「インテグラル理論」と「魂理論」の結婚(総集編2)
「インテグラル理論」と「魂理論」の結婚(その3):ケーススタディ
人生は、外部と内部の対立に代表されるような、さまざまな葛藤とその乗り越えの繰り返しの上に成り立っている。それは、ケン・ウィルバーの言う「アートマン・プロジェクト」の構造そのものでもあるだろう。
思春期を迎えれば、自立心かそれとも依存か?
社会人になれば、社会的な出世か、それとも様々なしがらみか?
結婚すれば、子どもや配偶者の世話か、それとも個人的な自己確立か?
親が歳を取れば、介護か、それとも自己の社会的責任か?
そして、結局のところ、私自身のアイデンティティとは何なのか?
私たちは、どのようにしたら「代用の主体による代用の客体の活用」というこの「空騒ぎ」に気づき、アートマン・プロジェクトを少しでも前へ進めることができるのだろう。
もちろんそのポイントは、いかに「小さな自己の死」(タナトス)を受け入れ、直観される「大きな自己の復活」へ向けて進化の階段を(アガペーの力を借りて)上がることができるか、という点にある。どうやらその推進力は、理性や論理性よりも、直観や想像力のようだ。
ここで私たちはトマス・ムーアの「魂理論」に戻る。
トマス・ムーアは、内部と外部の弁証法を「現実の人生と魂の生活とのダンス」という巧みな表現で置き換えた。このダンスの動きこそ、アートマン・プロジェクトの推進力になり得るだろう。
代用の主体が代用の客体を求める私たちの現実生活において、アートマン・テロス(上昇の力)とアートマン拘束(下降の力)のダブルバインド的状況から脱して、真の超越に向かうには、やはり「第三の圧力主体」が必要だろう。つまり、私たちは(上昇も下降も熟知している)魂の働きについてより深く掘り下げ、魂の力を借り、現実と魂にダンスを踊らせると同時に、エロスとタナトスにもダンスを踊らせる必要があるのだ。
私は、夢の王国憲法第五条において、「魂とは、夢製造工場の工場長のようなものである」と述べた。また、夢の王国憲法第二条において、「自分がみた夢について他人に話すことは、自分の夜の国の迎賓館に賓客を招くことを意味し、他人の夢の話を聞くことは、他人の夜の国の迎賓館に賓客として招かれることを意味する」と述べた。
まさに、夢に関わり、夢の学び(夢学)を分かち合い、夢からメッセージを得ること(ドリームワーク)は、あなたの迎賓館で催される舞踏会であり、そこで踊られるダンスとは、夢をBGMとした「現実の人生と魂の生活とのダンス」であると同時に「エロスとタナトスとのダンス」であり、それこそがアートマン・プロジェクトのひとつの大きな推進力になり得ることは間違いない。
「インテグラル理論」と「魂理論」の結婚(その4):暗がりを歩む
ウィルバーの「インテグラル理論」とトマス・ムーアの「魂理論」の結婚の儀は、舞踏会というかたちで執り行われる。
そこでは様々なダンスが試される。たとえばそれは、「頂上」と「谷間」、「躁」と「鬱」、「ポジティブさ」と「ネガティブさ」、「過去」と「未来」、「愛着」と「反発」の間のダンスだ。
共通しているのは、あなたの暗い内面で行われるということ。コツは、内面の暗がりだからこそ、思い切り大胆に踊ること。
■魂は明るみよりも暗がりへと人を誘う
M:魂は往々にして、もっとも暗いすみっこやわれわれの避けたがる場所、われわれを幻滅させる問題そのもののなかに隠れている。したがって、生活のなかで魂を探したければ、大胆にならなければならない。
M:魂はおぼろげにしか意識されない独特の原理をもっている。もし関係のなかに魂を見たければ、意識的な目的や期待を超えたところに目を向けなければならない。
