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平沢進 新作『BEACON』を聴いて

はじめに

楽曲から受けるイメージや歌詞等については、Twitter等で多くの人が書いており、高橋かしこさんによる『BEACON』への望まれざるライナーノーツ等もあるので、ここではできるだけそれ以外の面にフォーカスしてnoteを書く。なお執筆にあたってはモニクラハシトさんのTogetterまとめ「BEACON」制作日誌が非常に参考となったので、この場で感謝を申し上げる。

楽曲形式について

本作における新基軸として、楽曲形式の拡張が挙げられる。

簡単に平沢進のキャリアにおける楽曲形式を振り返ると、かつてはABA形式というものがあった。これはサビ相当の歌い出し(A)から少しだけ抑えめのBフレーズを経てAに戻る「ABA」を歌の基本単位とした楽曲形式である。

例えばイントロを「始」、間奏を「間」、アウトロを「終」、それぞれの亜種を「'」で表すと、始-ABA-始'-ABA-間-ABA-終のようになっている。「サイボーグ」や「ZEBRA」「嵐の海」「Cluster」「Lotus」など、80年代後半から90年代前半にかけて平沢楽曲の黄金パターンといえばABA形式であった。
ABA形式自体は平沢が最初に発明したものではないが、歌モノの土俵でABA形式の可能性を拡大したのは平沢進の功績であったと思う。

しかしある時期から平沢進はABA形式を採用しなくなり、一般的なABサビ形式が楽曲の大半を占めることになった。始-AB-始'-AB-サビ-間-AB-サビ-サビ-終のようなスタイルである。平沢進の楽曲は端的に言って「変」だが、このスタンダードな形式の上に成り立つことで、ある種の「合意」を得ていたように感じる。

ところが本作では、新たなスタイルとしてABCD形式が出現した。
以下は私なりに、『BEACON』各楽曲の形式を文字化したものである。

01. 始-ABC-ABC-D-間-ABCA-終
02. 始-ABC-始'-ABC-語D-始'-ABC-語D-終
03. 始-D-ABC-始'ABC-D-始'-A'BC-D-終
04. 始-ABC-始'-ABC-C'-間-ABC-終
05. 始-D-ABC-D-ABC-DE-間-A'BC-DE-終
06. 始-ABC-始'-ABC-D-間-ABC-D-終
07. (COLD SONGは割愛)
08. 始-ABC-始'-ABC-D-始'-ABC-D-終
09. 始-ABC-始'-ABC-D-間-ABC-D-終
10. (インストなので割愛)
11. 語-ABC-ABC-間-ABC-A-終

※「D」の部分は「サビ」と呼ぶべきかもしれないが、本人が以下のツイートをしているのもあってABCD形式という名前にしている。また後述するように本作はメリハリがないため、できればサビも他パートと並列に表現したい。

このスタイルの変化は大きい。本作を最初に聴いた時、私は久々に「変な曲だ!」と思った。
自分もファンになって10年以上が経ち、近年はヒラサワの新譜を聴いて「出来が良い(Good)」とか「微妙(Bad)」と思うことはあっても、「変な曲(Strange)」だと思うことは殆ど無くなっていた。しかし振り返るとファンになって最初に世界タービンを聴いた時、最初に思ったのは「良い」でも「悪い」でもなく「変な曲!」だったはずだ(ここでビックリマークを付けられる人が平沢ファンになる!)。

すっかりヒラサワ楽曲に慣れ親しんでしまっていた自分だったが、平沢がスタイルを変更してくれたおかげで、改めて「変」だと感じることができた(どうせ何回も聴き込むうちに慣れて、この「変」という感覚も消えてしまうのだが)。
「感覚が再編成する」とは「慣れ親しんだ流儀を前提とせず、直接的なつながりに触れる」ことである。新たな楽曲形式によって、平沢進はまたしても歌モノのフロンティアを拡大したと言えよう。

特に凄いのは5曲目「燃える花の隊列」で、歌のパートがEまである上に、ちゃんと律儀に3回繰り返すため、タイムが6分18秒ある。
これまでの平沢ソロで同じくらい長めの曲というと、『白虎野』の「時間の西方」がある(6分10秒)。しかし同じ6分でも、ABサビ形式とABCD形式では受ける印象がぜんぜん違う。前者は「まだ繰り返してるな」という感じだが、後者は「いまどこにいるの?」という感じだ。

