あなたになれない わたしと、わたしになれない あなたのこと #13


#13 相方のこと


チャーハンはすごい。

この上なくふさぎこみ、わたし以上に生きている価値のない人間がいるだろうか、いやいないに違いない、次に誰かに迷惑をかける前に先んじて消え去ってしまいたい、という思いでいっぱいになったとき、わたしはチャーハンを食べにいくことにしている。べつに行きつけの店があるわけではない。チャーハンという食べ物に対する強いこだわりもない。なので、目についた適当なチェーンの中華屋で事足りる。

五百円前後の安価なチャーハンはだいたい、どこで食べても想定のやや下くらいのおいしさである。油の酸化したにおいがしたり、胡椒がききすぎていたり、かならず何かしら欠点がある。食べ残すほどまずくもないけれど、端的にいうと、どうでもいい味がする。

それをプラスチックのレンゲで食べながら、わたしはめそめそ泣く。そのうち鼻がつまってきて、なおさら味がなんでもよくなる。わたしより後に入ってきたニッカポッカのおっちゃんが、一瞬ぎょっとした顔でわたしから目をそらし、わたしより先に食べ終えて出ていく。わたしはとくに卓上調味料にも手をつけず、一定のペースでチャーハンを食べ終え、そのうち泣き止んだり、泣き止まなかったりする。

はじめて泣きながらチャーハンを食べたのは大学三年のときだった。わたしは教職課程を履修しており、卒業したら教師を目指すつもりでいた。

それが、その日突然ふいになった。教務から電話がかかってきたと思ったらあれよあれよという間に面談をとりつけられた。行ってみると、わたしは知らぬ間に重要な書類の提出をすっぽかしており、教育実習を受けられなくなったのだという。そして、「とにかくあなたは来年度教育実習を受けられないので、もう教職をとって四年で卒業はできません」と、はっきり宣告されてしまった。

へえ、そうなんですか、どうもすいません、みたいな顔をして面談室を出て、校舎を出て、キャンパスを出たくらいで涙が出てきた。たまたま待ち合わせをしていた身内はわたしの顔を見ておどろき、事情を聞き出そうととりあえず近くの安い中華屋にわたしを連れていってくれた。

そこで適当に頼んだのがチャーハンだった。

ここで情けなくも申しひらきをしておくと、わたしは教師になりたくはなかった。負け惜しみではない。学校という共同体で、教師という生きものの無理解に苦しめられつづけた記憶が強く残っていたわたしにとって、そもそも教師を目指すことの半分が復讐であり、半分が自傷だった。ほかに就きたい仕事があるわけでもないので、せめてたまたま強く持っていた暗い感情をたよりに就職活動をするつもりでいただけ。

なので、教師になれないことそのもののショックは一切なかったと思う。教育実習で母校に戻らなくて済む安堵さえあった。ただ、ふつうの人ならできることが自分にはできないのだ、という実感が、水圧のように身を襲ってきたのだった。

昔から忘れものやスケジュールミスは多かったし、そのたびいけしゃあしゃあと乗り切ってきたけれど、このときはなぜかそうはいかなかった。このあとの人生でなにをやっても自分のこういう性質にじゃまされる予感がした。キャンパスから駅に向かう横断歩道を渡っている学生たちのなかで、わたしがいちばん劣っている気がした。

そこでチャーハンである。中国人の店員さんが運んできた皿を泣きながら見て、わたしは思う。

自分には生きつづける価値がないと思い詰めた人間にとって、チャーハンは料理として、あまりに手間がかかりすぎている。

まず、本来炊いただけで食べられる米を、その上わざわざ炒めている。それだけですごい。身に余る。そして具もかなり小さめに刻まれている。チャーハンは手軽な料理だと思われがちらしいけれど、わたしにとっては相当手間のかかった料理、というか、手間がかかっていることが露骨にわかりやすい料理だった。

