喫する。ニューヨーク州の規定で銀行業のSensitive Position(センシティブ・ポジション)にあるスタッフは2週間の連続休暇取得が年一回義務付けられている。これは、現金取引や資金決済といった業務に携わる従業員の不正を防止することを目的としているが、そうでないスタッフも年に一回2~3週間連続を臆せずに取る。子供たちの夏休みと連動して、ジョブ・マーケットも真夏の動きはスローダウンするので、外部の採用エージェントからの反応も遅々としたものであった。西海岸のサンフランシスコ、ニューヨーク連銀、州金融局も同じく、被監査企業へ厳しい夏休みの宿題を課して、当の検査官たちはバカンスを楽しんでいるのであろう。
普段のランチは、派遣社員は身近な同僚達とランチルームで食べることが多く、ディーリングルームなどはマーケット相場を見たいので、概してデスクに張り付いて食べたりしている。ニューヨークは、幕の内弁当などのような日替わりの日本式弁当のデリバリー業者が各企業に出入りしていて、事前にオーダーしてだいたい若手が先輩の分も含めて、ビルのフロントに取りに行くのが仕事であった。私も付き合いで食べてはいたが、だんだん飽きてくるので、週の半分は、周りのサンドイッチなどのショップを巡るのが息抜きをしていた。ランチタイムまでべったり仕事仲間といるよりは、独りで彷徨いたい方なのだ。Delicatessenデリ(カフェ・ヨーロッパ、メトロカフェなど)で、特に好きだったのは、パスタをその場で作ってくれる簡易なパスタバーだった。Pesto genovese(ペスト・ジェノベーゼ)と呼ぶバジルソースや、アラビアータ、ホワイトソースなど選べて、中でもオリーブたっぷりのペストソースがお切り入り。ソーセージや、ベーコン、各種ベジタブルを三種類ぐらい選べてトッピングできる。そうしたパスタバーは、一回目の赴任時にはまだ広まっていなかったが、二回目の赴任時には、ホテルのバイキング形式に似たホットバーが多くなり、新興のデリスタイルは進化してきていた。同僚の派遣社員が来ないようなデリで、仕事メールに目を通して次のアクションを考えたりつつも、コーヒーを飲みながら人知れずくつろぐのが至福。遡るに一回目の赴任当時は、57丁目の大通り沿いにもマクドナルドがあった。本場のマック=McDonald(実際の発音はメク ダヌルズに近い)というジャンクフードの王道にそそられて足を運んでいた。黒人の太ったスタッフが、これでもかと言わんばかりに、コーヒーシュガー、ミルク、砂糖とポテト用のケチャップをわしづかみにして、トレイに山盛りにしてくれる大雑把さが懐かしい。
ストリートベンダーも、一回目の赴任時より格段に増えて特にシックスアベニューのミッドタウンはメッカであった。Chicken はOver Rice(チキン・オーバーライス)は、ニューヨークの屋台では定番で、香辛料で味付けされたチキンやラムがのったエジプト・トルコ系のピラフでボリューム満点。中でも有名屋台となったハラルガイズはいつも行列が出来ており、普段は並んで買う気までなかったが、夜遅くになって透いてきた時に買って深夜に食べたら、若い力強さが減退した40代の胃腸では、とても完食できなかった。「ハラル」とはイスラム法に則った調理法を意味するが、ニューヨークのストリートフードは、ギリシャ生まれらしいが、ピタパンにチキンやラムと野菜を挟んだジャイロ(GYRO)から、Hummus(フムス)というひよこ豆と野菜の中東系サンドイッチFalafel(ファラフェル)などは一回目の赴任時から定石だった。二度目の赴任時には、ビジネスランチをターゲットにしたフードトラックは勢力拡大し、韓国、台湾のアジア系から、イタリアンピザはもちろん、インド、ギリシャ、中東、南米系と種類も目覚ましく多様化した。
ニューヨークの新居は、アッパーウエストの最もハドソン川沿いのRiverside Blvd. (リバーサイド・ブルーバード)。Trump Place(トランププレイス)という、後に大統領になるドナルドトランプが開発したエリアであった。いまでは、分譲・賃貸それぞれの高層ビルが立ち並び、リバーサイドパークというハドソン川の川岸に沿った美しい公園が整備されている。悪名高い不動産王のドナルドトランプだが、このエリアにいち早く着眼して高所得層のファミリー向け住宅地域に変貌させたのは、目の付け所がよいと言っても過言ではないだろう。今回は日本でいう分譲マンション(NYではコンドミニアムという)の賃貸アパートメントで、そのオーナー夫妻はイスラエル人だった。若い頃に、イスラエルを旅してユダヤ教の原点にささやかに触れたことはあったので、食生活に食べてはいけない規律(コーシャ―フード)はぼんやり覚えていたが、台所設計にまで影響しているとは知らなかった。キッチンはシンクが二つの漕に分かれており、食器や調理器具を同時に食べてはいけない肉用と乳製品用で、分別して洗わなくてはならないということらしい。因みに、2016年トランプの大統領出馬・勝利に反対する住人達の署名集めで、トランププレイスの名称は外れ、番地名+リバーサイドブルーバードにマンション名は変わった。
そういえば、一回目の赴任時の2000年に物件選びをした際、日系不動産屋から完成間近で入居まで3か月ぐらい待つけれどといことで案内されたのが、このトランププレイスのどこか初期に建てられたビルのショールームであったのだと思い出す。当時はまだリンカーンセンターの裏側以西は治安が悪く、ミッドタウンウエストからハドソン川沿いに向かうに連れて、アベニューはプロジェクトと呼ばれる家賃の抑えられた団地や怪しい気配の倉庫街がある地域であった。これがすっかり、中高所得層のファミリー向けマンションで、子供が集って遊ぶ公園が整備された高級マンション群に変貌していた。確かに、8アベニュー以西のミッドタウンウエストは、昔は物騒な倉庫街風でHell's Kitchen(ヘルズキッチン)という恐ろしいネーミング通り、近づき難かった。しかし、いまでは様々なエスニック系を含めた幅広いレストランがひしめくカジュアルな繁華街区域に変貌した。以前、アッパーイーストに住んでいた時には、セントラルパークでジョギングに勤しんでいたが、今後は対面する道路を渡れば、すぐに河岸のリバーサイドパークに下りられて、ハドソン川の雄大な流れと微かな海風と伴走することができる。その後の6年間で何度となく、季節の移り変わりを描く風景画のようなハドソン川の雄大な流れを観賞ながらジョギングを満喫した。ところで、このトランププレイスの名称は、2016年大統領選挙の際、反トランプの人々が「こんな名前のタワマンに住むのは恥ずかしいと思いませんか?」と自治会での署名活動を行った。結果、トランプの看板プレートは取り外され、XXX Riverside Blvd.という単に住所のみ冠した名称に変更。この辺り、萎えて従順な日本と違って欧米はたくましい。
秋も深まる10月下旬の週末、妻が一時帰国したので、ハドソン川沿いを出来る限り遡ってみようと思い立ち、遠くに見えるGeorge Washington Bridge(GWB:ジョージ・ワシントン・ブリッジ)を目指して、走り出した。夏は色濃く茂っていた沿道の木々も少しずつ色付きはじめ、ニューヨーク市街も秋の紅葉まであと一歩である。だいたい11月第1週の日曜に開催されるニューヨークマラソンの前後が紅葉のピークと見て間違いはない。ニューヨークマラソンは来週末である、マラソンに出るランナーであろう人達も最後の調整に走り込んでいる様子が伺えた。久しぶりの長距離走にアドレナリンも適度に分泌されて、テンポよくアッパーサイドへ上がると、ハーレム125丁目付近で一度川沿いからコースはいったん離れて市街地に入り込み、車道を渡って少し人気のない脇道を上るが、白人の女性も一人で走っているぐらいだから、大丈夫だろうとハーレムの北側へと登っていく。天気もまずまず良いせいか、開けた芝生では黒人やヒスパニックの家族連れや若いグループが集まってスポーツやピクニックもどきを楽しんでいる姿が増えてくる。若干ガラの悪そうな輩もいなくはないが、横目に見ながらどんどん走るとGWBがいよいよ近づいてきた。ここまでマンハッタン西岸を一直線に走ってきたのは初めてである。
ところで、ニューヨークマラソンは毎年、10月下旬からハロウィーンを経て11月上旬は、セントラルパークが紅葉のピークとなる時期に開催される。未だ若かった30代前半の頃、ろくに長距離走の練習もせず、走った経験もない42.195kmのNYマラソンに二度出場した。当時はまだ一般抽選で当選する確率が高かったが、参加応募者が増えすぎて今では、現地ランナーズクラブに一定期間所属して実績を積むか、在米でもあえて日本からのツアーに参加するなどでないと、資格を得るのは相当厳しくなっている。
NYCマラソン
ニューヨーク市図書館前のバスの並びから、すさまじい参加者の列に改めて3万人の規模の大きさを感じながら、Statn Island(スタッテン島)に到着。(バスでもだいぶあるなあと)晴れて爽快な日曜日で、気温はせいぜい8度程度で、スタートまで3時間ほどあり、友人と時間をつぶして過ごしていた。荷物を集配トラックに預け、いかにも流し素麺のような男性用オープントイレで用をすまし、スタート地点に向かう。「皆さん路中ではなく、路肩に衣類は捨ててください」などのアナウンスなど聞き、寒さに震えながらいよいよスタート。スタートラインのVerrazano Bridge(ベラザノ・ブリッジ)はスタッテン島とブルックリンを結ぶ大きな橋。みんな快調に走り出し、遠くマンハッタンと湾岸を一望する気分は最高である。ブルックリンでは快晴の美しい空と沿道を埋め尽くす大勢の人々の声援に囲まれとても心地よく、また走る様々な国籍の参加者とそのコスチュームを楽しむ余裕があった。これだけ一般に開放されたフルマラソンを許容する都市ニューヨークの懐の大きさと強い個性が演出するものと感じる。Queens(クイーンズ)に入り、それまでどうにかノンストップできたのが、いよいよ走ったことのない距離(20km)に達していたのであたりまえというか、Queens Boro Bridge( クイーンズ・ボロ・ブリッジ)を登る手前辺り、一息歩いてから走るというペースになってきた。マンハッタンで地元のイーストサイドに来たのは嬉しいが、もう余裕はなくなんとか小走りにしばらく走り、また歩くというパターンが余儀なくされる。
これからが、意外と途方もなく長く感じる。お腹も空いてきて、やっとイーストハーレムのあたりで、パワージェルという僅かな食べ物にありつき、ひたすら体を引きずる感じで、高速道路が交差するBronx(ブロンクス)南端へ渡る。この辺でも、なんなく会話して走っている女性や、走りを楽しむ高齢の方の姿など多数見るに、すごいなあと思いつつ、自分はひたすらヘトヘトである。(中には携帯電話で話しながら、走っているおっさんや若い女性もいた)遥か遠くに思えたブロンクスを周り、マンハッタンに戻り、歩く、走る(走るといっても足がもうガクガクでぜんぜん進めない)を繰り返し、我がなじみのCentral Park(セントラル・パーク)を縦走するまでのマイル表示が、はじめと比べ、いかに長く感じられたか。本当にこの辺での1マイルの長いこと長いこと。いつにも増して、果てしなく長いセントラルパークを縦断横断し、なんとか完走することができた。
(公式タイム4時間52分29秒)
第一目の赴任した当初には、郊外の自然探索の手初めとして、ハドソン川のニュージャージー側にあるPalisades parkway(パリセード・パークウエイ)の近くの自然公園に行こうとして、ジョージワシントンブリッジの歩道を妻と歩いて渡ったことがあった。この時は二人とも若かったので、パリセードと呼ばれるニュージャージー州のハドソン川沿いにある自然公園に車を利用せずにいけると思っていた。マンハッタンとニュージャージーを結ぶ交通量の凄い幹線道路の橋の真横を、いくら歩道があるとはいっても渡るものではないと後悔した。まあ一度きりの経験としてはよかったが、排気ガスと突っ走る自動車、トラックの轟音にまみれて、眼下に亘るハドソン川とマンハッタン島の景色を楽しむ余裕は瞬く間に立ち消え始めた。最初はこんなものかと思い狭い通路を歩行するが、だんだんと気分の良いものではないことが分かった。しかしながら、半分近く進んだら、今更引き返すのも折角来た意味がない、ここまで来たらならと、ニュージャージー側まで強引に歩き通し、やっと渡り終わったときには、排気ガスと粉塵にまみれ真っ黒になった。
妻が一時帰国から戻ってきた9月、初秋の晴れ間を縫って、カナダのケベック州にぷらりと週末に有給休暇をくっつけて旅行に出かけた。一回目の赴任時にはカナダまで一直線、ルート87やルート91のハイウエイに沿って車をぶっ飛ばし、陸路の国境越えに出かけたものである。カナダとのボーダーに近いAdirondack mountains(アディロンダック山系)の途中から、カーラジオにフランス語が交じりはじめ、英仏ミックスのケベック州にまもなく入ることを知らせてくれた。ケベック州のLaurentian Mountains(ローレンシャン高原)は、モントリオールから1時間余りで入り込める森林リゾート地。Mont-Tremblant(モン・トランブラン)などヨーロッパ風の小さな湖水に面した町が多く、紅葉シーズンは相当な観光客でにぎわいます。今回は時間もないので、小型機で1時間余りのフライトでQuebec City (ケベックシティ)に直行し、空港でレンタカーを借りた。それにしても、1回目の赴任時はカーナビも搭載せず地図をめくりながらあちこち言ったものだ。今回はI-PHONEの普及もありグーグルマップを横目に見ながら、ひとまず市内に向かう。土地勘を甘く考えていたせいか、高速の出口を見失って、街の中心地をあっという間に通り過ぎ、自然の美しいハイウエイに誘られるまま、逆方面に下ってしまった。それみたことか言う妻と口論になりつつ、引き返せる場所を探してUターンする。我々のドライブはいつもこんなもんで、私の大雑把さに妻が悲鳴をあげる。I-PHONEの充電器を持ってくるのを忘れてしまい、帰路ではI-PHONEの電池切れでマップが見られなくなった。空港までたやすく行けると思ったところが、入り組んだハイウエイの交差で今度は市街地に迷い込んでしまった。フライト時間が迫り、トイレも行きたくなり苛立ち車内で喧嘩となったが、妻の鋭い直感で功を奏しかろうじて空港に向かうハイウエイに舞い戻れて、ケベック空港に到着したら、搭乗飛行機も遅れていて安堵した。
ケベックからのフライトはUnited Airlines(ユナイテッド・エアー)であったが、往路と同じ小型機でエンジン音の振動がぶるぶると聞こえる。フライトアテンダントが一人のワンマン飛行機で、アナという小柄で太ったおそらくヒスパニック系のおばちゃんだった。列車の車掌や運転手でもしきりに音声案内をする方がたまにいるが、アナはこのフライトの主役は私と言わんばかりに、頻繁にマイクを拡声器のように使い、何かあったら遠慮なく私に話しかけてねと、まくし立てていた。「CALL ME ANNA」とカジュアルに呼んでくれていいのよ、ゴミはないかしら、少し揺れますが気分は大丈夫ですか。大きな声が機内に響いていて通路を行き来するので、ゆっくり寝ようにも騒々しくて断念。ようやく、ニューアーク空港に着陸態勢に入るや、「みなさん間もなく着陸します、ニューアークですよ、ターミナルはね、ターミナルB、ターミナルブラボーですよ。みなさんBravo(ブラボー)よ~!」との掛け声に、乗客も一斉に合唱するって、何だろいったいこの超ノリの良さ。
New Ark(ニューアーク)空港は、JFKやラガーディアと並んでニューヨークの玄関口となる三大空港の一つだが、ニュージャージー州のエリザベスという治安の良いとは言えない港湾の湿地、工場地帯にある。ただ、飛行機が着陸態勢に入ると、ハドソン川沿いに降下していくので、近景に対岸のマンハッタンをパノラマのように眺望することができ、なかなかここでしか得られない体験が出来るのである。私は以前エコノミーでニューヨーク出張を何度も重ねた際に、当時は夕方に到着するのは唯一コンチネンタル航空(現在は合併してユナイテッド航空)だったので、本拠地のニューアーク空港で出入りしていたが、天気の良い日はハドソン川に沿って降下し横目に広がるマンハッタンの絶景が素晴らしくこのフライトの楽しみであった。マンハッタンからニュージャージーにハドソン川を渡るには、ブロンクスに近いアップタウンのGeorge Washington Bridge(ジョージワシントンブリッジ)とミッドタウンからのLincoln Tunnel(リンカーン・トンネル)、ダウンタウンのHolland Tunnel(ホランド・トンネル)の3つのルートしかなく、特に平日は行き交う車で非常に混雑することが多い。私も、出張帰りでニューアーク空港に向かう際に大雪の後なのに、朝方のんびりしていたら、リンカーントンネルで渋滞にはまって危うく飛行機に乗り遅れそうになった。リンカーントンネルを渡ったハドソン川の対岸はWeehawken(ウィーホーケン)という区域で、夕暮れから夜に煌めく超高層ビル群のスカイラインビューは抜群である。ウィーホーケンに住んでいる友人夫妻宅のパーティで食事をご馳走になり、ワインに酔いしれた後、すぐ近くの高台のウオーターフロント公園(ハミルトンパーク)に夜景を見に連れて行ってもらった。北部からThe Palisades(パリセイズ)と呼ばれるハドソン河畔の切り立った崖が続いていて、緑豊かなパノラマに対岸の摩天楼が展望できるScenic Veiw のドライブコースとして最高。アメリカは莫大な国土にも拘わらず、車社会として本家のプライドからか、道路の整備がとても良く行き届いていることは、田舎を走っていて感心する。一方、西部開拓時代に全米を制覇した鉄道は、航空機と自動車に主役を譲り、二の次に置かれている。Amtrak(アムトラック)という全米鉄道旅客公社が路線を維持しているが、いかんせんのろくて遅延も多いため、忍耐強さが求められます。特急列車/エクスプレスもあるのだが、新幹線に比べるとかなり見劣りするので、割とせっかちな私は、たま~にしか利用しなかった。ただ、ボストンからニューヨークに入る場面、Queens(クィーンズ)の一角からマンハッタンの摩天楼を遠目する僅か数秒の車窓の眺めは、クリスタルな大都会の情趣と哀愁を映す絶景なので、お勧めします。
私たち夫婦にとって、秋はTri State Area(トライステート・エリア)と呼ばれる(ニューヨーク、ニュージャージー、コネチカット)三州の山々の散策に毎週末ぶらっと車を走らせる季節である。一回目の赴任時には、それなりにアメリカ東部の背骨といえるアパラチアン山脈の山歩きもしていたが、40代になると本格的な登山意欲は減退し、軽めのハイキングが主流になった。ただ、週末はマンハッタンの喧騒を避け大自然に身をゆだねることこと、ニューヨーク駐在の醍醐味であり、この地の利を活かさずにはいられない。新緑の春もよいのだがあっという間に生物たちが躍動し、中でも各種の昆虫や蛇まで活発にうごめくのに比べ、夏が暮れた秋の自然は落ち着いた静けさと色づく紅葉の美しさが格別である。マンハッタンからジョージ・ワシントンブリッジ(GWB)を渡り、内陸部ペンシルバニアへと続くルート80でニュージャージー北部を横切ると、途中には手ごろなステートパークや日帰り登山の低い尾根と谷がたくさん連なっている。最北メイン州から南部ジョージア州まで縦断するAppalachia(アパラチア)山脈から枝分かれした緩やかな尾根の広がり。私たちの密かな隠れ家スポットは、ワナキー・ハイポイントというニュージャージーとニューヨークの境に位置する山並みの一つ、日帰りドライブで十分いける距離。1時間程歩き高台に登ると、遠くにマンハッタンを望む広い景色を見渡すことができ、手軽な自然を堪能できた。ハイウェイ80は、カルフォルニアまで4,668kmの全米を横断する果てしない道のりだが、Pennsylvania(ペンシルベニア州)の境Delaware Water Gap(デラウエア・ギャップ)という渓谷地帯までなら、ニューヨークから日帰りや一泊の小旅行に最適。ビーバー・トレイルというビーバーが多数生息する湖へトレッキングは、私たちの秋の定番だった。尾根と谷間を何度か渡り、人の立ち入らない静けさに満ちた森林の中に絵画のような湖が広がる。アメリカの山道は木々にブレイズというペンキの道しるべがつけられていて、そのマークを頼りにいくのだけれど、気を緩めて分岐点で迷ってしまい、アメリカの山林で危うく遭難か、入口に戻った時には日が暮れていたこともある。私の金融マンに似ても似つかないいい加減さで、几帳面な妻を焦らせたことは幾度もある。逆に私から言わせれば、朝方ドライブに出かけるまで、妻の出発準備の長さといったら勘弁してほしい。「いい加減に、さっさと出発だ」といって待たされたあげく、マンションの脇道に車を留めて、アパートメントに再び呼び戻った隙に、あらら~ I got a parking ticket $113 駐車違反のチケットを切られたこともあった。女性という生き物はかくあるものか。
一方で、ニューイングランド地方に属するコネチカット州(Connecticut)も、マンハッタンからは日帰りで楽しめる。大西洋岸に沿うハイウエイ95に乗り適宜北上すると、リッチフィールド・カウンティなど澄み渡る湖水と田舎風景のコントラストに癒される。通過する山間の町の小さなカフェレストランや、果実・野菜の販売店などあり、パウンドケーキなどを帰りがけに買っていた。アメリカ北東部は、Cranberry(クランベリー)の大産地であり、秋が深まると酸っぱい赤い実の味覚を堪能することができる。煮詰めて砂糖を入れてジャムにして毎年食べるのが楽しみだった。クランベリーのほかに、Raspberry(ラズベリー)、Blackberries(ブラックベリー)、Blackcurrant(ブラックカラント)など、樹上の宝石の原産地。日本では(いまはだいぶ輸入販売されているが)希少な果物が豊富にあるのは嬉しい。そういえば、初回の赴任時は、コネチカットの田舎町を舞台にしたアメリカTVドラマ「Gilmore Girls(ギルモアガールズ)」をよく見ていた。シングルマザーのローレライと、イエール大学に進学する娘ローリーの家族ドラマ。アメリカ北東部(ニューイングランド)の心温まる人間模様がほのぼのしてよかった。
広大なアメリカ大陸でのドライブは気分爽快ながら、やはり備えあれば憂いなしである。一度、ガソリンの補充をまだいいやと軽んじてハイウエイを呑気にひた走っているうちに、気付いたらガスメーターが点灯していた。しかしいつもは割と頻繁に目にするガソリンスタンドの表示が、いつまでたっても見当たらない。ハイウエイ上でガス欠とはいったいどうなってしまうのかと、相当焦りがこみ上げ、助手席の妻とひどい口論が勃発。さすがに広大なアメリカ中西部にかかわらず、名作映画 Easy Rider(イージー・ライダー)のような気分でのんきにぶっ飛ばしていたのが運の尽き、これも万事休すか。ふと奇跡的に、妻が横目に給油スタンドありの標識を発見。ゼロを示して久しいオイルメーターを見ながら、藁をもつかむかのように祈るばかりに急行。ハイウエイを降りた先にガススタンドが視界に入った時には、相当な冷や汗をかいていた。それにしても、広大なアメリカ大陸を縦横無尽に貫くHighway, Freewayをドライブすると心地よい波動に包まれる。高速運転は右脳が集中するという説もあり、自然と無心の境地へといざなうような、陶酔感が芽生えるのです。ドライブ、ジョギング、スイミングの3つが私の精神安定剤。ちなみに、私の好きな車種はフォードのMustang(マスタング)で、V8エンジン搭載のクーペの快適な加速力と走行性能は秀逸です。ニューヨークから途中二泊で、南部ノースカロライナとテネシー州にまたがる、Great Smoky Mountains National Park(グレートスモーキー山脈国立公園)まで突っ走ったこともある。長時間ドライブで眠くならない秘訣は、車中カラオケみたいに、懐メロを歌うこと。僕に居眠り運転されては困る危なっかしいと不安感を募らせ、妻もたま~に歌う。夕暮れのNew Jersey Turnpike(ニュージャージ州を貫く高速道路)からルート95に沿って、来生たかおの名曲(セカンドラブ)を歌いながら、遥かなる旅路をひた走る。
3. セプテンバーイレブン他
私の統括するITグループの外人部隊は、これまでは、なんちゃってIT集団だった。基幹システムの締め処理や現地ベンダーとの契約手続きをする東欧系米人のおじさんドミニク・エンドレ氏は、庭いじりが好きな元機械工。システムセキュリティやネットワークを担当する香港出身のチャンは小太りのクイーンズに住む生粋の広東系中国人、元中華料理店で働いていたが、実はコロンビア大学出身らしい。PCの組立てやアンチウイルスソフト等のパッチ適用を担当するのは、南米エクアドル出身でコーヒー農園の息子というビクトル。システムの権限やパスワードの設定を担当するのは、気のいい黒人のペレ・アンソニー氏で、カリブ海の移民。まともな人材は、システムエンジニア(SE)のアミーナさんでマレーシア移民、旦那はクイーンズのカレッジで物理工学助教授だったそうだが働かなくなって家で研究しているらしく、実質ヒモのようである。他数名プログラマーを都度採用していたが、いわば地方の町工場的な人員構成であった。ここからして、ITの業界標準に追い付くにはほど遠い訳であるが、まずは米国銀行の様子を伺い見習いから始めなければならないと、同行ITセクションに詣でることとなる。ダウンタウンからハドソン川河口を渡ったニュージャージー州のJersey City(ジャージー・シティに話を聞きに行く。オフィスビルのすぐ地下を走るEトレインでまっすぐマンハッタンを下り、World Trade Center, WTC(ワールドトレード・センタービル)の跡地まで下りたところで、ニュージャージに渡るパストレインという州をまたぐ地下電車に乗り換える。その対岸に渡ったところで一駅目を降りると、東京でいえば台場や豊洲のような感じだろうか、フードコートの立ち並ぶ高層ビルがいくつかあり、その一つであった。
提携先の米国銀行システムセンターを統括する部長に挨拶を終え、現地当局の対応で苦心してきた話を伺った。まだ道半ばではありが、まずはFFIEC(Federal Financial Institutions Examination Council)という米国のIT金融検査マニュアルをベースにした当局の期待値とのギャップ分析を行い、各ギャップの優先度を踏まえた改善計画を立案して順次進めてきたということであった。それには、第三者的な視線を取り入れるべしとの当局は示唆するため、名門コンサルに全面的なサポートを依頼したこと。またその計画実行と管理強化の過程で、1,000人規模のIT要員を採用したことなど、部長は物腰の柔らかい紳士のようで親切に教えてくれた。実務は、IT監査主担のハシーム氏が今後サポートしてくれるとのことで、快い応対には感謝するばかりである。ハシーム氏は、アラブ系の米国移民でシステムセキュリティ分野に通じた人物で、米国当局のIT検査官とも何度もやり取りを重ねてきた専門家である。後で聞いたのだが、アラブの中でもパレスティナ出身とのことで、イスラエルとの長年の軋轢から、アメリカに移ってきたようであった。ニュージャージのオフィスは既に電話会議のインフラが整えられていて、会議室の席でパソコンを通じて資料を共有できるようになっていた。やはり大きく後れを取って脆弱な人員体制なので、せめても米国銀行と同じコンサルタントを雇うことで、業務改善の活動を立ち上げなくてはならない。少しでも手ごたえを感じつつ、その後はパストレインとEトレインで何度か米国銀行のジャージ・シティ拠点を訪れることとなった。2001年、セプテンバーイレブンの同時多発テロで倒壊した、World Trade Center(ワールド・トレードセンター)の跡地、所謂「Ground zeroグラウンドゼロ」には、再び同じような超高層ビル「ワンワールドトレードセンター」が建設され、ほぼ外観が出来あがってきていた。
一回目の赴任当時2000年に観光がてら、妻とワールドトレードセンターの展望フロアに登ったことを振り返る。マンハッタンの先端から、見晴らしよく自由の女神のあるリバティー島からStaten Island(スタッテンアイランド)まで臨むことができるガラス張りの最上階であったが、なぜかしら物悲しい空気の寂寥感があった気がしてならない。その1年後に同時テロで2つの摩天楼が崩落するとは、誰しも想像しえなかったのであるが、その時感じた奇妙なフィーリングが確かにあったのだ。スタッテン島の往復フェリーから撮影した澄み切った青空にそびえるタワーの写真を見返すに、なにやら冷たい霊気を発しているように思えなくもない。若かりし頃に金融界の王道ニューヨークで体験したセプテンバーイレブンの衝撃は以下に書き留めている。
セプテンバー・イレブン同時テロ(2001/9/11)
私が赴任後1年余り経った2001年、澄み切った秋晴れの朝だった。いつものように、スタッフとも朝のコーヒーを飲み終え、業務をスタートしかけたところで、トレーデングルームから不意に衝撃的なニュースがあがった。「どうもWTCビルに飛行機が追突したようだ」。私も思わず、席の後ろから外を見渡すと黒煙が南方のビルの谷間から上がっている。最初は、飛行機が誤って追突又は墜落したのかと思いきや、詳細が報じられるに従い、ただ事ではなく不穏な出来事であることが分かり始めた。皆、電話で家族、友人に電話を入れ、安否確認と同時に情報が行き交い出し、WTCの光景が浮かび上がる。2機目の飛行機の衝突がトレーデングルームのテレビモニターに映し出され、オフィス内の空気も騒然なった。ダウンタウンやビル周辺勤務の家族・知人がいないか、各人が安否を気遣う中、電話回線は混線しつながらなくなり始め、マンハッタンの通りには避難を急ぐ人々が溢れ始めた。たまたま、管理部門の各ヘッドは、アメリカ銀行業界会議(アリゾナ)への出張や休暇中であり、ラインの日本人部長は本部出張中で不在だった。課内スタッフ他、第一に安否確認を行う。資金証券管理室では、3名が休暇中1名は在宅、2名はそれぞれカナダ、ギリシア方面をそれぞれ旅行中であった。同時に、管理職他、緊急時所定のスタッフ以外は、自宅待機が決定されとなり、昼前後にスタッフを順次帰宅させる。皆マンハッタンが封鎖され交通機関が麻痺するなか、混雑するストリートへ帰途についた。
当時主幹していた各種取引のバックオフィス業務は、そんな状況下でも明日以降の決済スケジュール確認、フロントと連携した資金繰り管理が急務である。本日決済のドル、明日決済の外貨は、既に発信を終え、当方はシステム、インフラ含め障害がないことから業務継続が可能。一方、カウンターパーテイや決済エージェント銀行に影響がないか、フロントと共に情報収集に努める。相手の被害状況により、明日以降の資金繰りに影響がないか、決済金額を把握する。コミットメントローンで緊急時のドローダウンがないか、影響を把握する。約定済み社債の決済は、決済日を延期することとした。勿論、新規取引は必要最低限に抑制する。万一の流動性確保のため、フロントでは200m以上のドル資金を決済口座に積み置いた。2大ドル決済システムであるCHIPS、Fedwireともに被害を被ったダウンタウンの金融機関を救うため、大幅に締め切り時間を延長。当週でのドル決済システムの最終クローズは、9~12時まで延長された。ダウンタウンの多くの金融機関は、バックアップサイトで事務処理に追われた(FRBのサイトも移転)。マンハッタンが封鎖されたため送金課と資金証券課の主担当スタッフがホテルに滞在し、深夜まで決済確認する体制を取った。各々の担当スタッフは、着替えもないまま急なホテル滞在し対応してくれた。為替決済等で数件の未入金取引が発生や入金確認の遅延こそあれ、すべて決済が完了した。
日本との国際電話やインターネットも3日ほどつながらない状態であった。その後も、テロ再発の危険性も高いため、当週末は770mの資金を滞留する。通常、決済銀行の口座残高にFed Fundレート-50bpの付利をする契約だが、当該週末越えの余剰資金については、Force Majeure(災害等の不可抗力)にあたるとして付利を拒否した。被害を受けたダウンタウンの金融機関・米国銀行会社の中では、ニュージャージー、テキサスやフロリダなど他州のバックアップサイトへのなんとかシステムを切替え、人員も移動して業務の継続に全力を尽くした。あるリスク管理の上席者(のちに専務になったが)は、資金繰りはいったいどうなるんだ~、資金決済は死活問題だ~と、担当の私に詰め寄り騒いでいたが、全く適当に大丈夫ですとスルーして凌いだ。こういう災害や窮地ではお祭り祭り事のように太鼓を叩き囃し立てる人が必ず出現する。しかし、いくつかの取引先では、取引データが失われるなど復旧に困難を極めたようである。その後も、アメリカン航空機の墜落や炭素菌事件(郵便物に炭素菌を混入する)などが有り、追加テロへの不安が広がった。一方で、イスラム教徒に対する偏見は増幅し、赴任してまもなく先輩・友人達と行ったアフガニスタン料理店などは、どれほどの辛苦に見舞われただろうか。街角のマンション、公園、駅構内などには、アメリカの国旗が掲げられるとともに、行方不明者を探す張り紙が溢れ、ニューヨーク市街は追悼の灯火で年が暮れた。
ワールドトレードセンター、ワシントンのペンタゴン(国防省)、ペンシルバニアの墜落機の亡くなられた方は約3000人、日本人犠牲者は24名。私は前年の2000年に妻とワールドトレード・センターの展望ルームに登った際に、著名な観光スポットにして物悲しさを感じたと書いたが、自由の女神を望むマンハッタンとスタッテン島を渡るフェリーから撮影した写真がある。同時テロを理由にブッシュ政権が始めたアフガニスタン、イラク戦争は、チェイニー副大統領、ラムズフェルド国防大臣らネオコンと呼ばれるタカ派勢力の強硬策であるが、バイデン政権の下で撤収まで20年に及ぶと誰が想像しえたであろうか。ソビエトのアフガン侵攻も然り、大国の威圧と武力では多様な世界を動かすことはできない。