K:あなたがもし「AかBか」という二者択一に迫られているなら、それをいったん保留にしてみよう。そして、「私の魂は、答えを知っている」という前提に立ってみる。そのうえで、改めて自分に問う。
「私は何を避けようとしているのか、何から逃げようとしているのか?」
「私は何を恐れているのか?」
「私はどんな自分を手放し、どんな新しい自分を構築しようとしているのか?」
「本当に欲しいものを手に入れるために、私がとれる精一杯大胆な行動とは?」
M:確実な道をもとめるなら、暗闇を歩くのが一番だ。
■魂は夢のなかに大胆に姿を現す
M:もちろん、魂は日常生活のなかでも随所に顔をのぞかせるが、夢のなかでは、さらに大胆に自らを現す。
K:あなたはもちろん、現実の人生航路においては、明るい光に照らされたまっすぐな道を歩んでいい。ところが、いざ魂の道となると、あえて自分の内面にあるもっとも暗いすみっこ、できれば避けて通りたい部分、あまり思い出したくないような気の滅入る問題に、大胆に光をあてる必要がある。
K:夢とは、魂からのメッセージであると断言しておこう。
自分の内面の暗がりに光をあてることは恐ろしいことだと、私たちは思いがちだ。たとえば、無意識の暗いスクリーンに映し出される「夢」という映画は、それが恐怖映画であればあるほど、みなかったことにしたい、早く忘れたい、という対象であるに違いない。しかし、いざ夢の読み解き作業をやってみると、実は非常に知的興奮に満ちた、豊かで有意義な作業であり、自分の心のキャパシティが劇的に広がることであり、まさに今まで否定的に思ってきた事柄に肯定的な意味を見いだす、いわば「錬金術」的な作業である、ということがわかるはずだ。
K:魂の創造の意図を知るには、自分の無意識を覗き込む以外にはないのだ。これは、恐ろしいことではない。人はそのことに慣れていないだけである。
夢は、無意識を覗き込むための窓である。
無意識の井戸に飛び込むときには、思い切り大胆になる必要があるが、いざ飛び込んだら、じたばたしてはいけない。
「井の中の蛙」にとって井戸から出ることは、それまでの自分が死ぬことを意味する。
こうした死と再生の時期には、往々にして、自分が死ぬ夢をみたりもする。自分が死ぬ夢は、卒業式にほかならない。
■魂は上へ向かうよりも下へ向かう
M:伝統は何世紀も前から、われわれのなかに、二つの引力が働いていることを教えてきた。そのことを知るのは有益だろう。一つは超越、大志、成功、進歩、知的な明晰さ、宇宙意識といったものの方へ引っ張りあげる力、そしてもう一つは個人的な土着の生活の方へと引きさげる力。前者は明らかに舞いあがろうとする力である。それにひきかえ、後者は平凡であることを願い、黙々とささやかな満足をもとめる。魂はこうした豊かな可能性をはらむ平凡さのなかに住んでいる。自由に流れるような道に沿って、思い描いた目標にむかう上昇運動とは異なり、魂はこみいった方法でしっかりと人生にしがみついている。
K:修行僧や求道者だけが超越の修行をしているわけではない。超越は、意識して勝ち取るものではなく、避けることが困難なのだ。ある種の超越が起きない限り、人は成長できない。成長できなければ、目の前の問題を解決することはできない。それは特別な修行の道ではなく、万人が通る道である。人は小さな「悟り」を積み上げることで、大きな「悟り」に至るのだ。
K:トマス・ムーアが指摘しているのは、垂直方向の異なる二つの「引力」についてだ。一つは超越へと、上向きに引っ張りあげる力、もう一つは個人的な土着の生活の方へと引きさげる力。そして、魂はむしろ、後者の道の方に住んでいるという。これは、一見すると、アートマン・プロジェクトと矛盾するように思える。ウィルバーも垂直方向に引き合う二つの引力(磁力)を想定していた。上方向の「アガペー」ないし「アートマン・テロス」と、下方向の「収縮」ないし「アートマン拘束」である。この「収縮」ないし「アートマン拘束」が、トマス・ムーアの言う土着的な平凡さを求める魂の道のように思える。そうすると、魂は進化の足を引っ張る方向に働くことになってしまう。
