あなたになれない わたしと、わたしになれない あなたのこと #6


#6  弟のこと


五歳離れた弟がいる。たったひとりの弟だ。

幼稚園のころ、「きょうだいがほしい」とねだると、若い日の母はきまって「神さまに妹か弟が欲しいってお願いしたらもらえるかもしれないよ」と言った。
だから、母がほんとうに妊娠したとき、この子はわたしが望んだからやってきたんだと思った。

ある日、朝起きたら、目の前に母の足がころがっていて、あ、また寝てるあいだにひっくり返っちゃったと思いながら起き上がったら、頭が母ではなくてギョッとした。母のパジャマを着た、母の妹だった。母が深夜に産気づいたのでうちに呼び出され、病院へはこばれた母と入れ替わりにわたしを預かっていたらしい。
そのときの、朝にぽかっと穴があくような感じが、弟が生まれる、ということがはじめて迫ってきた瞬間だったと思う。

わたしに望まれて生まれてきた弟は強かった。
運動がからきしダメなわたしと違い、ハイハイの段階ですでに速かった。幼稚園でブランコを独占していた上級生を容赦なく殴りとばし、いじわる言ってきた同級生も殴りとばし、父は笑ったけれど、母がママ友のあいだで浮いた。わたしは「神さまにお願いする」段階で「おもちゃもすぐに貸してあげます、こわされても怒りません」と誓ったことをめちゃくちゃ後悔した。
けれど、弟を願ったことそれ自体を後悔することはなかった。

あるとき、朝のしたくをしながら、弟がとなりで歯みがきなんかしているのを見ていた。幼稚園にあがった弟の、顔がちょっとわたしと似てきている。
そのことが、急にふしぎになった。
友だちの弟たちのうちの誰でもなく、こいつだけが自分の弟なのだ、そのことがおもしろくていとおしくてたまらなくなり、日記を書いた。
思えば、十歳ほどのわたしに突如訪れたあれは、家族である、という実感だった。家族である、というだけで、ひととき弟と並んでいるのがかけがえないことに思われて、うれしかった。

わたしが小学校六年生、弟が一年生になる四月、一家はふたりが生まれた名古屋を離れ、東京へ移り住んだ。わたしが部活動のトランペットを辞めざるをえなくなった一方で、弟はサッカーをはじめ、それがそのまま十二年つづいた。
地域のサッカーチームは活発で、両親は毎週末、わたしを家に残して弟の試合に出かけた。ときどきついていったけれど、炎天下で退屈するのと、自分の部屋で退屈するのとのちがいだったから、そのうち行かなくなった。
弟はたちまち日に焼けて、転校先の小学校でわたしを菌あつかいしたサッカー部の男の子たちと同じユニフォームが似合う身体を獲得していった。

ときどき、弟のサッカーチームの子どもたちとその父母がうちのリビングに集まり、パーティをひらいた。わたしは男の子のにおいと笑い声とでいきれる空間におびえ、わたしはいないと言ってくれるように母に頼んで、二階の部屋で息を殺してすごした。パーティのあと、箸や皿が台所に積んであるのがいやだった。

わたしたちは対等に慈しまれ、大切にされて育ったと思う。
両親もそれぞれ長女と長男だったからか、「お姉ちゃんでしょ」といわれることはほとんどなかった。弟が悪いときにはキチンと弟だけが叱られたし、比較的要領のいいわたしのわがままだけが通ることもしばしばあった。
部屋で存在しないふりをしてパーティの音を聞いているあいだでさえ、わたしはそのことをよくわかっていた。
それでもときどき、サッカーチームで家族ごとに受け持っていた洗濯当番がうちにまわってきて、うちのリビングに一チーム分のオレンジのビブスがびっしり干してあるのを見ているときなんかに、わたしだけが自分の家を名古屋に置いてきてしまったのだ、と思った。

