【撤回文】性暴力を許そうとすることの誤謬について(向坂くじら)
<2018年のエッセイより引用>
「互いに性愛の対象になっていない」と思っていた男友だちが、急に告白してくる、あるいは性的な目を向けてくる、ということが、たまに起こる。
そのたびわたしは、自分の感情があまりに大幅にふれることに自分でおどろく。
なぜか急に挙動がバグを起こし、仮にも好きだと言ってくれた相手に対し、突然はっきりと嫌悪感を抱くようになる。そして、制御しきれないほど激昂したり、逆にひどくおびえたり、ひとりでふさぎこんだりしてしまう。
(中略)
でも、わたしがこれまでにしてきたような拒絶や怒り以外に、性愛から身を守る方法はないのだろうか。
(中略)
最後に、ラインをくれるたび、わたしに信じられないほど冷遇されている元・男友だちのみなさん、本当にすみません。そういうわけなので、もうすこし待ってもらってもいいですか。
https://note.com/antitrenchmania/n/n940725795c79
◆◆◆
2022.04.19
こんなふうに書いたのが約四年前になります。そのことを、今わたしはとても後悔しています。わたしのまちがいでした。当時のわたしは、まだ考えが浅く、不確かで、そして、自分の存在がしっかりと立っていないために、自分が誰かに軽んじられたこと、ひどいことをされたことを、自分自身で受け止めるだけの力がありませんでした。
そのため、当該の記事内で書いたことを撤回します。そのためにこの記事を書きはじめています。読んでくださった皆さまにも、心から申し訳ないと思っています。これは、四年前の記事がいまさら非難を受けたり、炎上したりしたわけではなく、百パーセントわたし個人のなかでの見解の変化によるものです。
わたしは、性的な対象としての好意を向けられることと、それを理由にひどい仕打ちを受けることとを混同していました。ひどい仕打ちとはたとえば、無理やり身体にさわったり性的な干渉をしたりすること、また実際にはそうしないまでも「そうしたいと思っている、そしてその気になればいつでもそうできる」とわざわざ伝えること、(わたしがその人の好意を受け入れないのならば)わたしやわたしの近しい人を殺す、あるいはその人自身が死ぬといって脅しをかけること、などです。
こう具体的に書くと信じられないかもしれませんが、わたしはこれらのことを、「でも、好意を向けてくれているわけだし……??」と思って大目にみようとしてきたのです。誰かに相談するときにも、自分がされたそれらのひどいことを口に出しきれなかったために、「告白されて、ちょっとしんどいんだよね……」というぐらいの話し方になり、「でも、好意を向けられただけなんでしょ?」といわれ、「そうだよなあ」と思っていました。
「でも、好意を向けられているわけだし……??」という誤謬は、また同時に、自分自身を守るためでもありました。去年性被害を告発した際にも痛感し、そのときも書きましたが、自分が人からひどいことをされたと認めることはしんどく、困難なことです。ましてそれが一般的によいものとされる「好意」を隠れ蓑にしているために、人から「モテるんだからいいじゃん」と言われたりすると、違和感がありながらも、自分自身でもそういうふうに前向きに捉えるほうが楽である、と思うこともありました。「下に見られ、ひどいことをされて傷ついている」と思うより、「ちょっとめんどうな人にしばしば“モテ”てしまう」と思うほうがまだマシなので。
いまは、好意を向けることそれ自体は悪いことではない、と考えを改めました。そうではなく、人に精神的・身体的に暴力をふるったり、行動をコントロールするために脅したりすることが悪いことである、というのがいまのわたしの考えです。そして、わたしが絶縁した人の大半は、わたしにそのような行為をしてきた人たちでした(もちろん記事中にあるJ君含めそうでない人もいて、そういう人たちに対しても暴力を予見して過剰に反応した面もあるかもしれません)。
自分自身がひどいことをされたと認めきれないために、その二つをずっと混同してきましたが、時間が経ってようやくこのように認識するようになりました。
わざわざ撤回文を書いているのは、そのような現実がありながら、「許さなければいけない」というようなことを四年前の私が書いているためです。同じ立場にある人たちにそのメッセージが伝わることは、わたしの本意ではありません。
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もしかすると、わたしが知らないだけでこれはすごく初歩的なことで、一般的な女性には「いや、ふつうにそんなに怒らなくても受け流せるから」といわれるかもしれない。でも、わたしにとっては重大な問題だ。もしも性愛を性愛のまま、でもおたがいに傷つかずに置いておくことができれば、わたしはそれこそ、誰とでも友だちになれるようになる。
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このように書いていましたが、その後わたしには「性愛を向けられて拒んだけれども、そのあとも含めたすべての過程でわたしを人として尊重してくれ、きちんと友達になった相手」が何人も無事にできました。問題ははじめから、そこに性愛があるかどうかではなく、侮蔑や暴力があるかどうかだったのです。あまりに日常的に見下されてきたためにそのことに気づいていなかった二十三歳の自分のことを思うと、本当に悲しくなります。
なので、わたしが当該の記事で、このことを語るのに自分自身のなかにある男性差別の話を持ち出しているのは、自己批判としても見当違いだと思います。
これまで、カトリックの信仰も後押しして、自分のされたことはなんでも、どうにか許さなければいけない、と思ってきました。ナンパしてきた男にしろ、告白した末に殺すだ死ぬだと脅してきた人たちにしろ、その人にはその人ののっぴきならなさがあって、わたしがそれを理解して受け入れないといけないと思ってきました。そして、許すこと、受け入れることとは、自分にとって苦しい関係の中に、忍耐によって身を置きつづけることである、とも。それでも自分自身その準備がどうしてもできないことに自分で苦しみ、上で引用したように書いたのだったと思います。
わたしは、いまはもう、見下されたままそこにいつづけることを忍耐しようとは考えていません。もしもこれからその人たちを許すとしても、それはわたしと関わらないところで暮らすその人たちの幸せを願う、という形でしか起こり得ないと思っています。
以上をもって、2018年6月24日に書いたことを撤回します。
(向坂くじら)
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