「いまどこにいるの?」となっても大丈夫なように、本作では歌詞カードが地図の役割を果たしている。毎度のごとく聴き取れない歌詞が視認できること以上に、パートごとの段落のおかげで、自分がいま楽曲のどこにいるのかを確認できるのがありがたい。
その意味でも本作のデータ版がbandcampで、CDブックレットのPDFファイル同梱によりリリースされたのは非常に良かったと思う。ヒラサワのことなので今後もテスラカイト作品のサブスク公開は無いと思うが、もし本作をサブスクで聴いていたら歌詞カードという地図がないまま遭難していた可能性がある。

メリハリのなさについて

上記の遭難しやすい理由の1つでもあるのだが、本作にはメリハリがない。こう言うと何か批判しているように聞こえるが、決してそういうわけではないので誤解なきよう。

振り返ると、近年の平沢楽曲は「引く」と「出す」が楽曲の基本要素であった。出す系のサビの前は引き、引きサビの前は出しておく等……もちろん世の中の音楽の大半は多かれ少なかれこの2要素で構築されているのだが、平沢進はそのメリハリの付け方が徹底していたのである。
単にフレーズが高音か低音か、オケが派手か地味かというだけでなく、U87とSM57というマイクの使い分けや、バカコーラスやラジオボイスの導入など、ヒラサワのメリハリ手法には枚挙に暇がない。

ここでいうメリハリとは「A」のあとに「B」があることで、「B」単体では得られなかった力を「B」が持つような事象を指す。
特にソロ前作である『ホログラムを登る男』は、楽曲をイントロから順に作る手法を採用していたこともあり、各パートに"あるべくしてそこにある"連続性があり、まさに「メリハリが全て」と言わんばかりの一作であった。

しかし本作はこれまでのメリハリ主義を一掃し、全く異なった方法論で楽曲が制作されている。
これについては制作時のTwitterで既に以下の通り言及されているので、引用するのが手っ取り早いだろう。連続性ではなく「呼応性」により楽曲を連結するという試みは、間違いなく平沢進のキャリアにおける大きな転換である。

これまでのヒラサワは、先にメリハリあるオケを構築し、後から歌を乗せるというスタイルだった。
今回は歌が先にあり、オケは後からついてきた「よくできた添え物」である。歌についても起き抜け作曲法を導入するなどして、作曲というよりは「流出」と言うべき方法論が取られている。楽曲によってはAとBの間でオケの落差がないので、全て同じパートの一部だと捉える人もいるかもしれない。

「メリハリがない」ことを理由に、本作を批判することもできる。しかし私としては、この呼応性スタイルを認めたい。平沢進というのは方法論の人であり、究極的には音楽以前に勝負が決まっているのである。
ヒラサワがABCD形式と呼応性スタイルを、今後も継続するのかは分からない。しかし簡単に元のABサビ形式・連続性スタイルに戻れないところまで来てしまったということは、一介のしがないリスナーである私にもわかる。

ギターソロの役割

これまでの平沢作品では、楽曲のメリハリを付ける道具としてギターソロが用いられていた。平沢がアンチ・ギタリストであるにも関わらずギターを捨てなかったのは、ギターほどメリハリに便利な道具が他に無かったからだと私は思う。デストロイギターに至っては、メリハリ以外に何の意味もない、究極のメリハリである。

しかし本作のギターソロに、メリハリを付ける役割はない。以下のツイートが象徴しているとおり、ギターソロは「土嚢」であり、シンセ等へ置き換えたとしても全く問題がない。当然ながらデストロイギターも不要である。

私は過去に『トロンプ・ロレイユ』という本を書いた人間であり、長らく平沢ギターのコピーが趣味だった。しかし(不遜ながら)本作を聴いてギターソロをコピーしたいとは思わなかった。
もっとも今回は公式からTAB譜の供給があったので、あんまり耳コピする意義が無いというのもあるが……自分はメリハリを付ける道具としての平沢ギター(特にソロ)が好きだったのだと、気づいてしまったのである。