Eトレインは、ワールドトレードセンターからウエストサイド沿いを北上する各駅停車で、ミッドタウンから右折してマンハッタンを横断後、クイーンズのジャマイカセンターまで到達する。JFK国際空港に行く場合は、エアトレインに乗車することが出来るのが、このEトレインでクイーンズの区間は急行となるので安くて早くて便利である。地下鉄の乗車料金は当時で$2.5、プラスエアトレインは$5程なので、$10以内で空港まで行けるので、荷物がスーツケースも1個であれば、エコノミーな旅行者には安上がりである。もう一つのルートとしては、マンハッタン区間は同じ路線を通っているAトレインが、ブルックリンを経由してJFKへのエアトレインに乗り換えできるのだが、こちらは迂回するブルックリン区域が思いのほか長く、マンハッタンから空港まで2時間程係るのであまりお勧めはしない。Aトレインは、デューク・エリントン作曲の有名なジャズナンバー「A列車で行こう(Take the 'A' train)」のモデルで、ジャズを楽しみにハーレムに行くなら速く行けるAトレインがいいよとの意味が込めらているそうだ。
提携する米国銀行との打合せを終えジャージー・シティからの帰路、拠点のITグループで開発案件を長らくリードしてきた唐沢さんと2人で乗った夕刻Eトレインは、マンハッタンの地下鉄の風情を象徴していた。日本と違いなんとなくねっとりした湿気のある空気の社内で照明もいささか薄暗い。たまたま二人で連結部分に近い座席に座ったが、ホームレスらしき太った黒人のおっさんが強烈な臭気を出して何やら紙袋に詰めた大きな荷物とともに向かいの座席を独り占めした。地下鉄の中でこうした衣服を洗っていない、シャワーを浴びていない人たちに遭遇することは多いし、厳冬の冬などは特に彼らの生活の場でもある。治安の悪さにも拘わらずニューヨークの地下鉄は、昔から24時間運行を続けているのは、夜間に働いている人々の通勤の為もあるが、ホームレスで地下鉄の駅を定宿にしている人々の為でもあると言われている。夏場の地下鉄の構内はクーラーもなくべったりした熱気と篭った空気でよどんでいるが、いてつく冬の寒波においては、風雪を凌ぐシェルターなのである。思わず「席移りましょうか」と臭気に耐えかねて言葉を発すると、ニューヨーク生活の長い唐沢さんは「いいじゃないですか、これがニューヨークですから」と物怖じしないで逆にその場を味わっていらした。初冬のヒーターで車内に篭った暖気と臭気が交じる中、「そうですね、うんうんマンハッタンらしいっす~」と僕も相槌をしたものの、各駅停車で進む30分弱ではあったのに、オフィスまでがいつもより長く感じられた。
北米/NY大停電 (2003/8/14)
盛夏の木曜日夕方16:11にNYを含むアメリカ北東部からカナダに広がる広域停電が有り、電気機器依存の無力さや、生活の原点みたいなものを改めて思い知らされた。ブツンという音と共に、各種業務システムの電源が切れ、オフィスの照明も消える。皆、家族などへ電話を掛け合い、ラジオ等から大停電らしいとの情報が広がった。バックオフィスとしては、当日決済指図が発信されているかを確認。インターバンクの資金放出2件とAgentローンの実行ペイメント2件が未処理のままであった。為替決済は、USD, EURが受け、円の支払であり、日本に指図発信が必要である。SWIFT, FAXに加え、当時はまだあったTELEX(いまでは化石の通信機器)も使えないため早朝だが、本部に電話にて決済依頼を行う。なんとその後、間もなくして、ごく一部のコード電話を除き、電話も電源を使用しているため不通となる。携帯電話も混線状態となってしまった。
みるみる内に、夕日が射す窓越しのマデイソン・アヴェニューは、車と人で長蛇の列となっている。私は一旦安否確認のため、ミッドタウンど真ん中のオフィスから88丁目東端のアパートまで片道約4kmの混雑を掻き分け走って帰った。そんな中でも、人間たくましいもので、ごった返す通り沿いでは、アイスクリームなどを売るさばくベンダーや、パブやレストランで意気揚揚パーテイの人々。警察もだいぶ出ているが、信号は消えた中で車は互いにうまく秩序を保って走っていた。Times Square (タイムズスクエア)近隣のマリオットホテルでは、杓子定規に非常マニュアルに従ったため宿泊客すら締め出され入口周辺で寝ているなど、公園で夜明かしした人も多数となった。幸いにも1977年(25年前)の大停電とは違い、暴動や盗難がほとんどなかったというのも、当時と比べ90年代に治安や景気情勢が大きく改善したおかげである。逆に、普段は、都会生活で付き合いのない隣人どうしが助け合い声をかけるなど、思わぬ交流の機会となった。
私は、日の暮れた街中をトンボ帰りで会社に戻り、汗だくで25Fまでビルの非常階段を駆け上がった。ビルのセキュリテイーが厳しくなっており、間もなくしてテナントでも立ち入りは全面禁じられたため、かろうじて入れたのである。いつ復旧するか目処が立たなかったため、明日の決済予定を把握、ローンからは翌日Valueのペイメントを預かり、ビルで一夜を明かすこととなった。郊外在住で帰宅の交通手段がなくなった派遣社員、ローカル社員ともに真っ暗になったオフィスで滞留。普段は不夜城のミッドタウン周辺ビルも自家発電以外照明が消え、ひっそりとしたマンハッタンとなった。頼りはSep 11以降に購入した懐中電灯と携帯ラジオからのニュースだが、暗がりの中で本当に役に立つと痛感した。為替デイラーが調達してきたビールを煽り、しばしながら眠った。朝方4時頃、ウエスト側のビルが点灯し始めた。まもなく当ビルにも回ってくるとの期待が広がったが、朝が明けても復旧の見込みがない。このまま待つよりは、スタッテン島にあるバックアップサイトを利用するのが確実との判断が下る。午前9時、スタッテンサイトへ事務部隊の第1陣が、休暇中にも拘わらず駆けつけてくれた北里さんの車で出発した。
スタッテンサイトを災害ドリル以外で実際に利用するのは初めてである。各種システムを立ち上げ稼動を確認、支払指図を精査し作業を開始した。ミッドタウンのオフィスビルに電話がなかなか通じないため、東京や日銀から状況ヒアリングの電話がかかり、業務連絡の中継拠点ともなった。米国債の決済は、2時頃到着していた現地法人のスタッフを通じて決済を確認することができた。USD資金は、預け金口座へ約400m残すこととし、他は資金放出する。(当時のバンカーズトラストは、今回はリレーションを考慮してか付利してくれた)ミッドタウンの拠点ビルでは、昼過ぎに電源が回復しシステムの立ち上げ確認がなされた。5時過ぎても昨日当方で未処理となったオーバーナイトの資金が入金されず、カウンターパーテイに電話でリマインドし何とか入金させることができた。金融機関どうしのグローバルな資金決済システムSWIFTは、結局ネットワーク回線の接続ができず、外貨の決済は、土曜日に出勤して対応することした。翌日土曜日、送金・資金業務の各担当が出社し、外貨決済のSWIFT指図の発信作業を行った。スタッフを順次帰宅させ、6時過ぎにシステムをすべてセットしてくれた北里さんの車に乗せてもらい最終退出した。88丁目のアパートには、少し前に電気が回復していたが(約26時間の停電)留守にした間、妻には迷惑をかけた。マンハッタンでも区域により復旧時間にかなり差が生じた結果である。
<参考> 2003年当時ですが、生活への主な影響としては
ビルやアパートは、ポンプで水をくみ上げていて、水道が使えなくなる。
水洗トイレが使えない。水の確保はやはり最も重要である。
電話はコードのみの旧式電話以外、電源を使用しているものはすぐやられてしまう。
ビルの高層階に住んでいると(エレベーター依存を痛感)、照明がなく真っ暗な階段を昇り降りするのは大変
公共交通機関が停止、唯一の移動手段はガソリンの自動車、バスとなる。
生鮮食料品・要冷蔵の食品は、品ぞろえまでにしばらく時間がかかった。(スーパーやデリカテッセンは棚卸しに大変)
ハリケーン・サンディ(2012/10/29-30)
10月末、ハリケーンサンディ接近のニュースでTVは一色になっていた。市内の公共交通を仕切るMTAは、18時以降の運行を全面停止するとの方針を出し、市は住民に外出の自粛を呼び掛けていた。ちょうど満潮の時期と重なり、高潮の恐れのある沿岸部(ZONE_ A)には避難命令が出された。会社からもMTAの運休で郊外居住者は自宅待機としマンハッタン組の通勤可能な者だけが出社する態勢を取り、リモートアクセス稼働の指示が出された。決済業務を確保するため、事務Gでは明日確実に出社できるよう事務担当の2名がマンハッタンのホテルに宿泊するとのこと。まだ雨はちらつく程度で、風が強まる様相、市内は自然の猛威の襲来を身構える日曜の夜であった。
翌月曜の朝、だいぶ風雨が強まってきた。地下鉄もバスも動いていない中、傘をさしながら歩き出した。風雨がなければ40分程のところ、さすがに濡れるのでリンカーンセンターの交差点でタクシ―を捕まえ拠点に到着した。ITグループからはマンハッタン居住の北里氏、S君、先月赴任したばかりの若手社員が出社。非常時では、何よりも第一に資金決済・対顧客取引の実行、資金繰りの確保が優先事項である。事務Gではフロントとも連携し、決済金額・件数の把握に取り組むが、ハリケーンは今夜にかけてニュージャージーの南岸に接近する予想でまだまだこれからである。明日の出社人員も極めて限定されるため、明日発信予定のペイメントも前倒しで送信することとなった。昼過ぎに拠点長以下で作戦会議が開催される。まずは状況報告にはじまり、決済処理・資金繰り、顧客ローン実行・顧客送金依頼の見通しを確認し合った。応接室から57丁目に建設中だった超高層ビルの横で宙づりになって折れた巨大クレーンが見える。15時過ぎに2回目の会議を実施。明日に備えてペイメントを前倒し(先日付)で送信する方針となったが、普段と異なる送信方式がやはり不慣れなこともありメッセージの変換に時間が掛っていた。ジョンとナディラの送金に精通した2人が集中して取り組み全体の再鑑が終わったのは、19時半を過ぎていた。これにより明日の決済・資金繰りは賄えたため、翌日は暴風雨の危険性を勘案し、事務とインフラを維持するITGから必要最低限の人員が出社とする方針となった。ジョンとナディラはミッドタウンのホテルへ戻り、ITGの北里さん、S君と私はマジソン・アヴェニューの拠点ビルに宿泊することとした。北里さんはシステム日締め終了後、一旦タクシ―で帰宅を試みたが、既にミッドタウンイーストの39丁目以南は、停電で真っ暗闇となり交通は遮断されて引き返して戻ってきた。風雨も強まりマンハッタンでもダウンタウンや沿岸を走る高速道路FDRなどで浸水が相次いで報告されている状況であった。私は朝が明けた本部IT主管部に状況を連絡し23時頃、ひとまず睡眠を取ろうかとオフィスの小会議室に椅子を連ねて眠ろうと向かった。窓越しには冷たい雨が横殴りの風でぶつかり、部屋自体が非常に寒い。ジャンパーを羽織って眠ろうとしたが、ほとんどよく眠れないまま3時間程粘った。
どうにも居心地が悪いので午前2時半過ぎにあきらめて席に戻ったところ、本部IT部門の統括マネジャーから留守電にメッセージが入っていた。既に後輩が返事をしてくれていたが、ミッドタウンの現地法人ビルが停電となり。拠点ビルも間もなく停電になるのではないかと、時差が真逆で日中帯の東京では、一段と心配を募らせていた。あまり心配されてもこちらは深夜の夜明け前なのだから正直勘弁してくれと気持ちになる。本部の懸念とは裏腹に、拠点ビルはいつもの不夜城のごとく煌々とライトが付いており、PC含めて機器の故障などもみられない。電話及びメールでビル設備に変化がないことを報告する。どうせよく眠れないと思ったその後は、ビルの停電発生がないか、また万一そうなった場合にスタッテン島バックアップサイトに行けるかといった心配もあり、そのまま机でネットの情報を見るなどして夜が明けるのを待った。スタッテン島のへの交通路に関しては、ベラザノナロウ橋も閉鎖となりどうやらアクセス手段が途絶えたようであった。本部では拠点ビル停電かつスタッテンサイトへのアクセス不能というバックアップが効かない事態に対して懸念があがっていた。ベライゾンのWEBサイトによると、NY近郊含めて停電の地域が拡大している。幸いにもビルの窓越しに周辺ミッドタウンのビル群の明かりは特にいつもと変わらず付いている。朝7時前、まだ暗かったが外の様子を見るついでにビル向かいにあるデリカテッセンSimlers(スマイラーズ)で朝食を買い込む。Simlersは前日の昼から3食目となったが、商魂逞しいというか、暴風雨の中で唯一しっかり24時間営業しており、作業員らしき人達で潤っていた。
次の日は、公共交通機関停止の長期化に伴う業務継続の態勢確保に検討の軸足が置かれた。資金決済は引続く先々の予定を洗い出し先日付のメッセージ作成・発信に取組んでいたが、業務全般を長く維持するにはだんだんリモートアクセスでは限界が見えてくる。実際に自宅の停電やネットワークの不具合でリモートアクセスが繋がらない社員が出てきていた。やはり郊外組からの応援を仰がないと業務継続がきつくなるので、3日目出社の足の確保(社用車、自家用車)などの乗り合わせプランの検討が本格化した。こうした横断的な意思決定には、当時はまだ会議機能の電話が限られ、複数関係者間で伝言ゲームになり本当に非効率であった。そうこうしている内に、北里氏はイーストビレッジの自宅周辺で停電・浸水が発生しており帰宅したため、勘定系システムの日締め処理を操作できる人がいなくなってしまったところ、ナイトオペレーターのロスに急遽電話したら、辛うじて回線が繋がった。風雨の中をわざわざブロンクスから自分の車を走らせてたどり着き、快く窮地を救ってくれたのだ。この時は、ロスの精神に本当に感謝の気持ちで一杯だ。一方で、ITと決済インフラにばかり気を取られたが、当局への財務報告は本日提出期限となっていた。流石に広域エマージェンシーの状況下なので、ローカルスタッフがダウンタウンのFEDに連絡するもハリケーンが収まってからでかまわないということで安堵した。NYDFSのダウンタウンオフィスは浸水の影響もあるとはいえ、のんびりしたものでハリケーン後1週間ぐらい閉まっていた。
翌三日目、風雨はすっかり収まったものの、地下鉄・鉄道はまだ復旧作業で、交通は車と一部動き始めたバスに依存した。前日の配車のアレンジ等により、時間は掛ったが郊外組も除々に出社してきた。一方、この日はハリケーンの後遺症が顕在化し、インターネット回線が不通となり外部メールの送受信が出来なくなった。NYの大手回線業者ベライゾンはダウンタウンの拠点で大きな被害を被ったようである。メイン回線のベライゾン、サブ回線のスプリント、続いて午後にはタイムワーナーのWihiまで不通となり、FEDWIREの送金を委託している決済銀行のWeb決済システムが使えなくなってしまった。どうしようか悩んでいると、技術に詳しい、北里氏が提案したホットスポット機能(当時はまだ出始めだったのだ)の活用が役に立った。Facilityにお願いして私の携帯iPhoneに内蔵されたホットスポットをActivateしてもらい食堂のテーブルに置いたところ、2つのラップトップPCから決済銀行のシステムの画面に接続することができ無事に資金決済することができた。この頃丁度、重要なシステムもWebベースが増えており、ネット回線への接続は生命線ということに気付いた。後日、FEDWIRE決済に直接参加している主要米銀では、FEDが委託している回線業者で障害が発生し、ハリケーンにより大量の決済処理が遅滞したそうである。NY周辺にここまで大規模なダメージを与えるハリケーンの北上・通過はこれまでなかったようであり、温暖化や気候変動を確かに裏付けしているのかもしれない。尚、この年で80回目を迎えたRockefeller Center(ロックフェラーセンター)恒例のクリスマスツリーには、NJ州でハリケ(ドイツトウヒという針葉樹24m)が使われ、復興の象徴になってほしいと祈願された。
ハリケーンで被害を受けた北里さんが出勤してきた。East Village Alphabet Avenue (ビレッジのアルファベットアベニュー)に住んで、アメリカ人の妻と暮らす異色の経歴で、大学ではコンピューターグラフィックを研究、最初マスコミに勤め、システム会社に転職してIT技術セールスとして、ロンドン、ニューヨークへと渡ってきた人物である。資金決済の課長キャサリンからアメリカンインディアンみたい、と呼ばれている赤褐色の顔と長髪がトレードマーク、奥様はロシア系の美人。以前、NY郊外パトナム郡の湖畔の別荘に招待されたが、レコードコレクションが壁一面敷き詰められた音響スタジオや、ルーフトップのジャグジーなど如何にも海外ライフを謳歌する別宅に感動した。森の中の湖でみんなで泳ぎ、バーベキュー囲む写真が懐かしい。ただ、その時は彼のイーストビレッジ自宅駐車場で車が浸水など難儀され、ダウンタウン地区は大きな被害を受けたことを物語っていた。ぼくが通勤する地下鉄の1番線の終点はSOUTH FERRYといい、自由の女神へ向かうフェリー乗り場などあるマンハッタン島の先端だが、駅構内が浸水して復旧には1年程を要した。北里さんには、前述の通り、2003年NY大停電によるBCP (business continuity plan)発動時に、スタッテン島のDR(disaster recovery)サイトまで、車で送迎して頂いたことを思い出す。
4. コスモポリタン
年の瀬に向かい、拠点は米国当局に睨みを効かされた監視下に置かれていた。コンプライアンス、内部監査など各領域では、米国銀行の手助けを借りて、同じレベルのポリシー&プロシジャーを作成すべく、大忙しの毎日である。経営はローカル社員の採用に余念がなかったが、米国銀行の手助けもあり、コンプライアンスと内部監査のヘッドに目星をつけていた。コンプライアンスは、黒人女性のセシリア・マイヤーという恰幅のいいおばちゃんである。彼女は前職場の欧州系銀行から、子分の課長を連れて転入してきた。大雑把ながらも米国コンプライアンスの経験は熟しており、当局へも物怖じしない親分肌があるので、これ以上に高望みをして白人系の採用に時間をかけるより、ここで手を打つのが賢明と判断した。当局から刺された、しょぼくれたおっさんがCompliance Officer(コンプライアンスオフィサー)をしているという致命的な事態をなんとしても補修しないことには、改善命令に堪えられないのである。マネーロンダリングはじめ、金融法令遵守の厳格化はとどまるところなく、水も漏らさぬ対応が求められ、実際に巨額の罰金を科された事例も続き、在米の外銀は戦々恐々としていた。同時に当局とのリエゾンとなるのは、第三線とも呼ばれ拠点とは一線を画し独立した監視機能を担う監査人達である。しかし監査室のヘッドをぺレスというアミーゴ的な人の好いプエルトリコ人に任せてしまい、なあなあな骨抜きの監査体制に成り下がってしまっていた。拠点の傀儡組織で道化師となった実態を身ぐるみ剥がされる前に、しっかりした人材を立てなければ、拠点経営を揺るがす死活問題であった。米国銀行側は当局のWASP社会に通じるような白人のヘッドを配していたが、邦銀拠点にとっては、白人の有力者をヘッドハントすることは容易ではない。しかし、ヒスパニック系ながらも非常に沈着冷静な男が名乗り出てきた。マルティネスという内部監査の経歴を積んで南米出身で日本にも滞在したことがある人物であった。初回の面接でマルティネスの洞察力に一目惚れしてしまった。コンプライアンスのマイヤーは時間も掛けられないので多少妥協を含んでいたが、経営層もマルティネス・タランティーノはグッドフィットだという確かな感触をもったのだ。持ち前の慎重さからか人の能力を読む目は鋭かったのだが、米国銀行の連中もマルティネスに関しては、掘り出しもの的な思いで、採用はとんとん拍子に進み、マルティネスの登場は嬉しいことであったが、どうやら、パリッとしたジャケットの着こなしとしなやかな身のこなしからゲイかもしれないという印象も当たっていたことがすぐに分かったのである。
就任後のマルティネスは、各グループのヘッドに新しい監査の手法を説明しながら、各領域の様子をヒアリングすると称して面談を行った。ペレスの体制を刷新すべく、ビジネスとITの両監査ヘッドに自分の片腕となる人物を呼び込み、旧来のスタッフは全員淘汰されてReplacement(入れ替え)されていった。私にも何やら指しで面談がしたいとの依頼があり、狭い個室の会議室にマルティネスが現れたが、丸テーブルを挟んで真向かいに座るかと思いきや、横に寄り添うように座り、自分の内部監査ポリシーとは何たるかを語り始めた。どうやら、アジア人派遣社員を物色するかのようであったが、少なくとも私はあっけなく落選したようである。後から知ったが、私より10歳ほど若くて背の高い美男の派遣社員と、だいぶ後になって赴任してきた私と同年代で太った証券業務の部長がとりわけお気に入りであったらしい。ともあれ、アメリカのいわゆるリベラル系のブルーステイツでは、こうしたマイノリティーの権利は着実に拡大している。当初赴任時にはまだLGBTQ(「Lesbian」「Gay」「Bisexual」「Trans-gender」「Queer」)という用語は広まっておらず、ニューヨーク市のゲイパレード(New York Pride March)、チェルシーやグリニッチビレッジ周辺は自由で開放的な地域として知られていた。エミー賞を受賞したBRAVO大ヒットリアリティショー「QUEER EYE FOR THE STRAIGHT GUY」というTV番組があり、時々見ていたが、5人のゲイ男性グループが、自信を失って悩んでいる人々を魅力的に生まれ変わらせるという演出だった。ファッション系など美的センスを競う業界では、ゲイカルチャーは以前から最先端をリードする原動力だった。2010年代になって同性婚が多くの州や市で認められていき、また世界主要国の大手企業では、LGBTQの権利が社員研修に織り込まれるようになった。ニューヨーク州でも、派遣社員の子供の先生はゲイ、レズビアンであることは珍しくない。先生の妻は男で子供もいるなんてこともあるのだから、職場の上司や部下がゲイだからといって驚くにはあたらない。LGBTパーティも盛んで、ITのローカルによると、ゲイの友人にパーティに来ないかと誘われていったら、ゲルマン系の白人を教祖のように黒人が取り巻くグループの集会だったそうで驚いたといっていた。まあ、若かりし頃ロンドンでも、仲間とクラブに行ったら、いまでいうQueer系の人達貸切でドラッククィーンがいたりして、びっくり一目散に逃げ帰ったこともあった。
海外拠点では、ローカルスタッフの採用には日本の人事部は直接対応できないため、Human Resource(HR:ヒューマン・リソース)と呼ばれる人事グループが採用から、人事管理、給与厚生まですべて担っている。各国での人事・労務の慣行は当然異なるし、地元の人材発掘会社と連携して採用活動を行い、現地の法令に従った報酬(Compensation)、社会保険、所得税などの事務処理を行うには、派遣社員では到底できない。この分野は、コンプライアンスやリーガルと同じく、郷に入っては郷に従えで、プロフェッショナルに任せるのである。特徴的なのは、スタッフのプライベートな内面に触れることが多い業務のため、一般的に女性が多い業務領域であり、代々、HRのヘッドは女性であった。初回赴任時のHRヘッドは、ナタリー・ヘルマンというユダヤ人のおばちゃんで、派遣社員の苦手とする現地採用をいつしか牛耳り、ローカル社員の給与削減には岩盤のように抵抗していた。リーマンショックで拠点経営が窮地に陥ると、コストカッターと化していた経営層は、このHRに容赦なく切り込みを入れ、ナタリーヘルマンをじわじわとレイオフに追い込んだ。ナタリー・ヘルマンもしたたかなもので、腹いせに過去の人事ファイルをすべて削除していなくなった。欧米では解雇する場合、直前まで知らせずに当日の朝通知して、私物以外は、一切会社の備品に触れさせずに社外に追い出すのが通例である。その訳は、円満退社でない限り、もう知ったことではないとか、会社に不利益を被らせてやれなどとの悪意が働き、被害を及ぼされる可能性を防止するのである。ナタリーは、数か月前から自分に対する日本人経営層からの風当たりを感じていたので、用意周到に喧嘩別れの構えを取り、差別的な待遇による不当解雇だとして慰謝料の請求訴訟を起こした。このようなことは、訴訟社会の米国では頻繁に行われている。会社側も縺れないよう、リーガル部署で労働法専門の弁護士事務所とタッグを組み、いくらか和解金を支払って表沙汰にせず示談にするのが一般的である。その後は、HR担当のローカル課長は置かずに、派遣社員の総務課長を兼務にさせて、僅からながらナタリーのお陰で維持していた現地社員の自治を骨抜きにしたため、拠点運営の現地化は退行した。ますます、派遣社員中心で物事は進み、現地社員の大方は作業員となり弱体化が加速、当時既に米国銀行をやり玉に虐めていた米国当局の方針から大きく逸脱することとなった。
そのうち、HRのスタッフとして採用され、いつしかのし上ってきたのは、ペアトリス・ゴメスというヒスパニック系のおばちゃんだった。コスト削減で派遣社員も減り、派遣はローカルの採用や人事までは忙しさでとても監督できる余裕などなくなっていた。現地採用や給与管理は、経験あるスタッフに任せざるを得ない状況に早々に陥り、実務は相応に分かっているかのように振る舞うことで、ペアトリスは自分の存在は過大に評価してもらうことができた。ましてや、ライン部長が人事グループ含めて所管も広がり手が回らない状況を逆手に、自己主張の強いペアトリスは一層頭角を現し始めた。初老に差し掛かっていたペアトリスは厚化粧で隠し、若い部下の女性スタッフを仕切りはじめ、私がすべてを纏めているのよと、ヘッドに無理やりのし上げることを暗に要求した。ペアトリスは管理職の器ではないにも拘わらず、上司の面倒なエリアを逆手に、ナタリーの後に数年空席が続いていたHRヘッドのポジションを獲得してしまったのである。監査室のぺレスもそうだが、なるべき資質のない人物を、不相応なポジションに付けるのは組織としては痛手である。以上はたとえ話だが、在米外資企業にとって、有能な現地社員を如何に獲得することほど、ビジネス拡充の大きな鍵を握ることはない。
組織の人間模様はこれくらいにして、Cosmopolitanism(コスモポリタニズム/世界市民主義)の理想を目指していた自分に、いかに偏見や先入観が纏わりついているかに気付く。アレキサンダー大王が大遠征中のペルシャで出会ったディオゲネスが、初めて唱えた国家や民族の枠に囚われない考え方。そんな大それた思想ではないが、異民族の分け隔てなさを体現するには、マンハッタンはうってつけの実験場である。例えば、日本やイギリスの島国とは違い、奥ゆかしい(Elegant, Modet, Graceful) といった情緒は育ちにくい気がする。些細な事だが、生粋のアジア人なのに、街を歩いていると、通りすがりの人からよく道を聞かれた(いまでは、スマホのGoogle Mapで、激減しているかもしれない)。咄嗟に声を掛けられて、思わず知ったかぶりで、間違った方角を案内をして、「あー、しまった」と気づくも既に相手は遠のき、恥ずかしい自責の念も儘あった。店員に間違えられたことも多く、SHIMSというアウトレットストア(もうないみたい)、ユニオンスクエアのABC Carpet & Homeという骨董家具屋、オフィスのビルに隣接していた英国のシャツ屋さんPinkなど。まあ、見境のない人達が寄り集まっている世界は満更ではない、と前向きに捉えていた。まだ30代前半の頃、JFK空港とのエアポート・リムジンの車中、黒人女性の車掌から切符の検札で「Hey, Baby~」と呼びかけられたことがあった。あれ、俺はベイビーってなに・・、高校生とでも思われたのかと不意に怪訝に感じる。たんにカジュアルなノリなのか、概して日本人は若く見られるからか、多分にご愛嬌表現らしいので、ポジティブに解釈する。
冬の凍てつく寒さがやって来るとストリートにあるマンホールに置かれた紅白の煙突(スチームパイプ)から白い煙がモクモクと上がっているのは、マンハッタンの風物詩といえる。なんだろうと長年ぼんやり思っていたが、地下を巡るパイプを流れている水蒸気で、各ビルの配管を通ってマンション・ビル室内に供給されており、1871年から100年以上続いている伝統的な暖房システムなのだそうだ。石油やガスより安価で環境にやさしいため、現代になって再評価されており、マンハッタンの道路は寒波でも凍結に強く、大雪でも溶けるので除雪しやすい画期的なスチームシステムだとは知らなかった。ウエストチェスターなど郊外に住む派遣社員は、よく冬の暖房費がかさむとよく言っていたが、マンハッタンに住み駐在員にとっては光熱費が掛からず、氷点下でも室内で半袖・短パンで過ごせるという人がいるのは、このマンハッタン特有の暖房のお陰であった。
アメリカが、クリスマスの飾りつけで彩られるのは、サンクスギビングの祝日の後からである。ヨーロッパに比べてキリスト教系の祝日を設けていないのと同様に、特に他宗教に配慮して俗にHoliday season(ホリデーシーズン)と呼び、12月に入るとオフィスの気分はなんとなく年末に向かい休みモードとなり、現地社員は年内に残存する有給休暇を消化しようとする。駐在員の労務管理の基本としては、各仕事を正副で担当するスタッフの休暇が重ならないよう事前によく言い聞かせておくことである。一回目の赴任当時は、特に現地社員の多いグループでは、クリスマスツリーや様々な飾りつけがなされて、本場欧米のクリスマスシーズンをオフィスでも味わえたが、経営陣がリーマンショックによる経費圧縮のため、ローカルヘッドを解雇し、職場のゆとりを嫌い、風紀委員のような取り締まりを行った頃から、飾りつけはめっきり減ってしまい、日本の素っ気ないオフィスに戻ってしまっていた。遊び心もなくなり、加えて米国当局から「おとりつぶし」をちらつかされているので、なんとも殺伐としたホリデーシーズンとなった。
余談ながら、Christmas TIp(クリスマスチップ)は、マンハッタンのドアマン付きマンションに住んでいると恒例行事で、マンションのスタッフ一同(ドアマン、コンシェルジュ、ハンディ―マン、お掃除のスタッフ、セキュリティーと呼ばれるデリバリーが来た時に怪しい人物でないかをチェックする係まで、どこまで渡すかは人に拠るが、大型マンションでは40人ものスタッフ一覧の冊子が配られる。スーパーと呼ばれる管理人Superintendent (スーパーインテンデント)はそのトップに位置して偉い方なので、最大額のチップを渡さないと、いやがらせされるという噂もあったりする。そこで、慣れない日本人駐在員たちは妻と家計を相談したり、友人にそれとなく聞いたりとクリスマス前はなんとも悩ましい時期でもある。私は、だいたい20ドルから30ドル一律、スーパーには70ドルぐらい渡していたが、トランププレイスのように40人近いスタッフだと、総額700~800ドルになっていた。でも、普段対面するドアマンやコンシェルジュに渡して、裏方でお掃除してくれている方に渡さないのは不公平であるなど、妻は生真面目なので、全員に渡すべきであるとの結論に達した。余談であるが、小さなチップ用の封筒があり、現金でもよいのだが、現金だと誰かに搾取されることがあってはならないと思い立ち、途中から一人一人記名式の小切手にしていた。そうすると、銀行のステートメントで実際に受取人に引き落とされたかが分かるので、公明正大であった。引き落とされずじまいの人は一人ぐらいいたかいないかで、きっちり渡ったことを確認できていたが、駐在中に二回ほど、夏ぐらいになってから二重引き落としされているケースを妻が見つけて、銀行にクレームに行ったことがあった。几帳面な妻が確認しなければ、少額なので多々の明細に紛れて気付かずにいたであろう。日本の銀行であれば、顧客のクレームとして非常に重大なミスとなるはずだが、そこは大雑把なアメリカ、担当者は「おかしいですね。こんなことはありえないのですが」といってしばらく待たされたあげく「事務センターがフロリダにあるので、原因はよくわかりませんが、訂正しておきましたので」と、ご迷惑をおかけして申し訳ありませんとのお詫びの姿勢もなく、私にあれこれ言われましても私のせいではありません、と開き直った感じであしらわれた。日本であれば、陳謝と粗品の一つも渡されるのであるが、さすがアメリカン、大した金額でもなし修正したのでいいでしょうと、素っ気なさに苦笑いするばかり。僕もどんぶり勘定の性格なので、その取るに足らない出来事だろうという点、大いに賛同し、少々文句は吐いたが、あっさり引き返した。
12月後半の日本企業といえば、年末の支度や忘年会であるが、欧米では仕事のペースも緩く、Holiday Party/Gift(ホリデーパーティとホリデーギフト)のシーズンとなる。アメリカはメガトン級の大量消費社会であるが、日本のように食料品の中元や歳暮を贈り合うことはないが、相手の好みによらず衣類や置物など多様な品を贈り合うことになる。いづれにしてもギフトは資源の無駄を算出しつつ、日本と違うところは、いったん買ったものでも返品の制度がおおらかで、気に入らなかったり、サイズが合わなければ、店によっては数か月後でも返品可能というリターンポリシーがあるのにはびっくりする。なので、近年は贈りものに返品の際に証明できるレシートを付けて、気に入らなかったらどうぞ気にせず返品してねという送り方するとも聞いて更にびっくりだった。そんなのであれば、はじめから買わなければよいのに、配送トラックのコストや環境汚染など考えられていない。かく言う私も、イケアでソファチェアを買ったのだが、HSPの妻が化学繊維の匂いが気になると言い出して、ミニバンをレンタルしてブルックリンまで返品しに行った苦い経験あり。二人でソファチェアをイケアの返品デスクまで引きづり運び込み、どうなるかと思ったが、割り引かれたものの商品券と交換してくれた。まあ、日本のような中元・歳暮の凄まじい贈答も良くない、なんでもデリバリーで宅配トラック、しかもクール宅急便など、せまい住宅地に夜遅くまで徘徊する社会は如何なものか。そんな安易なデリバリーなどに依存せずに、歩いて買いに行ける健常な人なら、昔ながらに手にもって自分で運べば、梱包の段ボールやプラスティックの廃棄物と交通量、運送による排気ガスも減るはずなのに。マスコミ含めてセルサイドとの利害関係にまみれているためか、そうした視点を語る人は少ないのが悲しい。