けれど、弟を願ったことを後悔することはなかった。

弟は、わたしの欲しかったものをたくさん持っている。ないものねだりかもしれないけれど、近くにいるとそれがよくわかる。
たとえば運動神経、たとえば男の子だからってちょっと多めによそってもらうごはん、たとえば、友だち。
わたしにも友だちはいるけれど、弟が持っているのは休日に大人数で連れ立って出かけていくような友だち。誕生日になると彼は、クラスの子たちから寄せ書きなんかをもらってくる。中学の合唱コンクールでは指揮者だった。
いや、べつに、それが欲しかったわけじゃないけど、と考えて、やめる。

わたしは到底そういうタイプとは縁がなかったので、たまに妙な気分になった。もしクラスメイトとして出会っていたら、こいつとは絶対仲良くなれなかっただろう。
にもかかわらず、弟はわたしを尊敬していて、わたしの薦めるままに読む本を選んだり、彼の好きなものにわたしが同意すると誇りかな顔をしたりする。

もしクラスメイトとして出会っていたら?
その不吉な想像をあまり深追いしないようにとどめていたのは、ある種の知恵によるものだったと思う。


弟にいじめられていると言って学校に来なくなった子がいる、と母に電話がかかってきたのは、弟が高校に入ったころだった。
弟は、いつの間にかますますよく日焼けして、身体のあちこちが硬そうな男の子に育っていた。

弟の高校から電話があったことを話すとき母は、

「弟はふざけてるだけみたいなんだけど、弱気な子にはいじめと思われちゃうみたい」

と説明した。
それですべてが済んだというように、すぐその話題は家族のあいだに上らなくなり、当の弟がどう思っているのかはわからないままだった。

思い出す。
転校した先の小学校で男の子たちにいじめられていたころ、わたしは夜な夜な髪の毛を大量に抜いては枕に散らしていた。親にストレスで抜けていると思われたかった。
そうか、と思った。ぜんぜん知らなかった。
このように傷つけた側は守られるのだ。わたしが髪を抜いているあいだにもきっと、あの子たちだけが守られていた。

そして、もっともかなしいことには、わたしもまた、たぶん母よりもずっと、弟はいじめなんてしないと思いたかった。

受精する瞬間について教わったことがある。
最初の精子が卵子に到着した瞬間、受精膜といわれるバリアが卵子を覆う。他の精子を受け入れないために、ひとつの精子のみを残して自らを閉ざすのだ。

仮に、擁護しあうことが家族の持っている機能のひとつだとしたら、家族にもそのように閉ざされる瞬間がある。
そして、それがときどき愛と呼ばれる。
母はおそらく、わたしが誰かを傷つけても同じようにいうだろう。それこそが愛の成せることだとしたら、あのころ、遠くで誰かがわたしのことを「弱気な子にはいじめと思われちゃうみたい」と言い捨てたかもしれない、それも、全く同様に愛の成せることだ。

膜が張るのはあっという間だ。むかし鏡の前で感じた、この子だけがわたしの弟で、この子以外にはいないのだというあの喜びこそ、わたしは疑わなければならなかった。

この絶望感と折り合いをつけるすべを、いまのところ身につけられていない。


弟は大きくなった。今週センター試験を受けるらしい。進路相談に乗ったりしていると、順風満帆に暮らしてほしいという気持ちがにじんでくる。
好きな大学に行ってほしいし、好きな仕事に就いてほしい。アイドルの握手会に行きたかったら行けばいい。ゆたかな趣味を見つけてほしいし、できればヘンな女に引っかかったりしないでほしいし、子どもができたらめちゃくちゃなつかれてほしい。そしてそういう、姉が適当に思い描いた人生からずんずん外れていきたいと思ったときには、胸を張ってそうしてほしい。
そういうことを考えながら、ふと、わたしに望まれて生まれてきた弟を、誰かがいまも許せずにいるかもしれないことを、思い出す。

五歳離れた弟がいる。たったひとりの弟だ。

                               (向坂くじら)

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