"TUXEDOMOON"の事。
またまたミュージシャンが拠点を移すことについて考えてみる。ミュージシャンにとって、活動する拠点での経験や触発される事でサウンドが大きく変わるという事は多いだろうし、暮らしやすさや活動のしやすさ、オーディエンスの反応など、色々な面でプラスにもマイナスにもなる。アメリカという、面積も大きければ人口も多い場所では、国内でも土地土地で色んなサウンドの傾向があって、全部が全部では無いけど、ニューヨークはパンクやノー・ウェイヴとか、ワシントンDCはハードコア、シアトルはグランジ、カリフォルニアではパンク、ハードコア、ペイズリー・アンダーグラウンドなど幅広く、テキサスはフォークやサイケデリックの土壌がある。やはりアメリカは音楽先進国と言えるでしょう。でも、ヨーロッパ的な耽美主義的ロマンティシズムが盛んな地域はサッパリ思いつかない。アメリカ出身ながら、演劇に裏付けされたヨーロッパ的・耽美的・映像的な美意識のサウンド志向を持ち、ヨーロッパに活動の拠点を移してサウンドを深化させていったバンドがいた。その名はTuxedomoonと言います。
ヨーロッパ的な映像感覚をベースとした独自の美学を追求するバンドとして知られるTuxedomoonが、アメリカはサンフランシスコ出身というのは、知ってる人は知ってるけど、知らない人にとっては意外な事実でしょうか。元々はイリノイ出身でサンフランシスコに移ったSteven Brownが、電子楽器を学ぶためにシティ・カレッジ・オブ・サンフランシスコに入学し、電子音楽クラスで同級のBlaine L. Reiningerと出会ったのがTuxedomoonの始まりでした。当時貧乏学生だった彼らは、ヴァイオリン、サックス、ピアノ、ギター、シンセサイザーといった学校の備品の楽器を使用し、デジタル・セッティングの天才と呼ばれるTom Tadlockの助けを受け、リール・レコーダーで音楽実験のレコーディングを始めたのが1977年の事。元々演劇的な志向があった彼らは、自主制作したサウンドと、映像やスライドを投影したスクリーンや人的パフォーマンスをミックスしてマルチメディア・アートとして展開していました。パフォーマーを担当したBruce Geduldigは、以降もTuxedomoonのマルチメディアとパフォーマンスを長らく担当し、バンドに絶大な貢献をしていく事となります。Tom Tadlockは、機材のセッティングからマネージャーみたいな仕事まで行ってバンドの活動に貢献しました。その時の音源を元に、Tuxedomoonとして初のシングル"Joeboy...(Joeboy The Electronic Ghost)"を制作し、地元の小さなインディー・レーベル、Tidal Wave Recordsから1978年にリリースしています。同じ年に5曲入りシングル”No Tears”を自主リリース。シンセサイザー、ヴァイオリン、パーカッションをメインにしたサウンドの実験を基本に、Cole Porterの"Night and Day"をSuicideばりのスカスカな打ち込みでカヴァーしたり、レーベル・メイトだった地元のバンド、SVTのPaul Zahlや、SleepersのMichael Belferの助力による直情的なパンク・サウンドもあり、プロト・タイプの状態でしたが、既に存在感はありました。演劇志望のWinston Tongがヴォーカルとして加わって数枚のシングルを自主制作した後、ベーシストのPeter Principleが加入し、初期ラインナップが完成します。程なく地元サンフランシスコのバンド、The ResidentsのレーベルRalph Recordsと契約します。Peterのベース・ラインはバンドの中核となり、サウンドを大きく進化させました。歌詞には、同時期のサンフランシスコでの出来事、ガイアナ人民寺院の事件、ハーヴェイ・ミルクの暗殺といった、うんざりする様な現状を乗せた社会派な姿勢がありました。1980年にデビュー・アルバム”Half-Mute”をRalph Recordsからリリースし、同時に地元のレストランでライヴを始めます。