狭いマンハッタンでも以前に増して自転車でストリートを疾走するデリバリースタッフが増えたし、ウーバーイーツやアマゾンの出現でさらに加速している。日本ほど賞味期限に厳しくないので、食料品の余剰量は若干少ないかもしれないが、それでも大量廃棄は大差ないであろう。特に西海岸の大学では、ダンプスター・ダイビング(Dumpster Diving)といって、食料品店やスーパーのゴミ箱からまだ食べられるものを拾うサークルまである。仮に違であっても承知の上で、Food Loss (フードロス)を防ぐため、大量消費社会に憤りを感じた人々がエコ活動として行っている。生きるためにするゴミ漁りでなければ、そこまでする気概を持つことは難しいが、食料廃棄の現状を社会に伝え警鐘を鳴らしている人たちがいる。然りながら、私たちも大量ではないにしろどっぷり消費と廃棄の連鎖に加担している。なかなか認知されないが、フードロス以上にひどく悪化しているのが、Clothing Loss (衣服ロス)だという。ファストファッションで大量供給に歯止めがかからず、世界中で必要数の2倍以上が生産され、半分以上が廃棄されているという。その廃棄物は、先進国からアジア・アフリカに輸送され、ゴミの山と環境汚染をを作り出している。マンハッタンのコンドミニアムでは、各階の廊下にGarbage shoot(ガーベッジ・シュート)というゴミ捨ての投入口があり、可燃ごみはそこに放り込めば、1階のゴミ集積所に滑り落ちていく仕組みになっている。ゴミ回収のスタッフが整理・分別してくれていて、回収日を考えずに毎日気の向いた時に捨てられるという、入居者には極めて便利な装置だ。ただ、どれほど管理人さんやクリーニング・スタッフが大変な仕事を担っているかと想像するに、薄っすら罪悪感を抱くばかり。
最初に赴任して数年間、クリスマスイブの静けさが街を覆いつくす深夜に、アッパーイーストのパークアベニューにあるSt. Ignatius de Loyola church (イグナチオ・ロヨラ教会)のミサに行っていた。さすがにニューヨークで名だたる高級住宅地の教会であり、荘厳な建築様式の中で、聖歌隊のコーラス、オルガンでミサ曲が奏でて、典礼という福音の朗読後、司祭の厳かな説教に耳を傾ける。しかし、ここに集まっているのは、概してリッチな階層の人々で、スノッブな夜会を思わせる雰囲気の恵まれた特殊空間であった。全世界で二極化、貧富の格差は拡大の一途をたどり、上位1%の富裕層がアメリカ総資産の3割を占めると言われている。場違いなハイソの教会ミサに参列した私たちは複雑な心境であり、何もできない非力さと軽薄さを告白し、祈りを捧げるだけであった。
5. 甘い追憶の日々
そんな年の瀬に、初回赴任の若かりし頃に、送金課に配属されて一緒だったジョン・オルカス氏の退職セレモニーが開かれた。イタリアとスイス人の血を引く南欧ヨーロッパ系で昔から若く見えるナイスガイのおじさん。退職後はどうするのかと聞いたら、2人の孫と一緒にゆっくり暮らすのがとても楽しみと家族を大切にする優しい性格がにじみ出ていた。ぼくも29歳で赴任したてのころ、キャサリンという当代で有名なローカル課長の下で、ファミリーのようないわば研修生活となり、ジョンには本当にお世話になった。当時の資金送金課は、長年に亘りキャサリン配下のローカルに任せられていて、その実態を解明すべしという隠密の特命事項を仰せつかっていた。私が赴任した際は、前任者の交代まで半年の重複期間が出来て、転入者にそうした研修を兼ねた特命を与える余裕があったのかもしれないが、海外赴任で様々な人種のるつぼを満喫し現地社員との交流を望んでいた私にとっては申し分ない配属だった。小さな海外拠点の規模では、ディーリングルームやIT、総務企画など部署によっては折角の海外勤務なのに、日本人主体のやり取りで日々の業務が済んでしまう部署も多くある。ディーリングルームは事務のアシスタントが現地社員だが、もっぱら取引執行は外資のジャパンデスクに日本人がいるし、マーケット動向を議論する会議も日本人どうしで運営されていたので、英語もさして上達せず、ほぼ日本と変わり映えのしない仕事になってしまうのであった。それに比べて、管理部門のバックオフィスは派遣社員の配属は限られ、周りはみな現地社員という環境なので、拠点の中では最も外国度が高い空間であり、そうした中では、様子の良く分からない派遣社員からは、大変だね、独りでよくやっているねと、若手にとっては評価を得やすいポジションである。1990年代までは大らかな時代であり、邦銀の小さな拠点で白人女性課長のキャサリンの存在は珍しく際立っていた。一方で、派遣社員が介入できない小国家が築かれ、ユニークな外人部隊による楽園が出来上がっていた。私はその楽園に10年ぶりの配属社員として正式に飛び込んだので、彼等の興味の的であったかもしれず、大いに可愛がられたのは今思えば本当に光栄で嬉しい体験だった。
キャサリンの右腕というか用心棒としてナンバー2の地位を占めるのはジェイソン・ブレディーというアイリッシュ系の太ったおっさんだった。愛嬌のある巨漢でお腹周りに英語のスラングでいうPot belly, Spare tireのスラング表現そのもの。キャサリンもアイリッシュとデニッシュの家系で、ニュージャージーに住んでいる二人は毎朝一緒に通勤する間柄で、会社ビルの前にあったPalladium Cafe(2010年頃閉店)で朝食を買っている姿を見かける。30代成り立ての僕とっては、仲の良い上司部下というよりある種の大人のカップルに近く、アウェイの日本の会社で働く戦友だろうって察するには人生経験が浅すぎた。キャサリンとジェイソンはNew Jersey(ニュージャージー州)に住んでいて、送金課の面々でホームパーティに招待されたことがあった。小じゃれた郊外の家には玄関に至るまで花が飾られて、おしゃれに訪問客を歓迎する演出がなされていた。大人一人で住んでいるには家族向けの一戸建てで「American Beauty (アメリカン・ビューティ)」という映画に出てくるような典型的アメリカンな芝生とバックヤードが充実したきれいな住宅である。私たち夫婦が訪ねた時には、既に何人か集まっておしゃべりをしている。ファニーはエクアドル出身の若い女性であったが、小さな子供を3人連れてきてソファーの周りで子供が駆け回っている。アメリカンフードはケータリングだろうか、ケーキ・アイスのデザートが色とりどりにテーブルに並び、カントリーウエスタン風な中年男性が居るのだが、どうやらキャサリンの元カレらしく、ジェイソンも来ていて、互いに親密な友達のように語らい笑っていたので、比較して若年の私には、読み込めない大人の友人関係なのだろう。ジェイソンは、派遣社員の私がオフィスに一人残って仕事に忙殺されていると、いつも「Go home, bady!」と優しい気遣いの声をかけてくれたのを思い出す。残業体質の日本人を奇妙に思っていただろうが、本当に心温まる情景が偲ばれる。
キャサリンファミリーのナンバースリーが、先に述べた温和なジョン・オスカルである。いつも実直な仕事ぶりで、ナビカという黒人とインド系の混血と思われる南アメリカの小国ガイアナ出身の女性と一緒に新参者の私の先生になって、いつも送金事務システムある隔離された小部屋で丁寧に決済事務を教えてくれた。旦那はパラメディック、日本語でいう救急救命医療士だそうで、いつも優秀なお嬢さんの話を聞くと、楽しそうに話してくれていた。キャサリン・ファミリーのエンターティナーは、ホセというプエルトリコ出身の飄々としたヒスパニックの兄さんで当時40歳ぐらいだったろうか、英語ですべては聞き取れなかったが、日々の会話がコミカルな漫才のように展開して、職場というよりは、笑いが絶えない喜劇の舞台であった。ホセがツッコミだとすると、ボケ役がシモン・レスターというスコティッシュ。シモンは少し吃音があり、足を引きずるなど、障害者認定で採用されていたが、ホセとの掛け合い漫才やジェイソンからお叱りを受けるなど、周りを和ませる弱者キャラクターであった。ここにコロンビア出身の若い小柄なヒスパニックと中国系の女性ミリーは、いつもホセのことをCuckoo クックー(頭のおかしい人)と呼んでクスクス笑っていた。エクアドル出身で小柄な美形ファニー、黒人の恰幅のいい大おばさんロバータ、黒人で中太り中背のジェシー、ヒスパニックのおばちゃんカルメンが加わり、まさに拠点の片隅にある送金課は人種のるつぼ、異文明の混じり合う十字路であった。
赴任した夏から秋になり、10月に入るとHalloween(ハロウィーン)のお化けやカボチャの飾りつけでニューヨークの街角も彩られてくる。日本の緑のカボチャとは全く異なり、オレンジで巨大なパンプキンは秋の深まる季節を彩る飾りつけ。当時は会社も緩やかな楽しさが許容された良い時代で、一部のローカル社員が多い部署は巷と同じようにハロウィーン装飾がなされていた。近くのマジソン街ミッドタウンの一角にホールマークという文房具と装飾品の店があり、送金課ではたまにホールマークにおいてあるアイスクリームケーキを買ったりしていた。キャサリン率いる送金課はハイスクールの教室のようにオレンジ、白、黒の装飾グッズで演出され始め、10/31の当日はケーキを買って恒例の持ち寄りパーティ(Potluck Party)をやろうということになった。しかも衣装は黒に統一しようということで、僕も唯一持っていた黒のシャツでばっちり出社したら、本当に送金課メンバーみんな黒づくめで出社。ホぜ、ラッセル、ミリーのお笑い劇も始まり、資金決済の仕事はほどほどにこなし、アメリカの超甘い特大ケーキを切って、みんなでHalloweenの記念撮影。ほんとに真っ黒な姿だが、一堂に会した黒装束の写真はいつまでも懐かしい思い出の写像である。外資企業の学生インターンで入ったように、可愛がられたことは感謝しきれない。
その手ぬるい愉快な仲間に半年余り可愛がってもらった後、マーケット取引のバック処理を担当するトレジャリーの補佐となった。ヘッドのパット・ウェバー氏は、ドイツ系アメリカ人で元々は海兵隊に入り滑走路で飛行機を誘導する係であったが、在米の欧州銀行に転職し金融マーケットの事務をたたき上げで身に付けた人物であった。赴任前に先輩から軍隊上がりだから規律に厳しいと聞いていたが、そんなことはなくキャサリンやジェイソンと同様、むしれ息子に近い私には、英語の拙い気を配りながら、とても親切に接してくれた。私の英語が曲がりなりにもローカル社員と闊達な議論できるようになるまで、3年程かかったが、パットのおしゃべりのおかげである。アメリカに赴任すればみんな着実に習得してペラペラになると純ジャパニーズの人々は思うけれど、実際には幻想だということが現地で自覚する。赴任前TOEIC800点程度あったし、幸いローカル社員ばかりの部署に配属されたから、自然と上達するだろと私も淡い期待をしていたが、自分の中で1~2年は非常に葛藤した。片言の英語で業務の指示や質問に応えることはよくても、込み入った話を議論するには文章が頭の中で組み立てるのに苦戦した。また初期段階では、会話のキャッチボールが続かず、言われた内容(ボール)の解釈がおぼつかず、ラリーが上手く続かない。よく早口のキャサリンに付いていけず、「DRIFTINGしてたでしょう~ 」つまり、私の言ったことが分からずにまどろんでいたわね。ついつい、特に日本人は「分からないので、もう一度話してくれますか」と言うのが恥ずかしいから、分からずじまいで会話を流してしまうことが多い。
隣席のパットとは、コンパートメント座席のパーティション越しに、いつもカジュアルなおしゃべりをしてくれていたが、当の私は申し訳ないことに半分以上、聞き流していた。英語能力以前に、仕事能力というべきか、私には元々素質があったのか、重要か些末な事かを感知して仕訳するセンサー機能の方が鋭敏に発達していった。自分のキャパシティが限られているせいだろうか、すべてを吸収することが出来ない代わりに、重要か否かを瞬時に選りすぐり、どうでもよいことは流してしまう、仕事の強みはメリハリ。一方で、むしろ日常会話的おしゃべりや映画でスラングも飛び交うラリーは相当難しい。パットは、Long Island(ロングアイランド)のナッソー郡に住んでいて、地元の消防団に属していることが自慢だった。アメリカの地域自治体は、消防を専任職員だけではなく、ボランティアの住民を募って運営しているところが多いそうで、ロングアイランドまで、消防団の訓練ショーがあるので、見に来なさいと誘われたので、Pennnsylvania station(ペンシルバニアステーション)からLong Island Railroad =LIR (ロングアイランド・レイル・ロード)の列車で行ったことがある。気の良いおじさんであったが、消防の訓練があるといって、16時過ぎに帰ってしまったり、けっこう好きなように日本の在米拠点の緩いローカル課長のポジションを利用していたので、後半は時折嫌悪感を抱いたりしたことは若気の至り、悔やまれる。ちなみに、ロングアイランドは、素敵なビーチリゾートが多いのと、ニューヨークのワイン産地として有名なので、ワイナリー・ツアーも充実している。Jones beach(ジョーンズ・ビーチ)は、野外シアターのライブが大人気で、Aerosmith、Shakiraのパフォーマンスは絶賛。ブルックリンに最も近い、Long beach (ロング・ビーチ)は、、LIRの列車でも1時間程で、駅降りたら直接ボードウォークのあるビーチにアクセスできる。トップレス女性にたまに遭遇するため、妻と一緒にいると目のやり場に困ったが、いまは果たしてどうだろう。
私のオフィスは、私以外は多種多様な国籍のローカル社員であり、ディーリングの不正操作を防ぐために、ガラス張りの部屋で隔離されていたので、派遣社員からは「動物園みたい・・」、素性を知らない者からはいつしか、「猛獣使い」と呼ばれていたようだ。日本の堅苦しさを逸脱していて、当時は監視も薄かったので、現地社員たちは自由な働き方ができた。先に書いたハロウィーンパーティのみならず、サンクスギビングにターキーを持ち寄り、クリスマスには丸焼きのチキンを持ち寄るなど、出産のスタッフへのベビーシャワーなど、こじんまりした会議スペースで、誰かしらの発案でポットラックパーティを催された。為替取引の担当でやとった、中米コスタリカ移民のキャシアというお姉ちゃんは、ある時、来週は自分の入社1周年記念日だから、あるいは誕生日なのと、なんとも自ら理由づけて、しかも朝方のモーニングパーティを企画して、パットや私もまあ止めろとも言い難く看過していたら、拠点長にまで無邪気なお誘いの電話を掛けてしまった。彼はなんのことやら、朝からパーティに出てくれと言われたけど、いったい何のことかね、業務中ではないのか、と私に詰問してこられ、苦し紛れに弁明した。その後も、パーティの募金を他部署の同僚も巻き込んでやっていたが、お金を渡した、渡さない?といった揉め事も発生。天真爛漫さをかばってもいられなくなった頃に、航空機ファイナンス破綻をトリガーとした人員削減があり、やむなくというか、元々事務員としては雑でミスも引き起こしていたため、あっさり削減対象となり解雇となってしまった。いまとなっては、コンプライアンスうんぬんといわれて目を付けられるが、当時はLottery(宝くじ)をみんなでお金を集めて買ったり、アメリカンフットボールのBookmaker(賭け)も支店の仲間でシーズンになると毎週$10ずつ出資して楽しんでいた。 私も1回大当たりで$100もらったことがある。金融業の風紀を乱すと捉えられたか、二回目の赴任では跡形もなく消えていたが、面白味のない世の中になったと嘆く。
それにしても、なんと愛おしく甘美な時代だったのだろうか。J・K・ローリング氏のハリー・ポッター・シリーズのある場面を思い浮かべる。ホグワーツ魔法学校のアルバス・ダンブルドア校長室には、ペンシーブ(憂いの篩)という記憶を溜める水がめが置かれている。それは、考えや思い出を銀色の物質にして保存したり、再現したりできる魔法の道具で、水盆の中に入りこんで記憶を見ることができる。また、砂金取りが篩(ふるい)を濯いで(すすいで)金を見つけるように『憂いの篩』の中身を揺すると過去の人が銀色の姿で現れ、思い出を語りだす。アルバス・ダンブルドア校長は、メモ代わりに記憶をこのペンシーブに保存して、ハリー・ポッターへの個人教授に度々使っていた。当時の仲間たちは、ハリー・ポッターの魔法界を彷彿させる個性派ぞろいで、コミカルな名場面を回想する。
パット、キャサリン、ジェイソンとは、会社ビルのすぐ近く、マジソンアベニューとパークアベニューの「Bills(ビルズ)」という老舗のアイリッシュパブがあり、キャッシュバーで一杯やったり、3階のフロアでパーティに誘われたりした。パブ専属のピアノ奏者は、日本人が来ると、坂本九の「上を向いて歩こう」など、気を利かせて日本のナンバーを演奏してくれた。何かの記念日や来客があれば、これも拠点近所のイタリアンレストランの「Cellini チェリーニ」でランチ、キャサリンは昼からお酒一杯という時もあり、日本人であれば就業規則の昼休み1時間を大きく超えるのは憚られるが、そこはお構いなしで悠然としたものだった。やせ型で金髪ソバージュ、赤のスーツに身を包み光り物を纏う派手な格好は、ひと際目立っていたが、たまにガチでハグされる私は気恥ずかしくどうにも身を任せるしかなかった。ジェイソンはパスタにパルメザンチーズをたっぷり山盛りにかけて食べていた。俺は「パルメザン・ジャンキーなのだ」と、よく言っていたのを思い出す。彼ら楽しい仲間の絆は強く、Queens 地区Rego Parkで行われたミリーの結婚式でみんなで踊ったり(こちらのWeddingはDance Timeあり)、New Jerseyのシモンの結婚式に行ったり、キャサリンのお父さん90歳の誕生パーティでは、ロングアイランドのBathpage State Park Golf Course (NYの名門ゴルフ・コース)に集結した。はたまた、ブルックリンに住むホセやブルースの親の葬儀に行ったり、家族のような連帯感があった。 ニューヨークで職場の仲間たちと過ごした場面は、時空のどこかで紡がれていたショーケースの一遍として永遠に大切する私の宝である。人生の至宝とは、そういう生きたFootprint(足跡)の余韻を味わうことに尽きるかもしれない。
遠のく日々の追想に、アメリカ大陸ドライブの懐メロ/サウンドトラックから一曲、ユーミンのHello MY Friendを聴くに自然と泣けてくる。
海外業務に勇んで間もない頃、楽しい仲間と過ごした秋から冬にかけて、真面目に取り組んだ事案があった。なんとも、事実は小説より奇なりと言うのは大げさだが、あたかも経済小説のような筋書きをたどるような展開に、不思議な感覚を覚えた次第。当時ニューヨーク拠点ではリテールビジネスは行っていないが、20年ほど前から南米で活動してるある神父の個人口座が密かに存在していた。その口座は1) 数社への小切手振出しによる引落とし、 2) ボリビアから小切手送付による入金依頼、3)神父が運営する慈善団体の東京後援会からの送金による入金等で、度々資金が異動していたのである。研修を始めてしばらくしたある日、ふとボリビアから入金を依頼する小切手が送られてきた。同封の手紙には入金と共に、別人もサイナーにしてほしい旨の依頼が書かれていた。個人口座は別の睡眠口座と当口座の2件だけで、共同名義などのサービスは勿論行っていない。前任者に聞くと、以前も小切手の送付を受けたことがあり、派遣社員が場当たり的に対処してきた歴史があるようだった。私は、早速この例外取引見直しに着手したが、過去の資料も定かでなく、やはり他社への移管や廃止が適切と判断した。 国境を跨ぐ取引には資金使途・業務内容など法令に基づく確認義務が厳しく求められている。意を決してボリビアの口座の代表名義である神父へ直接電話をかけて、共同口座は出来ないこと、上記の理由から他銀行に移管してほしい旨をお願いした。フォローの電話にて移管の検討につき伺う。現地の支店を通じ、南米ビジネスを手広く行っている他行に移管することで御了承頂いた。ただ、Money Laundering(マネー・ロンダリング)の観点から、小切手の支払企業の業態につき伺ったが、回答は得られなかった。しかし懸念となったのは、同神父が経済界の有力者と密接に関係し、慈善団体に多額の寄付を募るなどの影響力があり、本部の企画部署にはあらぬ心配を巻き起こしたようである。一方、法令遵守の観点から、資金移動と小切手支払先について照会を進める。同代表は親族を通じ、地場の公認両替商でUSD小切手を現地通貨に換金していた。更に換金時には、支払先を空欄にして売却しており、どのように支払先の名前があまり認知せず、事業面・個人的にも繋がりがないとのことであった。追って入手した情報で、受取人の企業は弟の経営する鉱石検品会社、及びウルグアイ両替商と判明した。
実態調査と口座移管の過程にあった年の暮れに年次検査が開始され、なんとも奇遇なことにこれまで聞かれたことのなかった当該口座の概要につき説明を求められた。折しも今回はFRB検査チームに配属されたLaw enforcement officer (法令遵守専門官)が強い関心を寄せ、過去の経緯・記録の提出要請を受ける。なんと私と神父の電話交信の録音テープも押収された。コンプライアンスをめぐる議論の結果、同氏が受取人・資金使途について詳しく認識しない取引行為は悪用される恐れもあり、「Suspicious Activities (疑わしい取引)」に認定しないならば、法令違反であると主張。当方は、口座が日本での募金を取り寄せ、ボリビアでの慈善活動に充当しているだけ(博愛事業)で該当しないと反論するも、理解が得られなかった。一連の騒動と張りつめた緊張感の中、私はある現地大手銀行の中米室に伺い移管の準備を進めた。12月半ば、同氏からようやく口座移管の連絡有り。年明けに漸く同氏の振出した小切手が決済され新口座へ残高を移転し、当店口座の解約が辛うじて終了した。中南米では外国銀行の小切手の売買は公式には禁止されており、中央銀行の許可が必要とのこと。しかし、実際には日常茶飯事に売買が行われて、大蔵省公認の両替商で違法とする外貨小切手が売買されているのが実態。南米諸国は以前からインフレが激しく、為替相場は公定と市場で2倍もの開きがあり、駐在員は給料等を国外でドルにて受取、外貨小切手を市場で現地通貨に換金するのが通例であった。直接ドルをボリビアに送金すると公定相場で交換され価値が低くなってしまうという事情がある。同口座は慈善事業への寄付金の受渡口座となっていたわけだが、同慈善団体の法人格書類等が確認できなかったため、個人での開設に至ったと推測される。いわゆる若気の至り、肩を撫で下ろす。
6. 金融/税務の虚像
ニューヨークの緯度は青森と同じくらいで、僕の故郷よりも少し低く、冬の寒さを比べるにはいささか比較し難い部分がある。それは島国の日本と広大なアメリカ大陸の違いであろう。故郷は押しなべて寒く雪も降りしきるが、アメリカは大陸性に特有の揺らぎがあるようだ。寒い時は急激に冷え込むが、暖冬で暖かくなる時のブレが大きい。ただ総じて地球の気候変動は激しくなっているせいか、2000年代前半の一回目の赴任と比べて、2010年代中盤の2回目の赴任の方が、寒暖差が極端になってきた感じがした。一回目の赴任時にも2003、2004年頃の冬はハドソン川が凍結するほどの寒波があり、でも妻と二人若かったので、雪降る郊外の山間に軽装でドライブに繰り出す。Hadoson Valley(ハドソン渓谷)沿いで行きつけだったCold Spring(コールド・スプリング)というAntique shop(骨董店)で有名な洒落た田舎町。流氷が覆うハドソン河畔をもろともせずに散策していた。生まれ育った北海道とアメリカは成り立ち自体が似通っており、原住民との移民の痛ましい歴史、荒れた原野を開拓していった人々の苦難が根底にある。西部開拓時代のインディアン虐殺と和人が侵略する北海道アイヌの血生ぐさい歴史が重なり合う。一方で、アメリカ大陸のある種のおおらかさ、細かいことにとらわれないアバウトさ、既成観念に反発する精神に惹かれる。僕の生まれた北の大地に渡ってきた先祖伝来の血筋とシンクロしてか、非常に親近感があった。
今回は2015、2016年にそれ以上の寒波が到来し、華氏0度、摂氏マイナス18度を記録したが、その記録的な寒さでもハーフコートで過ごしていた私は流石に中年期に入り体力が低下している自覚が甘かったのであろう、初めてインフルエンザらしきものに罹った。ミッドタウンにある音楽の殿堂カーネギーホールに、Berliner Philharmoniker(ベルリンフィル・ハーモニー)の演奏を聴きにいったが、楽しんでいる妻の横で、私は悪寒でガクガク震えていた。その後、まだ大丈夫だといいって、Sarabeth kitchen(サラベス・キッチン)という有名なブランチ・レストランに入って、オニオングラタンスープと勘違いしてチキンポットパイを頼んでいたが、急上昇する熱のせいで、椅子から転げ落ちそうになっていた。あとで、妻との会話で気付いたが、その1週間前にケイマン諸島の子会社から来た出張者が、インフルエンザのため来るのが遅れたと話していて、狭い会議室で対面打合せしていたこと。加えて、マイナス摂氏18度=華氏0度(私のNY在住最低気温)の凍てつく厳寒の日に、若くないのにジーンズ&薄いハーフコートの軽装で、休日出勤していたことなどが身体に直撃したのかもれない。掛かりつけのホームドクターから、咳止めに子供の頃出されたようなピンクの液体を処方された。ネットで調べてみると、コデインリン酸という強い咳止め薬で、古くから広く用いられてるとある。一方で、アメリカでは麻薬(麻薬系弱オピオイド)として人気があり、裏売買されているとある。Morphine(モルヒネ)は有名だが、医療行為の薬物と世の中で取り締まれれている麻薬は表裏一体なんですね。コデインはモルヒネに比べて、痛み止めとしての効果は1/6、眠気は1/4程度。一方で、咳止めとしての効果はモルヒネより強いほか、依存性も低いため、規制がされていない。いずれにせよ、濃厚なショッキングピンクの液体を飲む気は失せた。一つ不思議なこととしては、私が高熱でゲホゲホしまくっていたのに、体の弱い妻は、インフルエンザには罹らなかった。
二度目の赴任中、妻は人付き合いも限定し、芸術愛好家としてLincoln Center(リンカーン・センター)でクラシック・コンサートに足しげく通い、セントラルパークやニューイングランドの四季を写真に収めることをもっぱらの楽しみにしていた。彼女は薄いコートで、冬のセントラルパークの雪景色と凍り付いた湖面を撮影。その時は、カメラマン気分でナチュラルハイだったが、真冬の寒波が若くない身体に響いたという。駐在も長くなった後になって、みんなが着ているCanadian goose(カナディアン・グース)のコートを早いうちに買えばよかったと後悔するばかり。雪がどっさり降った後、晴天のセントラルパークは、とびきり美しい。大勢の人出となり、そりで遊ぶ子供たち、雪面を駆け回る犬たち、Cross country skiing (クロスカントリースキー)をする大人たちも出てきて遊技場と化すのである。
当時の私は、ITと財務グループのヘッドを兼務しており、職責は、米国当局報告、会計決算処理、予算管理、米国税務等の分野で構成されていた。米国税務は、現地の税務コンサルタントの外部支援を受けて、税務申告、納税手続きを行う専門性が高いが興味深い仕事であった。日本語でも知識がないと理解し難い会話を英語で議論するので、ビジネス英会話でも最も高度な部類でありチャレンジングであるが、その国の税制改正など政策的な側面があり、収益を追求する企業活動を背面から覗くことができる独特の分野であった。大変苦労したが勉強になったのは、二つの事例。一つはChapter 11(連邦破産法11条)で破綻した航空機ファイナンス案件の税務処理である。1990年初頭に組成された米国大手U社の航空機ファイナンスリース案件が、来年のリース期限満了を前にしてU社から買取りのオファーがあった。優秀な財務スタッフであるジューンと税務コンサルタントのD社で過去の縺れた税務処理を、モザイク絵画修復のように難解な数学の謎をように解きほぐそうと試みた。確かに破綻債権なのであるが、米国税務特有の区分で一部課税収益が発生することが判明した。つまり、ファイナンススキームのため設置した特性目的企業の債務免除益と貸出金償却損は「Ordinary Income/Expense」として相殺可能。しかし、航空機ファイナンスが破綻した後も一定額が入金されていた特定目的会社の出資収益は、「Capital Gain/Loss」に区分されて、相殺できない。こうして会計、税務の難問は大方整理されたものの、歴代の担当が苦慮した申告処理には無理がたたっていて、予定納税期限を切れてしまっていたのは拾い切れていなかった。なんとか、税務コンサルに知恵を絞ってもらったが、税制に照らしてやむなしとなり、潔く遅延課徴金を追加納税して終結した。
2001年セプテンバー・イレブンに端を発した航空機ファイナンスでの痛手は、ビジネスの転機となり、その後ファイナンス(ローンビジネス)部門を縮小し、債券投資を拡大することに大きく舵を切った。以前は、米国債を主体にいくつかの欧州債投資が主流であったが、上位格付けの社債へ投資するグループを新設して従前のローンビジネスを代替することを意図した。世界的な低金利は、伝統的なローンと預金で鞘(スプレッド)を抜く銀行本来の収益構造を脆弱化させ、お金を集めても集めた預金金利よりも高い金利で運用できる安全な投資先が少なくなり、あっても収益となる金利差が縮小する事態をもたらした。しかし、海外にアンテナを広げれば、FRBが中央銀行として市中銀行から預金を預かる制度があり、敢えて市場参加者に相対で資金を放出するよりも高い金利収益が得られるという状況が生じていたりする。もちろん、攻めを打ってPrivate Equity(プライベートエクイティ)、Hedge Fund(ヘッジファンド)、CLO(Collateralized Loan Obligation)といった高いリターンの投資商品も様々あるが、それにはリターンに見合うリスクを取らないといけない。顧客から預金を預かる銀行にとっては、バブル期不動産融資などの沢山の教訓がある訳で、そうおいそれと手を出すわけにはいかないのである。90年代には、邦銀における大和銀行事件や、マイロン・ショールズらノーベル賞科学者が参加し金融工学を駆使したドリームチーム運用会社LTCM(Long term capital Management)が破綻など相次いで起こり、市場・信用リスクの管理体制の脆弱性が露呈した。そこでバーゼル委員会をはじめとするグローバルな金融監督機関が旗を振り管理指針を厳格化していった。それにも拘わらず、いわゆる「リーマンショック」(The financial crisis of 2007–2008Lehman Shock)が起こるが、引き金はアメリカの金融機関がこぞって、低所得者向けの住宅ローン債権を担保にモーゲージ債を大量に仕組み、後先考えずに販売していたた投機マネーが引き金である。名門米国銀行会社Lehman Brothers(リーマンブラザーズ)、Bear Stearns(ベアスターンズ)が破綻、砂上の楼閣となった。直前まで両社とは巨額のレポ取引(債券貸借)や証券売買を行っていたので、市場から一瞬にして消え去ったのは驚愕。懲りない貪欲の性は、歴史に繰り返すことを痛感した。
長年金融業界に身を置いてきた実感を述べるなら、投資の基本は非常に明快で、割安なものを買って割高になった時に売ることである。Derivatives(デリバティブズ)等の先端の数理技術を如何に駆使しようが、本質は変わらず、むしろ複雑怪奇な闇に引き込み、まやかしを醸し出すだけである。為替をはじめとするシンプルな投機は、素直に当たるも八卦当たらぬも八卦、将来予想はある程度できるものの、究極的に当たるか否かは運の世界に左右される。プロがアマチュアの違いに関して為替を例に取ると、顧客とインターバンク市場の両サイドを業務として取次ぐため、情報が開けていて、アマに知りえない市場情報を把握できることだけであり、顧客には見えないスプレッドを稼ぐことができる。しかし、自己ポジション取引では、いずれに価格が動くかなど、不正にインサイダー情報を知りえない限り、個人投資家とさして変わらず、将来予想の世界でしかない。大きな荒波のうねりをサーフィンのように捉えられるのは、センスを磨いたごくごく一部の敏腕ディーラーにほからならず、かつそうであっても常勝することはありえない。チームプレー体制を組む邦銀で、卓越したディーラーが育つはずはなく、外資系であればインセンティブ・ディーラーとしての強者がいるが、究極的には博打と変わらないというのが偽らざる本音であろう。ましてや、巧妙なデリバティブや仕組債などの隠微な商品は、怪しい香りが漂っている。化粧の色濃い官能世界の誘惑と同じであり、「売った者勝ち」「買った後は自己責任」というのが、高度な金融セールスの生業なのである。金融マーケットの内実を知る者からすれば、究極は自己責任ですから意してご購入下さい、という誠実な断りなしにお勧めできる投資商品などありえない。
