あなたになれない わたしと、わたしになれない あなたのこと #12


#12  電車のなかで手を握ってきた女の子のこと


めずらしく、夕方に帰途についていた。たまに日が暮れる前に地下鉄に乗ると、地下を走っていた電車が地上へ躍り出る瞬間が見られて、得した気分になる。その日も、暗闇をぬけ、液体のような西日で満ちていく車両の揺れに目を細めているところだった。

わたしは端の席に座っており、すぐそばに小学生くらいの子どもが立っていた。その子が、やにわにこちらを向き、わたしの左手をゆっくりと握った。

えっ?

青い子ども用手袋の手のひらにゴムのすべり止めがついていて、それがみょうにしっかりとわたしの素手の手のひらをつかまえていたのを覚えている。えっ? 手を握られている。

ほかの乗客はほとんどいなかったような気がする。突然のことに気が動転し、振り払うでも、話しかけるでもなく、子どもの顔をおそるおそる見上げた。髪は短く、手ぶくろも男の子用に見えるけれど、顔立ちは女の子だった。小学校二年か三年くらいだろうか、眼鏡をかけた内気そうな女の子。その子は、わたしからはすこし視線を外した下方向をジッと見つめ、くちびるをわずかに噛んでいた。

なにが起きているのかぜんぜんわからない。はじめ、極端に人なつっこい子なのかと思い、見知らぬ子どもの手を握りつづけてはいけないような気がしてさりげなく手を離そうかと思ったけれど、それにしては顔がこわばっているのが気になった。甘えたり、からかったりしているふうには見えない。どちらかというと、緊張し、混乱しているような固まり方だった。

そこで、そのときたまたまFacebookで読んだばかりだった記事を連想した。

どこか外国の、ごく小さなネットニュースだった。バスのなかで男の人が、乗り合わせた大学生の男の子に「自分の手を握ってほしい」と頼む。男の子はただならぬ空気を感じ、手を握ったまま何十分もバスに乗りつづける。そのようすが他の乗客によってFacebookに投稿され、「手を握ってほしい」と頼んだ男性本人の家族まで届く。男性はじつは脳性麻痺と聴覚障がいを抱えており、そこで大学生の男の子が手を握ってくれたことでどれだけ助けられたことか……と、いう内容の記事だ。

それで、なんとなく手を握りかえした。女の子はとくに反応もせず、一定の握力でわたしの手をつかみつづけていた。分厚い手ぶくろ越しなので体温や感触もとくになく、同じかたちの手のまましばらく握りあっていると、ぬいぐるみと握手しているような気分になった。

一瞬やさしい気分になって握りかえしてはみたものの、すぐにソワソワして居たたまれなくなってくる。わたしが力をこめたことで怖がらせているのではないか、とか、自分が降りるときどうしよう、とか、これいくらわたしが若い女とはいえ通報されたら一旦は警察行かなきゃだめなんじゃないか、とか、いろいろなことが頭をめぐっていた。やさしい気分がぜんぜん継続していない。わたしまで下方向に視線を逃がしてしまう。そもそも自分があまり人付き合いが得意じゃないことを思い出しさえした。なのに、なぜか手だけはしっかりとつないでいる。

気まずい。

顔を見ないようにした結果、ふたりの手が重なっているのをぼんやり見ていた。根拠はないけれど、女の子も同じところを見ているような気がした。

不意に、女の子が握った手の中指だけを伸ばし、手すりにもたれていたわたしの左頬をさらっと指でさわった。

えっ?

おどろいて視線をあげると、まばたきほどの一瞬だけ目があって、女の子はいまだにくちびるをきゅっと結んでいるのだった。その直後、電車が止まって、その子は拍子抜けするほどあっさりとわたしの手を離し、ふりむきもせずに駅のホームへ降りていった。

数駅のあいだのできごとだった。時間でいえばせいぜい十分くらいだったと思う。その間、本当になにひとつとして合点がいくことがなかった。

ただ、最後、去っていくその子のリュックに、ヘルプマークがぶらさがっていた。

ヘルプマーク、というのは、外見から分からなくても援助や配慮を必要としていることをしめすマークのこと。ものとしては、赤字に白十字とハートが描かれた定期券くらいのサイズのキーホルダーで、裏返すとその人が必要とする援助などが書いてある。最近すこしずつ認知されてきており、街中で見かける頻度も多くなったように思う。わたしはそのときすでに、たまたま義足の友だちに教わって知っていた。

と、いうことは、ニュースの脳性麻痺の男性と同様、あの女の子もなにかしらの障がいを抱えていた可能性が高い。

いちおう納得し、あ、じゃあ手を握りつづけてよかったのかもしれない、と思う一方で、べつに今それがわかってもそんなに関係ない気もした。

そのときのことを思い出すと、夢でも見ていたようなまぶしい気分になる。ただでさえイレギュラーな夕方だったし、その子とはおそらくふたたび会うことはないだろう。

そういう、みょうにまぶしい瞬間が、ほかにも何度か訪れた。あざやかに光りかがやくようなまぶしさではなく、白いもやのなかに目を細めてなにかをさがしているようなまぶしさの記憶。

中学生のとき、わたしはほとんど友だちがいなかった。クラスカーストでいえば間違いなく下位に属しており、授業中に近い席の子とおしゃべりした経験がほとんどない。

なので、となりの子に急に話しかけられたときはおどろいた。

「スカイツリーってあるじゃん?」

そのころ、スカイツリーは公募で名前が決まり、ニュースで華々しく取り上げられている時期だったと思う。その子は運動部に所属し、クラスでもかなり目立つ大所帯のグループになんとなく入っている、くらいの印象だった。話したのはそのときがほとんどはじめてだったかもしれない。

「え、うん」

「うちのお父さん、工事の仕事してて、スカイツリー作ってる」

「えっ? すごいね」

そういうと、とくにうれしそうにされるでもなくそのまま会話がフェードアウトし、授業に戻った。

なんでそれを、いま、わたしに?