1981年には2作目のアルバム”Desire”をRalph Recordsからリリースしています。このアルバムは、Depeche Mode, Einstürzende Neubauten,Wireなどを手掛けたGareth Jonesのプロデュースの元、イギリスのサリーの田園地帯にある住宅スタジオ、Jacob's Studioでレコーディングされています。レコーディング終了後はサンフランシスコに帰らずにニューヨークに滞在してライヴや地元ミュージシャンと交流しています。偶然にも、ジャン・ミシェル・バスキア自身が出演するニューヨークのアート・シーンを描いた映画『Downtown 81』にフィーチャーされています。この滞在で、ニューヨークのミュージシャン、DNAのArto LinsayやLounge LizardsのJohn Lurieなどと交流を持ち、共演も行ったことで、バンド・メンバーの音楽への意識を大きく変える事になります。イギリスでのレコーディングやライヴ・サーキット、オランダ滞在での様々なアーティストやミュージシャンとの交流を経て、アメリカの音楽シーンと、自身のサウンドとの大きな隔たりを感じ、The Residentsとの音楽的な意見の相違もあって、自分たちをスムーズに受け入れてくれたヨーロッパに拠点を移します。レーガンが大統領に選出されたら米国を離れるという決意もあったと語っていましたが、真意はどうなんでしょう。Winston Tongが正式にメンバーとなり、以降は数多くのレコーディングに参加し、作曲も手掛けています。
1982年のアルバム”Divine”は、The Residentsとも関りを持つモーリス・ベジャールのバレエの音楽としてオランダでレコーディングされ、オランダではPhilipsから、イギリスでは、ベルギーのLes Disques Du Crépusculeのイギリス支部のレーベル Operation Twilightからリリースされています。初期Tuxedomoonに関わったギタリストのMichael Belferは、自身が所属するサンフランシスコのバンド Sleepersがダメになって以来ドラッグに溺れていて、そんな彼を見かねた共通の友人であるWinston Tongがヨーロッパに呼び、Tuxedomoonのヨーロッパ・ツアーに帯同させ、アルバムにも参加させています。バンドと並行してソロ活動を行っていたBlaine L. Reiningerが、この頃に脱退しています。Blaineはソロ名義での作品をはじめ、Minimal Compact, Richard Jobson, Paul Haig ,The Durutti ColumnといったLes Disques Du CrépusculeやCrammed Discs周辺アーティストの作品に参加して活動しました。Tuxedomoon脱退後も、メンバーとのコラボレーションは度々行っており、休暇のようなものだとBlaineは語っています。よりポピュラーなサウンドを求めたバンドとのサウンド志向の隔たりはあった様ですが、共演や交流は続けていました。Michael Belferは、1984年にリリースされたBlaineのソロ・アルバム”Night Air”に全面参加して共演していますが、アルバムの収益によるトラブルが原因でアメリカへ帰ってしまいます。
ブリュッセルでの音楽活動は、Tuxedomoonの音楽を大きく前進させました。Aksak MaboulのMarc Hollanderが主宰するブリュッセルのレーベル、Crammed Discsと契約し、1985年にはアルバム”Holy Wars”をリリースしています。メンバーは流動的になり、Peter Principle, Steven Brown, Winston Tong以外は、Alain LefebureやLuc Van Lieshout、Bruce Geduldigといったベルギーのミュージシャンやアメリカ時代から馴染みのアート・ディレクターが参加するようになります。バンド・サウンドの特色だったヴァイオリンを失ったバンドは、Steven Brownがサックスを、Luc Van Lieshoutがトランペットを演奏する事でカバーします。この事により、ヨーロッパ映画音楽に影響を受けた耽美的なロマンティシズムの傾向があったバンドのサウンドは、一気に進化します。メロディカの音色が印象的な”Some Guys”は、ヴィム・ベンダース監督の映画『ベルリン・天使の詩』で効果的に使用されました。Winston Tongの存在がより大きくなり、印象的なヴォーカルはもちろん、ソングライターとしても活躍、Depeche ModeのMartin L. GoreやNouvelle Vagueがカヴァーした、今作収録の"In a Manner of Speaking"を作曲しています。しかし、彼は、このアルバムを最後に脱退してしまいました。