もう一件は、現地法人を統合する税務処理で、IRSから「PRL(Private Letter Ruling)」を取得した事案である。リーマンショック後の金融監督強化の一環でプルデンシャル規制が施行された影響で、証券専業の現地法人がこのままだと資本提携する米国銀行の直接支配下になってしまうという懸念が生じた。これを回避するため、この米国会社を統合するプロジェクトが立ち上げられた。子会社は米国債・米国社債を保管しブローキングする業務としており、決して手放したくないビジネスであった。設立当初からコンスタントに入る手数料収益があり、本社に利益送金せずに内部留保し続けてきたため、200億円を超える資本金・資本準備金が底溜まって、左うちわの現地法人である。それゆえに、温室のような環境で、赴任している派遣社員も、本社の荒波に比べると、生ぬるい社内リゾートのようになっていた。
プロジェクトは複数の分科会に分かれ、私は財務のヘッドとして、子会社の財務マンと話し合い、子会社の資産移管に伴う財務・税務上の手順を詰めていった。財務面は互いの帳簿を日米の会計基準に沿って勘定科目ごとにつぶさに洗い出しを行い、基準日となる年末時点での価値を捉えて合算する方式である。普段の活動では発生せず、M&Aなどの合併買収時に発生する「Goodwill(のれん)」という資産、いわば企業の通常帳簿には現れない潜在的なブランド価値の取扱いを考えるなど、会計趣味の者にとっては、醍醐味があって面白いイベントであろう。本部の主計チームや会計事務所の現地日本企業担当者に聞きながら、銀行会計と企業結合会計などを紐解き、準備を進めて行く。一方で、米国現地の税務処理はより固有な専門性が求められ、毎年税務申告のアドバイザーをお願いしている大手コンサルのTAXエキスパートに相談する。米国税務の世界も幅広く、一般企業の法人税申告であればいつものパートナーと配下の担当で賄えるのだけれど、こうした企業買収。合併関連の分野は、係る専門性が必要なのでワシントンオフィスの識者を動員してくれた。医者の世界と同様にホームドクターと個別分野ごとの専門医療に分かれているようなものであり、弁護士もそうであるが、時代の進化とともに専門の枝分かれは途方もなくなっている気がする。Siloed (サイロ化=縦割り)が進み、全体を鳥瞰する視野が最終的には大事なのだけど、誰も手に負えない。もはや総合的な判断や最善策を見出すには、人間の人知を超えて著しく分化し過ぎてしまったと思う。
それはさておき、ワシントンは税務コンサルファームの本社が置かれていて、なぜかと言うとIRS米国歳入庁のお膝元であるからであった。ポールという米国税制のエキスパートは、学者肌のようでいつも話が長かったが、我々の依頼が「PRL」というIRSの事前照会制度の事例につながるものであると判り、俄然乗り気になっていた。どうやらPLRの獲得は自分の手柄であり研究成果となるようである。打合せで高度な税制知識を披露する英語ノンネイティブには辛い。いやはや、母国語でさえ付いていけない専門用語のシャワーだから、英語リスニングの分野としては最難関だった。 有名ファームの米国税務コンサルタントは、その後IRSに入り政府サイドに転職し名目は公的な経験を積むことであるが、実際は人的なコネクションを築いて、またファームに舞い戻る。出戻りのファームではパートナーなど好待遇で向かえられ、顧客ニーズを政府の取り込んでもらうロビー活動に力を発揮する。総じて、アメリカ発のコンサルタント業務というのは、政府と蜜月関係にあり、税務のみならず業界規制の法令順守に関しても持ちつ持たれつの間柄なのである。ポールは私たちのリクエストを丹念に纏め、IRSの知り合い税務官僚に働きかけて、子会社統合の私的な税務指針(PLR)の受理に尽力してくれた。僕にとっても、法務と税務が入り混じった言葉の端々に付いていけずに苦心したが、リーガルのローヤーにかなりかみ砕いてフォローしてもらいながら、なんとか要求を立法学者たらんとしたポールに伝えることができた。
日本と違って訴訟社会アメリカの弁護士数は非常に多く、トップクラス大学を出たエリートは大企業を支援する名門法律事務所に入る。しかし、そうした辣腕の一流弁護士から、不動産の賃貸契約をもっぱらチェックする定型業務の路地弁護士まで、クラスが形成され玉石混合である。アメリカで子会社の買収案件など財務の立場から携わったが、例えば、アメリカの弁護士事務所David& Pythonは、ミッドタウンイーストのThird Avenueにあり税法の相談で何度も訪れた。リズ・ギレスビーというHarvard Law School(ハーバード・ロースクール)卒の若い女性弁護士は、小柄な金髪を靡かせる美女であった。外銀にありがちな豪華な門構えはないが、入口からの通路には創設者の肖像画が飾られ、特権階級向けいわゆるPrivilegedなローファームを演出するオフィスデザインであった。廊下沿いに隣接する会議スペースに案内されたが、当時の日本企業のようにお茶やコーヒーがサーブされるのではなく、ミネラルウォーターからコーヒー、ジュース類などが置いてある。リズが自ら試しに一つを手に取り差し出しながら、お好きなものどうぞと進めてくれたので、少し気後れしながらも自分で好きなものをグラスに注いで打合せを始めた。こちらの社内弁護士はソジュンという利発な韓国人女性で、大手法律事務所と互角に挑んでいた。彼女の夫は白人男性でミッドタウンイーストを二人寄り添い歩いているところを見かけたことが何度かあった。少し色黒、吊り上がった細い目をした東アジア的には普通の容姿であったが、アジア好きの白人男性からモテたようである。西洋人は西洋にはないものを求めて敢えてアジア人に求愛するであるのであって、その逆も然りであろう。
拠点統合はカレンダーベースで12月末に決算帳簿を締める子会社に合わせて、1月1日を基準日とした。証券業務の子会社はいつも通り業務を続け、終了した年末時点で企業価値を算定し、資産売買の代金をいったん決済する手はずである。いったんというのは、どうしてもその日中に時価を算出できない勘定があり、そこは数週間後に差額を受け払うことで確定させるという方式である。我々は子会社の経理グループと連携しながら夜に掛けて各勘定を具に精査していくと、いつもはTV中継で見ているTimes Squire(タイムズ・スクエア)での恒例ニューヨーク年越しカウントダウンの花火と人々の喝采が聞こえてくる。一回目の赴任の最後の年に、折角だから一度ぐらいカウントダウンに参加してみるかと、16時前ぐらいから行ってみたことがあったが(もちろん妻は全く関心なく)、雪のチラつく寒さとだんだんとNYPD(NY市警)が道路の封鎖を始めだしたことで、長い間トイレに行けないのはやはり無謀だとあえなく撤退した。周辺が閉鎖される夕刻から真夜中の0時まで、人込みの中で辛抱強く待機していること自体、並大抵の忍耐力ではない。知人で体験した勇者がいたが、その年はマイナス10度近く冷え込んだ寒波で、たしかマライア・キャリーがゲスト出演していたのをTVで見ていた気がする。カウントダウンイベントまで10時間近く待機している忍耐力も凄まじいが、ホッカイロを10個ぐらい体に巻き付けてても、凍える寒さでしんどかったと言っていた。大概の人はオムツをはいているらしく、頻繁な尿意が心配で飛行機では必ずアイル・シート(通路側座席)を取るような人種には到底に無理だ。ようやく仕事が収束し、新年明けの2時半ぐらいにタイムズスクエアを横切って帰ったが、熱狂した群衆は既に消え去り、宴のあと一面にゴミの散乱したストリートの静けさがあるだけだった。
妻はメトロポリタン美術館の会員であり、当初は観光名所巡りの一環として訪れて以来、初回の住居から、Upper East(アッパー・イースト)86丁目のクロスタウンバスで10分であったので、暇な週末にセントラルパーク散策とペアで、ひと時を過ごしに足しげく通った。因みに、Cross Town Buses(クロスタウンのバス)は、ニューヨーク市街を行き来する通常のバスを2台繋げたもので、よくまあこれほどの長さのバスを走らせるものだと思ったが、右折左折で曲がれなくなったのは見たことがない。暑い夏は、美術館前の広場に多くの観光客がひしめき合っているが、冬になると少しは落ち着いてくる。冬はクリスマスも過ぎると、バレンタインはあるもののスポーツや芸術のイベントも少ない閑散期となるので、Metroplitan Museum(MET:メトロポリタン美術館)にでも行くかと出かける。マイナス10度超の凍てつく寒さに震えながら、5thアベニュー沿いのバス停でクロスタウンのバスを待っている光景を思いだす。メットは、通常の西洋絵画やミニピラミッドなどの古代エジプト、ギリシャ彫刻などのエリアが典型的な観光客の通り道である。多くの日本人は、ルノアール、ゴッホなど印象派や、作品が限られたフェルメール絵画の人気作品を探して回るのであろう。私の妻は、ヨーロッパの豪華な調度品などの展示エリアがお気に入りである一方、私はもっぱら西洋中世後期の宗教画、Rubens(ルーベンス)、Georges de La Tour(ジョルジュ・ラトゥール)の陰翳深い画風を眺めるのが好きだった。重厚な奥座敷には日本美術、中国アジアに加えて、インド・イスラムなど少しマニアックな分野も充実している。中東のイスラムエリアで、世界史に照らして細密画やタペストリーを観賞するのは、割と人通りがまばらで落ち着けるのがよい。音声ガイドは主要言語でラインナップされていて日本語もあるのだが、背伸びしてチャレンジ精神で、絵画、美術品の由来や歴史のリスニングにトライしたものの、背景知識が乏しいせいか半分ぐらいしか理解できてなかったかもしれない。スケールでいうとパリのルーブルやロンドン大英博物館にはかなわないが、それにしてもアメリカ近代の富豪たちが巨万の財力で買い占め、ニューヨークまで船で運び込んだことを思うに、資本主義の権化パワーを見せつけられる。メトロポリタンの別館にCloisters(クロイスターズ)という中世ヨーロッパを再現した屋敷があるが、フランスから修道院ごと解体して船で運んできたというから驚きである。マンハッタンの北端に近いフォート・トライオン・パークにあり、大都会から少し裏庭に出ただけなのに、高台から一望するリバービューと中世世界にタイムスリップした空間は格別である。ステンドグラスや回廊のある修道院を模した建築と庭園が見どころ。ユニコーンのタペストリーやフランス王族ジャン1世の装飾写本「ベリー公の美わしい時祷書」などが所蔵されている。
近現代美術のMOMA(ニューヨーク近代美術館)や、ホイットニー美術館、グッケンハイム美術館、いづれも見逃せないが、私の嗜好はバロック以前、中世だった。そういえば、NY初期の頃、妻とMOMAのミニシアターに入ったが、ダイヤル式の箱型テレビでチャネルが合わないときの、ザーという点滅画像が延々と流れていた(昭和世代でないと分からない)。いつから、早く本番上映してよ~と念じるが、待てど暮らせど始まらない。けれど、観客はみんななんの疑問も持たず、呆れて立ち去る人はまったくいない。これこそ、現代アートと実感したが、一向に興味は湧かずに脱落して席を立った。
冬休みを1週間程取るが、多くの派遣社員はカリブの島々やフロリダからディズニークルーズなどで寒いニューヨークから脱出するのが定番である。私たちは子供がいないのでディズニーには全く興味がなかったが、ニューヨークの長い冬には気が滅入るので、北部州のアメリカ人が越冬のためフロリダやカリブに行くのはよくわかる。煌びやかなクリスマスが過ぎると1月から3月はイベントも乏しく、バレンタインディーとアイリッシュのSt. Patrick's Dayぐらいしかない。アメリカでは近年、南部への移住が著しく、お金に余裕がある熟年・老年は、ケアファシリティ(介護施設)が充実しているフロリダ州に殺到している。アメリカの1月・2月の祝日(マーティンルーサーキング牧師やワイントン・リンカーン両大統領の生誕)があり、有休休暇を付ければ、3時間程のフライトでふらりとひっと飛び楽しめる。フロリダの南端 Miami Beach(マイアミビーチ)や、メキシコのCancún(カンクーン)は、アメリカの比較的裕福な高校・大学生でさえ乱痴気騒ぎに訪れるパーティのメッカ。日本人にとってのハワイかという少し語弊があるが、老若男女に人気のスポットである。マイアミは夜通しパーティ、陽気などんちゃん騒ぎで有名なサウスビーチを避けて、比較的閑静なノースビーチに滞在するのが常だった。ホテルに到着した矢先、ビキニ姿のトップモデルのような金髪美女が連れの男と現れるや、妻の手前で、目のやり場に困ったものだ。
むしろ、私の妻はフランス語専攻で、大のヨーロッパ好きなので、冬でも大西洋を横断することは珍しくない。あなたの米国赴任のせいで、フランス語をもはや忘れてしまったと嘆いているが、発音に関しては天下一品である。やはり、語学の発音は、繊細な性格と音感センスがモノを言う。素質ゼロならぬマイナスの私は早々と諦めていた。欧州行きのフライトは、ニューヨークを晩から夜中に出発し、ロンドン、パリなどの朝方に着くパターンが多い。着いてからの一日が長く、持て余してしまうので、空港から一気に列車で地方に行くのがお勧めである。乗りのよいハードロック・ミュージックで迎えてくれるVirgin Atlantic(バージンアトランティック)航空のノリの良さが好きであったが、夜中の機内で食事が二回出てくるせいもあり、だいたいはよく眠れずに寝不足となる。しかも、到着してから丸一日時差ぼけを堪えたとしても、宿泊地で夕飯の時間が遅いという難点に直面する。日本人的には普通は午後6時になればディナータイムだとうと思いきや、まだバーで飲み始めた人達ばかりで、いっこうに食事がサーブされない店が多く、時間つぶしに痺れを切らしてしまう。ベルギー・オランダ以北のゲルマン系は日本とそう変わらないが、スペインを筆頭格に南欧はとびきり遅い店が往々にしてあり、20時になってもまだ開かず、空腹で朦朧としながらぶらぶら街中を徘徊することが何度もあった。大人はともかくとしても、学校へ通う子供たちはどうしているのだろうと、宵っ張りの生活スタイルをいつも不思議に思う。
7. セントラルパーク
セントラルパークは、私たちの聖地であり、パワーの源であり、生命力を注ぎ込む癒しの場であった。世界のビジネスの中心地として、インディアンから譲ってもらい、オランダから割譲した大西洋ハドソン川河口の細長い小さな島が、何故これほどまでに発展したか、見えない力が集まってとしか思えない。しかも、いずれ高層ビルの谷間となる島の中心に、これほどまでの緑の憩いの場を作り、大都会の喧騒を癒してくれる、奇跡のスペースといって過言ではない。セントラルパークがなければ、マンハッタンの住人たちは息が詰まっていたし、人々の心はもっと荒み、殺伐とした都市になっていたに違いない。稀代の建築家フレドリック・ロー・オルムステッド、カルヴァート・ヴォーによる公園設計は、天才的な美意識の結晶である。レイクの沿岸から見る向こう岸の風景や小高い丘から眺める木々の造形、小道の配置に至るまで、植林が育つ将来像を見据えてここまで精巧に描いたのは、「神業としか思えないわ」とよく妻は話していた。
ニューヨークの春の天候は寒暖差が大きく、3月中旬から4月に掛け華氏70度を超える半袖で過ごせる夏日になったかと思うと、寒さが舞い戻り冷え込みにコートに身を包むこともあるが、セントラルパークの草花はゆっくりと順番に芽生えてくる。春一番の小さく色とりどりな雪割り草、水仙も同じぐらい早くて白、黄色、紫としっかり底冷えする寒さを物ともせず、芽生えてくる生命力の象徴である。この時期、木々はまだがらんとしているが、花はしっかりと美しい姿を見せて春の水先案内をしてくれる。パーク最大の住民は、いたるところに元気よく駆け回るリスで、木のアナから愛らしい顔を出している姿には幾度か遭遇し、いずれもシャッターチャンスを逃したことが悔やまれる。思えば、カナダのオタワで、Woodchuck(ウッドチャック)の近接写真を写し損ねたことも悔やまれる。ウッドチャックは、リス科のマーモットで、Groundhog とも呼ばれる。アメリカとカナダでは、2月2日はGroundhog Dayといって、冬眠から目覚めたウッドチャックが、自分の影をみて巣穴に戻るか否かで、春の到来が近いか、まだ冬が続くかを占う風習がある。日本でいえば立春の行事みたいなもので、ペンシルバニア州パンクサトーニーのイベントが有名だが、北東部のテレビで放映されている。
Raccoon(アライグマ)が、太った木のアナに体を押し込んだが、居心地がいまいちなのか、あえなく撤退していた後姿も愛嬌満点でたまらない。鳥たちも元気にさえずり、春先はバードウォッチングの団体がセントラルパークを散策していて、特にレイクに臨む小高い丘のランブルは、私たちにとっても鳥たちを観察する格好のエリアと知った。僕のお気に入りはアメリカンロビンという黄色いくちばしに腹部がオレンジのコマドリで、活動的なしぐさが愛らしい。妻は、ボートハウスのあるThe Lake (ザ・レイク)やJacqueline Kennedy Onassis Reservoir(ジャクリーン・ケネディ・オナシス・リザボアー=大きな貯水池)でもっぱらカモの様子を眺めるのがささやかな楽しみ。リザボアーは、ジョギングからワーキングで周回している人々のメッカで、マンハッタンのへそともいえるのではないかと思う。最初の赴任当初は、金メダルをぶら下げて歩いでいる有名そうなおじいさんがいて、リザボアーを最初にジョギングした人といううわさだった。その後、そのおじいさんを讃える看板表示が出ていたので、嘘ではなくホントであり、自称リザボアーを初めてジョギングしたアルベルト何某さんだそうです。晴天の日は澄み切った空とリザボアー湖面は美しい青さで、イースト・ウエスト両サイドのBrown stone house(赤褐色のタウンハウス)を見渡す広がりに、大都会のオアシスを写実する。
春の手配を感じる3月下旬、社内弁護士ビリー タイラー氏の突然の逝去に信じられない思いだった。つい先週末、お願いしていたリーガルチェックを催促しに彼の部屋で話した時、OK/OKと軽い言葉の優しい姿が浮き上がる。その時は全く想起されなかったが、翌週から休みを取って訪れていたアフリカの大自然キリマンジャロの山登り途中とのことだった。4月半ば、タンザニアからの帰国手続きを終えて、アッパーイーストサイド80丁目付近の教会で葬儀がいとなまれた。明るい陽射しか差し込む夕刻、マンハッタンのストリートは、春を象徴するCrab Apple(クラブ・アップル=姫林檎)の街路樹が、白い花を満開に咲かせて、そよぐ風に日差しが煌めき通りに降り注いていた。ハーバード大卒で弁護士、コネチカットのエスタブリッシュの家系なのに、人種を問わずだれにも分け隔てなく親切に接する紳士だった。アッパーイーストの教会で親族・友人のスピーチによる別れの会が行われた。
バッハのGoldberg variations(ゴールドベルク変奏曲)やCanon a 3 Violinis con Basso(パッフェルベルのカノン)といったBaroque(バロック)クラシックの優美な生演奏に包まれて、ビリーの学生時代の友人や弁護士仲間が次々に思い出を語った。ぺレスが代表して弔辞を述べる。「彼はだれの話にも耳を傾け、決して断らない人だった、貧しい移民出身の自分とはまるで不釣り合いであったが、そんな意識は微塵も感じさせずに、ペリーと3人PBJという仲間で公私ともに楽しんだ」と。因みにPB&Jとは、アメリカの子供たちに人気の軽食、Peanut Butter & Jelly Sandwichピーナッツ、バターとジャムのサンドイッチの略で、楽しい仲間との掛詞の様に感じていた。私の思い起こすに赴任直後の若輩で覚束ない英語にも関わらず、至極自然に接してくれたこと、日本に出張で来た際に、居酒屋・パブと飲みに行った頃、2回目の赴任早々、再会した嬉しさの余り、Tequila(テキーラ:メキシコを代表するリキュール)を進められたのに勢いづいて、財務決算日にも拘わらず職場で酔い潰れ、大失態を演じてしまったが、欧米本流のハンサムなのに愛僑を含んだ人懐っこい笑顔が偲ばれる。本来は生粋のWAPS(White Anglo-Saxon Protestant)かもしれないのに、珍しく日系拠点の弁護士として貢献し、リベラルで本当に気さくな人柄だった。マディソン・アベニューにあるパブPapillon(パピオン)の常連でもあった。PBJ以外にも多数の同僚といつも日本人サラリーマンのいわゆる会社帰りの一杯に酔いしれ、お店へのチップは相当なものだっただろう。パブ店主やバーテンダーとの絆は深く、店にはビリーの肖像画が飾られている。私も友人と訪れるたびに、彼を偲んで肖像を前に祈りを捧げた。
4月のマンハッタンは春の目覚めで、ストリートの街路樹クラブアップルとMagnolia(マグノリア=木蓮)の緑と白い花が咲き始めてとても清々しい。続く5月には、爽やかなそよ風の快晴に映える新緑の美しさこの上ないと感じる日に数日遭遇します。初めて赴任した時に住んだアッパーイースト88丁目のヨークアベニュー、正確にはアッパーイーストの一角であるが、ヨークビルと呼ばれ昔は東欧系やドイツ移民の居住地であり、今でもその面影を残している区域である。87丁目と1stアベニューには東欧系のパン屋があり、昔ながらの固いライ麦パンや質素な店構えで夏休みは1か月ぐらいクローズとなるゆったりした営業の店だった。本当は人間ってこんなスローライフで暮らしてきたはずなのだろうと、対極的な喧噪のマンハッタンに古い郷愁を駆り立てるパン屋でした。当時は、ロシアや東欧っぽい近所の理髪店(バーバーショップ)に通っていた。日本と同じく、床屋のクルクル回る青、赤、白のサインポールがある店。因みに、この三色のポールは世界共通で、歴史は意外にも中世の修道院で医療を行っていた外科医に理髪師の起源が遡ることに由来するらしい。だいたい、この手の理髪店で髪をカットしてもらうと、日本とは異なり容赦なく短くされることままある。英語でうまく髪のスタイルを説明するのは難しいので、とりあえず、あまりカットし過ぎないでくれと伝えるが、よく見ていないと思った以上に刈り込まれることが多い。日本人用にきめ細かな気遣いはなく、坊主頭にするわけでもないのに、バリカンで半分ぐらいカットされたこともあった。とはいえ、大都会のニューヨークにあって、おしゃれなヘアサロンではない理髪店は地場の雰囲気を味わう場所。ヨークビルの床屋でのある日、地元の兄ちゃんが、ローラー・スケートを履いたまま、散髪しに来ていたのは、これこそニューヨーク、と愉快さが印象的だった。また、郊外に遊びに行ったドライブの帰り、78丁目イーストサイド付近で帰宅間じかの通り、我々の車の目の前をポニーテールの若い金髪女性が颯爽と美足を見せびらかすかのようにローラー・ブレードで走っていた。助手席の妻には言い出せなかったが、洗練された都会らしい格好さに感動していた。ささやかな記憶にいつまでも残っている。以前、会社のランチタイムにフィリピン人の同僚に勧められブロードウエイ界隈に10ドルショップの理髪店があるというので試した。エスニックな床屋のおっさんが手際よくスタイルの確認などありもせず、Next~!ハイ次ぎと呼び声を叫ぶ回転作業方式。ランチタイムヘアカットで、すっきりした短髪で職場に戻るなり、みんなの笑いが絶えなかった。
そういえば、この春先は僕にとっては鼻炎アレルギーの季節であったが、2回目の赴任では若干楽になった気がする。一回目の赴任当初は、日本ではひどかった涙目、鼻水が止まらないでとても仕事にならない状態が解消したかに見えた。もしかしてやはり東京周辺の植林された杉と違うからかなと思いきや3年程住んでいると現地の花粉に馴染んで感度が触発されたのか、元に戻ってきた。特に帰国前の年は酷くて、ローカル社員ばかりの事務グループの隔離された部屋の中でくしゃみを連発し、何度もトイレや廊下に行って午前中は鼻をかんでいた記憶がある。アメリカの薬局ドラックストアは充実していて、日本のように国民皆保険制度ではないためか、街角の薬局で処方箋なしで買える薬の種類は多岐にわたっている。当時はクラリティンやアレグラといった抗アレルギー剤がドラックストアーに山のように陳列されていて、僕はClarityne(クラリティン)を愛用し始めたら、鋭い効き目で素晴らしい市販薬だと感動した。それはつまり強過ぎる訳で、強引に症状を封じ込めていたのに気づいたのは、日本に帰国して帰任者健康診断を受けた際に、びらん性胃炎と診断された時、おそらくクラリティンの飲み過ぎに違いないと悟った。アメリカでは定番の熱さましである解熱剤兼鎮痛剤 Tylenol(タイレノール)は本当に強力で、熱が急下降するかのように下がる。以前、アメリカ南部ジャズのメッカ、ニューオーリンズで熱が出た時には、子供用のタイレノールで十分だったこともある。妻はよく日本人と体形の違うでかい欧米人用作られているから当然よ~、といってアメリカの薬はまともには決して飲まなかった。
ハーベイ・ゼレンスキーは、米国銀行がコネで紹介してくれた、直前までFRBサンフランシスコで銀行関連の検査官だった経歴である。独身のロシア系アメリカ人でまだ30代後半であったが、なかなかのやり手であり、当局との調整役として期待できる人物であった。ゼレンスキーは、FRBの退屈な検査業務にいささか飽きており、なによりアジア女性に興味からヘッドハンティングに乗っかったようである。米国金融検査の特権的なサークルに通じており、外国金融機関いじめを中和してくれることをリピンスキーに託した。仕事の捌きは上等そうであったが、プライベートはアジア系の物色に精を出し、拠点の女性と日本食に食事に誘っているのが目撃された。自分の唯一の部下には、香港出身の若い中国系イケメン男性コリンを採用して、二人のオフィスライフを立ち上げていた。アジア諸国の在米拠点で働く西洋人は、やはりアジア趣味を持った人の割合が多いのではないかと思われる。欧米企業で働かず敢えてアジア人が経営する企業に勤めようとするからには、様々な動機があるのは自然なことだろう。特に日本企業は、西洋人に対するあこがれやひいき目があるせいか、ローカルスタッフに甘くて、言い易い身内(派遣社員)にばかり厳しく接する面が多い。わざわざ派遣されて来ているのだから、現地の管理者として夜遅くまで働いてがんばるのだ、という精神論がまかり通る。概して遊びのある現地社員には英語の問題もあり、機嫌を損ねたくないので、きつく当たることはしない、したくても出来ない人が多い。在米のアジア拠点を望んで入社した現地人は、その辺りの噂も知りえていて、解雇や評価に容赦のない自国や欧米の企業に入社するより、ゆっくりのんびり仕事ができるという理由で選んできたのかもしれない。法人融資残高を増大させていたため、ローンは良好な低リスクの資産であったが、その取組・審査体制については体制が不十分として、大きな改善領域の一つに挙げられた。80年代から90年代に掛けては、バブル気味に航空機ファイナンスから中南米ローンまで手広くやっていたが、セプテンバーイレブンのテロで大手航空会社は米国再生法の適用となり、それを契機に営業を縮退した。本場のビジネスを外資と伍していくのは至難の業。何事も現地の専門家集団を雇ってプロ集団を構築しないと、日本人の手には負えるほど甘くはない。
NYの初夏は早く、セントラルパークも新緑が色濃い緑に変わり、日本のような梅雨はない。私が妻とよく行くウエスト側72丁目、ストロベリーフィールズから入って、ボートハウスのあるThe Lake 周辺のベンチで静かに行き交う人々や景色を眺め、カモやカナダグースという大きな北米産の鴈をはじめ鳥のさえずりに心身をいやす。ボートレイクの北側にあるランブルの入り口手前には、レイクの入り江は大きな亀が生息する沼のようになっている。そこにはRaccoon(ラクーン)が子ずれで住んでいて、入江にかかる橋から観光客に愛想を振る舞っていた。イーストサイドに住んでいた赴任時もセントラルパークを庭のように毎週訪れていて、ラクーンがいることは知っていたが、この場所に集まっているとは当時はいなかったのか、気が付かなかったのか、いずれにしても、見物は僕にとっては楽しみとなった。ラクーンは入江の沼の周りと湖畔にある土管に生息しているが、この時期に張ると亀池は藻が生い茂り濃い緑色になるためか、夏と路面が凍てつく冬はラクーンの出現も減るような気がする。夏の陽気に人々はセントラルパークに押し寄せ、The Great Lawnをはじめとする芝生では、子ずれの親子やカップルがボール遊びなどで楽しんでいるし、ビキニで日焼けに寝そべっている女性達は、早ければ日差しの差し込む4月から目の保養ではないが、目につくようになる。一回目の赴任では毎度ベンダーでホットドックやアイスバーを買って食べ歩きしていた。二回目の赴任ではホットドックを買うことは少なくなったものの、妻と街中の店、例えば、Luke's Lobster(ルークスロブスター)というメイン州のサンドイッチなど持ち込んで通った。芝生やレイク沿いのベンチで食べながら、行き交う多様な人々を眺めぼんやりした人間観察でくつろぐ。一つだけ不思議な事は、セントラルパークで蚊に刺されたことはなかったことと、カラスを見かけないことである。2000年当時、West Nile virus(ウエスト・ナイル)というウイルスを媒介する蚊の感染症が話題となっており、何度も空中散布(エアリアル・スプレイ)と称するニュースが流れ、ニューヨーク市の各地域に殺虫剤を大量散布していたのを思い出す。おそらく徹底して駆除を行っているのかもしれないが、自然の宝庫がそうした化学物質による防御と果たしてうまく共存しているのだろうか、謎だった。一方でパラドックスは、The Lakeの草むらで、稀ながら、蛍(Firefly/Lightning bug)に出会えたこと。更なる驚きは、帰宅途中の66丁目&West end Avenue通りすがり2度3度、蛍に遭遇した。蛍はきれい水しか生息できないって聞いてたので、マンハッタンの街路で幻想的に舞う姿が見られるなんて、思いもしなかった。
6月は、JP MORGAN RUNという世界的に行われるランニング・イベントがセントラルパークでも開かれる。Hydrangea(アジサイ)が咲き、しっとりと濃い緑になったセントラルパークは、時には真夏日で時には肌寒い雨が降ることもあり、一昨年は大ぶりの風雨で中止になったが、今年はランニングに程よい晴れ間が広がり、各企業から3万人を超える参加でセントラルパークの南側は、ゼッケンとおそろいのグループTシャツを着たランナー達で埋め尽くされた。シープメドウの芝生に各企業メンバーが集まる場所が決められており、ファシリティの応援団長ダンカンの元に、みな残業せずに仕事を切り上げて集まってきた、私も30歳当時に走ったときは軽快な走りでけっこう良い記録をだしていたが、40代になり事前の練習もせずにはおそらく厳しい走りになると思いつつ、12年の時を経てスタートラインの人だかりへと歩き出した。参加者スタートの合図までの時間が長いのは、NYマラソンはじめこの競技ではやむをえないが、ロックミュージックの音響がだんだん響き亘り、いよいよまだかまだかと待ちかねながら、1時間余りも経過した7時過ぎにようやく走り出す。さすがにセントラルパークの外環道に3万人もの走者がひしめくと、駆け出しの速さ以上に人込みをかき分ける技術もタイムに大きく影響する。いつもなじみのコースであるが、やはり3.5マイルの中距離ではスピード勝負で、後半は本当に倒れそうになるぐらい自分との闘いであり、心肺機能の強さがものをいう。セントラルパークは起伏が相応に激しいところあり、登り坂でエンジンをふかし気力で体を推し進める一方、下り坂は自分の限界を超えそうなスピード勝負に気絶しそうになるぐらい精神力をなんとか保ちながら、75丁目ウエスト付近のゴールになだれ込む。ランチタイムに必ずジムに通っているリスク統制Gのマッチョマンのロビン、監査室のゲイでいつもおしゃれな長身の黒人クラビスが上位3名だった。
オバマ政権が長年の医療保険制度の改革に着手しオバマ・ケアを導入したものの、様々な反発にあい妥協の産物となっているため、アメリカは未だ国民皆保険ではなく、医療保険は凄まじい格差がある。日本の在米企業はシグナなどの大手保険会社と契約しローカル社員へ医療保険を提供しこれが現地で働く社員にとっては、給与そのもの以上にインセンティブとなっている。派遣社員にも日本と同じ程度の医療が受けられるように、手厚い保険とそれでカバーできなかった部分は、一部会社負担といった扱いをしているが、現地の医療機関からすると、現地事情を知らない派遣社員はいわばカモのようなもので、けっこう吹っ掛けて請求してくることが少なくない。中でも、ユダヤ人系の歯医者は、気を付けた方がよいかもしれない。一回目の赴任時に行ったドクターは、初診の検査と少し削っただけで、20万円ほどの請求に驚いた。電話で抗議したが、受付の女性はこれが基本料金ですというだけで、取り合わずに、もうそれっきり行かないことにした。その後、友人のお勧めでいったドクターXには、何度も幼児期に虫歯となって詰めた歯の根幹治療: Root canal treatment(ルートカナル)を進められ、何度も通ったあげく50万円程支払った。会社の追加手当で個人での支払いは10万円程であった。アメリカの高額な医療費は驚くばかり。
帰国前に妻が何度か通った皮膚科の韓国人おじさん医師は、日本語ネイティブでありとても良い先生であったが、診療費用も抜群だった。ミッドタウンのオフィスで在米日本人向けにいわば定年後の余暇でやっているような商売っ気のない医院だった。東大医学部にも在籍し長く日本で診療していたが何故かニューヨークで開業したようで、分かり易く紙に書いて吹き出物の説明などしてくれたので非常に好感のもてるアジアおじさんだった。でも、20分ほどの診察で明細を見るに14万円なり、銀座のクラブで高級シャンパンを頼んだ感じであろうか。これなら、1日の患者数が少なくても十分ペイするどころか、コスパの良過ぎる診療所であった。これには会社が派遣社員向けの保険会社を変えたことにも起因していた。以前はアメリカの有名保険会社にローカルスタッフと同じように保険を掛けていたが、数年前に日系の大手保険会社から海外派遣社員向け事業をセールスされたようで、日系子会社に変更になった。現地大手のようには米国市場で顔が効かないため、保険の割合がかなり弱く医療機関にいいようにぼられてしまっているようだ。米国大手の場合、医療機関に対して非常に強い立場を貫き、そんなに高額のはずはないだろうという時には、容赦なく保険でディスカウントをしかけていたが、日系に変わってから立場が変わり、保険のカバー率は明らかに低下した。アメリカでは処方箋をもらい提示すれば、街中に数多あるドラック・ストアで、在庫がないような珍しい薬でない限りは容易に手に入る。しかし、日系の保険会社になってから、一度熱が出て薬をもらいによろよろといったのだけれど、保険カードが読み取り機械で認証されないと言われて、店員もかなり戸惑ってしまい、処方してもらえずに帰ったことがあった。さすがに、体調のよくない状況で、これには閉口して、総務を通じてクレームしたことがあった。まあ、財閥グループの付き合いで入らされたので、営業関係から仕方ないのだが、資本主義のメッカではこのようなことも、弱肉強食の競争原理だろうかと感じる。