わたしのために、野菜を刻み、一度炊いた米を再び炒め、皿にまんまるに盛って出してくれた。

それが、そのときあまりにもまばゆく思えた。チャーハンを注文し、作って出してもらって、お金を払って帰る。その経験が、わたしが人間として生きつづけることをギリギリで守ってくれた、とさえ思えた。

それ以来、なにかつらいことがあって、もう人間でいられない、これ以上生きてはいられない、と思うと、チャーハンを食べる。そして、すでに食べられる米をわざわざ炒めてくれた人のことを思って、手をあわせたいような、足場をたしかめるような気分になる。

ところで、熊谷勇哉、という男をご存知だろうか。

わたしは「Anti-Trench」というユニットでパフォーマンス活動をしていて、彼はその相方にしてギタリストである。わたしが自分の詩を朗読し、熊谷がエレキギターを弾く。活動をはじめて二年強になるけれど、熊谷と出会ったのはもっと前、わたしが十七歳、熊谷が十八歳のときだ。

十七歳の春、通っていた大学受験の塾にあたらしく入ってきた浪人生が、熊谷だった。初めて会ったときの熊谷は朱色のサルエルパンツを履いており、まったくファッションに明るくなかったわたしは、スカートを履いた男が入塾してきたのだと思った。

女子校で育ったせいで、はじめ、同年代の男性がものめずらしくみえたけれど、そのうちその大半は単に熊谷という個体のめずらしさであることがわかった。熊谷は、勉強していて眠くなると椅子の座面に立ち、見上げるほどの背丈になった。昼には牛丼を二杯買ってきてひとりで全部食べる。夜になると、塾に常備している赤いエレキギターを出してきて、歌った。それも、既存の曲ではなく、即興でそのときの気持ちとか、日本史の年表に適当に節をつけた歌とかを。

へんなやつだ。

十七歳のときのわたしは、前述したとおりひたすら学校との折り合いが悪く、ひどい口下手で、つねに敵愾心にあふれ、対人関係に関してはほとんど野生の生きものに近かった。はじめ、お互いにおっかなびっくりだったわたしたちだったが、ふしぎとそのうち仲良くなった。

熊谷のふるまいや会話の端々から、彼に友だちが多いことがよくわかった。見ているとその理由も察せられる。わたしのほうが一年長く塾にいるはずなのに、中学生の生徒たちがみるみる熊谷になついていくのだ。半ばなめられてこそいたが、それだけじゃない。

熊谷はなんていうか、やさしい。ふざけている風ではあるけれど、わざと誰かを傷つけることは絶対に言わないし、つねに相手を安心させ、油断させ、面白がらせようとして話している。そして、そのためにはまず自分が楽しそうにふるまわなければならないことも、どこまで意識的かはさておいても、よく心得ている。

熊谷には好きなものがたくさんあって、わたしもその話を聞くのは好きだった。音楽はもちろんのこととして、ファッションやカレー、女優、マグカップ、機械工作にいたるまで、熊谷はじぶんの好きなものを過剰なくらい語り、褒める。当時、読み書きだけを自分のフィールドと定め、ほかのものにほとんど手を出さなかったわたしには、それもよくわからなかった。音楽でないことについてまで、なぜそのように生き生きと語れるのか。

勉強はわたしのほうができたので、塾ではなんとなくわたしのほうが賢い扱いを受けがちだったけれど、ときどきしずかに「ちがう」と思った。この人は、わたしよりはるかに多くの点で、わたしよりはるかに賢い。

そのころ、わたしは学校から塾へ帰ってきて泣くことがよくあった。熊谷にそういう相談をした記憶はあまりないけれど、でも毎日隣の席で勉強していたから、彼は飽きるほどわたしの泣き顔を見ているはずだ。

塾の先生が帰って塾が自習スペースになったあと、熊谷は例によってギターを弾き始める。そして、そういうときにわたしがまだしょげていると、茶化すような顔で言う。

「元気ない? えっ、元気なくない? 元気ないね? じゃあおれが励ましの一曲弾いてあげるよ」

おまえ弾きたいだけだろ、という強引さ。とくに断る理由もなく、そのまま弾いてもらう。せっかく弾いてくれているので、一度勉強の手をとめて。どうやらまた即興らしい。広い塾の教室で、わたしたちの座っている席のまわりだけ蛍光灯がついている。ギターのみが語り、ふたりとも黙っている。

