あなたになれない わたしと、わたしになれない あなたのこと #7
#7 傷つけたかった女の子のこと
だれかを傷つけたいという思いが強まると、少女期のわたしはたびたび、ほとんど熱狂に近い昂奮状態に陥った。
小学校高学年から中学生くらいまでだろうか。授業中、傷つけたい相手のことを考え、いたずらに敵愾心を高めて遊ぶ。相手に選ぶのは自分や友だちにひどいことをした教師やクラスメイトが多かった。
実際に行動に移す気はほとんどなかったと思う。悪口を共有したり、仲間を作ったりもしなかった。ただひとりで夢想し、ネットの猟奇犯罪記事を乱読した。そういうときには、酸素が薄く感じ、目がいつもよりよく乾いた。
あれは、なんだったのだろう。
高校に上がるころには、以前にこのエッセイにも書いた「世界憎み力」に取って代わられて、この悪習は鳴りをひそめた。世界を憎む気持ちが光の差さない湿ったぶぶんから生まれてくるとしたら、ひとりを傷つけようとうねるあの烈しい気持ちは、火に近かった。
一度だけ、それを行動に移してしまったことがある。
◆
安西さんは中学のときのクラスメイトで、身体と声の大きい女の子だった。女の子のなかでは陰湿じゃないほうで、動きののろいわたしはしょっちゅう「邪魔!」といわれてぶつかられたり、すれ違いざま舌打ちされて押しのけられたりした。
それ以上わざわざ嫌がらせされたり徒党を組まれることはなかったから、たぶん、安西さんも取り立ててわたしに恨みがあったわけでもなかったのだろう。でもそのぶん、いらいらしたらあたってもいい存在だと思われていることも、よくわかった。
そんなに気にしていないつもりだったけれど、友だちの一斉送信メールのCC欄に安西さんのメールアドレスを見つけたとき、仕返ししてやりたい気持ちがめらっと沸き立った。当時もちろんグループラインなんてなかったから、仲良くもない安西さんの連絡先を入手できたことがものすごいラッキーに思えた。
ただ、すこし傷つけて、そのようすを見てみたかった。見返したい、わけじゃないから、完全に勝たなくてもいい、わたしがやったと分からせなくてもいい。ただ、一瞬だけ、わたしだけが知っている程度に勝ってみたい。
わたしはいつもなにかに勝負を挑んでいて、たまたまそのときそれが安西さんのほうを向いた、そういう感じだった。
メールアドレスの活用法を考えるのに三日くらいかかったと思う。
「呪いのメール」みたいなチェーンメールも当時流行りすぎていて芸がなく思えたし、迷惑メールがたくさん届くようにしてもアドレスを変えられたら終わりだ。せっかくの好機、アドレス変更という事態は避けたかった。
勝手に出会い系に登録する……というのも思い立ったけれど、そこまでやりたくなくてやめた。傷つけたいだけで、べつに危険な目にあってほしいわけじゃない。そして、傷つくところをわたしが見られなければ、意味がない。
そこでひらめいた。
まず、携帯から使えるフリーアドレスをあらたに取得する。当時流行っていた「前略プロフィール」というプロフィールサイトから、適当な顔の整った男の子のプリクラを手に入れる。安西さんと同じ部活の友だちに、安西さんが最近遊んだ日にちと場所を聞く。
そして、フリーアドレスからメールを送る。
−ミナちゃんこんにちは^^ 誠吾だよ。
○○日に渋谷で道教えてもらって、そのときにメアド交換したんだけど、覚えてる?
返事はすぐにきた。
−ゴメンなさい、覚えてないです(汗) 中学生ですか??
この「中学生ですか?」で、いける、と思ったことを、そのときの皮膚がひりつく感じを、いまでも思い出せる。
−一瞬だったから忘れてるよね(笑) 高校生だよー!
計画はこうだ。高校生の男の子のふりをして、安西さん、こと安西ミナコにメールを送る。女子校で、みんな恋愛に憧れはじめるころだったから、そうすればメールを続けてくれるだろうと思った。そして、できれば、安西さんの彼氏になる。それからこっぴどくふってやるつもりだった。
それが、中学二年生のわたしの考えたフルパワーの残酷なことだった。
メールの往復はつつがなく続いた。拍子抜けするくらい安西さんは「誠吾」に興味を持ってくれて、はじめのうちは質問責めにされた。
会おうと言われないように、旅行で東京を訪れていただけで普段は名古屋に住んでいることにした。ついでに「普段は女の子に声かけたりしないんだけど、せっかくだから東京に友だちほしくてアドレス聞いちゃったんだよね(汗)」と必死の清純派アピールをした。
高校一年生であること、彼女がいないこと、有名人だとジャニーズの男の子に似ていると言われること、サッカー部に所属していること、最近大学受験について考えはじめたこと、犬を飼っていること、思いつくままひとつずつ設定を付け足した。それに応じるように、安西さんが学年や所属する部活を教えてくれるたび、「知ってるよ」と思った。
安西さんからメールが来ると、頭がスッと冴えた。内容に矛盾がないように考えるのももちろんのこと、「誠吾」のやさしい口調と反比例するように、わたしの冷たい感情が研ぎ澄まされていく感覚。
わたしにも、たぶん安西さんにも、恋愛経験はなかった。安西さんの好きな少女マンガも読んだし、女の子を口説くコツみたいなライフハック記事も読んだけれど、安西さんとのやりとりはいつまでも現実味を伴わなかった。
そのうち、安西さんが部活の悩みや、友だちの悩みをぽつぽつ打ち明けてくるようになった。「こんなこと、学校の子には相談できなくて……」といわれるとき、いちばん烈しい快感がわたしを襲った。じぶんが安西さんの中で特別な存在になっていくのがわかった。いや、じぶんが、ではなく、「誠吾」が。
そのころになると、ときどき、学校で安西さんを見てはみょうな気分になった。安西さんの制服を着た身体とメールでの安西さんとが乖離して思える、だからこそ、まさにこの安西さんがきのうメールで泣きついてきたその人なのだ、と思うと高揚した。
安西さんも、安西さんの友だちも、何も知らない。わたしだけが、安西さんの悩みを、嫌いな人を、最近仲良くなった男の子の正体を、知っている。
−誠吾くんの彼女にしてほしい! ダメかな??
