あなたになれない わたしと、わたしになれない あなたのこと #19


#19 ミャンマーの女の子のこと


まさか、自分が海外へボランティアへ行くなんて、思ってもみなかった。

性格が悪いといわれそうだけど、「海外ボランティア」と聞くと、なんとなくたじろぎがちだ。
まず、警戒。「海外」で「ボランティア」という響きから、ある種の近寄りがたい派手さを感じとってしまう。就活映え、というか、ほめられオーラ、みたいなもの。わたしが基本的に陰気だからか、わざわざ海外まで行ってえらいことをする、という、その底なしの明るさにおののく。偽善がどうとかいいたいわけではない。ただ明るくて怖いのである。「海外でボランティアをする」ということそのものが、自分とは別の世界の人間にのみ許された特権であるように感じられる。
つぎに、自分自身への疑い。つねに自分のなかに「いいことをしたい」と望んでいる自分がいて、もし海外へボランティアになんて行こうものなら、そいつが容易に調子に乗る気がする。それで、わかっていないことをわかったような気になったり、自分の経験に無理やり意味づけをしたりして満足げに帰ってくる自分を想像すると、とても気軽には行けない。どうしてもそこで怯えを差し挟んでしまうのだ。自分がそうやって及び腰になっているからこそ、海外の子どもたちと写真を撮ってFacebookにアップしている友だちがまぶしく見えるのかもしれない。
だから、昨年の夏にミャンマーに降り立ったとき、わたしはへんにこわばっていた。

申しひらきをしておくと、はじめからボランティアをするぞ! という気概で行ったわけではない。ときどき通っている表現系のワークショップがあって、そこで毎年つづいているプロジェクトに誘われたのである。ワークショップで扱っている即興劇を、ミャンマーの孤児院などの施設をめぐって上演する、というもの。訪問先には現地の日本語学校も含まれており、そこで、詩や短歌のワークショップを作っているわたしに、授業をしてみないかと声をかけてくれたのだ。
誘われたその場で行きますと答えた。どうしてそこで尻込みしなかったのかあまり覚えていない。そのときは「ボランティア」であることをあまり強く意識しておらず、むしろ自費で行けることが気楽に感じた。
アルバイト先に休みの希望を出すためにミャンマーに行くことを説明しながら、わたし、海外にボランティアに行こうとしているじゃん……とようやく気がついた。そのときにはもう、航空券を買ったあとだった。

八月のミャンマーは雨期で、蒸してはいたけれど、身構えていたほど暑くはなかった。路面は土とアスファルトが混在し、どこも植物園の温室に排気ガスを撒いたようなにおいがした。
海外には数えるほどしか行ったことがなかったし、まして東南アジアに来るのははじめてだったから、見るもの見るものにしずかに興奮した。自転車に椅子をくっつけた人力タクシー、わりとしおらしい野犬、路上で売られている生魚、人々が顔に塗っている「タナカ」という木をすりつぶして作る白いペースト、その塗り方のバリエーションの豊富さ。鶏の脚からヤギの脳ミソまでなんでもおいしいおいしいといって食べたので、現地に住むプロジェクトメンバーに笑われた。
そして、訪問した施設で出会うひとたち。
孤児院の子どもたち。HIVに感染した女性のための職業訓練センターで機を織る女性。障碍者施設の先生。六十人くらい来るかな、と聞かされていた日本語学校の教室に行ったら、百人以上が詰め込まれていてのけぞった。ゲスト講師が来るというのでめずらしがって集まってきたらしい。

興奮しながらも、同時に、感じ入りすぎないようにブレーキをかけている感覚があった。それも、意識的にかけているというよりは、緊張してすこしずつ心を閉ざしているような感覚。自分の感傷や思い込みが、勝手な意味を持ってひとり歩きしていくのが怖かった。そのぼんやりした状態のまま異国の空気や色合いやことばにさらされていると、自分の存在が希薄になっていくようで、半分は心もとなく、半分は気持ちよかった。

キリスト教系の施設を訪れたのは、旅程の後半に差し掛かったころだったと思う。
そこには十代半ばから二十代前半くらいまでの女の子たちがいて、洋裁を習っていた。わたしたちの一行の上演がはじまると、ときに声をあげて笑い、日本語のせりふを復唱した。にぎやかだった。
最後に全員で記念撮影をしよう、ということになり、彼女たちのあいだに入って座ると、となりにいた子が肩にもたれかかってきた。なんとなしに見ると、わたしをじっと見て泣いているのだった。
わたしは動揺し、なぜかとっさに持っていた小道具の鉄琴を彼女に差出して、しばらくのあいだふたりで鉄琴を抱いていた。