正直、当時わたしには音楽を聞く習慣がまったくなかったため、良し悪しはほとんどわからなかった。でも、弦をはじくときの熊谷の真剣な顔を見ていると、一分に一回くらい、ちょっとおかしかった。そして、毎回思ったより長い。一緒になってサボってたらだめだよな、勉強しなきゃな、と思いながら、それでもわたしは薄笑いをうかべて熊谷のギターを聞きつづけている。

ようやく演奏を終えると、熊谷は大仕事を終えた顔をしてこちらを向き、きまって「どう?」という。訥々と感想を述べると次の曲がはじまる。それはわたしのための曲ではないので、わたしは耳だけはギターにあずけたまま、そこでやっと勉強に戻る。励まされたかどうかといえば、わからない。まったく変わらず憂鬱なままであった気もするけれど、聞いている間だけはおもしろかったような気もする。とにかく、そういう時間があったのだ、ということを、考える。

ついさいきん、古民家でライブをする機会があった。舞台の設置中、客席に虫の死骸が転がっているのを見つけ、ティッシュでとったところまではよかったが、建物の保護のためにゴミは各自持ち帰るよう言われていたのを思い出す。手のなかで持て余される虫入りのティッシュ。できればポケットにもいれたくない。途方に暮れて、手のひらにティッシュの包みを乗せたまま、熊谷に相談しに行った。

「熊谷さん、さっき虫が死んでてね」

「うん」

「わたし、とっちゃって、いま、このなかに虫がいてね……」

すると、熊谷は「君の言いたいことはすべてわかったよ」とでも言いたげな悲痛な面持ちでうなずく。そして、無言のままギターを弾き始めた。

三十秒くらいおとなしく聞いて、それが虫に捧げる鎮魂歌であることにやっと気がついた。なにひとつわかっていなかった。さっきの悲痛な顔は悼んでいる顔だったのか。ちがうよ、捨てるとこがないんだよ、誰が弔いを頼んだんだ、といいながら、わたしは笑っている。それでも熊谷は黙ってかなしい旋律を弾きつづける。わたしも、ティッシュのなかの虫を彼のほうに差し向けて、しばらく聞かせてやる。ふたりとも、黙っている。

この熊谷のわかっていなさといったら、すごい。たぶん、高校生のときのわたしがどんな苦しみに泣いていたのかも、半分くらいはわかっていなかっただろう。でも、彼はギターを弾き、わたしは聞く。さっきまでゴミだと思っていた虫をふたりして弔う。

その、見たところあまり意味のない数分と、わたしが泣きながら食べるチープなチャーハンとは、すこし似ているような気がする。

中華屋の厨房に立ち、わたしのためにチャーハンを炒めてくれた人は、当然わたしのことをなにも知らない。かつて高校の教師たちがわたしを追いつめた理由は、紛れもなく「無理解」であったといまでも思う。しかし、そのあと「理解」がどれほどわたしを救ってくれただろうか。「理解」以外のなにかにも、わたしは同様に助けられてきたのではないか。そのなにかに、わたしはまだ名前をつけずにいる。単に、愛情や優しさなどといって、片づけてしまいたくない。

熊谷はいまでも、すぐ誰かや何かのためにギターを演奏し、ときに一曲書き上げる。一度炊いたお米をわざわざ炒めるのと同じくらいすごいことだ。でもそれは、仮に彼がギターを弾けなくても変わらなかったような気がする。

最近になって思う。自分の存在を確かめたくなったとき、つい誰かに心から理解されることや、感謝されることを求めたくなる。でも案外、わたしが生きていて、あしたも生きていてもいいのだ、ということは、どうでもいいこと、意味のないことによって担保されているのかもしれない。あしたになったら忘れているであろう、しかしわたしのために弾かれたギターを聞いているとき、のような。


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