余談だが、日本企業の健康診断は海外赴任でも原則年一回あり、私は日系の医師ではなく、Affiliated Physiciansという ミッドタウンの診療所を利用していた。健康診断は前日夜から食事を抜いてお腹を空かせて受診するが、待合室にはベーグル、マフィン、オレンジジュース、コーヒー、クッキーなどが置かれて、血液検査が終わり次第、食べてよいことになっていた。これこそ、欧米流のさりげないおもてなし。お堅い日本と違って気が利いているじゃんと、ひそかな楽しみにしていた。
8. マンハッタン
Upper West Sideアッパーウエストサイド、特にリバーサイドドライブ、リバーサイドパークからハドソン川を見渡す春の眺望は、これまた素晴らしい。一回目の赴任時、アッパーイーストサイドに住んでいた時は、イーストリバー沿いのランニングコースは、マンハッタン東側面を走るFDRの高速道路と接している部分が多く、車の排気ガスと騒音が気になったので、もっぱらセントラルパークを走っていた。今回はウエストサイドに住んで良かったのは、緑豊かなRiverside Park(リバーサイド・パーク)が60丁目から110丁目ぐらいまで、ハドソン川の雄大な流れと対岸にニュージャージーを眺めながら、ゆったり走ることができることである。この大都会にして贅沢な自然が味わえるのは、東京にはないマンハッタンの奇跡であった。自己顕示欲の塊で資本主義の権化、エンタメ不動産成金のドナルドトランプにはNOを突き付ける私だが、唯一着眼点がよかったと思うのは、このリバーサイドパーク沿いを高級ファミリーマンションを装い、憩いの場に仕立てたのは功績かもしれない。夏には、66丁目付近から無料でハドソン川のカヤックを楽しむことができる。桜の並木も多く、それに続く新緑に覆われた遊歩道と煌めく河岸の優美なコントラストはこの上ない光景であった。ジョギング、サイクリングする人々、犬を散歩する家族ずれから恋人たち、老若男女の友人たちで天気の良い日は溢れかえる。66丁目の河畔にはリバーサイド・カフェがあり、ハンバーガー、ビールジョッキ、ワイングラスを片手にテラスでくつろぐ最高の贅沢であろう。ニューヨークは世界各国の料理が味わえるレストランの多様性は素晴らしいが、郷に入れば郷に入っては郷に従えで、やはりアメリカンな食事が当たりはずれない。ハンバーガー、ステーキ、ホットドック、ドーナツなど、カジュアルなレストランで迷った時には手軽なハンバーガーをオーダーしていた。ちなみに、ニューヨーク市のレストランは、市の衛生局によって衛生検査が抜き打ちで行われる。ランクは高い順にアルファベット「A、B、C」で評価され、店先にその評点を掲示することが義務付けられている。納得がいかないと異議申し立てすれば、「GRADE PDENDING」(協議中)という掲示ができ、よく見かけることがあった。これだけの大都会なので、ネズミや害虫は至る所に出没するだろう。一回目の赴任時にミッドタウンで派遣社員が行きつけの汚い居酒屋があったが、二回目の赴任時には閉店していた。聞くところによると、衛生検査でランクを落とされ、店長がとっさに$100渡すから勘弁してくれ歎願したが、逆に賄賂とよこすのかと怒られ、営業停止になったそうだ。友人曰く、「$100じゃね、少なすぎたんだろ」と、ごもっともなのでしょう。
最初の赴任では、アッパー・イーストサイドに居住したが、当時はあまりカフェがなく、スターバックスも然程多くなく点在していたのと、クリスピークリームのドーナツが入ったAu Bon Painというボストン発のパン屋カフェぐらいが主流であった。83丁目のセカンドアヴェニューにDTUTという若者系のソファーがおいてある地場のカフェがありたまに行ったが、いつも結構混んでいた。今回の赴任では、カフェ事情が進化していた。スターバックスの数が劇的に増えたのに加えて、特にアッパー・ウエストは充実していて、Irving Coffee (アービングコーヒー)という86丁目ブロードウエイの半地下のカフェには毎週末と言っていい程、妻と通ってゆっくり本を読んだりしていた。フレンチ系のケーキ屋兼カフェ、58丁目のコロンバスサークル近くにあるパイヤード、83丁目ブロードウエイのミルフィーユ、ベルギーのパン屋から多数の店舗が展開したLe Pain Quotidien(ルパンコティディアン)などよく行った。チェルシーに買い物に行くときには、もっぱらThink Coffeeというオーガニック系のコーヒー店に立ち寄る。赴任の後半は、ブロードウエイ68丁目にあるブーシェリーというカフェに週末入り浸って、ストリートを行きかう地元の人々や連れている散歩の犬を眺めてゆったり過ごすのが日常だった。カフェの店員もユニークで、「Irving coffee」では、大きな豊胸の谷間をあらわにして化粧をした男性にしばし目を見張った。ゲイカルチャーのメッカ、チェルシーでの行きつけカフェ「Think coffee」では、中東ペルシャ風女性的風貌と衣装でトランスジェンダーと思われる男性がサーブして、ニューヨーカーのDiversity(ダイバーシティ)を堪能。一回目の赴任時、親しかった独身貴族の先輩はチェルシーでナンパされたと言っていたし、アッパーウエストでさえ、熟年のおじさんカップルが腕を組んで歩いているのは、リベラルな大都会ならでは、といえる。黒人、ヒスパニック、アジア人、白人のカップルの組み合わせも多様でまさにCosmopolitanism(コスモポリタニズム)を体現する空間だった。
アッパーイーストとアッパーウエストの両方住んでの比較論を少し紹介。一概にはいえないが、アッパーイーストはスノッブな高級住宅地の保守地域。対して、アッパーウエストの自由気ままなカジュアルさが心地よかった。いかにも太ったおじさんが、犬を散歩させていると思いきや、犬は歩かずにRoller Blade(ローラー・ブレード)に乗っていて歩道の段差に来ると、うまい具合にいったん飛び降りまた乗っかるという、ご主人様におとらず怠惰な大道芸を見せてくれていた。ローラーブレードで散歩する犬のストリートパフォーマンスには、ほのぼのとして小粋なウエストらしさに感じ入った。一方、イーストリバーに住んでいた時は、ブルドックを10匹ぐらい連れた(前世はきっとブルドックだと思う)風貌のブルドックおじさんに度々あった。両サイドともに家賃は高いので、富裕層に違いはないが、ウエストサイドは、ヒッピー系から庶民まで入り混じり度合が高い。66丁目リンカーンセンターの裏手にあるハイスクールは、黒人やヒスパニックが多い感じで、アッパーイーストは、お嬢さん学校メアリーマウントなどハイクラスの子女が通うスクール地域であった。両サイドともにセントラルパークに近づくにつれて、富裕度が高まり、本流のアッパーイーストは、5th、マジソン、パークアベニュー、ウエスト側はセントラルパーク・ウエストとコロンバスの間が、ビートルズのジョンレノンが住んでいたダコタハウスあり、ハイクラスの代名詞である。妻は英会話クラスの友人のペントハウスに招待されていたが、セントラルパーク・ウエストという公園西岸にそびえるコンドミニアムの上階から、緑豊かな公園を一望できる広い居間に感嘆していた。
最初に赴任した2000年の米国はITバブルの盛りであり、ニューヨークの家賃はうなぎ上りだったので、会社の家賃補助上限では、マンハッタンの安全な区域で物件を探すのはなかなか難しかった。それでも当時は、送金課に配属され実質研修的な日々だったので、会社の業務を抜け出すなどして焦らずに3か月程掛けて粘って探した。若い野心でマンハッタンはどうしても譲れず、よりによってUpper East Side(アッパーイーストサイド)という敷居の高いエリアに魅かれてしまった。当時はウエストサイドより、アッパーイーストとミッドタウンが派遣社員マンハッタン組の主流だったのだ。日系の不動産屋に連れられて物件巡りをするのだが、アッパーイーストの本流レキシントンからセントラルパーク側の地域はとても手の届く余地はなかったので、レキシントンからイーストリバーに向かう、サード、セカンド、ファーストアベニューと75丁目辺りから北に延びるヨークアベニューの物件である。上層階や屋上からはイーストリバーが眺められるという物件もあったが、イーストリバーとクイーンズの間に中州のように伸びるルーズベルト島ならありますよ、という誘いはあったが、なんだか大雨になると河口に流されていきそうな島に見えてしまい、尚更頑固にマンハッタンへの執着が増長した。その後、ルーズベルト島は大型マンションが建設されて、二回目の赴任時には、結構邦銀の派遣社員から、医大病院が近くに多いので医療関係で留学してきた先生方が多く住んで、春には桜の並木がきれいに整備された地域に変貌していた。とはいえ、アッパーイースト物件のハードルは高く、ルーズベルト島を外すと、今度は95丁目セカンドとサードの間にあるノルマンディーコートという大型マンションを進められた。妻と一緒に見に行ったが不動産ブローカーが、此処から北に行かなければ大丈夫ですよ、という一言になんだか、一方向にいってはいけないというところには住みたくないな、ということで丁重に取り下げた。96丁目から北はEast harlem(イースト・ハーレム)と呼ばれる地区で、当時はまだ1990年代までの荒れた治安の悪さを少し残していた感じがあったのである。なんとかなるだろうと思っていたが、出てくる物件は、窓からの景色が隣のビルで部屋に日差しが差し込まず電気を昼間からつけないとなんとなく暗いといったものや、その場で契約しないと既に申し込みが入っているので、取られてしまいますよという即決が求められたりした。ようやく、Yorkville(ヨーク・ビル)というアッパーイーストの外れの昔の東欧系移民地域、88丁目のヨークにグレンハウンドという不動産賃貸会社の物件があり、若げの至りで会社のリーガルチェックを掛けるまえに、申し込みをいれてようやく契約にこぎ着けた。ここが妻と僕の新生活の始まりであり、憧れの海外暮らしの序盤を過ごした思い出の地。右隣りは背の高いアフリカ系の黒人、向いは日本商社の駐在員、左隣には途中から若者カップルが住み始めたが、時々Bon Jovi Party (ボンジョビ・パーティ)という張り紙をドアに張って、友人たちを集めて重低音の音楽を大音量に掛けて、夜中までどんちゃん騒ぎをしていた。なんどかクレームしにいったけど、「まだ10時だしいいじゃん~」、「分かったわよ(内心は、うるさいこといわないで)」といって、かわして、気楽なものだった。我々が3年程住んで引っ越す頃に、彼らも転居したみたいだけど、とてもアメリカらしかった隣人だった。
7月4日はアメリカ独立記念日で各地のJuly 4 fireworks(ファイヤーワークス)が催される。財務担当者は第一四半期の決算処理で休日出社したこともあるのであまり気の抜けない時期だが、テレビ中継で見ることが多かった。それでも、イーストサイドに居た時は、歩いて5分のイーストリバーに面したカールシュルツパーク公園から、人だかりの中で横目に花火を見ることが出来た。ニューヨーク市長邸宅Gracie Mansion(グレイシー・マンション)公園もありFDRドライブの高速の上にJohn Finley Walkというプロムナードがあり、対岸のクイーンズとルーズベルト島の北端を望む。初回の赴任時には妻と近隣散歩の通り道であり、ぶらりイーストリバーの流れを眺めて過ごしていた。花火は、その年によってイーストリバー側かハドソン川のウエストサイドで行われ、以前はイーストのミッドタウン近辺が多かったが、2013年はウエストに順番が回ってきたようだ。リバーサイドのトランププレイスの住人には、屋上を開放するとのことで、私たち夫婦も見に行ってみた。なにしろ、リバーサイドパークとハドソン・パークウエイの道路も歩行者に解放され、夕暮れから既に人だかりとなっていた。この日ばかりは高層マンション住人の特権と、屋上のフロアは既にワイン片手に談笑する友人グループや家族ずれでいっぱい。ただ花火の打ち上げまでの待ち時間が長い事、日が長い季節なので9時になってようやく暗くなってきたがもう少しのようだ。思えば以前、Madison Square Garden(マジソン・スクエア・ガーデン)で、マドンナのコンサートに行った時も、7時開演なのに大御所の出番まで前座のバンド演奏が続き、3時間近く待たされたのと似たようパターンである。満員の観客に満を持して、薄暗い夜空に花火が瞬く間に上がったと思うと、いかにも大砲をぶっぱなしているようで、激しい連射で色とりどりの花火が海上で炸裂する。日本とは違い大きな花火の余韻を楽しみ一呼吸おいて夜空の風情を味わいながら佇む、という感じとは正反対。周りも浴衣を着て扇子で暑さを凌ぎというより、ワインやビールを片手にもう出来上がっているし、あまりに砲弾をぶっ放すように上げるので、長く待ちかねた割には1時間余りで終焉した。とはいえ我々も、普段はテレビ放映を横目に見るぐらいだったが、今回は屋上のテラスで住人に交じってアメリカンな祝日の彩に浸った。
なんといっても夏といえばビール、日本ならビヤガーデンのジョッキをイメージする季節。アメリカンビールは地場のCraft Beers(クラフト・ビール)が充実していて、スーパーの陳列棚で選びがいがある。日本は大手三社で、居酒屋の飲み会も味わいはドイツ発祥のラガービールが大勢を占めて、学生時代から飲みに明け暮れていた私にとっては、ラベルは違うがどれをとっても同じ味でとっくに飽きていた。アメリカは、イギリス系のエール、中でもIPAの種類も多岐に亘り微妙な味わいが楽しみになった。初回の赴任時は、Budweiser・Coors・Miller(バドワイザー、クアーズ、ミラー)といったいわゆるアメリカ労働者が水の様に飲む軽いタイプのライトかスーパーライトを愛飲していた。加えて、ニューヨーク市の地ビールBrookyn Lager(ブルックリンラガー)と、北東部ボストン発でアメリカクラフトビールの定番赤みがかったエール系のSamuel Adams(サミュエル・アダムス)(通称サムアダムス)もお気に入り。しかし、二回目の赴任時には、エールとIPA系に覚醒して、赴任小市民としてのささやかな楽しみとして各種のクラフトビール選びに明け暮れた。港町ボストンのクラフトビールHarpoon(ハプーン)、シカゴのホップが効いたIPA Goose Island(グース・アイランド)、サンフランシスコ生まれで程よい苦みが特徴のAnchor Steamアンカースティーム、カルフォルニア発のSierra Nevada(シエラネバダ)など、様々ビール・サーフィンをしたが、私がアメリカで至高のIPAとしてぜひお勧めしたい逸品は、Lagunitas (ラグニタス)というカルフォルニアのクラフトビールだ。煮沸の前半では控えめの量のホップを投入し、後半で大量のホップを注ぎ込むというホッピングテクニックによる鮮烈なフレーバーが特徴。トロピカルフルーツを思わせる香りで、お酒通の女性ならば好まれる味わい。またモルトのコクと深みも感じられ、ホップの苦味とのバランスも絶妙だった。もちろんNY地場のクラフトビアとしては、BROOKLYN LAGER(ブルックリン・ラガー)が一押し。是非ブルックリンのWilliamsburg(ウィリアムズバーグ)地区にある人気のブルワリーを訪れてみてほしい。ブルックリン・ブリッジとともに、横浜ベイエリアのようにおしゃれなデートコースとしてもお勧めする
少し解説すると、Pale Ale(ペールエール)とは、上面発酵で醸造されるイギリスが発祥のビールで、パブ文化がある国では主流となっている。硬度が高い水で作られており、20℃前後で発酵して熟成させる。飲み口は種類によって異なりますが、ライトボディからミディアムボディの間が多い。ラガーのようにキンキンに冷やして飲むのではなく、10〜13℃前後が飲み頃とされている。1杯目はラガー、2杯目はペールエールという飲み方を楽しむとよいかもしれない。中でもIPAとはIndia Pale Aleの略称で、ホップを増やして造られるため、ペールエールの中でも特に香りや苦味が強いのが特徴。アルコール度数も高く、苦味が際立つが、フルーティーな一面もあるため飲みにくいというわけではない。名前にインディアとあるが、誕生した18世紀のイギリスの当時植民地だったインドまでビールを長い船旅で運ぶ際に、品質が低下しないように大量のホップを使って造られたのが始まりと言われている。なお、マンハッタンで多品種のビールを飲み比べたいときは、ミッドタウンのThe Ginger Man(ジンジャーマン)がお勧め。ビールのみならず、ウイスキーのラインナップも豊富。夕方から深夜遅くまで営業、カウンターでも気さくな仲間とテーブル(席は予約できないが)でもいけるカジュアルなパブ。
ワインに関しては、帰宅時に最寄りのリカーショップでゆっくり選ぶのが、ささやかな至福のひと時だった。駐在の最後を締めくくるに相応しいと思い切って買ったカルフォルニア・ワイン「Opus One オーパス・ワン2013」、本物の血が滴るような濃厚さと芳醇な香り、エレガントな味わいで真に傑作だった。ボルドーのシャトー・ムートン・ロートシルトを所有するフィリップ・ド・ロスチャイルド男爵とカリフォルニア・ナパヴァレーの重鎮、ロバート・モンダヴィ氏の巨匠二人が意気投合して創り上げた作品です。マンハッタンの人気エリア、チェルシー・ピア近くのポルトガル・レストランでの事。ウエイターに、ワイン・セレクションを伺ったら、専門スタッフが答えますねと、ソムリエのお姉さんが出てきた。饒舌にワインについて語られたが、早口の英語をすべて聞き取れず、折角なのでポルトガルのワインを注文。ボトルを抱えて滑らかにコルクを抜いたが、コルクが折れてボトルの中に落ちてしまった。弘法も筆の誤りか、いやいやさすがはアメリカンソムリエ、さっぱりした苦笑いでごめんなさいね~と言いつつ、コルクカスの混じったワインを注いその場を和ませる。こうした「おおざっぱな、おおらかさ」が、大陸気質なんですね。
ところで、妻と週末連れだってスーパーでの買い物は日常であったが、二度目の赴任で最多利用はなんといっても、途中でアマゾンに買収されたオーガニック系スーパーのWhole Foods(ホールフーズ)、66丁目コロンバスサークルのタイムワーナービルに入っている大店舗と、チェルシー23丁目店のいずれかがメインである。ホールフーズは、一回目の赴任の後半に出現した南部初の洒落たスーパーであったが、アマゾンに買収されてから、妻の評価では、オーガニック純度が劣って大衆化してしまったと言っていた。それでも品揃えと買い心地はよかったし、魚コーナーも充実して、よく大きなアンコウの一匹を丸々ショー的に飾っていたのは、遊びの感性だろう。牧場で飼育された、あるいは養殖は「Farm raised」といい、野生で育った、養殖でないものは「Wild caught」と表示されている。総菜コーナーでは、肉・魚・野菜などマンハッタンの忙しい住人には有難かったが、日本では味わえないターキーは本場で豊富に売られている。妻は割と好きだったが、私は肉のクサミが気になってしまう。ただ、総菜のターキー・ハンバーグは、美味しくヘルシーであっさり美味しく、頻繁に買って重宝していた。それ以外では、アッパーウエスト75丁目のFairway(フェアウエイ)、その隣のCitarella(シッタレラ)というイタリア系食材店によく立ち寄っていた。Citarellaは、イタリア系らしく魚介類コーナーも充実して、タラ、マグロ、鰆、イカ、タコ、クラム、牡蛎など陳列されている。牡蛎は、その場で裁いて殻を抜いてくれるのだが、Whole Foodsで頼んだら剝いてくれずに、牡蛎の殻をむくナイフがあるから買って剥けば大丈夫だと言われたことがあった。真に受けて、ナイフを買って自宅のキッチンで格闘したが、不器用な私には想像以上に大変で、思わず手が血まみれになるところだった。Whole Foodsの魚コーナーでは、よくMonkfish(アンコウ)が展示されて、物珍しさで客寄せを演じているのが、酔狂なアメリカのスーパーらしかった。
カルフォルニア発の自然派系を標榜するTrader Joe's(トレーダージョーズ)は、日本で知られて人気のようである。日本人はTJのことをトレジョとよんで若い人中心に人気があったが、レジの待ち番号は電子表示にせず、いまだに店員が札で順番を示して誘導するシステムで、スタッフは妙に乗りがよくテンションが高いのは、カルフォルニア発祥のせいかだろうか。ただレジ待ちで並んでいる客は、買い物のバスケットを床に置いて足で引きづっている割合が多く、潔癖症の妻は、買い物カゴ(バスケット)が汚いから嫌だといってあまり行かなくなった。日本とマナーの違いだろうが、確かにバスケットを足で蹴って進む人や、買った品をやっぱりやめたとレジ待ちの間に別の棚に置き去りにしていく人、加えてレジ待ちの間に既に食べ始めている人(どうせお金を払うのだからという意識)まで、日本の礼儀という言葉からはかけ離れた大陸のおおざっぱさは、日常スーパーという場で十分垣間見ることができた。なお、日本食材はホールフーズのような自然食品を置くスーパーで広がりをみせ、以前からシイタケは流通していたが、二回目の赴任時には大根も定位置を占めるようになっていた。さすがに、山芋、白菜、レンコンは珍しかったが、ゴボウはBurdrock rootという名称で見かけるようになった。ただ、ほとんどのレジ係は認知しておらず、いったいこれは何に?といって、ハンドブックを調べたり、隣のスタッフに聞いたりと、余計な手間を引き起こしてレジ渋滞を引き起こすので、度々買うのは憚れた。一方で、どうも苦手だったが欧米ではごく一般的な西洋野菜はアンチチョークでした。ハロウィーンでスーパーに山積みになる大きなオレンジ色や肌色のピーナツ型パンプキンは、Jack-o'-Lantern(ジャック・オー・ランタン)やSpooky(お化け風)な飾りつけに使う。パンプキンスープやケーキの素材になるとはいえ、そのままでは食べられたものではない。たまに日本のカボチャを期待して緑の小型パンプキンを見つけて何度か試したが、どれもウオーター・スクワッシュ、つまり瓜(ウリ)の一種あり、日本食スーパーでなければ出回ってないようであった。
アイスクリームのトラックは夏の風物詩、老舗のMister Softee(ミスター・ソフティ)から、ソフティのパクリのトラックまで様々で違法駐車しても摘発が追い付かないぐらい、アイスクリーム大好きのアメリカ人には欠かせない。厳寒の冬はさすがにいなくなるけれど、冬でも少し暖かい日にはどこからともなく出没していることがあった。スーパーやデリでもアイスクリームの品ぞろえは充実して、日本のようにバータイプより、大型のファミリーサイズが主流だが、私が好きだったのは、珍しいバーボンやウイスキーアイスクリームだった。日本では、子供が間違って買ってはいけないとおそらく販売できないのだけれど、アメリカでは普通にアイスクリームコーナーに混じって陳列されていた。ロックフェラーセンターの地下コンコースは、会社オフィスのビルの地下から地下鉄の通路を通って連結しているが、ベンアンドジェリーのアイスクリーム屋があって、何を隠そう仕事の疲れを癒しに、夕方ぐらいに、少々さぼって中抜けしぶらりと立ち寄っていた。さすがに太るのを気にして、ミニカップ(といっても日本では十分レギュラーサイズ)を買って、コンコースを眺め一息付く。ある時、Bourbon Brown Butter(バーボン・ブラウンバター)という種類を発見、バニラビーンズと濃厚なバターに薫り高いバーボンの渋みが調和して、なんともいえない麻薬のような感覚だった。観光名所ロックフェラーセンターなのでランチ時は人出でごった返しているし、夕刻になると少し好いているとはいえ、アイスクリーム店には子供ずれの家族がひっきりなしに押し寄せている。そのなかで、日本の会社員であれば、仕事中に想像つかないところだが、駐在員のささやかな癒しオフィスを抜け出し、おじさんが一人ふらりとアイスクリームを立ち食いしていても、まったく気に留められない。アメリカ暮らしでは、この国のおおらかさ、懐の深さを満喫することをお勧めします。
ニューヨークの夏の夜にふさわしいお勧めは何かと問われたら、私にとってはジャズであり、もし余分な時間があれば、ニューヨーク初心者や出張者を夜につれていきたいのは、大人空間のジャズクラブ。ミッドタウンの名門Birdland(バートランド)、ブロードウエイのダイナーの地下一階にあるThe Iridium(イリジウム)という老舗クラブも友人とよく行った。大体、夜は二交代制で、前半と後半に分かれて客を入れ、まずは暫くアメリカンなディナーを食べて談笑しているうちに、演奏がはじまるという構成になっている。Bill Evans(ビル・エバンス)が、妻エレーンに捧げた傑作「Bマイナー・ワルツ」と出会い、学生時代に友人のバイトする四谷のジャズ喫茶名店イーグルにたまに通ったジャズ初心者の私は、本場の生演奏に心震わせた。ダウンタウンでモダンジャズを牽引した前衛芸術で伝説のジャズクラブ、Village Vanguard(ビレッジ・バンガード)は地下の狭いスペースであるが、ここで聞いたピアノとベースだけのジャズは素晴らしく、ジャズのアドリブを最大限効かせたピアノ演奏は神業的な域に達していた。日本や諸外国にチェーン展開しているBlue Note(ブルーノート)は、ウエストビレッジのワシントンスクエアパーク下側の通りにあるが、観光客には最も名が知れているかもしれない。そうした典型的なクラブと少し一線を画したアッパーサイド、コロンビア大学に近いブロードウエイ沿いにあるSmoke(スモーク)は、アメリカ・ポストモダンの作家Paul Auster(ポールオースター)の行きつけというジャズクラブである。2003年ぐらいか、趣味でジャズピアノを練習しているという上司に、送別会はどこがいいかと伺ったら、SMOKEで頼むよ、と言われて数人の仲間で言ったのが初めてだった。その時は、トランペット、トロンボーンとサックスが代わるがわるソロを汗だくになって連奏するパワフルでパンチの効いたQuintet(クインテット=五重奏)がとても印象的だった。それ以来、お気に入りのジャズクラブである。
20世紀初頭に掛けて、ルイジアナ州ニューオーリンズのアフリカ系アメリカ人コミュニティで生まれた音楽ジャンルで、リズム&ブルースやゴスペルなどの影響を取り入れ、西洋音楽の規則性や音階にとらわれない自由を追求し、既存の秩序を崩壊させるムーブメントだった。発祥地であるニューオーリンズを訪れ、ジャズの根源とは何であったかを感じたかった。アメリカ深南部のべっとりした湿潤な気候の下で、プランテーション重労働の日々を送るアフリカから来た奴隷移民に、ヨーロッパの海賊や流刑者といった荒くれ者、一攫千金を狙う山師たち、先住民のインディアンといった異色の文化が渦を巻いた。ブルースやジャズは、その土壌で産声をあげた魂のリズムで、クセのあるバーボンと混じりあって、心身の渇きを潤す媚薬かもしれない。ニューオーリンズの歴史的な街区 The French Quarter(フレンチクオーター)の目抜き通りは、ブルボン王家に因んでBourbon Street(バーボンストリート)と呼ばれる。ライブハウス、ジャズクラブ、キャバレー、ストリップ、ゲイバーなどの夜店が軒を連ね、日中は静かだが夜通し賑わう文化・観光の名所である。ルイジアナは、フランスの植民地の経緯から独自の食文化があり、イギリス人によってアメリカ北東部から追い立てられて南部に永住した人々と原住民ら複数の食文化が融合したケイジャン料理、クレオール領地と称される。Catfish(キャットフィッシュ:ナマズ)やティラピアの肉塊がたっぷり入ったシチュー、ミシシッピーデルタ生息のAlligator(アリゲーター=ワニ)のステーキは意外と鶏肉に近い触感。Crawfishクロウ(フィッシュ:ザリガニ)のスパイシーなスープ、南部風のハンバーガーやサンドイッチには必ず挟んであるハラペーニョという緑の唐辛子など、香辛料もふんだんに使われる。流浪人たちの異文化が絶妙にミックスされたパンチのある濃い味わいです。
ハリケーン・カトリーナの襲来前の2004年の2月、ニューオーリンズを訪れ、Mardi Gras(謝肉祭:カトリックイースター45日前の盛大なカーニバル)に彷徨う。地元に住んでいるという日本人女性がガイド。ツアーを企画していて案内してくれた。Beneigh(ベニエ)というクレオール風のドーナツを食べ歩いたカフェに、黒猫がうろついていたのが印象的。南部にしては、寒い冬で、香辛料たっぷり辛めのGumbo(ガンボ・スープ)など、妻が食べられないと言い出し、代わりに大食いしたら、身体の冷えもあってか、胃がやられて熱まで出た。その年の夏、カトリーナが直撃、フレンチ・クオーター含めて甚大な被害もたらした。ガイドの女性や猫はどうしたのだろうか、と気に留めるものの、何もできないで記憶の片隅にやり過ごす自分に、罪悪感を感じるばかり。
9. 奇跡物語と迷宮
ニューヨークも東京と同じぐらいの蒸し暑さが続く時があるが、Muggy、Humidity、Steamy、Moistとか、アメリカの天候表現は日本より多彩だ。地元のケーブルTV局New York OneやPicks 11の天気予報画面で表示される豊かなお天気用語が実はお気に入り。妻が生理的に「店の空気感や匂いがどんより淀んで嫌だ」といって近寄ることのない日本食スーパー。たまにやむえず日本食材を買いだすのは私の役目で、その日はミッドタウンのある店に立ち寄った。その日はバスを待つ気にならず、スーパーの袋を抱えながらYellow cab(イエロー・キャブ)を捕まえたのは、連日の疲れと暑さでよたっていたのであろう。迂闊にも、72丁目のBloadway(ブロードウェイ)で降りた時に、コメの入ったスーパーの袋を下げていたが、その重さで自分の仕事カバンに気付かず、なんとタクシーに置き忘れてしまっていた。しばし歩き出してから気付いたが既にタクシーは走り去って消えており、カバンに大事な手帳や会社支給の携帯電話機も一式入っていたためショックで呆然となった。タクシーの車両番号などもちろん覚えておらず、レシート書かれた番号も途中で途切れて見えない。翌日会社でも仕事が手に付かず、携帯電話もないのでどうしようか途方に暮れていた。総務担当の友人に契約を解除したいけれど古い電話機を返却する必要があるか伺ったら、解約するのに番号だけあれば使用済みの電話機は廃棄してよいですよとのことで、紛失届を出さずに済むことでほっとした。
金融機関では、ちっとした事務ミスでも始末書を書くことが厳格化されていて、原因分析から再発防止策まで、警察の事情聴取のようにこっ酷く追及される。会社の備品を紛失したなら、日本ならば大変なんだけれど、世知辛い昨今でも、海外拠点の大らかさが残ていて救われた。世間からは1円合わなければ、合うまで夜通し残業で究明するなどと言われる銀行業といえども、バブル期から90年代までは厳しさの反面・反動で、遊びも存分に謳歌できていた。業務が終われば、飲みや遊びはまあ無礼講という気風があった。私の入社した都心の華やかな支店は、若手から中年までバブルヘGOの様相で、熟練の先輩お姉さま方は銀座のママやホステス系のノリで、仕事帰りは飲めよ歌えよの連チャン。週三回は飲みに繰り出し、公園通りのブリッツという行きつけのカラオケ店で終電まで騒いでいた。三次会と称して若手仲間で環七通りの有名店「なんでんかんでん」辺りに、飲み会締めのラーメンを食べにタクシーに駆け込んだりしていたので、翌日午前は二日酔いを隠して営業ということもままあった。会社の車で営業に回るのだが、お客様の玄関先で吐きそうになったことも何度かある。社員旅行という、今ではガラパゴス的なイベントも恒例行事として行われていた。例えば、箱根や熱海への宿泊プランで、小田急ロマンスカーに乗る際に、丸の内の明治屋などでアルコールと乾物・スナックをたんまり買い込んでいた。お酒持ち込みの列車の中で既に騒ぎはじめ、到着するまでにべろんべろんに酔いかけていた。僅かに貸し切りにならなかったので、同じ車両の後方に居合わせた一般乗客の方に多大な迷惑を掛けたことだろう。着いてからは正式に宴会となって、キャバクラ系のお姉さま(当時30半ば)は、酔った勢いで廊下の段差でころんで、ケガをしたりしたが、誰も責めたてる者はいない。それもご愛嬌の古き良き時代が遠くに消え行く。
