やや漠然とした悔しみ(2023/9/15)

0:00〜 King Gnu新曲・硝子窓を聞く 私はKing GnuのことをBOØWYと同じ立ち位置にいると思っているからいつ解散されるとも分からない中でひたすら今を応援することが大事だと思っている
もし解散を告げられても時間が受け入れさせてくれるがこの世紀のバンドを相対化するには大きな時間がかかるものだと思っている

2:00〜 寝付けないからひたすら硝子窓を聴いている 高校の同級生のnoteを見て、自分の劣等感を包み隠さず曝け出しかつ退廃的な文章を書く技術というものに触れてしまいそこはかとない悔しさが湧き上がってきた
私の書く文章はといえば、自分と自分を俯瞰する神の私が交互に出て人間の私の思考・行動を諌めたりするものが主であるため、人間の本心からの傷を描写できずにいる節がある 今書いている文体もそうだ これでは本物の人間としての私は文に顕れず埋もれてしまうのではないか。本当に悔しい。
絶対に認めたくはないが、彼の方が人間の汚く醜いが地に足ついた生のオーラを書き出すのが上手い。私は泥に塗れた部分を人に見せることを厭い、透明な、生の香りがする文を書くも、本心が見えず、死の重きに圧されたものとなる、ひとつの化け物だ。化け物が人間となる奇跡を起こすためには長い文で自分で化けの皮を剥いでやる必要があると考えているが、アイデアが亡い。早いところ人間とは何たるかを見つけられればよい。

透明な生とは誰もが憧れるものであるので強い生のオーラを放つが、その実現不可能性から恐ろしい死の香りを放つ。醜い生は絶望の一形態とも取れるために死のオーラが見えるが人として再現性に満ちているために生の瑞々しい香りが常に漂う。どれが良いのかということは、全く分からない。

11:00〜 起床 飯を食べる 今日の朝飯は麦飯と味噌汁だった。 だったではなくてこれからずっとそうなるだろう。 味噌汁の実がなくなった後は米に汁をかけて食べるのが決まりとなっている。 ほぼ戦国時代の食事と同じではないか。しかし彼等はそれで50年生きていたのだから私もなんとかなる。牛乳を飲めばもっとなんとかなる。しかし給料日まであと9日、そんな嗜好品を買う食費は手元に無い。

12:30〜 仙台駅へと自転車を走らせる。今日の目的はパルコのタワーレコードでKing Gnuの新盤を予約することと、長町へ行き溜めた映画を見ることだ。最初の映画が13時50分に始まるにも関わらず、パルコに着いたのは13時5分くらいだった。地下鉄の所要時間と長町南のMOVIX仙台への移動時間を鑑みると全く遅い。私は大いに慌てて店員との会話もまともに行えず予約を行った。あそこまで紡ぐ言葉に難儀したのは今年では初めてだったと記憶している。
いつもはエスカレーターの歩行を馬鹿にしているにも関わらず駆け降りていた。途中でスーツケースを持った人が前になってからは待ったためスピードが出ず、南北線までは猛烈に走った。ホームに着いて20秒ほどで電車が到着した。私が家を出てからの全ての行動がギリギリで私を映画に間に合う電車に届けたのだった。全く、自分に誠実でないと博打は打てないということにその時気付いた。全てに魂を載せることが人間を賭けに勝たせる。

13:40〜 映画トリプルヘッダーの会場、MOVIX仙台へ辿り着く。最初の映画はアイドルマスターミリオンライブ先行上映 第二幕だ。今日はひたすら硝子窓を聞いて沈む感情へと寄り添っていたために12割増しほどで元気を貰えたと思う。私も他人に対して誠実で優しくありたい。そう思わせてくれる映画だった。あと横山奈緒を見ていて上方落語や大阪のお笑いをちゃんと見てみたいと思った。私が中高時代に薫陶を受けた東京のお笑いはコミュニケーションに一癖付ける。最高の会話というものを発すためにも今まで触れてこなかった話というものに触れてみたいとこの時強く感じた。

17:00〜 パターンというインド映画を見る。生まれてこの方ボリウッド映画を見たことがなかったがとても面白かった。感情と自由のみで面白い作品が作れることを知らなかったために衝撃を受けた。物の見方が少し変わった。別にインドに行かずとも価値観は変えられる。そう信じてこの先生きていく。この後Twitterで感想をツイートしたらボリウッドファンの皆様から反応を頂けた。どうもこの世界は奥が深そうだ。

20:30〜 ミステリと言う勿れを見た。自分が得た知識を自在に、違和感なく使いこなし、その知見を借りて新たな疑問を発見する久能整くん、恐るべし。思うに表現作品というものは、それ自体が世界に直接的利益を与えるわけではないにも関わらず、経験したこと全てが表現者への利益へと繋がっている。久能くんの推理自体が表現であり、全て今までの経験知識が結実したものだと思う。作品は自分が経験したことしか書けないと言うが、彼は経験と、経験の微分を細かく行えるために深く滋養に満ちた口を利けるのではないだろうか。私はとても悔しく感じていた。同じ大学生が、ここまで累積知識と知識の解釈で差をあけられてしまうことはかなりの屈辱だと感じた。この悔しさを紛らわすために、経験の微分が行えないために作品は〜しか書けないという言葉を勘違いして反発している人間のことを脳裡で嘲ってみたが、やはり私が世に価値を生み出していない以上その嘲りには説得力が無い。究極の自己満足を行うためにも、何か作品を作る必要がある。下手でも下手なりにやってみれば何かしら面白いことも起きるだろう。

 9/16に続け!

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