そのあと、校内の見学をし終え、帰り支度をしているときに、部屋の隅のドアからその子がわたしを見つめていることに気がついた。手をふると、手をふりかえしてくる。ほかのメンバーの帰り支度にまだ時間がかかりそうなので、わたしはなんとなくそちらへ寄って行った。
女の子は笑って、手ぶりでわたしを隣の部屋へと呼び込んだ。机の上に大きな模造紙を広げて見せてくれる。自分と模造紙を交互に指さすので、どうやら彼女の引いた洋裁の図面らしいとわかった。すごい! おもしろい! という手ぶりをする。それが伝わったのかどうかはわからないまま、彼女はみょうにうれしそうに、図面の隅に「21」と書いて自分を指す。
年齢?
ためしにペンを受け取り、わたしも「23」と書いて自分を示すと、彼女はうなずいてわたしを指さし、
「Sister」
といった。Sister? 英語のSisterであっているのかどうかさえわからない。「21」が年齢だったのかも謎なままだ。
そこで、急に彼女の名前を訊きたくなった。
まず、「Name」と書き、自分を指さして、「く じ ら」と言いながら、「Ku ji ra」と書く。彼女はうんうんとうなずきながら聞き、「ク ジ ラ」とくりかえす。うなずいてペンを渡す。彼女もミャンマー語でみじかくなにか書く。ミャンマー語の文字はまるくてかわいいけれど、なにも知らずに見ているとほとんどぜんぶ似た文字に見える。
そして、その文字を指でなぞりながら、
「ジュスティーナ」
と彼女がいう。わたしが「ジュスティーナ」と真似すると、はげしくうなずく。ジュスティーナ。そこで、集合を促す声が聞こえて、わたしが手をふって行こうとすると、ジュスティーナはすばやくわたしの腕をつかみ、自分のはめていたビーズの腕輪をとって、わたしの手首へとはめなおした。
ごく短い間のできごとだった。
帰りのトラックのなかで、はめてもらった腕輪をさわりながら、わたしは相変わらずぼんやりしたままだった。プロジェクトメンバーとの振り返りでも歯切れの悪いことを言い、気を抜くとすぐにジュスティーナとのことに解釈を与えようとする自分を、きびしく押しとどめていた。

ここまで書いて、また困ってしまった。
わたしは自分の経験したことをへんにいい話のように受け取られるのもいやだし、結論を与えて終わらせてしまうのもいやだ。かといってぼんやり悩みきりで、悩んでいることそのものに意義があるのだ! みたいに言い張ることもしたくない。
そうすると、ますますなにもなくなっていくような感じがするけれど、化粧ポーチをあけると、ジュスティーナからもらった腕輪がきちんと入っていて、現実感を取りもどす。そして、できごとがただあったのだ、ということを考える。

「海外ボランティア」関係で大学生が炎上した記事を読んだ。「スラム街の暮らしを肌で感じたい」というクラウドファンディングを立ち上げてマニラへ行こうとし、批判を浴びたらしい。
彼らの書いたクラウドファンディングの本文は、わたしが苦手とする「海外ボランティア」像そのままだ。スラム街を自分で見てみたいから、就職活動で勧められたから、子どもたちに夢を与えたいから、文末のひとつひとつに、悪びれない派手さが見えかくれする。彼らに非難が集まったのは、もともとわたしと同じような違和感を持っている人が多かったからかもしれない。

でもそれは、「それはなんの役に立つんですか?」という大人からの無言の問いが彼らに書かせたものなんじゃないか、とも思った。

その問いは、なにかをしようとするたびに、誰かしらによって持ちこまれる。だいたいの場合、冷静で、客観的な誰かによって。そうすることでなにか得られるんですか? もしくは、なにか変えられるんですか?
それは、もちろん計画を立てるためには必要な問いだと思うけれど、ただ、大学生たちが書いた文章から、そう問われることに対して先手を打つ、あるいは武装するような身構えを感じるのだ。役に立ちます! と先立って宣言しなければ、発案することを許されない、とでも言うような。
よくわかる。なんせ、その問いは、わたしがミャンマーにいるあいだ自分を苦しめつづけていた問い、そのものだ。

孤児院にいるとき、わたしの手を引いていく子どもたちの顔を見ながら、また劇を見てはしゃぐ教室にいて、なんとなく、来てよかったなあと思った。でも、同時に、ふと、わたしたちが帰ったあと、また変わらない日常のなかへ戻っていく彼らのことを考える。あるいは同様に、数日後には地味で生活のにおいのする日常のなかに戻っていくわたしのことを考える。「こんなことして何になるんだろう」と自分に問うときの、くるぶしまで浸った水のようなつめたい圧。
でも、ボランティアでなにかが劇的に変わるなんてほとんどないことくらい、みんな薄々分かっているのかもしれない。だからクラウドファンディングの文面やFacebookの投稿にみょうに明るい語気が混じるのだ。無力感を吹き飛ばそうとするみたいに。

わたしもそうだ。「それは何の役に立つんですか?」と問われたとき、答えられなくなることが怖かった。なんで日本人で詩人のあなたが、わざわざミャンマーまで行くんですか? それに答えを出さなくて済むように、わたしはぼんやりとふるまい、また意味づけを拒んだ。わからないんです、わたし、たまたまここにいただけなんです、という態度を装って。

ミャンマーの女の子がわたしに名前を教えてくれた、ということ。それもまた、その問いの前ではまったく無力化されてしまうと思う。
でも、わたしはいま、はじめてそれを強く拒みたいと思っている。
ただ、できごとがあった。役に立つのか立たないのか、という線引きをはるかに超えたところに。それはわたしのためではないし、かといってべつにジュスティーナのためでもない。ただわたしたちのあいだに起きたのだ。
そういうふうにしか受け止められないことが、きっとほんとうはしばしばあるのだ。おそらく、海外まではとても届かない地味な生活のなかにも。それらを、「役に立つ」かどうかでこぼしてしまいたくない。

炎上した大学生たちは、結局ページを削除し、プロジェクトを取り下げてしまったらしい。
そりゃあ、彼らが正さなければいけない部分は多くあったんだろうけど、それでも、残念だ。わたしは彼らにほんとうにスラム街まで行ってほしかった。そして、見てきたこと、予想に反したこと、考えたことを、彼らの言葉で聞きたかった。
わたしたちは、もっと早く「それは何の役に立つのか」という問いを毅然と拒むべきだった。
むろん、役に立たなくてもいいとか、意味がなくてもいいとか、そういうことではない。役に立つ、の向こう側にあるもの、意味の向こう側にあるものを、真剣に、こぼさないように、持ち帰ってきてほしかったのだ。
化粧ポーチのなかで腕輪がひかっている。

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