世の中全体の潮流か、バブルの余韻が跡形もなく消え伏せた2000年頃を境に、コンプライアンスや何々ハラスメントの御触れが企業経営に強く浸透。法令順守ならぬ規則や規範をお行儀よく守ることが、周知徹底されて過ぎて、おいそれと無礼講で遊べなくなった。業務でミスをすると、些末なことでも報告書の提出が求められ、リスク管理部署から原因分析から再発防止策の立案に至るまでこっぴどく詮索される。軽重に然程拘わらず、傷口に塩を塗るような、懲罰的な追及がなされる傾向が強まり、所属員のやる気も失せる。コンプライアンスやハラスメントは欧米から概念であるが、素直に同調する日本人社会。更に銀行の几帳面な集団では、真面目に真正面から捉えて、抜け道も排除してしまうので、会社の器量や採用基準も狭くなり、金太郎あめのように同質的で、品行方正な人種しか入らなくなった。いわゆる、Bullshit Job(くそどうでもいい仕事)が蔓延しがちとなり、社員の本音とは裏腹に、いったん導入されてしまうと誰もやめようとしない傾向が強まる。海外赴任が長いことで、直接的な支配に置かれず、治外法権のメリットを享受できたが、初回の赴任から二回目の赴任の帰国ごとに日本ははみ出し者を嫌う「つまらない」企業社会になっていることを感じる。話を戻すと、携帯電話の画面はロックされているし、手帳のメモも日本語なので、タクシーの運転手が自宅に電話を掛けてくるといった淡い期待も望み薄。タクシー番号も分からないのでこちらからタクシー会社に連絡も出来ない。妻がネット上に、「タクシーで忘れ物や紛失があった際にはここへ登録」というサイトを見つけて、一途の望みをもってクレジットカードでの支払い$100といささか不審に思いつつ登録してみたら、なんと案の定ではあるが、堂々と公開された詐欺サイトだった。よく調べると、同じように動顛した人々が、反射的に騙されている有名な悪質サイトだと判って愕然とした(踏んだり蹴ったり)。いやはや、万事休すとはこのことだ。
手立てはないと諦めかけた3日後、まさに神の啓示のごとく聞き取りにくい英語で会社のダイレクトナンバーに電話がかかってきた。何度か掛けたが通じずにたらい回しにされたといっていたので、おそらく手帳に入っていた会社の名刺の電話番号で最初は代表に掛けていたようで、留守電にも何か入った形跡はあった。「タクシー乗車内でカバンを忘れていったのはお前か」と、わざわざ電話をしかも何度も掛けてくれていた。何てことか、ニューヨーク・マンハッタンのど真ん中とはとても信じられない奇跡に、神妙に声を震わせながら、「ありがとう、確かに僕のカバンなので、大変申し訳ないが、19時ごろリンカーンセンターの前に立っているので届けてもらえないかと話すと「もちろんだ」と答えてくれた。本当にイエローキャブの運転手が持ってきてくれるのか、半信半疑だったが、祈るようにして、ブロードウエイの車寄せが少しあるリンカーンセンターの前で待った。なんと黒人の運転手が流しのタクシーでわざわざ来てくれて、少し恐る恐る運転席越しに会話すると、快くカバンを手渡ししてくれて、しかも何度も掛けたのだけどな~といってくれた。僕は直前にシティバンクのATMでおろした350ドルぐらいの20ドル札ばかりであったが、せめてもの御礼と手渡した。奇跡の運転手は思いがけない顔をしていたが、淡々とタクシーを走らせ去っていった。聖書の福音書にはキリストによる幻術が綴られているが、これこそがその一端ではないかと奇しくも思わせる感覚に囚われながら、リンカーンセンター広場の噴水が夕闇に光り出すのを横目に、いつもの帰路を歩き出す。カバンには手を付けられた様子はなく、失くした時と全く同じ状態で手帳や母の形見がしっかり収まっていた。
思い返すに、このような神事はいくつかあったことに気付く。NYに再び赴任する直前に、精神的に不安定な状態の妻が、倦厭したアパートメントに買い手が現れ、首尾よく売却できたこと。もし売れなければ、アメリカから売却活動を続けなければならず、タイミングは絶妙だった。幼少期に遡れば、幼稚園から帰宅時に、家の前の町道で寿司屋の車に直撃され跳ね飛ばされたにも拘わらず、奇跡的に無事だったことを思い出した。最近では、コロナで面会禁止となり会えなかった特別養護施設の父と、病院の付き添いにかこつけて、2年ぶりの再会を果たせたチャンスの到来。Synchronicity(シンクロニシティ)という「意味のある偶然」は確かにあるのだろう。そういえば、虹を見ることは幸運の前ぶれともいわれるそうです。虹ではないのですが、「Manhattanhenge(マンハッタン・ヘンジ)」と呼ばれる光景が、5月と7月に特別な夕日が見られることがある。マンハッタン(ダウンタウン以外)は碁盤の目状に、アベニューが南北、ストリートは東西に伸びているが、ストリートの西方にぴったりと焦点を合わせて沈み込んでいく太陽は神秘的。高いビルの谷間にまばゆいオレンジの光が射る様子に、忙しく行き交う人々は立ち止まり、絵画のような現象に魅せられる。
財務グループは、代々東アジア系のスタッフが多いが、その理由はやはり細かな数字を扱う仕事は、欧米、中南米、アフリカ系よりは向いていることがあるのかもしれない。ここで人種論につなげるつもりないしたまたまかもしれないが、現実的にそうであった。二回目の赴任時には、人員のスリム化がなされて中堅社員が一人で切り盛りしている縮小体制にあり、日本の銀行でいう担当の事務作業をダブルチェックする検印者クラスSupervisor以下で構成され、ローカルの軸となる人材はいなかった。それでも、ジューンという韓国人とマックという台湾からのアメリカ移民は、優秀な若手であり、マックは元々大人しく主体性もなかったが、本部の主計室から来た中堅エースが丁寧に経理のイロハを教え込んで、成長してきていた。そこでマックを昇格させると、みるみるうちに活動の手を広げて、拠点内の他グループとも臆せず手広く案件を進めるようになり、頼もしい限りであった。ただ、このように若い伸び盛りで有能な現地社員が長くとどまることは稀で、コンパクトな企業で基礎を身に付けると、概して次のキャリアステップにチャレンジするのが常で、やはりアメリカに渡ってきた人材は逞しい。マックは、米当局の報告書作成で欠かせないスタッフだったが、補佐するスタッフを増員して数か月で、ドイツ系の銀行に転職するので辞めると言い出した。ようやくマイクの部下の女性を置いて安定させたかと思いきや、活性化した自分の力量を試したくなって、もはや部下の育成には目もくれずとなっていた。マックの下に採用したリーも、上海出身の中国人女性であったが、一人娘で両親を残し自分独りでアメリカに渡った気の強さと感情の起伏が激しさがあった。マックに十分な教えも受けないまま、上司が離職することで動揺しており、私に不平をぶちまけてきたため、なだめるのに一苦労であった。そのため、早く彼女のメンターになるような中堅の人材を雇わなければと、リクルートを急いだが、やはり急いては事を損じるといったもので、焦って選んだ人物には、追々悩ましい事態となった。マックとリーはともに中国系、しかも台湾と本土で年齢が近かったこともあり、妙なライバル意識を抱かせたのではないかと反省。今度はそこも意識して中年の熟練者がよいのではないかとも思ったが、なかなか在米外銀の報告業務に経験のある人材は出てこなかった。ところが、インド人のだいぶ熟年のおじさんが、欧州系の銀行等で我々が米当局に提出している財務報告に長年に亘り従事してきたとのことで、年齢の高さが気になったが、マイクの不在による不安定さを早く解消したかったので、これぞと採用の申請を出すことにした。ボスは訝しげに大丈夫なのかと違和感を示していたが、現場としては背に腹は代えられず、いささか不機嫌な彼を押し切って手続きを進めた。
採用したインド人のクマルさんは、既に60歳の日本では定年を過ぎる年代で頭も禿げ上がった典型的な小太りおじさんだったが、穏やかで落ち着いた面持ちがあり、面接では長い経験を備えた良い人物と映った。確かに、やさしい良いおじさんだったのだが、書かれたレジュメの履歴は嘘であるかのように業務知識は浅く、計数を緻密に扱いエクセルを操作する書道スキルも乏しい状態だった。対人的な人当たりはよいのだが、肝心の仕事力が足らないことは、後々響いてきた。リーも、同世代の対抗意識を抱いたマックと違い、経験の深いおじさんと見て頼りにしていたが、3か月程経つにつれ、なんだか空っぽで教えを乞うには期待外れであることに気付き始めた。しかも、自分が巧みに操作するスプレッドシートの作成は覚束なく、高齢であることを差し引いても間違いの多さに、とても上司として慕うことが出来ないというフラストレーションが膨れ上がってきた。このことは、再び亀裂を生みだして、数か月経つと、リーはあからさまにクマルを無視したり、話の折に感情を荒げたりすることが起き始めたので、ぼくにとっては、両者を採用したボスとして悩ましい状況を抱えた時期であった。
マックに続いて影響を受けたりしてないかと優秀なジューンの事が心配になっていたが、しばらくして案の定、退職届を出してきた。しかも、転職先は税務申告のチェックを毎年頼んできた4大コンサルの一つで、当社のアカウントマネジャーで同じく韓国系のソニン、その上司でパートナーのユダヤ系アメリカ人ジョセフ・ホフマンと働くことになるというではないか。つまり、今度は当店担当の税務コンサルタントとして会うことになるというので、複雑な思いであるが、ぜひとも来年の税務申告をよろしくと苦笑交じりに送り出すことになった。クマルさんは良い人だったのだが、マネージャーとして部下を育成したりプランを立てて実行したりする能力の低さは確実だった。これまで長年どのように勤めてきたのか、うわべだけで言われたことを限られた範囲でやるだけだったのか、非常に不可解である。加えて、歳のせいか時折眠りこけてしまっていて、クマルさん大丈夫かと声をかける場面ものあり、もうこれは如何ともし難いと、口頭だけではなく、メールの書面で注意喚起を行い、解雇を視野に行動記録を残すことにした。インドの有名大学を出て大学で英文学を教えていたそうで、Charles Dickensが好きとのことだった。その後、何かの理由で家族でアメリカに移住したようである。話す英語は、とても口当たりよく滑らかで好印象を与える。書いている英語は日本人の私が見ても文法的にいささか支離滅裂な箇所あり、これでも英文学の先生だったのか、なにやら疑問に感じていた。
成長著しかったマックや、仕事抜きではとても恩情のあるクマルさんとは、バーでよく語り合ったものだ。アメリカのバーやアイリッシュパブに仲間と行った際は、各々自分の分を払うこともあるが、友人として順番に出し合うのも多い。今回は私がご馳走しますねといってホストを交代する。特徴的なのは、キャッシュ払いでなければ、クレジットカードをお店に預けて、最後に纏めて一括清算する慣習がある。一人飲みでもしかり、何杯か飲みたい場合は、バーテンダーから「Would you like to open a tab?」とまず聞かれるので、「Yes, please keep it open.」と答える。飲み終わって勘定を清算するとき、「Can I close my tab?」と言って自分の名前を伝え、クレジットカードを返してもらう。都度クレジットカードを切る手間を省けて便利ではあるが、慣れないうちは、自分のカードをきちんど返してくれるのか、素直な日本人なら心配になるかもしれない。アメリカの犯罪率や粗雑を思うに、心理的な抵抗感は分からなくはないが、悪用されたり、カードをなくされたりしたことはなかった。ちなみに、ニューヨーク最古のパブは、イーストビレッジのMcSorleys Old Ale House(マクソリーズ・オールド・エール・ハウス)で、1854年に創業というから、170年も経っている。ビールがこぼれても掃除しやすいように、床一面におがくずが散りばめられて、昔ながらのアイリッシュ・パブの風習だそうです。ビールは、ライトとダークの二種類で、店内は古めかしい写真やストーブなど19世紀のワイルドな佇まいで最高です。
アメリカは日本と違い、雇用の流動性あり、解雇はしやすい労務契約ではあるが、そうはいても訴訟リスクを恐れ、日本企業はなるべく避ける傾向にある。人事のペアトリスに繰り返し状況を伝えながら、クマルさんの行動評価を本人に通知しながら、記録を揃えていくことで、入念に準備を進める。一方のリーは怒りを露わに、コミュニケーションを拒否したりなど、度々問題行動を示しているのだが、実務作業を担うリーを解雇すると日々の仕事が回らなくなる。悩んだもののやむをえず、クマルさんに去ってもらうことを選択せざるを得なかった。これは私にとって、自分が雇った人物を自分で解雇するという駐在生活で初めての苦渋の決断であり、最終通告日は辛い一日だった。クマルさんの年齢は相当上だったけれど、採用した私に親しみをもってくれたのか、私的なよもやま話もよくしてくれた。インドでもネパールに近い北部地域の出身で、ヒンズー教には、Reincarnation(輪廻転生)という概念があることを語った。私に人生のこの場面で仕えることになっていたこと、そしてまもなく去ることも定められていたと、ふと口にした言葉がなんとも不可思議に脳裏に残った。これは後日談だが、海外拠点の立場から本部のやり方を批判していた新規システム導入案件があった。ところが、帰国発令でその最終局面のプロジェクトマネジャーを任されたため、もしかしてKarma(カルマ)因果応報のなせる業かもと思ったりした。運命・宿命とは、縦横に織りなす糸のようなもので、あらかじめ決められているのだろうか。
クマルさんを解雇した後の奇談というわけではないが、ニューヨーク市税局の税務調査が入り、今度は同じ姓のクマルという女性調査官と過去の税務申告について一悶着が発生した。クマル調査官は、しわがれた老年に差しかかるインド系のおばさんで、いつもキャリーバックに書類をゴミの山のように詰め込んで、実地作業を進めたが、市税局勤務40年のベテランらしかった。税務調査の対象期間が数年遅れるのは普通で、調査が捗らないと安易に時効を延長するので、場合によっては10年以上前に遡ることがままある。子会社時代に税務を主担していた中国人女性マダリンが古い記録を引き出してくれてクマル調査官と論戦を交えるが、クマルは一方的な主張を繰り返すばかりで、毎回平行線となった。如何せん税法は具体的なビジネスケースを論じてはおらず、解釈の仕方によることが多い。国税、州税よりも市税は徴税側に有利となりうる余地を含ませており、担当調査官に裁量を与えていた。ニューヨーク市は、大企業が集中し税収に困ることはなさそうに思うが、そうでもないらしい。前回の税制改正で市税の割合が減ってしまうため、市税局は時に税法の乱用に近い手法を使って税収獲得に躍起になり、調査官にもノルマを課し、出来高報酬を与えているようでもあった。税務訴訟や論争は、アメリカでは珍しくないが、市税局は法の論理が通じないと悪名高い。税務専門の弁護士やコンサルに相談しても、どこかで手打ちを図るしかないような煮え切らない返事である。さすがに数億円規模の追徴、修正申告を提示されたので、アフリカの独裁国家ならまだしもこんな暴力バーのような手口があるものかと、勇んでブルックリン区庁舎(Brooklyn Borough Hall)にある市税局に直談判に行った。クマルの上司とさらにその上司が出てきて、私も社内弁護士のヘッドと作戦を備えて対峙したが、面と向かってみると、意外に物腰は柔らかい。内部で検討中はあるので、はっきりしてないがなどと優柔不断にはぐらかしてくる。直接会談は、終始穏便なムードで終わったものの、市税局側はいったんぶちかました恐喝まがいの通告を取り下げることはなく、高いボールを投げて、妥協点を探る姿勢を貫いた。世界を席巻するする法治大国といいながら、皮を剥ぐとバナナ・リパブリックが透けて見える。水面下では政治的なコネクションが絡み合い、法外な温床に満ち満ちているということか。
10. 南アジアの幻影
学生の時にインド西海岸のMumbai(ムンバイ)から東端のKolkata(カルカッタ)までバックパッカーの旅をした。90年代に入りグローバル化の波が押し寄せていたが、まだインドで栄えるIT産業もなく、目覚ましい都市化が進む初期段階だったので、昔ながらの風景が味わえたのではないかと回顧する。当時はバックパッカーが隆盛をしめて、いったい見知らぬ国の奥地には何があるのだろうという冒険とロマンを掻き立て、またバブル期で格安航空券など格安旅行会社も栄えていた頃である。インターネットもなく頼りにするのは「地球の歩き方」をはじめとするガイドブックと店頭販売の格安チケットで、もちろん宿泊先の予約も現地で行き当たりばったりで飛び込みで決めていた時代。なお、当時ヨーロッパへの格安チケットとは、ソビエト崩壊前後のアエロフロートでトランジットするモスクワ空港でウォッカを飲んでいく路線以外、もっぱら各駅停車のようにアジアをめぐる南回り航路であった。成田を出発して東南アジアの主要都市に立ち寄り、インド大陸を渡り、アラブの要所ドバイかアブダビを経由して欧州諸都市に入るという航路はエスニックな旅情をたっぷりである。こうした「南周り航路」の飛行機は、東南アジアから中東産油国への出稼ぎ労働者で溢れるときがある。何やら機内に稼いだお金で買い込んだ電化製品などやたらと持ち込むので、所狭しこと多い。また当時俗にいう発展途上国のエアラインは少しくらいでびっくり仰天してはいけない。例えば、トイレが詰まって山のように溜まってしまい、フライトアテンダントが香水をスプレーで巻きまくっているとか。天井から水が漏れだし慄くと、あっちに空いてる席があるから移ればいいとどこ吹く風。まあ、インド人らのもっともよく使う国民英語「No Problem」に象徴され、ちょっとやそっとでは、どおってことないのだ。スピード優先の今は考えられない鈍行の飛行機で、トランジットで立ち寄るたびに、新たな乗客が乗ってくるので、機内食が提供され、若いバックパッカーの私にはそれだけで旅の楽しみを感じていた。機内食は添加物まみれと嫌う妻は、まったく信じられないと言うが、私はいまでも機内食がささやかな楽しみであり、各国エアラインの異国情緒で、また楽しからずや、であった。
インドを旅すると人生観が変わるといわれる独特の濃い文化に触れたら、いったい何が起こるのかと飽くなき好奇心が溢れる若い自分がいた。ヒッピー文化華やかなる時代に、Sitar(シタール)の名手Ravi Shankar(ラビ・シャンカール)に会いにビートルズはじめ有名なロックグループやギタリストが訪れた聖地。1960年代サブカルチャー一大ムーブメント:サイケデリックな生き方の本場を体感してみたかった。日本人と見るやあれこれ寄ってくる客引きや押し売りは、子供を初め東南アジア、南アジアでは、日々の生活が死活問題であることを象徴している。バブル期に浮かれた日本のボンクラ学生の物見遊山が、世界の格差を目の当たりにいかに恥ずかしい行動か、当時の私には認知できず、精神的にあまりに未熟であった。ムンバイからインドの特急列車で首都ニューデリーに向かうが、乗客から回収したランチのゴミを車窓から捨る風景、都市の周りに広がるスラム街に驚きつつも、尻目にしていた浅はかさを今でも拭えないでいる。
デリーから、世界遺産の代名詞的なムガール帝国時代の王宮Taj Mahal(タージ・マハル)のある町Agra(アグラ)にいった。第5代の王様Shah Jahan(シャー・ジャハーン)が、最愛の妃Mumtaz Mahal(ムムターズ・マハル)に捧げ建立した霊廟、白い大理石と左右均整の取れた完璧な美は、旅で出会た史跡の中でも絶賛。東南アジアと同じく、インドも街中の移動手段は、リキシャー(日本語由来らしい)と呼ばれる人力車が主流で行きかう車とバイクをくぐり抜けて走っていた。僕らがタージマハルを観光して戻ると、街の中心部へ戻る人々を客引きリキシャー引きが待ち構えていて、我々はたまたま近くのやせたおとなしそうなリキシャー引きにお願いしようとした。ところが、リキシャー引きの集団には力関係があるようでボスのような人物が、我々が声を掛けた人物はダメだと言い始め、俺たちの方で早く安く案内する、頼もうとしたリキシャー引きは弱くて馬鹿だなどと罵り、客を横取りしようとし始めた。我々は強引な横取りを阻止して、人の良さそうなリキシャー引きに頼み、荷台に3人乗りこむと、リキシャー引きは少しほっとした様子で、瘦せこけた体を鋼のバネのように勢いよくペダルをこぎ出した。蒸し暑いインドのストリートを一生懸命、未だ労働というものの意味すら知らない学生風情の3人を乗せて、頭から首から汗をほとばしりながらひたすらに自転車をこぐ後ろ姿。なんともいえない、いたたまれない感情が込み上げてきた。日本で何不自由なく暮らす学生の我々に対して、日々の生活を立てるのに精いっぱいの南アジアで暮らす人々の生まれ持った環境の違いに、申し訳ない気持ちばかりがじわりと込み上げる。力一杯にひたすら力強く走り続けるリキシャー引きの汗まみれの背中を見つめて呆然としていた。
古代ギリシャ・マケドニアのアレクサンダー大王による侵攻当時から、インド大陸は人間の本質を色濃く体現している大地だったようです。南アジアのヒマラヤ山脈を屋根とする三角地帯は、動植物が独自の発展を遂げた。ガラパゴス、マダガスカル、オーストラリアやタスマニアなどは、離島で隔離されたためであるが、インドは他の世界に晒されながらも異形の熱気を蓄えている。アグラの次には、エロティックな芸術彫刻のあるヒンズー・ジャイナ教の寺院群で有名なKhajuraho(カジュラホ)というインド中腹の小さな村を訪ねた。アグラから長距離バスでバンピーロードをひた走ること7時間、インド人でさえ乗り物酔いに見舞われ、若い女性も窓越しに吐いていたぐらいだ。インド地元の伝統音楽が鳴り響くバスに揺られて、時には天井に頭をぶつけながらも若さゆえに気にもせず、次に遭遇する未知の異国の街に向かう気分は高揚する。アグラでは、これまでの大都市とはうって変わって、のんびりした田舎町でゆっくり過ごした。寺院の境内で地元の若者たちと下手な英語でエロ話も交えて語り合うに、同年代の話題はどこでも変わらず、のどかな道を駆け抜ける子供たちの笑顔の美しさに感動。文明の毒に侵されていない眼差しがそこには未だあったのです。田舎の街角レストランには、都会人が失ったゆったりした時間が流れている。メニューをオーダーしてから、ふと店主がいなくなってしまい、どこに行ったのかと思うと、食材を買い出しにいって袋をぶら下げて戻ってきてからようやく料理を作り始めた。世界は途方もなく忙しなくなったが、本来はこうした「のどかさ」が普通であり平穏だったのだ。
インドのヒンズー教最大の聖地でGanges river bath(ガンジス川の沐浴)で有名なVaranasi(バラナシ―)を訪れる。当時は道路の真ん中をインドで髪と崇められている牛が堂々と歩いている牧歌的な光景と、人々とバイク、リキシャー、車が騒々しく行きかう喧噪が混沌と入り混じる街角であった。当時バラナシ―にはインド人と結婚した日本人女性が経営する有名な民宿があり、数多のバックパッカーが集まり情報交換の場となっていた。宿の屋上から雄大なガンジス大河を一望できる絶好のロケーションで、聖なるガンジスに登る朝日と沈む夕日を拝み、流れる人間や家畜の死体に生命の深遠さを哲学するパワースポット。インド・ヒンズー教徒の死生観は、すべてを許し飲み込んでくれるGangā(ガンガー)に流され清められることが究極。インドの宿には必ずGecko(ヤモリ)がいて壁に張り付いているが、害虫やマラリヤ蚊まで護ってくれる守り神です。大学の先輩男性、後輩の女性も各々一人旅で訪れていて、多国籍な宿泊者とともに異国情緒を満喫する。我々は友達3人でディフェンスを効かせながらの放浪であったので、女性独りの度胸と行動力には感服しひれ伏すばかり。先輩の男性は、道すがら行き交う牛が角を持ち上げたところ、思わず彼の陰部を直撃してしまい出血したため、インドの伝統医学アーユルヴェーダの医師へ通院にて療養を兼ねて滞在していた。Ayurveda(アーユルベーダ)は、世界三大伝統医学で、ギリシャ・アラビア医学、中国医学と並んで発展した古代からの医学体系である。宇宙の根本原理を追求したウパニシャッド哲学を基に体系化され、体のバランスを取ること、病気の予防・治療のみならず、より善い人生を目指すものであり、インドの占星術とも深い関わりがあるそうだ。我々は数日のんびりと滞在したのち、次の目的地へ向うに鉄道の駅まで夜が明ける前に宿を出発した。大きな通りに出るまで、ガンジス川沿いの細い小道をひたすら歩くのだが、野犬がいたるところにいてオオカミのように遠吠えしている。暗闇に眼だけが赤く浮かんでいて、狂犬病だらけと聞いていたので、いつ噛みつかれるか、慄きながら足早に駆け抜けた。
その後、北東部ビハール州にある仏教の聖地Bodh Gaya(ブッタガヤー)に移動した。仏陀が菩提樹のほとりで悟りを開いた地で、紀元前3世紀に仏教を守護したアショーカ王の建立を起源とするマハーボーディ寺院がある。駅から小型の乗り合いバスに乗り郊外に出ると、ガンジス川の支流ニーラージャナー川が道沿いに見え隠れしだしたが、その河のほとりに釈迦が菩提樹の下で悟りを開いたとされる仏教の聖地。マーハーボディ寺には本堂である高さ52mの塔と、金剛宝座、沐浴の蓮池がある。また各国宗派の寺院がその周りを囲んで建てられており、日本寺には日本人の坊さんが住んでいて、我々も菩提樹の近くで祈りを捧げてもらった。ゆったりと久しぶりの仏教建築を満喫した後、帰りのバスはゴトゴトと走り出したが、帰路の途中、山間で動かなくなってしまった。運転手はあれこれ故障の原因を調べ始めたが、なんとガソリンがなくなってしまっていたとのこと。どうするかと思いきや、しばらくして通りかかったバイクの兄ちゃんになにやら説明して救援を求めに行かせたようで、乗客たちはこんなことはよくあるかのようにおおらかに構えて、夏場のインドにしては不思議と優しい日差しが降り注ぎ、キラキラと輝くニーラージャナーの河原で遊んだり、道沿いでくつろいだりしている。ガス欠と分かって誰しも運転手を責め立て者はいないし、これこそ人間の寛大なありようなのかと、我々も不安に駆られた気持ちが和らいでいった。2~3時間経ったところ、ようやく補填ガソリンのポリ・タンクを運んできた救援者が到着し、小型バスにガソリンを流し込みだした。電車の遅れに神経をとがらせる、都会の忙しない社会からタイムスリップし、ブッタが悟りを啓いた河岸にて、現代人に失った寛容さと癒しを取り戻す気がした。
ブッタガヤーから東インドの大都市カルカッタまで寝台列車で移動する。寝ている間にリック荷物の盗難が気になり、腕に抱えて眠ったが無事に朝を迎え到着。広大なインド亜大陸を横断、カルカッタはまさしく人間の泥臭さが最骨頂に達し、マザーテレサの活躍で有名だが、貧困との絶え間ない苦闘に満ちたカオスの街として聳えていた。鳴り響くクラクションとバイク・リキシャー・車と人がごった返す喧騒に、ゴミの山に集まる動物やカラス、立ち込めるアンモニア臭が湿気に溶け込んでいる。バックパッカーにとっては聖地Sudder Street (サダル・ストリート)があり、巻き上がる埃と泥まみれの道路、怪しい気配とむせかえる生命力が幾多の放浪者を抱き込んでいく。南アジア、中東でタバコの煙は、Hashish(ハッシシ)などの大麻であることも多く、アルコール飲料が手に入りにくいことから、人々の気を紛らわす太古からの嗜好品なのだろうと感じる。なんでも体験してやろうという若さと好奇心で何度か試したが、笑いがとまらなくなり幻惑しそうになった。六本木・麻布のクラブで売られていたまがいものとは違い、正真正銘の原産品である。あえて誤解を恐れずいえば、煙草、アルコール、麻雀、セックス・・・中毒しかり、太古の昔から人間の営む習俗である。土地柄として、お酒が手に入りにくい代わりに、たくさん生えている薬草の喫煙で心を鎮める。生きる安らぎを一瞬でもつかもうとする(人生の苦悩から逃避する)嗜好品の品種に他ならないのである。アメリカ諸州でMarijuanaマリファナ合法化/解禁がなされているが、ポルトガルは先んじて施行しており、薬物政策や依存症ケアなどサービスモデルを確立すれば、犯罪率低下の効果ありといわれる。何が良くて何が悪いという二元論でレッテルを貼るべきではなく、先入観や一般論ほどはかないものはないのではないか。
インドのカルカッタから隣国のバングラディシュの首都Dhaka(ダッカ)で留学生の友人に会うべく空路を移動した。物乞いのストリートチルドレンや凄まじい市街の混雑と喧騒でインドとは一見似ているが、国土を覆う豊かな緑に荒んでいない人々の親切さをより感じる気がした。パキスタンと同じくインドのヒンズー文化を跨いで成立したイスラム国家であり、世界の最貧国の一つに数えられる貧しさの中にも、温かい素朴さがあるように思われた。友人はダッカでカーディーラーの会社を経営するラーマン氏の御曹司であり、召使が正門を開ける大きな邸宅の実家に数日泊めてくれて歓待された。学生の我々には、東南アジアの王族の館に案内されたようで、空港からの道路沿いで物乞いする多くの子供たちを見るに、著しい格差社会を垣間見る日々だった。連日、様々なスパイスの効いたバングラディシュ料理でもてなされ、ビーチで有名なCox's Bazar(コックス・バザール)というベンガル湾に面したリゾートまで案内するとのことで、ラーマン君の兄と一緒に小旅行に連れて行ってもらった。行きは、寝台特急の列車で帰りは車の旅であったが、寝台は2段ベッドの2つあるコンパートメントで、じゃんけんで下の寝台で寝ることになったが、なんと電気を消すと途端になにやらBedbug(ベットバグ:南京虫)が寝台の隅から湧き出てきていることに気付いた。持っていたライターで必死に応戦するが、光が消えるとまた動き出してくるため、夜通し眠れず、ほとんど徹夜の車中泊となったのは、懐かしい。当時アジアのユース・ホステルでは、ベットの毛布は使いまわしで、それまでも寝ていて痒かったから、既に共生してたのだろうけど、まじかに押し寄せると応戦は至難を極めた(苦笑)。まあ若かったので、そんな些事は一瞬で忘れ去り、友人達とベンガル湾の浜辺で満天の星空を眺め、斜めに横切る流れ星に急いで願いを掛けていた。
世界史への大いなる興味から若かりし頃バックパッカーとして漂流したが、特に南アジア・中東の神秘に魅せられた。パキスタンの港カラチのデルタからカシミールの山岳地帯。イスラエルの嘆きの壁、キリストが十字架に掛けられたゴルゴダの丘、聖墳墓教会。イスラエルの出国は厳しく、身ぐるみ剥され、何故入国したのか尋問される。拙い英語で一生懸命に「世界史の興味が溢れ聖地を巡っているのだ」と、女性審査官に繰り返しまくし立てた。入国の際には素通りさせるのにどうしてと、不可解ながらも、ユダヤ教の安息日にも拘わらず、担当官もご苦労さまであった。イスラムモスクのコーランの祈りは、心に沁み射るが、いかなる宗教も唱える情念は似ていて源流は同じ。トルコは東西文明の十字路であり、エーゲ海とメソポタミアに近い肥沃な大地は、農作物を豊富に育んできた。意外と知られない世界三大料理のトルコ料理は、郷土に根差したスローフードの価値観をもっとも体現してらしい。人生の刹那にて、アンカラとカッパドキアを結ぶ山間部の峠を、乗り合いバスで越えていた情景は忘れられない。晩冬の雪が舞い散る窓の眺め。Orion=the Hunterオリオン座とThe Big Dipper(米)""The Plough(英)北斗七星の輪形が眼前にくっきりと迫り、神秘のメッセージを持つ光景としか思えなかった。
当時はガイドブック片手に流離う異邦人の人たちとの交流で不確かな情報を拾い集めながら、未知の土地と民族に心躍らせたものである。旅路を通じて何度も遭遇する旅行者が多いのも、たんに同じような街を行き来するからかもしれないが、その奇遇な確率はいささか不思議だった。ただ、旅路の出会いは、船上の出会いのように儚い。互いに異国の街角に佇み、あっという間に、昔から仲が良かったかのような錯覚に陥りやすい。ところが、まったくといってよく知らないまま、きっとまた会おうねと別れて、記憶の彼方に潜んでいく。ところで、言葉が通じない現地人と心を通わせるコツというほどではないが、When in Rome, do as the Romans do (郷にいては郷に従え)、ローカルフードを果敢に味わうことかも。学寮で一緒だった華僑マレーシア人の友人ロー・チン・ウィー氏とインドネシア(スマトラ、ジャワ、バリ)横断する旅をした際、クアラルンプールから1時間ほど郊外、彼の自宅に1週間泊めてもらった。英語の通じないご両親のおもてなしで、ご当地名産Dorian(ドリアン)をテーブルに目いっぱい出された。ここで居候させてもらった恩義に応じるべく、強烈なドリアンの臭気に格闘しながらも、めちゃめちゃ美味しいですと言って平らげた。
世界中を駆け巡り、異国の食と文化を取材したAnthony Bourdain(アンソニー・ボーディン)氏のスタイルは憧れだった。レストラン業界の裏側を暴露した「Kitchen Confidential(キッチン・コンフィデンシャル)」以来、フード・ジャーナリズムを体現した男前シェフの他界(2018年)は、多くのファンに衝撃を与える。彼が遺した名言「ただオープンでいること。恐れないこと。酒を飲むのが適切な行動であれば、思い切り飲む。誰かほかの人の立場に立ってみる。少なくとも彼らの食べ物を食べる。それは誰にとってもいいことだ」「世界を旅すると、君はものごとに少しだけ変化をもたらす。君は小さいながらも痕跡を残すんだ。そしてその代わりに人生と旅も君に痕跡を残す。君の心と体に残る痕跡は美しいものだ。大抵の場合はね。でも時にはとても痛いものもある」が心に沁み入る。少し古いけど、小田実氏「なんでも見てやろう」や、沢木耕太郎氏の「深夜特急」の精神に感化され、自分の目で見て体感したかった。更に言えば、「少年の心で旅をする」という開高健氏のノンフィクション冒険魂に魅せられていた。いまのようにネットで何もかもが、瞬時かつ明け透けに知り尽くせてしまうのは、悲しいかな、興ざめな世界ではないか。デジタル・バーチャル社会は便利だが、潤いなき乾いた原野と思えてならない。旅のロマンと熱気がプンプンただよっていた時代の背中が遠ざかるに、やるせない哀愁に包まれる。
11. ハドソン・バレー
