最後の日
先週末、『PAST LIVES』という映画を観に行ったんだけれど。
うーん、大人の恋愛。どうなんだろう?あれは大人の恋愛なのかな
誰にだって、忘れられない人とか、運命だったなあと思えるひとは、いるわけで。
いろいろな事情や、タイミングだったり、自分たちではどうしようもないことがあって、別れていくわけで。
どれだけ絶望的な朝を迎えても、涙が枯れるという文字通りにこれでもかというほど泣いても、どれだけ胸が痛んでも、それでも時間が経てば、誰かと生きたい、誰かを愛したいと思って、次に進んでいくのだと思うんだけれど。
でもそういうことって、もし今目の前に、その人じゃない大事なひとがいるのなら、話すべきことではないし、見せるものでもないし、知られるべきことでもないと思う、うん、やっぱりそうだと思う。
この間読んだ『4月になれば彼女は』でもそうだったんだけれど、過去の恋愛とか、過去の大事な人の存在って、今大事な人、今目の前にいる自分が守るべき人を、傷つけるだけなんだと思う。
誰しもが(誰しも、ではないかもしれないけど)、相手にそういう、かつて愛したひとやどうすることもできなかった好きな人がいると、わかるよね…、?高校生とか、まだ若いひとは、もしかしたらこういう感覚ってまだピンとこないのかもしれないけど、だんだんと、いろいろなことを経験していくと、ああこの人にも、すごくすごく大好きな人がいたんだろうな…とか、そういうのがなんとなくわかるようになる。
(もちろん、そんなことを感じないひともいる。わたしはあまりそういう人(人を本気で好きになったことないんだろうな、愛したことも愛されたこともないんだろうな、と感じてしまう人)を好きにならないので、ここではあまり問題ではない)
アーサーが気の毒でたまらなかった。誰があんな会話を聞いてたい?自分のわからない言語で、おそらく親密なことを話しているんだろうなと感じてしまう状況で、それでもせっかく、会えるんだからと言って、彼女の全部を受け入れて。なぜそんな優し人が、泣かなくてはならないんだろう?
大人の恋愛って、(大人のって、つける必要はないんだろうな、相手との1対1の親密な関係を築くうえで、というべきかもしれない)、不必要なことは言わない、知られない。過去のそれに重ねない、その今のひとの、良いところ、素敵なところを見て、いろいろなことを受け入れて、築いていくものだと、やっぱり思う。
どうしようもないこと、切ないことなんて、あって当たり前なのだから、
自分がそれを抱えきれていないのなら、受け入れられていないのなら、まず自分がそれを受け入れなきゃいけない、ひとりで。それは絶対に、じぶんひとりで抱えないといけないもの。それができないのに、別のひとと出会って、そのひとに自分の抱えていること、自分が受け入れられなかったことを、話して、自分だけ少し楽になって。それで相手を傷つけるのは(話している本人は、自覚がきっとない)、やっぱりだめだと思う。そうだよね?
この映画を観てから1週間くらい、いろいろなことを考えて、うまく言葉で書けるかな、と思ったけどやっぱりこういうことって、うまく書けない。
でも今日は24歳、最後の日なので、書いてみようと思って、書いてみた。
きっともう少し時間が経って、わたしの状況が変わったときに見返したら、またそこで思うこともきっとあるんだろうなと思う。
誕生日とか、なにか始まりのイベント、行事とか催しよりも、
最後の日のほうが、私はなんとなく素敵だと思う。とても個人的な意見。
何か美味しいごはんを買おうか、どこかで食べようか迷ったけど、結局家でいつものごはんを食べた。洗い物がたんまり、あって、これからお風呂にも入らなくちゃならないけど、なんとなく今日はいい日だった気がする。
今日も穏やかに眠れますように
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