自分の価値を守れるのは、紛れもなく自分自身である 自分の価値を下げるのは、人からの妬みによる中傷なんかではなく、紛れもなく自分自身である SNSで自分の生活を簡単に世に発信できるようになり(noteも手軽な発信方法としてはこの類である)自分と社会の距離がぐんと近づいていると同時に、そのコンテンツの希少価値は下がっているように感じる。要は氾濫だ。 そのなかの砂浜の1粒の砂以下の割合がわたしのひとつの投稿である。 他愛もない日常を記した、本当に他愛もない日常の報告が、社会
社会に出る時に自分と社会を擦り合わせなければならない、その時に自分を失ってしまわないように今のうちに自分を構成しておくんだよ、だからよく考えて挑戦しえおくことが大事だ、と言われて全てが報われた気がした
楽しかった、今日の飲み会は、特に。 これを書いている今、ほろ酔いで、気分的に尾崎豊をかけている。そんな感じ。 親くらい年の離れているインターン先のご夫婦と日本食屋さんに行った。 御二方とも海外経験豊富で、話を聞けば聞くほど面白い。 なにより、何が面白いってご夫婦のバランスが面白い。話の上手い旦那さん、豪快な旦那さんで、酒もザルのように飲む。 奥さんは、言えば朗らかなタイプ。可愛い笑い方で、優しいし、でも明るく、ツッコミのバランスが素晴らしい。 多分、結婚して10年ち
わたしは、わたしのこの気持ちに【「楽しんでね」恐怖症】という名前をつけることにした。なにそれ? 私、気がついたんですね たのしむことさけてないか、と。 (楽しむこと避けてない?wow、と煽れるくらい) どういうことかというと、 楽しむことが苦手で、 そこで楽しめない自分を楽しんでる周りの人に知られたくなくて、ばれたら恥ずかしいと思ってました。 もっと根本的に言うと、バカバカしいなって1歩引いて見てたんだと思います。だから、自分もそのバカになりたくなくて、楽しむことを
社会人という名の一種の「大人」になった時、私は「大学生のころもっと楽しんでおけばよかった」ってどうせ言うんだろうけど、今の私は自由な選択肢をもてる型にハマらない「大人」になりたいが為に、貴重と言われる時間を捧げてるんだよ 「今」の私にしかできなくて、楽しんじゃってるんだ。
そんなこんなでほぼほぼ4月の記憶はない ただしんどかったのは何となく覚えている 教授といっても、ベテランの方の教授もその時期に、見事に焦る学生を相手にどう話そうか考えたに違いない 悩み方が急で雑な私に 何も知らない、なにも情報がない状態で悶々とする愚かな18歳を還暦そこらの高尚なおじ様の目にはどう写ったのか 今となっては若干想像出来て大いに恥 でも、やらぬ後悔よりは何倍もマシだし 何より私が相談を持ちかけた3人の教授には今もすごくお世話になっている ちなみに5月の記
2018年4月 わたしはある程度の希望と、ある程度の諦めと共に大学に入学しました。 ある程度の希望とは何か そこそこの努力で都内国立大学に入れた、その自分の実力と運がある事 長、と名がつくものはある程度やってきた経験があるという事 ある程度の諦めとは何か 受験期を通して、都内(中堅)国立大学の限界を感じていこと 結局性格顔がいい女の方がいい人生送るんだろっていう達観 笑っちまうような4月でした 入ってわかったこの学科の専門性のなさ 上手くいえばなんでも勉強できる環境な