殊に日本では銀行マンというと、お金を預けるに信頼のおける人種と評される一方で、昔は髪型が七さん刈りで黒ぶちメガネといった、硬くて面白みのない業界であろう。製造業をはじめ一般的なサラリーマンはまだしも、華やかな印象の商社、マスコミに比べると、どうしようもなくつまらない堅物との想像はやむを得ないイメージ。しかし、入社したバブル期、都心の主力支店はむしろ、イケイケどんどんの旺盛な金融マンが闊歩していたし、バブル採用と揶揄されながらも、銀行員らしくない遊び人が大いに混じっていた。昼間は硬い銀行マンを装いながら、夜の街に派手に繰り出しユーモアな粋があったのである。しかし、バブルが遠のき就職氷河期が色濃くなった21世紀に入ってからは、威勢のよかった人事採用もすっかり鳴りを潜め、無難で品行方正、お行儀のよくて忠実な人物がより多く入社してくるようになった。まじめで仕事熱心ではあるが、羽目を外す度量など微塵もなく、減点されないよう旧来の銀行の出世システムを着実に登る、いわば事なかれ主義の風土に回帰している。まあ、デジタル社会自体、バーチャルで内向きの関係がコアになっているので、銀行のみならず、社会一般の傾向なので仕方がない。ただ、ひところから言われる草食系の男子の増加に比して、女子はますます元気でキャリア意欲旺盛な肉食化が進んでいる。バブル期にいわばキャリア採用の女子は数名であり、大勢はアシスタントの事務職などと呼ばれる区分で入社していたが、21世紀以降に増加して採用時に男子女子のジェンダーギャップはだいぶ解消されている。同時に海外赴任する女性も順調に増えてきており、古来の銀行の固定観点は徐々にではあるが、崩れ掛けている。とはいえ、未だ男性社会であり部長・役員レベルでは相当限られており、男性おやじの既得権益を手放さない実態が垣間見える。例えば、職場にてLGBTQ、DI&I(Diversity, equity, and inclusion) を標榜するならば、まず役員秘書が男女半々になって然るべきではないか。
よくヨーロッパ駐在では、家の電化製品や機材が壊れて修繕を必要とする場合、その業者に頼んでもすぐには絶対来ない、数週間も掛かることさえあるという話はよく聞く。今ではどの程度なのか知らないけれど、アメリカに関していうと、そこまでひどくはない。ニューヨークのドアマン付きマンションでは、Handyman(ハンディマン)といって、家周りの修理などに幅広い技能を持つ何でも屋の修繕スタッフが常駐していることが多い、我々も、だいぶお世話になった。日本に比べるとやはりちょっとした事が起こりやすく、備え付けの電気機器が故障した、暖房の効きがおかしい、浴室の排水溝が流れない、トイレが流れないなど様々、フロントに電話して、ハンディマンを呼んでもらう。来てもらうとチップを渡して御礼するが、なんだかんだと些細な故障は多かったので、そのうち顔馴染みになることはよくあった。トランプ・プレイスのコンドミニアムでは、3人のハンディマンが交代制で、スーパー・インテンデントのパトリック配下で働いていた。私たちの部屋のオーナーが気に入っている調子のよいロブ、パトリックには軍隊の上官のようにイエス・サーで返事をする大男ダン、どことなくニヒルなニックと三者三様だ。交代で常駐してくれていて、何か故障や不具合があると助けに来てくれる。ただ、すべてではなく、ケーブルテレビがうまく映らない時には、当時のケーブル会社(Time Warner タイム・ワーナー)に直にコンタクトするが、もちろん日本と違い対応は芳しくない。
修理よりもひどかったのは、価格設定で、初回加入時には安く見せかけてどんどん自動的に高くなる体系であった。しかも、何だか理由が分からないまま料金が上がっていることがあり、何度も問い合わせの電話を入れるが、この対応は劣悪であった。電話がつながるまで相当に待たされるし、ようやく繋がってクレームをすると、適当にごまかして煙に巻こうとする。粘って問い詰めると、更に質の悪いことに、たらい回しにして音信不通となるようなことが常とう手段だった。私は、こうした態度はまかりならんと果敢にチャレンジすると、時には先方も根負けして、上司につながれ、その権限で(不正請求かわからないが)増額分は取り消す、次回の請求書でプラスマイナス調整するという回答を勝ち取ることがあった。こんなことまで拘っる日本人は珍しく、だいたいは少額だからと諦めるのかもしれないが、クレーマー英語でも英語の特訓に少しはなった。大体、コールセンターのスタッフは、アメリカ本土にはおらず、地球の反対側インドやフィリピンであるらしく、インド訛りの英語がもっとも多かった。この忍耐強いやり取りは、途中からスカイプのチャット機能登場で代替され、それなりに親身になってくれるケースが多くなり、劇的な応対改善に驚いたものである。
ニューヨークの秋到来は年によって差があり、8月下旬から肌寒くなり、半袖だと寒くなる日が出てきたこともあれば、9月中旬まで真夏の残暑が続く年もある、いずれも秋は行楽の季節であることに変わりない、子供のいない私たちは子供の夏休みに応じてレジャーに出かける必要はなく、むしろ新学期が始まった9月以降、日差しの少し穏やかになるとともに、ドライブを楽しむことが多かった。なんといっても、昔からニューヨークの駐在員がよく語るのは少し郊外に出かけただけで、日本の軽井沢のような光景に出会えること。東京のサラリーマン一軒家は狭小住宅であるが、ニューヨーク郊外でバックヤードのある一戸建てに住むのも現実味を帯びている。それは21世紀になっても然程変わりなく、喧噪のマンハッタンを脱出しブロンクスを抜けてウエストチェスター郡に入れば、ビルの谷間から一転して緑の山林が広がってくる。東京のように少し郊外に出ても、変わり映えしない地方の住宅地と商店街が繰り返されるのとはだいぶ違う。
一回目の赴任時は、アッパーイーストとハーレムの教会、95丁目のファーストアベニューから、FDR Drive(Franklin D. Roosevelt East River Drive)というイーストリバー沿いのマンハッタン東岸を走る高速に乗ってブロンクスのジャンクションにあがっていた。丁度入り口の手前に地価が高いマンハッタンでは件数が限られているガソリンスタンドがあるのも便利であった。今回ウエストサイドでは、72丁目のウエストエンドから、Henry hudson parkway(ハドソン・パークウエイ)を雄大なハドソン川とハーレムの街並みを横目で見ながらまっすぐにマンハッタンの先端まで行きルート9から分岐したSaw mill river road(ソーミルリバー・ロード)を駆け上がり、ブロンクスからウエストチェスター郡を縦断していく。ブロンクスからアップステートに走るハイウエイは何本かルートがあるが、私たちのお気に入りはのどかな風景と秋の紅葉がきれいなこのソーミルリバーロードとその先更にマサチューセッツ州の南端まで伸びるTaconic State Parkway(タコニック・ステート・パークウェイ)だった。初回の赴任時には、若かったので近郊の山登り、ハイキングを満喫したが、今回も再び摩天楼の大都会に住む分、週末はなるべく澄み切った自然を味わくべくマンハッタンを脱出して暮らそうと誓っていた。実際は、激務の疲れもあり、なかなか毎週とはいかなかったが、前回のFDRと同じくハドソンリバー・パークウェイに出やすいウエストエンドの地の利を活かし、さっと車でドライブというのが私たちの日課であった。ドライブでは、立ち寄る街とレストラン、カフェを見繕うことが肝心で、最初の赴任時から、ウエストチェスターの行きつけは、Tarrytown(タリータウン)というタッパンジーブリッジの入口にあるちょいおしゃれな街。ライトエイドというドラッグストアの駐車場に車を止めて、メインストリートのカフェレストランで一息。タッパンジーブリッジは、ハドソン川のウエストチェスター郡とニュージャージー方面のロックランド郡をつなぐ交通の要所で、ジョージワシントンブリッジより更に川幅の広がる領域に架かる約5km近い長さである。タリータウンのメインストリートから坂を下って河畔に面した公園ピアソンパークから眺めることができる。因みに、アメリカの高速道路は日本のように通行料金を常時取ることはなく、特別区間道路や橋の通行時に料金が徴収される。マンハッタンに亘るGeorge Washington Bridge(ジョージワシントンブリッジ)は、初回赴任時は6ドルぐらいだったのが、今回2012年に赴任した際には15ドルに値上がりしていたのには驚いた。マンハッタン周辺の港湾や地下鉄を管理するニューヨーク都市交通局MTAの財政問題に起因しているのだが、GWBの次にハドソン川を渡るTappan Zee Bridge(タッパンジー・ブリッジ)は5ドルほどであり、マンハッタンに帰る際には、ここでウエストチェスターに渡った方が通行料は安く、渋滞も少ないといえる。タッパンジーの次に上流にあるBear Mountain Bridge(ベア・マウンテン・ブリッジ)まで行くと1ドル程度で渡れ、更に上流のブリッジで渡ると無料となる料金体系になっていた。ソーミルリバーロードが終わるウエストチェスター北部のチャパカという小さな町のスターバックスもよく通過点として立ち寄った。チャパカはクリントン元大統領夫妻が退任後に住んだことでも有名になった自然に囲まれた静かな地域。グランドセントラルから、郊外在住の派遣社員が利用するメトロノースのハーレムラインでも1時間程(そこまで遠くに住んでいる派遣社員はいないが)掛かるが行ける。
ウエストチェスター郡からハドソン川沿いのルート9を北上して、パットナム郡を抜け、Dutchess County(ダッチェス郡)に向かうと、Newburgh-Beacon Bridge(ニューバグー・ビーコンブリッジ)、ハドソンラインの終着駅であるPoughkeepsie(プーキプシー)という町を超え、マンハッタンから約2時間余り走ると、Rhinebeck(ラインベック)という小じゃれた町は、私たちのお気に入りであった。長年一緒に働いてきたローカルスタッフの優しいおばちゃんは、ハーレムラインの北部から2時間かけて通勤していたが、彼女も一押ししてくれていた町である。おしゃれで可愛らしい洋服屋、雑貨屋やヨーロッパ系のレストランが穏やかな通りに軒を構え、クリントン大統領の娘チェルシーが結婚式を挙げたそうである。PoughkeepsieからRhinebeckへの北上で脇道にそれると、Innisfree Garden (イニスフリーガーデン)というセンス良くデザインされた植栽園があり、春・秋には必ず訪れ安らぎを得ていた。ニューヨーク州、ニュージャージー、コネチカットのトライステートの郊外をドライブしていると、整備の行き届いた富裕層の多い地区と、なんだか薄寂れた感のある地域がまだら模様であることが多い。Tarrytown(タリータウン)、Chappaqua(チャパクワ)、Rhinebeck(ラインベック)はゆとりのある白人系の落ち着いた街で、ドライブの休息を安心して取ることが出来る。
ハドソンバレー上るルート9沿いには、沢山のマナーハウスや邸宅・庭園があり、ドライブの観光には事欠かない。タリータウンにあるLyndhurst Mansion(リンドハースト邸宅)は、1838年に建てられた富豪のお城風カントリーハウスで、緑豊かな高台の広大なバックヤードからタッパンジーブリッジとハドソン川を眺望でき毎年春秋に訪れる定番であった。車を使わずともメトロノースのハドソンラインの列車で十分日帰りもできる場所にあるのが便利。この北側のノースタリータウンは、Washington Irving(ワシントン・アービング)の短編小説から名づけられたスリーピーホロ村として1997年に改名している。開拓時代のアメリカに渡って来た残虐なドイツ人騎士がいた。彼は殺されて首を斬られたが、やがて「首なし騎士(Headless Horseman)」として復活し、光る眼を持つ馬に乗ってニューヨーク近郊の森の中で犠牲者を待っている、というものである。村の至るところにスリーピーホローの伝説にまつわる観光案内があり、Sleepy Hollow(スリーピー・ホロー)墓地には、クライスラー自動車の創設者ウォルター・クライスラーや、カーネギーホール建立の実業家アンドリュー・カーネギー、大富豪ウィリアム・ロックフェラーとその一族、著者であるワシントン・アーヴィングのお墓もここにある。タリータウンの次は駅名の文字通り、Philipseburg Manor(フィリップスバーグ・マナー)という1693年に遡るオランダ人大地主、貿易商フレデリック、フリップスの邸宅とプランテーション領地がある。オランダ経由で連れてこられたアフリカ人奴隷・奉公人と領主の集落を再現(1750年頃)している。
風光明媚なハドソン川沿いには、アメリカンドリームを物語る富豪や名士達の邸宅、庭園が非常に多い。ラインベックの手前にあるハイドパークという町には、Franklin D. Roosevelt(フランクリン・ルーズベルト)大統領の生誕から生涯の保養地として過ごし埋葬地となった緑豊かな私有地、オランダ移民から鉄道王として巨額の財を成したヴァンダービルド家の邸宅が国定史跡となっている。ダッチェス郡からタコニックステートパークの先まで快走して北上すると、東側はもうマサチューセッツ州との州境になる。マサチューセッツ側に入り一般道を少し走ると、Hancock Shaker Village(ハンコックシェーカー・ビレッジ)というプロテスタントの一宗派の暮らしを再現した村がある。シェーカー教は、マザー・アン・リーが率いて1747年に分派し、共同生活、男女平等、禁欲、独身主義、勤勉、質素を心がけた宗派であった。建物も含め、ほとんどすべてのものは簡素で美しい手作りで、今でもその工芸品は世界中の人々を惹きつけている。私の妻もお気に入りであったため、このスポットは、ニューヨーク州、コネチカット州、マサチューセッツ3州の中継点としてランチ休憩を兼ねて度々立ち寄っていた。
同じように、共同生活をしていたキリスト教ルター派から派生したアーミッシュのコミュニティには、今でも独自の規律でほぼ自給自足の農業と電気を使わずに馬車で生活している。ニューヨークから車で3時間程のペンシルベニア州ランカスターは、今では観光地となっている。妻がAmish(アーミッシュ)のキルト生地に興味があり訪れたが、原発問題のあったスリーマイル島から近いことが分かって、放射能汚染を気にしてそれ以降は行かなくなった。ランカスター以外にも、オハイオ州やカナダのオンタリオ州にもコミュニティがあり20万人程のドイツ・オランダ系の宗教集団である。興味深いのはアーミッシュの子供が16歳になると「ランスプリンガ」と呼ばれる自由時間が与えられ、アーミッシュの子供たちは都会に出て遊ぶ、お酒やたばこ、時にはドラッグなど、さまざまな体験を経て成人を前に、生涯をアーミッシュで生きるか、俗世で暮らすかを選択できるとのこと。しかし、21世紀のいま、そうした厳格な慣習は、脆くも崩れ去っているらしい。
真の大自然を満喫するには、その先ニューイングランドの深部、State of Vermont、New Hampshire、Maine (バーモント、ニューハンプシャー、メイン州)まで車を飛ばして駆け上がることをお勧めする。お気に入りは、ニューハンプシャーのホワイトマウンテンエリアで、ニューヨークからだと少なくとも2~3泊以上の旅行でコースを組み立てるのがよい。妻の繊細な観察によるとNY州中部のCatskill(キャッツキル)やコネチカットの森林を流れる河川でも、生活排水で既に汚れているとの見解である、ようやく、彼女のお眼鏡に適ったのは、ニューハンプシャーの奥深い山間を流れる澄み切った清流だった。世界中は隅々まで開拓されつくし、残された桃源郷はほんとに限られていると、アメリカの大自然であっても痛感する。Rachel Carson(レイチェル・カーソン)女史の名著「The Sense of Wonder」が示唆するように、美しく瑞々しい湖水と森林から、大人が失った感受性を覚醒させる。
ニューヨークの近隣の姉妹都市としては、旅行ガイドブックでも大人気のボストンとワシントンであろう。ボストンはNew York Yankees(ヤンキース)とライバルのBoston Red Sox(レッドソックス)の本拠地で、ファシリティのボス、ダンカンはよく車をぶっ飛ばして、ボストンに日帰りで試合を見に行くといっていた。ボストンまで車を走らせ5時間、ワシントンの方は若干遠い感じだろうか、子供ずれで昼食休みなど入れることを考慮すると朝ゆっくり出て夕方着くぐらいの想定かな。ボストンは、チャールズリバー、ワシントンはポトマックリバーと大西洋に注ぐ河畔に位置しており、人類の居住地と繁栄は河川と密接な関係にあることを思う。
ボストンは、赤茶色のブラウンストーン建築のタウンハウスにお洒落なショップやレストランが軒を連ねるBack bay(バックベイ)地区がお勧め、歴史的でシックな面持ちのレノックスホテルが行きつけだった。アメリカ北東部の街歩きで、名だたる名門大学のキャンパス巡りは、旅の風味を引き立たせるスパイスかもしれない。
ボストン旅行での定番は、Harvard(ハーバード大学)、MITマサチューセッツ工科大学の僚友コンビで、ともに歩いていける地区にある。僕のお勧めは、ニュージャージー州のPrinceton(プリンストン大学)で、イギリスの寄宿舎風を思わせ秋の紅葉に映える詩的な情景のキャンパスの佇まいは美しい。Yale(イエール大学)はニューヘイブンというニューヨークからメトロノースNew Haven(ニューヘイブンライン)起点となるConnecticut(コネチカット州)の街にある。さぞかし歴史のある大学街かと思いきや、キャンパス周辺を除いては治安が悪く、通り沿いは用もなくぶらついている輩も多く、不穏な気配を感じる市内に、アカデミックなキャンパスが共生するミスマッチさが不思議であった。
ワシントンDCはアメリカ政治の中心として整然とした計画都市だが、実は黒人50%であり白人の35%を上回る人種構成の特別区、つまり連邦政府の直轄地であることはあまり気づかない。周囲はメリーランド州とバージニア州に挟まれた一区画でしかないのだが、超大国の首都機能を果たすために築かれた計画都市で影響力は凄まじい。ワシントンは、日本人観光客や駐在員にはアメリカでの桜の名所として有名で、ポトマック公園のダイダルベイズンという入り江には、1912年に日本から贈られた桜並木。桜の植樹を思いついたのは、紀行作家で写真家、ナショナル・ジオグラフィック協会初の女性理事でもある、エリザ・シドモア。1884年(明治17年)に日本を訪れたとき、向島の桜の美しさに魅せられ、埋め立て工事が始まったばかりの殺風景なポトマック川沿いに日本の桜を植えようと、Potomac River(ポトマック川)沿いに毎年100本の桜を植樹する活動を始めた。1909年4月、ウイリアム・タフトが第27代大統領に就任すると、大統領夫人も、ポトマック川周辺の埋め立て地に、優雅な桜を植えたいと考える。実はタフト夫人は1903年に家族と日本を訪れ、荒川沿いの桜並木を見て、桜の美しさに心を奪われたそうである。3人に加えて、日本人の科学者、高峰譲吉博士は、彼はニューヨークに在住し、「アドレナリン」を発見した人物。彼はタフト夫人が桜の植樹を推進していることを知り、当時の東京市長・尾崎行雄にも協力を要望。こうして、「ワシントンに桜を」という4人の念願がかない、1909年11月、横浜港から2000本の桜を乗せた船がワシントンへと出航した。ところが、翌1910年1月にワシントンに到着した桜は病害虫に侵され、防疫検査を通過できず、泣く泣くすべてが焼却処分となってしまった。しかし、高峰博士と尾崎市長は桜を贈ることをあきらめず、次に贈るときは病害虫に侵されることがないよう、綿密な計画を立て、荒川の桜に接ぎ木などを施して、健康な桜の苗木を育てた。1912年に桜の苗木は再び横浜港を出発しアメリカ西海岸のシアトルに到着、そこから冷蔵貨車で大陸を横断してワシントンへ搬送され、ついに植樹の式典に至った。アメリカ政府は、このお礼にDogwood(ハナミズキ)を日本へ贈り、日比谷公園などに植樹されたという。
そうしたワシントンのMandarin Oriental(マンダリン・オリエンタル)に泊まった時の裏話です。妻がほかの部屋の話声など騒々しい物音に反応して、夜中フロントに交渉して部屋を変えてもらった。いったいなんだろうか、と思いきや、サウジアラビア王子ムハマド・ビン・サルマンがトランプ大統領との会談で訪れたの事に起因していた。大勢のお付きのもの達が、ホテルのフロアを貸しっきりで占拠して騒がしくおしゃべりや行き来していて、我々だけなぜか同じフロアの部屋に取り残されていたのである。妻はそれなりに高級ホテルたるもの、要人絡みの来客に些末なアジア人二人を取り残すとは、不届き千万と憤慨していた。
ボストン、ワシントンの他、観光名所Niagara falls(ナイアガラ)があるが、その手前にFinger Lakes(フィンガーレイク)という細長い指のような湖が連なる地域に派遣社員はあまり気に留めないが、静かな自然を楽しむドライブにはうってつけのエリア。北東部のワイナリーとして有名で、ドイツ系移民の系譜から白ワインのRiesling(リースリング)が代表的な銘柄である。ニューヨークからは、朝出てキャッツキルを斜めに横切り北へ走ると、途中ゆっくりランチや景色を楽しんで夕方に到着できる。最寄りのイサカという町にはアイビーリーグの一つCornell University(コーネル大学)があり、ナイアガラのバッファローと同じく大雪が降る地域である。コーネル大学のキャンパスはゆったりと丘陵の斜面に広がり、近くにある植物園も含めて自然豊かな全米でも有数と言われる通り、眩い美しさだった。コーネル大学は、観光学(ホテル経営学部)でも有名で、大学の学生がスタッフとなって研修するホテルに泊まることができる。
12. オクシモロン
海外にいる限り「ギンギラギンにさりげなく」を貫いて生きたいものだが、組織の中で働く限りそうはいかず、理不尽なことは往々にしてある。古風な儀式が化石のようにいまだに続いていたのが、国際会議の総会に合わせてくる社のCEO訪米であり、拠点を挙げて仕事をそっちのけで、最優先事項として受け継がれてきた。さすがに良かったのは、CEOが独身であったため、夫人同伴でなくなったことだ。それまでは、CEOの奥さまもいわば大統領夫人であるかのようにもてなすのが、恒例である。更には、拠点パーティの前座に、婦人会と称して派遣社員の奥さんが出席する女性同士の奥様会があった。子供のいる家庭では、そのためにベビーシッターを雇って、出席しなくてはならず、たまったものではなかったが、日本特有の同調圧力があってか、出席率は非常に高かった。個性的な妻は、私は会社とは関係ない一個人という独立心を貫いていたため、帰国前の年に一度だけ興味本位で出席した以外は欠席していた。場所はウォール街に近い日系会員制クラブの保有するビルの大広間で行われ、丸テーブルが並ぶ一見しては結婚式会場のようになる。CEOが各テーブルを順に回って、派遣社員とその奥様方と会話するが、本部からは物々しく余計にお付きの多い御一行様となる。当初赴任していた頃は、奥様が旦那と瓜二つの強烈なおばさまで、欧州に赴任した経験のある方だった。市内観光に付き添いでいった数年上の先輩は、「なんでマンハッタンの街はこんなに汚いの、ロンドンはここまでじゃなかった、あんたどうにかしなない」と怒鳴られたといって苦笑していたのを思い出す。一日目は高級デパートでのお買い物をエスコートした後、大リーグのヤンキース戦かテニスの全米オープンにご招待。2日目は奥様会の前に、有名なヘアサロンで髪のセッティングにご案内と、まったくもって仕事と関係のない観光のお供を命ぜられていた。なにしろCEO夫人は、当時最終運行の超音速機コンコルドにどうしても乗りたいといったらしい。そのわがままで、まず欧州拠点を訪問し、大西洋を渡ってきたとのことだった。
派遣社員の奥様の集まりは、CEO来訪時に限らず、現地ベースでも誰か仕切り役の奥様がいると、2000年初頭頃まで自然発生的に開催されていた。そこでは、支社長の奥様を女王のように会社の序列に倣うのが暗黙の了解で、大方のご婦人たちは嫌な催しだったに違いない。ニューヨーク郊外で派遣社員の多く住むウエストチェスター郡では、メトロノース鉄道の路線別に、Harlem Line(ハーレムライン)会、New Haven Line(ニューヘイブンライン)会、Hudson Line(ハドソンライン)会に分かれていたりする。会社上席者の奥様が幅を利かせ、下々の妻は気を遣って下働きを担うなど、理不尽な構造になりがちである。Potluck party(持寄りパーティ)では、若い奥様方が調理が大変な料理を担当するとか。まあ、海外赴任がまだ珍しかった昭和の高度経済成長期には、ガイドブックやネット情報もないなかで、慣れない家族の相互扶助を意図したという背景はあるだろう。しかしながら、封建社会かと錯覚するような奥様会が、商社や金融業では少し前まであたりまえだったなんて、信じがたいかもしれない。
10月からはオペラやクラシックのシーズンであり、ほとんど無知だったが、芸術愛好家の妻から教えられて、Linclon Center(リンカーン・センター)には何度も通うようになった。オペラは素人にはとっつきにくいスノッブ趣味で、欧米人でも「何が楽しいのかわからない」と言う人は多い。私も初期に見たAida(アイーダ)では、妻の横で居眠りを掛けていたところで、舞台に本物の馬が堂々と登場してきて、何やらびっくりして起きたといった体たらくから始まった。ただ、いったんのめり込むと次は何を見ようかと様々な演目に目を奪われることになる。初心者には、聞き覚えのある曲目でストーリーもシンプルかつダイナミックな展開のあるCarmen(カルメン)などがよいでしょう。ひと昔前なら女性はドレス、男性はタキシードとおめかしの場であったかもしれないが、今ではテーシャツにチノパンのおっさんも交じっていたりして、職場と同じでカジュアル化が急速に浸透していた。それでも、豪奢な夜会ドレスの女性をダンディー男が、エスコートするカップルのファッションなど、業界人でない一般庶民にとっても、格式のある雰囲気をそこそこ堪能できるのが、メトロポリタン・オペラである。学生や一般庶民が観られるように一番天井桟敷に近いエリアはファミリー・サークルと呼ばれ、演目に拠るが以前は最安で30~50ドルだった。僕は大抵その次のバルコニーが多かったが、たまにこれはという念願の演目には少し奮発して、ドレス・サークルのチケットを購入する。初回赴任時は、イーストサイド居住だったので、公演の終了後は、深夜の地下鉄を避けセントラルパークを横切り帰っていた。イエローキャブのラジオから流れ聴くBilly Joel(ビリー・ジョエル)の「New York State of Mind」の哀愁漂うメロディーが、マンハッタンの夜霧と溶けあい、なんともいえない甘美なムードに酔いしれる。
本場欧州のオペラに比べても、Metropolitan Opera House(メトロポリタン歌劇場)は、その豪華さでは際立っており、投下資本を拠出する名だたる企業やパトロンのお陰であった。日本と違って税制上の優遇も手厚いのと、キリスト教の精神を帯びて、欧米の資産家・篤志家は芸術への寄付を惜しまない。私のベストは、イタリア・フィレンツェ出身の演出家Franco Zeffirelli(フランコ・ゼッフェレッリ)の演出による、La Boheme(ラ・ボエーム)、La Traviata(ラ・トラビアータ:椿姫)、Turandot(トゥーランドット)は舞台芸術と精巧な演技は絶品で、高度な完璧さに魅了された。田舎の中高生だった頃に、購入したクラシックレコード曲集の中で、お気に入りだったタンホイザー序曲のオペラに出会えたのは、時を超えた邂逅を感じた。ワーグナーは、ダークで難解なロマン派オペラの巨塔で見応えはあるが、いかんせん重たい。タンホイザー第二幕歌合戦の場面は圧巻である。ワーグナーの長編4部作「Der Ring des Nibelungen(ニーベルングの指輪)」は、あまりに重厚すぎて(4部作合計15時間超)途中で断念しており、いずれ老年になる日までにじっくり観劇してみたい。ある時、妻が急に行かないと言い出して、メットの前でチケットを直に売りに出したことがあった。なかなか売れないだろうと思いきや、風狂なおじさんが寄ってきて買い付けてくれたのはよいが、話ついでに一緒に見ようということになった、バルコニー席のチケットだったが、そのおっさんは、開演の直前にちゃっかり向こうのグランドティアの空いている席にひょっこり移っていて、そのしたたかさには驚いた。続けて、特筆するオペラを挙げると、モーツアルトオペラの子供向けに親しまれている定番の「The Magic Flute(魔笛)」、夜の女王のアリアが至高の名曲で子供向けになりがちな英語より本場ドイツ語版がよい。
リヒャルト・シュトラウスの「Salome(サロメ)」は古代エルサレムを舞台にした新約聖書の挿話で、オスカーワイルドの戯曲で世紀末のデカダンス、極めて官能的な表現が衝撃的な作品。原作は聖書に出てくる「洗礼者ヨハネの斬首」のエピソードをもとにオスカー・ワイルドが書いた戯曲。預言者ヨハナーン(洗礼者ヨハネ)に恋をして、口づけを迫るものの拒絶されたサロメは、結局ヨハナーンを殺し、その首を手に入れて口づけする衝撃的な展開。更に、サロメは母親の再婚相手であるヘロデ王の自分に対する愛情を利用。ヘロデ王が踊りを踊る代わりに、なんでもほしいものを与えると約束を交わし、官能的な「七つのヴェールの踊り」を演舞する。ストリップのような「踊り」のクライマックスで、主役が意を決してエロティックな全裸になるのだから、その過激な演出たるや、初演以来100年以上物議を醸してきた超絶劇。フランス映画でジェラルドドバルヂューが名演技をしたロマンティックな「Cyrano de Bergerac(シラノ・ド・ベルジュラック)」。また、夏の終わりには、メット前のリンカーンセンター広場を使い屋外のビデオ上映をしており、誰でも通りすがりフリーで観劇できた。「Roméo et Juliette(ロミオとジュリエット)」も夏の夜にふさわしい演目が印象的でした。
アメリカとは移民から形成された陽気で明るい国と一見する部分があるか、こと政治的には怖い国である。原住民のインディアンを虐殺し、大国イギリスから独立して、かつ南北の内部対立に南北戦争を起こし何とか収めて50州もが集まった合衆国をどうにか維持しているのだから、そこには中国やロシアの独裁傾向を彷彿とさせる政治力が必要なのである。見た目には分からないが、世界の大国として君臨するための権謀術数が渦巻く湿地帯。資本主義の権化・総本山であるニューヨークのマンハッタンと、民主政治の名のものとに世界を如何に牛耳るか、権謀術数のスーパーコンピューターを唸らせるワシントン特別区はその象徴かもしれない。2016年、アメリカ大統領選挙でのドナルドトランプの勝利はニューヨーク市民を悲嘆に陥れた。議会を共和党に支配され漫然としたオバマ政権の末期とヒラリークリントン氏の人柄を嫌う投票拒否層が顕在化してしまったところに、トランプの大衆扇動キャラが勝ってしまったということだろう。派遣社員向けの英語講座を行っている教室のユダヤ系アメリカ人のおばあさん先生は、ヒラリー当選を期待し大統領選の解説をテーマとした講義を心待ちにしていたそうだが、あまりのショックで動顛し急遽、別の先生に代行してもらうことになった。日本と違い二大政党制であるアメリカは、共和党、民主党がバランス取り、近年の民主主義を支えてきたわけだが、以前にも増して、中西部・南部のレッド・ステートと沿岸の都市部を主としたブルーステートの断絶によるアメリカ分断の溝、Polarization(二極化)は急速に深くなるばかり。
海外拠点の筆頭格であるニューヨークには、昔から有能な人材が送り込まれてきたが、稀に思わぬ例外もある。業務セクションの派遣社員は、ローカル集団のなかで、本部や他部署の日本人とリエゾン役を務めるため、自発的に動ける人物が配置されてきた。ところが、このリーマンショック後の窮地も少し収まりかけた矢先に、金持ちの御曹司がそのまま大人になったような坊ちゃんが送り込まれてきたため、噂を知る社員はみな首を傾げた。案の定、優秀な前任者は引継ぎがままならず、理解力が欠落しているため、繰り返しの説明が、ザルで水をくむようで、発狂しそうだとぼやいてしまった。それでも、いつまでも引継期間を取る訳にはいかないので、いよいよ担当として独り立ちしたものの、数日でローカル社員からも、コミュニケーションが通じず、何を考えているのかわからない、いきなり一方的に何かを指示してくるなど、違和感が噴出し始めた。俗称、お坊ちゃんとでも呼ぶが、入社してだいぶ経過しているのに、行動規範の感覚が身に付いておらず、いつの間にかオフィスから無断で姿を消すこともある。コネ入社は、テレビ局やマスコミに多いそうだが、一般企業でも多かれ少なかれ営業政策上の縁故で採用されている。単に幼稚で無害であればよいのだが、ボス以外のローカル社員を自分より下と見下して、興味本位で語り掛けては、相手が忙しいのにもお構いなしで稚拙な英語でなにやら絡んでいたりする。お坊ちゃんに何を教えても、もはや成長しないと悟るにつれ、ビル階下のフロアに隣接したバーに連れて行き、よもやま話と冗談を交えて、ガス抜きをさせるしかない。「84ラウンジ」は、お洒落なキャッシュバーで、出張者が来た時の気軽な歓迎会や残業で遅くなった帰りがけに一杯、行きつけであった。好きな女性のタイプから、週末カジノ(ペンシルバニア州のサンズ)で今回もすった、といった他愛のない話題で夜が更ける。残務を終え深夜0時過ぎ、哀愁を帯びて一人立ち寄り、カウンターで二杯ほど疲れた身体を潤す。バーテンのとびきり洗練されたお姉さんに、最高のウイスキーは何か問いかけてみると「Macallan(マッカラン)※と思うわよ~」と淡い応えをくれた。深海に煌めく宝石のように、午前様の粋な場面がほんのりと蘇る。都会の深夜を静かに彩る大人の空間、バーカウンターでのささやかな会話が沁みる。もう帰らないと気を失いそうだ。「夜の帳にささめき尽きし星の今を下界の人の鬢のほつれよ」と与謝野晶子の歌心だろうか。
※スコットランドのハイランド地方、その東部に位置するスペイサイドのシングルモルトウィスキー(シングルモルトのロールス・ロイスと称される)