1988年には8曲入りのミニ・アルバム"Ship of Fools"をリリースしています。この時のメンバーは、Peter Principle, Steven Brown, Ivan Georgiev, Luc Van Lieshoutでした。ヨーロッパの耽美主義と映像感覚がマッチした独自の美学を追求したサウンドが頂点を極め、親しい仲だったというレーベル・メイトのMinimal Compactの影響か、オリエンタルでエキゾチックな雰囲気や、アンビエントや現代音楽的なテイストもあるサウンドが非常に興味深い作品に仕上がっています。低音で陶酔感のあるヴォーカルと、多彩なホーン類やシンセサイザーの風変わりな音色が絡み合う、実験的でフリーキーで混沌とした圧巻のサウンドを作り上げています。この頃、Blaine L. Reiningerがバンドに復帰して、ライヴ・ツアーを行っていますが、レコーディングには参加せず、再びバンドを去っています。
1990年にはアルバム"You"をリリースしています。Peter Principle, Steven Brown, Ivan Georgiev, Luc Van Lieshout, Bruce Geduldigが中心メンバーでした。今作も、カオティックなホーンとエレクトロニクスの絡みが印象的で、バンドの初期から中核を担っていた複雑で的確なベース・ラインの存在感と共に、独特なバンド・サウンドを揺るぎないものとしています。エレクトリックなキャバレー音楽といった趣もあり、益々ヴィジュアル感覚のある、映画のサウンドトラックの様なドラマティックな展開に心奪われる作品です。ロマン・ポランスキーに捧げたと思しき"Roman P."、印象的なホーンが散りばめられ、ハードボイルド風味のエレクトリック・ジャズとクールなヴォーカルが冴える"The Train"、流麗なエレクトロニクスとホーンによるドリーミィな"You"、安部公房『箱男』に捧げられた、Bruce Geduldig作によるアヴァンギャルドな演劇風のドラマチックな展開が印象的な3曲の"Boxman"トリロジーなど、聴き所が満載の作品です。
1991年頃には、Blaine L. Reiningerが再度バンドに復帰し、Peter Principle, Steven Brownとのオリジナル・メンバーが復活します。同じ頃にリリースされたアルバム"Ghost Sonata"は新録のオリジナル・アルバムでは無く、サブタイトルを"An Opera Without Words"と言い、1982年に行われたイタリアのフェスティヴァルでの、Winston TongとBruce Geduldigが演出したステージ、大型モニターの映像とバンドの演奏とオーケストラの演奏による壮大なヴィジュアル・ライヴのレコーディングをベースとしていますが、長らくお蔵入りとなっていた作品でした。LTM Recordings(Les Temps Modernes)の主宰者でもあるプロデューサーのJames Neissが、新しいレコーディングを加えてデジタル編集して完成させ、LTM Recordingsからリリースしています。James Neissは、この作品をTuedomoon版の"Smile"と呼んでいたそうで、完成までに9年の月日を経ています。この作品の後、バンドは長い活動休止期間に入ります。
長い活動休止期間に入ったTuxedomoonですが、1997年のイスラエルはテルアビブでのNext Music Festivalに招かれ、そのライヴのために活動を再開しています。その復活劇には、彼らのファンであるというDJ Hellが大きく貢献している様です。音楽活動から離れていたバンドですが、このフェスティバルでの熱狂的なオーディエンスを前にしての演奏で、メンバーは自信を取り戻し、音楽活動を再開します。音楽雑誌は「タキシード・ムーンをクローゼットから連れ出したDJヘル」と称賛し、バンド・メンバーも認めている様です。1997年には、Joeboy名義でアルバム"Joeboy in Mexico"を、メキシコのレーベル Opción Sónicaからリリースしています。