「この作品は、自分がいじめられていた頃の経験を元に作りました。」作家が自作を語る言葉の中に“いじめ”を見つけると、必ずその作家の本名、年齢、顔、学生時代を過ごした地域などを調べる。同級生かも知れない、その不安がゼロになるまで、できたての餃子も放って。 学生時代に誰かをいじめた記憶はないが、いじめた側は覚えていないことが多いらしい。そんなことを聞いてしまっては! もしかしたら記憶にないいじめをしていたのかも知れない、もしかしたら俺の何気ない一言で人生が悪い意味で決定づけられた人
個人抱精神的問題対歪憧憬 背伸人不届場所対危険甘美幻想有 彼世代作家抱、戦争経験作家対複雑観念想起 精神的問題、戦争経験、此不踏入領域 現代若者同断裂生 書、読、思考巡、以下程不接近 此則愛撫並食事成 真似事行真実不辿着、数学的極限空間漂 其空間在笑推量
これはすごく面倒な話。自分が「話しかけづらい人間」なのは、人から言われ過ぎてさすがに自覚はあるけども、だからといって、例えば出待ち対応で、単に求められてないのか、遠慮されてるのか、そのお客さんが写真、サイン、会話、どこまでを求めてるのかを読み取る能力が開花する訳でもないので、いつものクセでぼーっとする。「話しかけづらい人間」がぼーっとすると余計に話しかけづらいだろうけども、未だに対策出来ず仕舞いでいる。 出待ち対応に限らず、「何かを求められることに人並みに喜びを感じる人間」で
バスが怖いです。バスがすごく怖い。まずどこに行くのかよく分からない。行き先のお品書きみたいなとこに停車駅の全部を載せないし、ちゃんと確認したのに全然違うバスに乗ってることもしばしばある。ちょっとだけ遅れたりするせいで不安にさせてくるし、市営やのにお釣りが出ないとか、とにかくバスが怖いです。 自分が乗客じゃないときもバスが怖いです。バスって常にパンパンに人が乗ってるじゃないですか。秩序を保ちながら大量の人がバスに乗ってるさまが「人入れ」みたいな、子どもの頃に使ってたデカイ筆箱み
人にはそれぞれフェチがある。身体、服装、シチュエーションなど、対象は様々である。その中でも「性別に深く根差しつつ後天的」なフェチが存在する。男性特有のフェチ「腋」、女性特有のフェチ「手」である。 それは異性から見た男(女)らしさという前時代的な価値観から起因するものでも、遺伝子的なものでもない。人類が口伝によって紡いできた歴史なのだ。 腋フェチの男性と手フェチの女性はよくよく思い出して欲しい。そのフェチは自らの内奥から生まれたのではなく、多感な同級生や年上の同性に「普段あまり
“春夏秋冬は、1枚のピザを均等に4等分したよとこっちを見てくるが、全然そんなことはない。夏と冬が無神経にチーズを取るせいで、春のピザは擦りむいた皮膚みたいにトマトソースが剥き出しになり、痛々しい様相を呈している。毛布を取られて寒そうに寝ている奴みたいでもある。春は痛くて寒い。この際、秋は忘れたままにしよう。 少年漫画の三原則「友情、努力、勝利」は、人間が何かを成し遂げるために必要な「中毒」をマイルドに変換している。中毒とは「習慣」の重症化であり、非喫煙者から見た喫煙者のように
おい、俺とお前でかれこれ10分ぐらいは喋ってるけどこれって俗に言う談笑ってことでええの?打ち解けてるっけ?愛想笑いはあれど俺はまだ一度も本気で笑ってないしたぶんお前もそうなんやろ?それでも談笑なんか?さっきの俺の例え伝わってた?お前のそのりんご飴への情熱はなに?昔食べた記憶を頼りにトスを上げ続けてるけど合ってる?さっきの俺の例え伝わってた?どう?それが気になってそろそろりんご飴の話について行かれへんかもやわ気づけてる?俺の例えどうやったんやろか割りと自信あったよ?手触りと飛距