お堅い業界柄かもしれないが、救いようのないことなかれ主義の上司に反発を覚えることはままある。ある時、営業担当者が、顧客先から取引のお知らせという書類が届いていないとの連絡を受け、送付した郵便が行方不明にあったようだ、ミスではないかと問い合わせてきた。後方管理チームは、郵便が総務グループの庶務係にきちんと依頼して郵送された台帳を基に、送付漏れはないと確認した。おそらくは、受け取った会社側で失くしてしまったか、アメリカの郵便は意外としっかりしているのだが、稀な誤配もあったのではないかと推察し、再度送ればよいとなった。普通の企業組織であれば、再送してそれまでのところだし、エスカレーションするほどの事案ではないのだが、BANKというところは病的なほどに過剰反応する。営業担当は、営業ラインのヘッドに報告、彼は、内部管理のヘッドに相談、今後は、リスク管理のヘッドに相談しようと、誰も判断しかねて、責任を回避しようとする。ついには、本部に報告するべきだろうとなり、詳細な報告用紙に、発生経緯、原因、対処を記入して出すことになった。内部で事務を怠ったわけではない他責の事案になるのだが、それでも再発防止策を考えるべしとなるが、そうはいっても、郵便の誤配か取引先が紛失したものであるため、対策など取りようもない。ある程度のところでクロージングすべきだが、上司は具体的な対策を打ち出せないと、本部にも説明できないなどと無理難題に固執した。昔々からBANKは一円合わなくても合うまで帰れない徹夜すると言われてきたが、それにしてもクレイジーではないかと辟易した。こんな生産性のないことへの執拗なこだわりもそうだが、そもそも自分たちで微塵もリスクを取らない木っ端役人のような、ミドルマネジメントは、この業界に先行きのないことを象徴していた。戸惑うローカルスタッフとともに、上司の部屋に行き、やる意義のないことは当然にしてやる気も起きないことを、やんわりと談判すると、予想通り上司は憤りとともに嫌悪を露わにしたので、議論しても詮無いと見限って、虚しく部屋を後にした。
不条理な出来事はしがないサラリーマンの常であり、軍隊と同じでどうしたって上下関係をぞんざいには扱えない。仕事は無理難題あり厳しくても、お疲れ様の会ぐらいは、太っ腹な器量を見てほしいものだが、お金を扱う業界に多いのか、Super Stingy(超せこい)上司には絶句した。二度目赴任した際、歓送迎会の精算は若手からトップまで、均等の割り勘となっており、いったいぜんたいどういう拠点なんだと唖然。下々は誰も言い出せないのだろうから、トップが気を配るのが当然だろうが、皆が悶々としている苦難の時代が続いていたのだ。そのトップが帰国した後、しばらくして傾斜配分に変っていったが、彼のしみったれたケチのエピソードは滑稽である。拠点が当局指導の窮地を脱した際に、珍しくねぎらいなのか自腹でシュークリームを買い、秘書を通じて派遣社員に一個づつ配った。それは稀ながらよい事だが、なんと、シュークリームのお礼をに誰が言いに来たか否かを、逐一成績表のように印を付けていたという。更には、派遣社員がその後帰国した際に、誰が自分に対して帰任の挨拶をしたかチェックしていたと聞いて呆れかえるばかり。当然に、忖度皆無の自分は、両方ともしていない。
減点主義で忖度が蔓延すると、卒のない人間がコーポレートラダーを登っていく。会社上層のおやじたち、重鎮の年寄りや人事部に気に入られるかに比重が置かれると、公正な物差しで測られるとは限らなくなる。サラリーマン上級の優れ者は入社した時から、そういうことをいち早くから察知し、行動しているのかもしれない。上の考えていることを俊敏に捉え、卒なく行動できるかなのだろうか。古来から人間の性向は変わらず、従順な部下を重用したり派閥を形成したりする。それはさておき、海外は総じて、治外法権的で、本部の官僚機構には直に接しないため、比較的自由を謳歌することが可能。日本と同じ暮らしを脱せず、しょぼい居酒屋に通い続ける輩も多い。また、ミッドタウンイーストには、昔から通称「ピアノバー」と呼ばれるキャバクラが軒を連ねる区画がある(ピアノなど置いてない)。キャバ嬢は英会話学校に席をおいて短期ビザを取るか、いささか不法労働っぽい素人が大半。よなよな朝まで入り浸るおやじ連中は同僚にもけっこういた。もっぱら彼らは、海外にいても日本人村で暮らすのが居心地よいタイプだが、接客や話術の乏しい素人ホステスの機嫌をとる気分など私は起らない。
そんなところより、折角の海外生活、郷に入っては郷に従うべきでしょう。本場のステークハウスは、来訪者の接待でもよく使うが、脂身の多い霜降り和牛とは異なり、パンチの利いた赤身がずっしりと精力をかき立ててくれる。私がマンハッタンのお勧めを厳選するならば、以下の通りです。
<マンハッタン ステーキハウス3選>
1) Sparks Steak House : 210 E 46th Stの老舗、1980年代、マフィアのボスが抗争で撃たれたミッドタウンイーストの名店
2) Strip House : 赤を基調とした装飾に薄暗い照明、20世紀初頭ウイーンのアトリエ写真が飾られセクシームードは最高
3) Del Frisco's Double Eagle Steak House : ロックフェラーセンタービルに構える現代風の洗練された空間、ビジネスランチや接待にも最適
ニューヨークの王道ステークハウスといえば、野性味あふれるブルックリンのPeter Luger(1887年創業)。ウイリアムズバーグ橋を渡って地下鉄を降り徒歩数分、2000年初頭までは治安の悪い地域で、仲間連れで駆け込み、帰りはタクシーを呼んで帰った。ディーラーで最年長の先輩が、俺はレアがいんだよね~との一声で、血の滴る大量の半生肉塊がテーブルに運ばれてきた。最年少だった私と同期の友人二人は、若いから沢山食べろと命じられ、無理やり詰め込む羽目になった。付け合わせのクリームスピナッチとマッシュポテトで中和しても、ゆっくり味わうどころではない。翌日会社のトイレで、どうなったことか、今でも薄っすらと遠い記憶が蘇る。
ここで、アメリカンステーキの種類を少しご案内
- Ribeye : 牛の助骨周り、脂身と赤身のバランスよい希少部位
- Filet Mignon : 牛の腰回り、助骨よりがショートロイン、お尻よりがサーロイン、テンダーロインは両方にまたがる部位、Ribeyeより更に希少で最高級。テンダーロインの最も柔らかい部分が、シャトー・ブリアン
- NY Strip : Ribeyeより赤みが多いショートロインのNYでの名称
- Porterhouse、T-Bone : T字形の骨を挟んで、片方がショートロイン (ストリップ)、もう片方がフィレ・ミニョンの人気メニュー
なお、ステーキのボリュームはオンス(oz=28.34g)で表記され迷いますが、一人前、12oz=340gでたっぷり、8oz=230gがほどよいでしょう。
Strip Houseでの同窓会の一幕、大食漢で健啖家である私の先輩、後輩は、まず前菜に特大ベーコンをオーダーしつつも、24oz=680g平らげてびっくり仰天。なおかつ、濃厚なデザートをがっつり、ワインを浴びるほど飲んでいたので、人間の旺盛な食力とは途方もない。
冬の訪れ、5番街はクリスマスシーズンで米国内および世界中の観光客で埋め尽くされる。57丁目の交差点は、見上げるとレースを象った光のミラーボールが煌めき、TiffanyやVan Cleef & Arpelsは、お店自体が輝く装飾で宝石箱のようになっている。以前のオフィスは、一歩出れば5番街のマディソン・アベニューに沿うビルだったため、12月ともなると不用意に5番街をぶらつくことはしないようにしていた。それ程、コロナ以前は賑わいを見せていたし、トランプ・タワーは、まさに拝金主義の象徴のようにそびえたっていた。資本主義の繁栄は、曲がり角を迎えるのではなく、異常な道を突き進んでしまったと感じる。大学生の頃、ソビエト崩壊で社会主義国家の限界を目の当たりにしたが、資本主義が勝ったということではなく、人間の活動は歴史が繰り返してきたように、決して最適解などなく彷徨い続けるものかもしれない。一部の経済学者、最近では経済思想系の哲学者まで乗り出して、行き過ぎた資本主義のもたらす影を指摘している。さらに、民主主義の名の下で、権威主義・独裁主義が暗躍してしまう構造は、果たして大衆の愚かさか、人間の性(サガ)なのだろうか。
21世紀になって2つの世界大戦を省みた20世紀の教訓は、喉元過ぎれば熱さを忘れるかどこからともなく葬り去られてしまいそうな気配だ。やはり、1%の富豪たちが、世界の富の99%を保有しているということが、如何に不平等であり極端に偏向した状態であるか。人間は努力と成果に報いられるべきではあるが、富裕層は自分の力ですべてを獲得したと捉えるのは傲慢であり、大いに運が良かっただけであり、たまたまそうでなかった人々に支えられていることを決して忘れてはならないと確信する。アマゾンの創業者CEOと倉庫で働く従業員の途方もない格差は、まさしく現代を象徴するものであって、ジェフ・ベソスが宇宙旅行の道楽で浮かれたコメントは、世界の大多数の人々の暮らしを軽んじて甚だしい。これ程に明白な不均衡を省み、少しずつでも資源配分を適正に行えば、どれだけの貧困や環境問題といった人類・地球の破滅的な行方を良い方向に、舵を切ることができるだろうと思わずにはいられない。そこには、人間の本質的なエゴイズムなど拭い去ることなど到底できないかもしれないが、踏み出すことのできる素材は足元にいくらでも転がっているはずである。
ホリデーシーズンが始まると、街角ではクリスマスツリーのモミの木とレースの飾りなどが、ストリートと沿いに露店が立ち並ぶ。どさっと雪が降って本場のホワイトクリスマスのイメージに憧れるが、意外と雪は降ることなく寒々と乾燥としたままである年が多かった気がする。いづれにしても、軒並み、イルミネーションに彩られた街は賑わい、レストランの予約も取りづらくなる。アメリカでは、家族で集まる伝統的な祝祭日Thanksgiving Day(サンクスギビング)が、ホリデーシーズンのきっかけとなり、その後年末までなんなく仕事も力をいれずに、金融マーケットも事件がなければ、相場は凪の惰性モードになる。この時期、家で密かに味わう風物詩としてエッグノックがある。牛乳、卵に砂糖を加え甘くして更にシナモンやナツメグ香り付けしたミルクセーキのような乳白色に、ウイスキー、ブランデー、ラム酒などをベースに混ぜてアルコールの切れ味とミルクの柔和さがほどよく溶け合う。私はマンション近所のリカーショップでバーボンをベースにしたEggnog(エッグノック)を見つけ、寒い冬に心地よい暖かみを与えてくれる。そういえば、本家スターバックスの定番には、甘味の効いたエッグノックラテ、ジンジャーブレッドラテなどがあった。
当局問題で沈痛な状況下でクリスマス・パーティも自粛となったが、今回は盛大に行われることになった。最初の赴任当初はGrand Central Station(グランドセントラル駅)にほど近い、ルーズベルト・ホテルの大広前などを貸し切りで豪華に行っていたが、セプテンバーイレブン以降のファイナンスビジネス破綻から、節約モードになっていた。リーマンショック時あたり緊縮運営が再燃していたが、関係会社との統合で人数は大いに増えて、タイムズスクエアの脇にある豪奢なパーティルームで盛大さを回復した。Office Party 社内パーティの日は、会社オフィスの廊下など、女性の化粧の匂いが垂れ込めるが、ここぞとばかりおめかしして、業務が終わるやいなや、ドレッシーな衣装に着替えて、会場に向かうからである。フリーのショット・バーで一杯グラスを取ると、それぞれ立ち話に花を咲かせる。みんながだいぶ集まったところで、ラッフルズというくじ引きが行われ、入り口で渡されたくじ番号が、司会者チームの回すガラガラの抽選機から出される番号にヒットするか、大げさながら固唾を飲んで待ち構える。私は昔コーヒーメーカーがあったったことがあるが、2000年ごろはまだ上位の賞品には旅行券などの大盤振る舞いもあった。その後、ダンス・タイムとなり、バブル世代には懐かしいクラブ系ミュージックに合わせ、ローカル社員たちと盛り上がりの渦に舞い込み、肩を組んで縦列で踊るなど、最高潮に達する。いささか冷めた面持ちで周辺に佇んでいる最近の若者が多いと思うに、時代遅れの苦言を吐く中高年世代にいつしかなっていた。
13. 神話の街
アッパーウエストサイドのハドソン川を望むコンドミニアムは、72丁目の地下鉄駅までシャトルバスの送迎サービスがあった。マイナス10度ともなる厳冬の日の朝には、北国育ちでありながら中高年に差し掛かり、寒さに強いというメッキがすっかり剥がれてきた自分には、重宝していた。晩秋までは、ハドソン川沿いをジョギングできたが、冬になると風の吹きつける中で走る気概がなくなり、安易にコンドミニアムのジムにあるトレッドミルを利用する。30代後半で新システム導入にニューヨーク長期出張を繰り返していた時には、冬でもセントラルパークを一周走ることで、身を清める儀式のような快感を得ていたのが懐かしい。ジムにはだいたい数名がいるぐらいで混んでないので使い心地はよかったが、歳を重ね軟弱な自分に比べ、時折、だいぶ年老いた小柄なお婆さんがTreadmill(ランニング・マシン)で運動してた。付き添いのトレーナーが安全を見守る中でゆっくり歩きつつ、まだ矍鑠としているのは、若い頃に陸上の選手とか、スポーツ系女子だったのだろうと思わざるをえなかった。お婆さんの付き添いとともに、ジムの中には入らないけど、入り口まで、同年代の年老いた旦那が車いすで一緒に来ていた。
この老夫婦は、レクリエーションルーム(コンドミニアム付属のパーティやアメニティに使う共用の広い部屋)、私が週末に本を読んだりしていたら、時折ソファーでテレビや外の景色を二人で見ていることが分かった。部屋の入口に入る際に一緒になって、車いすの夫のためにドアを開けてあげたら、サンキューと言われて一瞬はにかんだが、その後は静かにソファーに佇んで、窓越しに雪がちらつく倦怠な冬のグレーな通りを眺めていた。時折、おじいさんの方がお婆さんに何やら話しかけるが、お婆さんは「I don’t care」とアクセントのある返事だけして、話になっていない。ぶっきらぼうではあるが、おじいさんを拒否しているわけではないのだろう、言葉の裏に話さずとも分かり合えて伝心しているような気がした。英語には、Wife以外に妻または恋人を「Better half」、「Significant Other」という呼ぶことがあり、「Better, Significant」とあるように相手を敬った粋な言い回しである。長年連れ添った老夫婦が長い冬のひと時を大して会話もせずに過ごしている夫婦の情景は、なんともいえない優しさを放っていた。
ところで、在米12年で感じた日本との違いが何であったか、少し書き留めたので参考に紹介しておこう。
<日本の特徴>
自動販売機が異常に多い、土産物屋とその種類が多すぎる、東京夏の熱帯夜:朝夜の気温が下がらない、交通網が超充実している、品揃えを頻繁に変える、駅構内の売店が多すぎる。全国津々浦々コンビニで溢れかえっている。ATMで小銭が出る、デフレが慢性化(やっと脱するか?)。ビールはラガー系ばかり均一で、しょぼい居酒屋の瓶ビールは飲みたくない(学生時代から飲み過ぎたせいもある)、カラスが多い、生卵が食べられる、カーテンレールがプラスティック・フック、雪だるまが二段、こぎれいな街、電線が多い、賞味期限が短い、公園など公衆トイレが多すぎる、電車ホームのアナウンスがうるさい、駅前に必ずパチンコ屋がある、果物が甘すぎる
<アメリカの特徴>
エレベーターのマナー(レディ・ファースト)、レストラン禁煙で歩きタバコも、短パン、生足、胸元の空いたワンピースの女性が多い、冬でもコートを脱ぐと半袖の人がいる、花火の打ち上げ方、TIPの慣習、会計は席でが多い、小切手を使用、ATMでも小切手入金、寄付の文化、ベリー系の果物の豊富さ、ナッツ類も豊富、銃社会、大理石キッチン、シカやバイソンなど動物に注意の道路標識、サイレン・音が煩い、サングラスが主流、気温差が激しい、賞味期限が長い(卵など2か月ぐらいある)、ソフトドリンク大量消費、1年ぐらい長期でも返品が可能、よく通りすがりの人に道を聞かれる(いまはスマホで少なくなっただろうけれど)、冬以外はサングラス常備、ビーガンの人も多い。グルテンフリーのフードも多い。
出張含めてアメリカと日本の横断は数知れないが、ヨーロッパのようにお土産は多彩でないので、いつも悩ましい。昔々ならビーフジャーキー、月並みにハーシーズか、米国製のゴディバのチョコレート、うーん芸がない。一つ言えるのは、妻から出張の際に頼まれた化粧品だろうか、日本は試供品天国だからと妻は言っていたが、アメリカは総じて割安との評価だった。ちなみに、私のきたない顔を見るのが嫌だといって、毎日塗りつけられている。
また、駐在でバイリンガルではないものが、英語がどこまで上達するかは、その派遣社員のやる気・英語への興味と、持ち場の環境による。ディリングルームなどは前述したが、外資の日本人デスクとやり取りが日本語であり、ローカル社員もアシスタントポジションが主流だと、あまり英語を使う場面や必要性が乏しいので、概して安きに流れ、片言の英語しか話さない。やはり、周りが外人ばかりという環境があり、かつ言語を磨く意欲をもったものが、ビジネス英語を操るようになる。帰国子女でも、英語脳を自然に形成できるのは9歳頃までと言われる。幼児期だけでは帰国しては忘却してしまうが、それでも素直に入るリスニングの耳は作られるようである。幼稚園から小学校前半まで現地校で友人と遊んでいると、ネイティブに近い回路が出来上がりやすいらしい。思春期を過ぎると、だんだんと自我に遮られて大人が学ぶ英語に近くなり、余程のセンスがない限り、バイリンガルと言うには、いまひとつになりがち。なお、Dunning–Kruger effect(ダニエル・クルーガー効果 : 能力が低いため自己評価を正しくできず、過大評価する)という認知バイアスがある。低位の英語で「自分はしゃべれる、映画もそこそこ聞ける」と軽々しく言う人は多い。しかし、高等数学でもよく語られるが、相応に身に付けるにつれ、その更に上位の階層は、とてつもなく広大で深遠な世界があることに気付き、逆に謙虚にならざるをえない。ネイティブとの距離感が遥かにあることを改めて痛感し続ける。
Long Island(ロング・アイランド)という細長い島が、NYクイーンズ・ブルックリン区を含んで横に長く大西洋に伸びている。マンハッタンから列車でいけるロングビーチ、ジャマイカベイのジョーンズビーチなど、夏は行楽客で賑わう海岸線が美しい。スコット・フィッツジェラルドの小説Great gatsby(グレート・ギャツビー)で知られる全米でも有数の富裕層の地域がある。その中心ハンプトンという海辺の高級別荘地は、産業界の大物、芸術家、風変わりな賢人たちの隠れ家も多いらしい。East Hampton(イースト・ハンプトン)の知人邸宅に招かれた際には、アンティークの調度品やギャラリーのように絵画で飾られた邸宅、ビーチに面した広いバックヤードなど、豪華さに驚愕の一言だった。最東端のMontauk(モントーク)という町は昔の漁場で捕鯨拠点だったそうで、灯台がありマンハッタンからドライブで片道約3時間半である。ドライブの帰路、真冬のハンプトン・ベイ辺りだったろうか、凍てつくハイウエイをひた走る車のフロントガラス越しに、地平線に夕暮れの空が、青、紫、赤が織り成す美しい光彩に染まった。Wilhelm Richard Wagner(リヒャルト・ワグナー)ドイツ・ロマン派オペラの舞台演出の様に、意味深げな暗示、遥か先の将来に何が待ち受けているのだろうか。いつまでも眺めていたいが、待ってはくれずに沈む夕日の幕が閉じるに、人生の儚さを感じて切ない気分に駆られる。
駆け抜けてきた会社生活も余生が限られてくる。疾走している間は気づかなくても、着実に選択肢は狭まってくる。組織に依存せず生きる道を探りたい。微かな想いは夕闇にのまれ、路面が氷結し凍てつくLong Island Expressway(LIE ロングアイランド・エクスプレスウェイ)を、ひた走った。人間生まれ持って与えられた、授かったものがあるのだろう。なぜこの時代、この国と地域、境遇を得てくるのか、以前インドを旅した際に強く感じた不思議です。学生の分際で悠々自適なバックパッカーとして旅する我々3人をリキシャーに乗せて、だらだらと汗を流しながら走ってくれた男の背中が今でも浮かび上がる。なんだか自省の念が募るが、その当時はまだ社会の荒波など見知らぬなんと若造であったことか。バングラディシュの海岸で子供達と一緒に写真を取った。帰ったら送るよと住所を聞いて約束したのに、帰国後の怠惰な学生生活に感けて返事をしなかった。今でも心の底に悔まれることはある。
初夢は感じのいいものではなかった。寒々とした泥濘の荒野をどこかへ歩いている光景、注射針の様なものが迫る猟奇的な場面、インドのどこかと思われる治安の悪い地帯から抜け出そうとしている夢であった。妻の離脱症状も悪化して音への憎悪を顕わにした年越え・元日が過ぎ、冬のこの時期は特に気分が優れないが、なかなかよくならない状態が既に数年続いている。人との出会いはなんと不可思議なものであろうか。世界は70億人を越えているそうだが、無数の人々とすれ違いながら出会うことは限られている、更に自分と長く親和する人々は極めて限られている。一時の出会いもあれば、長い付き合いもあるし、出会う時期も限られている。友人・知人との良縁もあれば馬が合わない人との有難くない関わりもある。人間の一生で出会う人の数は、一時的でも何等か接点を持つ人数が30,000人、人類70億人の中での確率は0.0004%になるらしい。学校・仕事なでである程度関係する人は3,000人、友達・知人が300人、親友は3人という統計があり、極めて一握りの偶然なのである。一期一会を快くよく実践したいところだが、そううまくいかない関わり合いが生じてしまうことがある。親しくなりたい、恋人になりたいと願っても、互いの引力が働かないことも多々あり、英語では「We have good chemistry、逆にはno chemistry between us」など相性の良し悪しは化学反応の親和性に例えたのは、的を射た表現である。また英語の別れの表現に「Hope our paths will cross gain」という表現があり、「またどこかで道が交差するといいですね」、つまりは「またご縁があるといいですね」という意味である。人生には岐路があり、そこで運命のつながりが終わる人、いつかまた会うことがあるかは、どのように決められているのだろう。宇宙の中で飛び交う量子の軌道や波長の合う合わないがあり、網の目が交差するか否かの解は、深海に秘められている。古代の大乗仏教で生み出された「Heart Sutra(般若心経)」には、色即是空という現在物理学の最先端ですら凌駕していた概念がある。Nagarjuna (ナーガールジュナ)が、2世紀に創始したといわれるこの悟りの奥義は、仏教の枠を超越してている。この世の万物の形態や出来事を「色」と呼ぶならば、その形は実に仮の姿でしかなく、本質は「空」であり無である。なぜそうなったのか、もしあのときこうしていたらという英語イフ文の分岐点の謎にどれほど思考を巡らしてもわからない。それはきっと「空」の気流、因縁結、縁起(よすが)によるものなのだろう。
若い時から中高年になると、若い自分が見ていた年配の人達との距離感が信じられなくなる。入社して若手だったときは、会社の50代なんてもう会社社会の爺さんのような位置の人々であったが、いざ近づいてみると精神年齢はさほど変わらず、若い人から見られるほどに世代の距離が開いたおじさんであることを自覚できずにいる。それなりに歳を重ねたのに、心に厚みが出来たとも思えず、いまだに浅はかであり、悩みを抱えて過ごす日々である。ただ、人生の下り坂になって見えてくる開けた景色が、確かにあるような気がしてきた。そこからいよいよ、生まれて来た謎を解く旅が始まるのだろう。1月後半の長く待ちかねた久しぶりの帰郷は、人生の深淵さを感じる展開となった、母の入院、父の介護施設への入所、姉達との対話で過ごした10日間は、不思議な予定調和された岐路であったのかもしれない。数多の思い出が織りなし、陽光に輝き風雪に耐えぬいた実家を2人の姉と後にした。同じく世話になった母の愛する車(トヨタのコンパクトカー)を手放す節目が到来し、母はなんと切ない思いが溢れていたことだろう。
二度目の赴任前に、練馬区役所の講堂で中村先生の講演を拝聴したことを思い出す。「これは夢か幻か。夏の東部アフガニスタン。一木一草も生えぬガンベリ砂漠。2010年東部アフガンで24・3キロのマルワリード用水路が7年がかりで開通、約1千ヘクタールの農地を新たに生みだそうとしている」アフガニスタン東部の住民は、「ガンベリのようにのどが渇く」という言い回しがあるそうだ。そこを用水路が貫通したのだから、地元には奇跡として大きな話題になった。ペシャワルやカブールにも進出し、「ガンベリ」は安くておいしいスイカの名産地として名をとどろかせた。水の恵みはこればかりではない。草地が広がると牧童たちが家畜を連れて集まり、畜産も可能である。その他、養蜂(ようほう)、果樹栽培、薪の生産、大きな貯水池で養魚もできるようになり、死の谷が命の緑野に変じたという。
自然の夜に煌めく星空は、宇宙の美学と秘宝を映し出している。Vermont(バーモンド州)の奥深い山間で、ひっそり北欧移民の夫妻が経営するロッジに宿泊した際、庭から見上げる夜空一面に降り注ぐ星の光。学生時代にバックパッカーの旅で、留学生の友人達と訪れたBay of Bengal(ベンガル湾)の海岸で見た満天の星空を走る一筋の流れ星。Turkey(トルコ)のAnkara(アンカラ)周辺の雪の舞う山間の峠で、眼前にくっきり迫るOrionオリオン座とBig Dipper北斗七星は圧巻だった。太古の昔から人々が星座に名前を付け神話の世界に引き寄せてきたことが如何に自然な行為であったか、古代からのメッセージに魅せられてしまった。人生には、巡る季節と同じく12年前後の波があるように思われる。活力が漲り自然にうまく進む時もあれば、どう足掻いても押しても引いてもうまくいかず低迷する時期もある。11~12年で春夏秋冬の四季が巡るとすると、昔からの干支や時間の12進法の概念、あるいは太陽の黒点周期に関係しているのではないだろうか。
真冬の路面が凍てつくハイウェイで、アメリカドライブの懐メロから一曲。松本隆の作詞、呉田軽穂の作曲で薬師丸ひろ子の「Wの悲劇」を振り返る、神がかり的な詩とメロディーが、いつまでも心に響きます。
4月上旬になり漸く春の訪れが感じられ、セントラルパークの水仙・連翹が力強く咲き始めた。母の容態は変わらず日々姉からのメールを待ち受ける。しがないサラリーマンとして、会社の情勢に一喜一憂しているような自分の生き方を見つめ直すに、春の移ろいのせいか、気持ちもなんだか収まりがよくない。人生の折り返し地点を通過しているのか、いつしか人生に折り合いつけることを迫られるのか、いまこそ改めて森羅万象の指針となるものが何かを探してみる。4月、母が車をほのかに嬉しそうに運転している夢を見た。夢の映像は大雪が降った後の晴れた故郷の町の通り、父が途中ジュースか何かを買って車に戻る、後方に僕がいる。5月に入ってまた微かな夢を見る葬儀か何かで親族が集まっている、母が弁当を食べてと迎えてきた。一時帰国を決めた夜、真っ赤な光景の中で母が繁みに倒れている暑い世界で喉が渇いているから水を飲ませないと、急いで冷蔵庫を開けて水を探すが牛乳パックの様なものしか見当たらない。一時帰国して母の容態を見る、一晩病室に泊る晩、母の目尻から涙が滲んでいたような気がしてならなかった。母が再び夢に現れる、時刻は夜明け前の4時頃だった。どこかへ出かける様子だが父は来ないとのこと、すぐ俺も片づけて戻るからなと言って目が覚めて、何かあったかとメールをチェックした。その後ひと眠りして朝7時過ぎメールを見たら、姉から母の逝去の知らせが入っていた。納棺を終え、火葬場に向かう車の中、実家の前を通り、山道から陣屋を越えせせらぎの温泉への道、何度帰省の度に父母をドライブしたことだろう、もうこれで儚い思い出になるなんて。母の好きだったAzalea(ツツジ)、故郷の花Marigold(マリゴールド)が優しく見守る中、何度も母が通った道を通る。地元デパートの駐車場・地下の食品街のそば屋、上京した時に定番の宿泊先だったホテル。これまでの思いが浸みた場所との意味深い会遇に、思わず涙が込み上げる。
初の赴任直前1999年真夏の猛暑が続く中、金融商品会計の制度改定に対応したシステムの最終テストのため、都営大江戸線の駅から徒歩数分ITベンダーのオフィスに度々私服で通っていた。システム会社の自由な雰囲気の中で、開発最終フェーズで合宿生活のように気分が高揚し、NYでの生活をイメージする間もなかった。アメリカは、クリントン政権で続いた好景気とITバブルが政権の終わりとともに頂点を越えようとしていた頃である。世紀が代わってもしばらくはアメリカの覇権なのかと感じつつ、失われた10年と呼ばれる日本を出発した。NY拠点も振返れば、右肩あがりで拡大した最盛期を越えるように人員、雰囲気とも膨らみきっていたように思う。決定的となったのは、やはり翌年秋のセプテンバー・イレブンで、バブルの泡で見えなかったものが、噴出したのではないだろうか。その後のダウンサイジング(人員削減)では、まさに血肉・贅肉を削ぐような痛みとなることを実感した。
投資マーケット業務のバックオフィスで唯一の派遣社員であったことは、えてして日本人村となりがちな拠点内において、本当に恵まれたと感謝している。課内のスタッフで、フランス料理店にランチを食べにいった際など、「国連の人達ですか」と冗談交じりに言われたほど多国籍グループあった。折角、海外で働くからには、多彩な文化の交差点でコニュニケーションの深海にどっぷり浸かりたいとう願いが実現した。現地社員と苦楽を共にしてプロジェクトやイベントを超えることは、この上ない喜びである。アメリカの独善と欺瞞が世界の反感やテロを増大してきたという不満はつのる。同時テロは象徴的事件だったが、超大国としての省みるべき点を放置した政権の続投は残念であった。イスラエル、パレスチナでも歴史が証明してるように、感情的な対立の場に武力行使では、出口も終わりもない惨劇の繰り返しでしかない。まさに、ロシア、ウクライナも然り。今でもニューヨーク、カルフォルニアはじめ、移民が流入し、異文化が交差する街角では、知恵と工夫の蓄積もあるであろう。そうした経験こそ、紛争と貧困の耐えない世界に生かしてほしいものである。
JFK空港へ向かうある日、タクシー運転手と互いの乱雑な英語で会話が錯綜する。Pakistan Punjab(パキスタン・パンジャーブ地方)出身だという運転手は、唾を飛ばしながらしきりに、これからは南東の時代だと主張した。南東は、地球の東西南北で東洋と南(イスラムやアフリカ社会)を指している。そして人種、文化、宗教を超えて人々は、尊重し合うこと。先進国、途上国の垣根を越え教育が大事と繰り返しタクシーを疾走させる。RespectとEducation….真髄を付く言葉が繰り返し響く。共存と平和への鍵 … 脳裏に残っている。人それぞれのニューヨークがある。夢を追いかけ情熱を注ぐ人々の都会、安易な思い込みや甘さは鋭く見抜かれる厳しい競争の街。他人の目に自分がどう映るかなど気にせず、思う通り主張できるパワー。喧騒のストリートや地下鉄の雑踏から、むんむん湧き上がるタフな生命力を感じずにはいられない。あらゆる価値観が交錯する危険性と懐の広さが共生している。この街がもたらしてくれる感性やたくましさは計り知れない。
まだ若かった一回目赴任の帰国最終日は、ローカル社員への挨拶周りを続けて、親しいローカルスタッフと別れの会話に感無量で涙がこぼれた。その後も長期出張で幾度となく訪れたが、必ず初日の早朝は、ミッドタウンのダイナーの朝食と決めていた。ハムエッグとトーストのブレックファーストがこの上なく美味しい。しっかり食べてコーヒーでエンジンを駆けて職場に向かうのが、何よりの楽しみである。いずれ老境には、Marcel Proust (マルセル・プルースト)「À la recherche du temps perdu (失われたと時を求めて)」(もちろん読んだことはないが)の紅茶に浸したマドレーヌと化すかもしれない。今回は、中年ど真ん中になったせいか、ローカルとの別れに感涙はせず、淡々と送別会をこなす。毎朝コーヒーを買っていた馴染みのStreet Vendorストリートベンダー)に別れを告げて挨拶し、せめてお気持ちだけと20ドル札のチップを手渡した。真の暑さも厳寒の強風でも、変わらぬ笑顔でコーヒーを入れてくれる温和な姿に勇気づけられていた。もうおじいさんの域であったので、私が帰国後しばらくしてから、店じまいしたことを後輩から聞いて納得した。ベンダーのカートは、足早なマンハッタン労働者の朝食を支え、大雪でカートが運び込めなくならない限り、仕事に行く人々のため、早朝から暖かい飲み物、ドーナツ、サンドイッチを提供してくれる。こうしたエッセンシャル・ワーカーの人々に謝意しきれない。
二度目のマンハッタンライフは、週末はトライステート・エリア、ニューイングランドの大自然に憩う暮らしを目指した6年間だった。ドライブでの帰路は、ブロンクス南端部で東西南北の高速が複雑に交差する大動脈から、マンハッタン西岸のハドソンパーク・ウェイを下る。深紅の夕日が沈み、夜景に移るハドソン川河口とウエストハーレムの逞しい熱気を感じて、リバーサイド・ハイウェイを疾走する幻想的な車窓こそ、私の気概の源泉であった。日本からJFK空港に到着し、マンハッタンに向かうイエローキャブでクイーンズボロブリッジの先にそびえる摩天楼の輝きに、挑戦的なFighting pose(ファイティング・ポーズ)を構えるのも、生き馬の目を抜く大都会に挑む気合なのだ。万感の思いとともに、ロックバンドBon Jovi(ボンジョビ)名曲「Living On A Player」、「It’s My Life」の歌詞が脳裏を駆け巡っていく。ハングリー精神、どんな状況でもへこたれずに、何度でも立ち上がるボクサーのサバイバル精神が、この激烈な街にはふさわしい。私にとって、ニューヨークは、生まれ故郷に続く、かけがえのない第二の故郷である。
#創作大賞2022
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