この作品は、メキシコに移住したSteven Brownが、実際の活動家の肉声のサンプリングや発言の引用などで、メキシコの悲しい歴史や社会的なメッセージを発信するというパーソナルな作品ですが、Steven BrownがEsteban Café、Peter PrincipleがPandro Hocheval、Blaine L. ReiningerがBerliner Angeliniを名乗って参加し、メキシコのミュージシャンと共演しています。Tuxedomoonの初期シングルのタイトルであるJoeboyは、過去にも変名として使用されており、1981年にJoeboy / Winston Tong名義で" Joeboy In Rotterdam / Joeboy San Franciscooon"を、オランダはロッテルダムのレードショップが運営するBackstreet/Backlash Recordsからリリースしています。
2004年に、インストゥルメンタルが中心のアルバム”Cabin In The Sky”をリリースしています。Crammed Discsのオフィスに呼ばれたメンバーが、Marc Hollanderが聴かせたレコードから気に入ったものを選べと言われて、Tarwater, Tortoise , Jurymanを選び、Tuxedomoonのメンバーがレコーディングした素材を送り、先のTarwater, TortoiseのJohn McEntire, JurymanのIan Simmonds、それに加えて DJ Hell, Aksak MaboulのVincent KenisとMarc Hollanderといった面々がリミックスしたアルバムとなっています。メンバーも大変気に入った作品の様です。
2006年にはCrammed Discsの映像音楽シリーズMade To Measureの1枚として、久々に出身地のサンフランシスコでレコーディングした、ジョージ・カカナキスの未完の映画のサウンドトラック”Bardo Hotel”、2007年にはBlaine L. Reiningerの自宅でレコーディングされた現代音楽の即興に近い作品"Vapour Trails"をCrammed Discsから、2014年には、ジェームズ・ビドグッド監督の1971年のカルト・フィルム"Pink Narcissus"を、2011年フランスのエトランジェ国際映画祭で上映するために制作した音楽をサウンドトラックとして同名でリリースしています。2015年には、デヴィッド・リンチの映画『ブルー・ヴェルヴェット』の42周年を記念して、ピーター・ブラッツが監督し、映画の制作過程を未公開映像を交えて追ったドキュメンタリー映画" Blue Velvet Revisited"のサウンドトラックをTuxedomoon & Cult With No Nameのコラボレーションでレコーディングしてリリースするなど断続的な活動を行っていますが、それ以降は、1980年代~2000年代までのライヴの発掘音源を蔵出ししたライヴ・アルバムは多数リリースしていますが、Tuxedomoonとしての作品は暫くリリースされていませんが、メンバー個々の活動は行っています。Peter PrincipleことPeter Dachertは、残念ながら2017年に他界していますが、メキシコに住むSteven Brown、ギリシャに住むBlaine L. Reiningerは離れて暮らしながら、コラボレーション作品や個々のソロ作品、彼らのルーツである演劇の活動などを行っています。
アメリカ出身ながら、自分たちの理想とする音楽を追及してヨーロッパへ渡ったTuxedomoon。本人たちは、ブリュッセルに拠点を移したのは偶然だったと言いますが、EUやNATOの中心地という経済的にも文化的にも豊かな環境や、Crammed DiscsやLes Disques Du Crépusculeという良質なレーベルのバック・アップを受け、サウンドを深化させて行った幸せなバンドです。惜しかったのは、バンド・サウンドが著しく発展した時期に、オリジナル・メンバーのBlaine L. Reiningerが不在だった事。彼のソロ作品やコラボレーション作品のサウンドの方向性は近かっただけに、もっと凄いものが出来上がっていたのでは、と妄想してしまいます。今回は、バンドのサウンドが確立した時期のアルバム"Holy Wars"から、この名曲を。
"Some Guys" / Tuxedomoon
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