歩き方が変過ぎる、俺は。歩き方がどうしようもない。高校の頃に俺の歩き方を真似た人たちは揃いも揃ってみんな月面にいるかのような、およそ同じ惑星に住んでいるとは思えない歩き方をして、教室が宇宙ステーションになった。キューブリックもビックリの、教師が投げた白チョークからロケットに繋がるモンタージュで盛り上がったとかいないとか。ヒトの進化の過程の3番目に近い体勢でふわふわと歩く姿を想像すれば、それが俺の歩き方になる。 俺も人並みに漏れそうになるので、そういう時は人並みに焦った歩き方に
大阪に越してもうすぐ2年が経つ。ライブ出番が終わって帰ろうとしたら間違えて上手から舞台に出ていきそうになるほどの方向音痴の俺でも、地図を見ずに自転車でなんば、心斎橋、梅田、天王寺などの繁華街には行けるようになった。コンビニ、スーパー、喫煙可の喫茶店、公園、映画館、本屋、TSUTAYA、雀荘、美味い飲食店。通い慣れた道が別の通い慣れた道と繋がって、街が脳内で構築されていく。車の窓ガラスに流れる雨粒の跡がアメーバ状に拡がるような気持ち良さ。まあ、それよりも好きな感覚があるよという
10位 ラリー・ピアース『ある戦慄』(1967) 群像劇から密室劇へ。恐怖の前では他者は平等に他者。 9位 ジョン・フリン『殺しのベストセラー』(1987) 殺し屋役のジェームズ・ウッズの怪演が印象的。男同士の友情とは別の関係性が美しい。 8位 山中貞雄『丹下左膳余話 百萬両の壺』(1935) 山中貞雄の作品がもう少し現存していれば、映画の寿命は延びてたんだろうな、ってほどの傑物。 7位 塩田明彦『月光の囁き』(1999) 映画とはすなわちNTRである、と教えられた。
悪霊が取り憑く妖刀は、悪霊が取り憑いてますオーラを放たないといけないほど余裕がない。事故物件は、過去に事故がありましたオーラを放たないといけないほど余裕がない。俺に余裕があれば、妖刀や事故物件にも余裕を分け与えられるのに。俺が妖刀や事故物件に分け与えられる余裕を持ち合わせていないせいで、こわい思いをする人が今日も明日も。 誰かに余裕がないから俺の余裕もない。誰かに余裕があれば、妖刀や事故物件に分け与えられる余裕を俺が持てる。 余裕がないから妖刀や事故物件が生まれた。余裕がある
ピンク色の、小さな、明らかに無害な、毛が生えてない芋虫みたいなものが、目の前で全身を使って懸命に動いているのを見たときに現前する、今まで気づかなかった自分の中の嗜虐性。 “気づかせる力を持つ存在”に出会ってしまったときの一瞬の硬直は、相手に悟られてはいけない。芋虫であろうが、ライオンであろうが、それは単なる仮の姿であって、内奥までの幾重にも閉じられた襖を、腰をあげた殿様のように容易く開けてしまう。 W、A、D、shift、space 左手の形が固定されてしまった。
自転車で街を移動しているときに。 自分の存在が他者の存在を疎外しているかも知れないと、それこそが生きるということだと理解出来ている人のあまりの少なさに驚く。 でも徒歩で街を移動するときにそんな考えは浮かばない。 自分の移動速度(新幹線の窓から流れる景色を眺めるときにはこの現象が起きないことを考慮すると、他者との相対的な速さ)と思考の速度は比例するのかも知れない。 両性具有を選択したかたつむりの合理性のような──
ネットで「ネクタイ 結び方」と調べれば、動画やイラスト付きの説明が出てくる。一番無難な結び方を選択し、姿見の前に立って鏡像を脳内でさらに反転させ、ぎこちない手つきで真似てみる。4、5回と繰り返す。完成までの時間が短くなる。次は説明を見ずにやってみる。2、3回と繰り返す。 これができない。初めにやろうとしたのは8年前だったか、その時は父親に頼んだような気がする。大学生になっても先輩に頼んで結んでもらった。そのネクタイは今も結んだままの状態で保管されている。スニーカーの紐よりも先