ここで思い出していただきたいのは、「タナトス」の力だ。エロスの方に引っ張られ、タナトスに抵抗している間は、「変換」は起きても「変容」は起きない。エロスが衰微し、タナトスが優位に立ったときに初めて変容が起きる。トマス・ムーアが「大胆に振る舞う」ことを要求しているその「大胆さ」とは、まさにタナトスを受け入れる力のことである。つまり、「死の恐怖に打ち克つ」力のことだ。言い換えるなら、その時点で自分がもっとも恐れていることに、あえて大胆に切り込んでいく勇気のことである。そして、魂はこの勇敢さ、大胆さを欲する。
K:アートマン・プロジェクトで言えば、魂は、上向きの進化と下向きの内化の両方にかかわっている。魂は、自己が内化のプロセスで創造したものを、進化において想起させようとし、同時にその創造物を代用物として進化を推進するために利用しようとするだろう。もし魂が、夢というかたちで「過去生」の記憶を思い出させようとするなら、その目的はそこにある。魂は、その時点での進化の必要性から、内化における何らかの代用的創造物を思い出してほしいのだ。したがって、自我がもしタナトスに抵抗しようとするなら、魂はそのことも(夢や直観や想像力というかたちで)告発するだろう。必要なら、上へ引っ張り上げるために、いったん下へ突き落そうとするのだ。魂は、航空機(自己や自我)にとっての管制塔の役割だったことを思い出していただきたい。いったん離陸した飛行機に不具合が見受けられるなら、管制塔はとりあえず着陸を命じるだろう。
■魂は未来よりも過去へ、「躁」よりも「鬱」へと向かう
M:魂は、ピラミッドの頂点ではなく、体験の谷間に住んでいる。
M:憂鬱(メランコリー)の感情はときに愛着をともなっている。(中略)憂鬱が生み出す下方へ引き戻される感覚は、体験の谷間に住む魂にふさわしいものでもある。憂鬱とは舞いあがった感情が下降することである。だからこそ、不快な感じがし、病気ではないかとすら勘ぐりたくなるのだ。しかし、魂の観点に立ってみれば、それは現実生活の襞に落ち着こうとする心の動きにすぎない。
M:超越的で進歩的なより高い目標や欲求の地点から見ると、魂は退行的に見えるのかもしれない。疎外された魂は、痛ましい憂鬱に彩られた孤独を生み出さずにはいない。
K:「鬱」という状態に関する私たちのごく一般的なイメージで言えば、何か気の滅入るような現実の出来事や状況に対する、しごくまっとうな心の反応、というふうになるだろう。
伝統的な心理学の理論は、鬱状態を「現実からの逃避行動」あるいは一種の「退行現象」、つらい現実からの逃避による防衛機制ととらえるかもしれない。
一方、魂理論は、鬱状態を、ともすると目まぐるしい現実の動きに振り回されて、浮足立ってしまう自分を、しっかりと実生活の襞のなかに落ち着かせる試みととらえるかもしれない。
M:魂は未来よりも過去へとむかう傾向があり、人間や場所や出来事から離れるのではなく、愛着したがる。表向きの生活では、人と別れ、場所を去っていくが、記憶や夢のなかで、魂は以前愛着していたものにしがみつく。
魂を気づかうには、矛盾はしていても明らかに自然なこうした傾向を敬う必要がある。別れたいと思っている人に執着する夢をくりかえし見るなら、その夢の意図をくみ、変化を強引にもとめずに、苦痛に満ちたわずらわしい記憶が心に居すわれる場所をあたえてやればよい。もし単純にそれらの執着に抗して走りつづければ、魂の一部を失う危険がある。魂の欲求を犠牲にして勝ちとられた自由は、すっきりした達成感をもたらしてくれないかもしれない。