最近のヒラサワは「弱いピッキング」への転換を示唆したりもしている(当初、本作はもっと弱いピッキング祭りなのかと思っていたが、「TIMELINEの終わり」以外はそんなこともなかった)。
従来の方法論はもう通用しない。ヒラサワギターに変化が起きているわけで、私もその変化についていかなければならないのだろう。

おわりに

そのほか、ドラムサウンドの進化(近年のMカード楽曲等でも多用されていた、映画音楽的な臨場感のある重低音サウンドの採用)、ベースラインの簡素化(平沢進のベースラインは、それだけで文章が一つ書けるほど奥深いものだが、今作では以前ほど複雑ではなく簡素化されている)、いい意味での雑さ(Mカード楽曲の上位互換感)、COLD SONGが浮いていない(普通そんなことありえない)など、取り上げるべきポイントは多々あるが全部書くとキリがないので割愛する。

さて今回の新譜には、近年のテスラカイト作品に必ずあったリード文がない。以下に過去のリード文を引用するが、どれも作品の世界観を端的に表すのみならず、サウンド面への言及もされており、音楽を聴いた後でも納得のフレーズである。

『白虎野』現実をドライブするための幻想ナビ。驚異の声帯制御とシンフォニック電子POPの達人が、あなたを時空の迷路に突き落とす。

『点呼する惑星』ヒラサワの前にヒラサワ無く、ヒラサワの後にヒラサワ無し。映画のサウンド・トラックを彷彿とさせる壮大なエレクトロニック・シンフォニー、変幻自在のミラクル・ヴォイス、SF的な詞世界はフィクションか?ノンフィクションか?…。もはや完全に孤高の地位を確立した平沢進の超傑作。

『現象の花の秘密』聴けば聴くほど謎めく花園。ヒラサワ・ポップは説明不可能。他の追従を許さない孤高の音楽使い“平沢進”12作目のオリジナルアルバム。

『гипноза (Gipnoza)』新しい?…古い?…否…超世紀型テクノポップ。
 見慣れた現実にスルドク干渉するゼロ・イチの行間波が9年ぶりに振動開始。

『ホログラムを登る男』広大、悠久すら宿す近未来的質感。変幻自在の多人格的声帯。高く泳ぎ深く飛ぶメロディーと言葉の奇術。斬新鋭利な頭脳の妖刀が胸の錆を削ぐ。邪道極まれり。邪道頂点より愛を降らす。
前作の跳躍から3年、ヒラサワ的基本に立ち返り、熟成と深化を経て新たな段階に踏み出したヒラサワ節オンパレード、堂々発売

『回=回』中期〜改訂期をまたぐP-MODELの亡霊と、ソロプロジェクトの不均衡的整合のモンスターが出会う驚異の電子POP、ここに出現。

もはやTwitterのフォロワーも26万人を超え、リード文で煽る必要も無くなったのだろう(あるいはテスラカイト内部の事情等もあってのことだろう)が……仮に自分がこのリード文の作成担当だったとして、本作にどんなリード文を付ければ良いのかは難題である。
上記の私の感想文も、全て「過去の平沢進との比較」でしかない。仮にこの作品が平沢進という新人アーティストの1stアルバムだったとしたら、私は何も語る言葉を持たないのだろうか(「ヒラサワ・ポップは説明不可能」というリード文は、すでに『現象の花の秘密』で使われている)。

考えれば考えるほど、どんなに褒めるようなリード文を付けても、本作の本質的な価値を落とす方向に働くと気づく。それは本作が傑作であるからなのだろうが、傑作ゆえに褒められない(煽れない)というパラドックスに陥っている。
どうしたらこのパラドックスをこじ開けられるか? 考えた結果、私はあえて批判的な言葉をもって本作のリード文とすることを考えた。奇しくもそれは、P-MODELから平沢ソロへの転換期に多くのリスナーが発したと伝聞されるフレーズと同一である。

こんなヒラサワに誰がした!


なお、ヒラサワをこんなヒラサワにしたのはヒラサワであり、日本であり、世界であり、宇宙である。


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