その後、彼女がわたしに話しかけてくることはなかった。体育の授業なんかでは、体育会系グループの子たちと一緒になってわたしを避けさえした。

思い出すほどあの会話に真実味がなく感じられる。お父さんの仕事について誰かに告げたい衝動に突然襲われたのだろうか。近くにいる人なら誰でもいいほど強烈に。その一瞬だけ、彼女がほかの人になってわたしの目の前にあらわれたみたいだった。

急に知りあいが泣き出すときも、同じような感覚になる。泣いている人の、赤く腫れたくだもののような、触れがたいやわらかそうさ。それがにわかに知らない人のように見えはじめることがある。みんなの前で叱られたりくやしかったりした人が泣き出してしまったとき、他の人がやけに遠まきに見守るのはそのためだろう。わたしたちは普段、誰もが泣きうるということを忘れて過ごしているのかもしれない。

さいきん、朗読ライブの活動の一環で、「人と会って、思い出を聞く」という取り組みをしている。仲のいい友だちの口から、わたしと知り合う前のその人の話がすらすらと、あるいは訥々と語られるとき、ふと、その人はわたしがまったく見たことのない顔をする。その一瞬に行き会うと、わたしはいつも虚をつかれたようになる。

帰り道の電車のなかに見知らぬ女の子があらわれてやにわに手を握って去っていくように、知っていると思っていた人のなかにふと知らない人があらわれる瞬間が、どうやらあるらしい。

逆もある。自分がふと、誰かの知らない人になる。

わたしの母は、わたしが楽しそうにしているとうれしいらしい。楽しかった話を聞いているときは虚飾なく祝福の言葉をかけてくれる。わたしの幸せを自分の幸せと心の底から思うことができるらしい。そういう態度を、無償の愛と呼ぶこともあるのだろう。

ところが、その母が、わたしがつらかった話をすると、あざやかに態度を翻す。

「それはあなたの受け取り方の問題でしょ?」というのが常套句で、悩みを打ち明けているのに、なぜかわたしが責められるはめになる。

「あなたは恵まれているんだから、そんなことで悩まなくてもいいの」

「ママの若いときはそんなことなかったけど」

本人は励ましてくれているつもりなのかもしれないけれど、こちらには「わたしの身に起きたことを事実として認めてもらえなかった」という感触が残る。なにより、そういうときの母は明らかに不快な表情を浮かべ、その話これ以上聞きたくない、と態度で示してくるのだった。

この原因が、ついさいきんまでよくわからなかった。

ひょっとすると、そういうときの母の前に、わたしは見知らぬ人として立ち現れているのではないか。

母はわたしの幸せを願うあまり、わたしがときに苦しむことを予想だにしていないのかもしれない。そう思えば、わたしがふと愚痴を口にしたときの母の失望したような反応にも合点が行く。

わたしはわたしのなかに、母の知りたくないわたしを連れている。

そして、母のなかにいる、わたしが知ろうとしていない母のことを考える。

突然、ときに予想だにしない方向から、ときに大切な人のなかから、知らない人があらわれる。その手を握りかえせるかどうか、問われているように思えることがある。

わたしも母と同じで、相手が好きな人であるほど、その人の知らない表情を見てしまうのは怖い。ヘルプマークをくっつけた女の子とわたしとがまったくの他者であったのと同じくらい、わたしとわたしのもっとも好きな人とも他者である。

でも、だからかなしいとか、絶望的だとか、そういう当たり前の話がしたいわけではない。

あるチェーンの喫茶店にも、まぶしい記憶をひとつ持っている。

カウンターの列に並びながら、前に並んでいる男の人が注文しているのをなんとなしに眺めていた。かなりぶっきらぼうな口調で、乱暴にメニューを指差していく。

「テイクアウトで、ぜんぶおおきいので」

「テイクアウトで、おおきいので」

「ブラックのつめたいの」

「ブラックのつめたいの」

「黒糖のあったかいの」

「黒糖のあったかいの」

店員の女の子はやけに懸命なようすで、注文をすべて言われたままにくりかえす。男の人の声をたしかめるように、同じリズムで。それが輪唱のように聞こえて気になったのかもしれない。

「紅茶のつめたいの」

「紅茶のつめたいの」

「紅茶のあまいののつめたいの」

「紅茶のあまいののつめたいの」

もちろん、すべて正式な商品名とは異なる。ふつうだったら、「アイスカフェラテのMサイズですね」と聞き返してもいいところ、結局女の子はすべての注文をそれで通してしまった。

あとでさりげなく見ると、女の子の名札には「研修中」とあった。なるほど、女の子自身もあまり仕事に慣れておらず、それでマニュアル通りの対応ができなかったのかもしれない。

その風景に、わたしはいたく感じいってしまったのだった。極端にいえば自分とは違う言語を使う男の人の言葉をひとつとして遮らず、そのままくりかえしつづけた女の子の声色が、かぎりなく透明に聞こえた。

正直にいうと、手を握られたとき、わたしは怯えていた。でも、もし怯えていなければ、ヘルプマークを見る前に、声もかけずに手を握りかえすことはできなかったような気がする。

つきつめて考えれば、わたしたちはずっと、誰に対しても他者であるままだ。でも、ふと知らない人が目の前にあらわれたとき、あるいは、大事にしたい人のなかにいる知らない人と出くわしたとき、その人のことばをくりかえし、名前のないコーヒーを手渡すことができるなら。

いつでも透明になれる準備をする。まぶしくなって、また、目を細める。

                               (向坂くじら)



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?