安西さんからそうメールが届いたのは、そのころだった。
◆
正直、「誠吾」にメールしてくる安西さんは、ちょっとかわいかった。
告白をオーケーしたら泣いちゃったらしいし、電話を断ったら本当に悲しげにされて胸が痛んだ。うん、そうだね、たしかに、そうだよね、彼氏なのにね。
安西さんをかわいく思う気持ちは、「かわいそう」に近かった。学校で会う彼女がわたしに舌打ちしたりにらんだりするたび、おかしかった。わたしなんかに騙されて、喜んだり悲しんだりして、かわいそう。かわいそうで、かわいい!
そう、わたしは安西さんに対し、完全に無敵になっていた。
無敵になった結果、困ったことが起きた。
いつの間にか、火のような復讐心がすっかり凪いでしまったのだ。とはいえ、べつに安西さんのことが本気で好きになったわけではない。じぶんを律するのに使っていた冷淡な気持ちだけが、わたしに「誠吾」を演じさせ続けていた。安西さんに別れを告げ、ショックを与える最良のタイミングを推し量りながら。
その一方で、掃除係やなんかで安西さんに話しかける機会があるたび、「ミナちゃん」と呼んでやりたい衝動に駆られた。すべてを打ち明け、台無しにしてみたかった。ミナちゃん、ごめんね、「誠吾」はわたしなんだよ。そういったら、安西さんはどんな反応をするだろう。
思いのほか計画がうまくいって怯えていたのかもしれない。安西さんを傷つけなければならないという気持ちと、この状態を終わらせたくない気持ち、そして、わたしの正体をわかってほしい気持ちが、そのころつねに交錯していた。
あるとき、お昼休みに、安西さんが恋愛話の輪に加わっていることに気づき、いそいで耳をそばだてた。女子校で恋愛話といっても「こういう彼氏が欲しい」というくらいのもので、実際には彼氏どころか、好きな男の子さえいる子はあまりいない。
だから、安西さんが「彼氏がいる」と打ち明けたとき、その一帯がぱっと明るくなるくらいの歓声が上がった。
「えー!?」
「全然知らなかった!!」
「どんな人?」
わたしはなぜか身体中にへんな汗をかき、耳をすませるのをやめた。安西さんがあんま大きい声出さないでよ、と笑って怒ったから一団は声をひそめ、いよいよなにも聞こえなくなって、わたしはいたたまれず教室を逃げ出してしまった。
じぶんでじぶんの気持ちが、全然わからなかった。
◆
ここまで書いておいてなんだけど、安西さんとの終わりはあっさりしたものだった。というか、あまり鮮明に覚えていないのだ。
結局、明確に別れを告げることができなかったのは確かだ。食い下がられたら面倒くさそうだな、とか、ないとは思うけど自殺されたらどうしよう、いやまさか……とか、いろいろなことを考えてはずるずる先延ばしにして、そのまま、いわゆる「自然消滅」した。
だから、はっきりした最後は覚えていない。
ただ、わたしがメールをあまり返さなくなったころ、安西さんが数日連続で学校を休んだことだけは記憶に残っている。まさか。先生は体調不良と話していたし、欠席を知らない「誠吾」から心配するメールを送るわけにもいかない。
まさか、「誠吾」のことで落ち込んでいるんじゃないだろうな。
じぶんの仕業かもわからないのに、そして、それが目的だったはずなのに、わたしは数日間、慚愧の念に苛まれた。そして、なんであんなことしたんだろう、と、そこでようやく疑問に思った。
当時起こったことは、それきりだ。
安西さんを「ミナちゃん」と呼ぶことがないまま、わたしは中高一貫校を卒業した。
なんであんなことしたんだろう。そこまでひどいことをしたわけでもない安西さんのために。
当時、けっして認めないようにしていたけれど、わたしは傷ついていたのだと思う。それも恒常的に。だから、わたしも誰かを傷つけることができるのだ、と知りたかった。そして、軽く見られているわたしのままでは、それができないこともよくわかっていた。誰かを傷つけるためには、特別な存在になるしかない、という感覚。
いや、ちがう。
あのときのわたしを突き動かしていたのは、特別な存在になるためには、誰かを傷つけるしかない、という感覚だった。
ひどい誤解だ。でも、当時から実感はあったはずだ。
「ミナちゃん」と呼びかけたくなった瞬間が何度もあった。あのとき、わたしは心の底で、安西さんが「誠吾」と同じようにわたしを受け入れてくれるのを、切望していたのではなかったか。
いまでも安西さんのことを思い出すと、少女の自分がしたことの申し訳なさとおそろしさで、さっと血の気がひく。そして、そのなかにさみしさが混じっているのを、自分で自分にゆるせずにいる。
ときどき、「傷つけてやろう」という態度を剥き出しに接してくる人と出会うことがある。それがよく読み取れるのは、むかしの自分と重なるからだろう。
そういうとき、その人が本当はわたしにどうしてほしいのか、耳をすませることにしている。やさしさではない。「誠吾」になろうとした十四歳のわたしを、再び生み出さないために、だ。
(向坂くじら)
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