K:真の意味で未来志向になるためには、いったん過去志向になる必要もある。それはいわば、過去を何度も踏み固めることで、未来への足掛かりにしようとする試みだ。
人が上昇志向だったり、未来志向だったり、ポジティブ志向だったりするときに、真の意味で忘れているのは、それらの対立物ではなく、魂の意図であり、自己の内面なのだ。
何が「頂点」で何が「谷間」か、何が「躁」で何が「鬱」か、何が「ポジティブ」で何が「ネガティブ」か、何が「未来志向」で何が「過去志向」か、といった二者択一の道は、魂の道ではない。そうした二項対立にダンスを踊らせることこそが、魂の、あるいは弁証法的な進化の道であるとも言える。
W:発達とは、梯子のように直線的に進んでいくものではなく、流動的で、流れるように進んでいくものであり、螺旋状に動いたり、ぐるぐると回ったり、細かな水流に出くわしたり、波に乗ったりしながら——ほとんど無限とも思えるほどの多種多様な様態をとりながら——展開していくものなのだ。(「インテグラル理論」日本能率協会マネジメントセンターより)
K:進化には段階(レベル)があって、「飛び級」も「はしょり」もできない。進化の高層ビルを、各フロアにしばらくとどまることなく、階段だけ一挙に駆け上がることなどできないのだ。おそらく、各フロアごとに、異なるレベルの「鬱」、メランコリー、ノスタルジーがあるに違いない。
強い上昇志向の足を、憂鬱がときに引きとどめようとするのにも独自の理由がある。
ヤドカリが、自分の背負っている「ヤド」が狭くなった(それだけ自分が成長した)ときにだけ、その「ヤド」を棄てて、一回り大きい「ヤド」に移るように、人間も自分の(内的・外的な)居場所が窮屈に感じるまでは、その場にしがみつこうとする。「鬱」は、その「しがみつき」にとって必要なことなのだろう。
K:過去の記憶を思い出しているという現実は「今」の現実だ。その記憶が過去のいつの記憶なのかが重要なのではない。その過去を「今」思い出し、再び噛みしめていることに重要な「意味」があるのだ。記憶の蘇りは、人にそのことの「今」における意味に気づいてほしいのだ。
K:進化の階段を上がるためには、執着心を手放す必要があるが、執着心を手放すためには、自分が何に執着しているか知っている必要がある。そのとき、自分が何にメランコリーやノスタルジーを感じるかは、ひとつのバロメーターになるだろう。手放すために、いったんは執着する必要がある。人は、自分がしっかり抱え込んでいるものしか、手放すことができないからだ。その一方で、自分の執着心を知ることは憂鬱だ。だからこそ、自分の憂鬱さに目を向けることが学びとなる。
芋虫がいきなり蝶になることはできない。蝶になって飛び立つためには、サナギの期間をはしょることはできない。ある意味、サナギのなかに引き籠っている期間こそが、いちばん豊かな成長の時なのだ。
■愛着と反発のダンス
M:魂は何にでも愛着を感じたがるが、愛着に反発しようとする衝動も内にひめている。(中略)われわれの最終目標は、愛着とそれへの抵抗をともに包含する道を見いだすことにある。そのためには、相反するそれらの衝動を和解させなければならない。和解させる唯一の方法は、それぞれの衝動の性格を深くきわめることだろう。魂にまつわる問題にすべて言えることだが、魂の神秘にたどりつきたければ、その衝動を敬うのが一番てっとりばやいのだ。
M:魂は逆説と矛盾に満ちた複雑な心の領域である。
われわれのなかには、愛着をもとめる気持と同じぐらい強く孤独や自由、分離をもとめる何かが存在している。
K:愛着が病理化すると「アディクション(嗜癖、中毒)」になり、反発が病理化すると「アレルギー」になると、心理学は言うだろう。しかし、症状に名称をつけること、心理学的なレッテルを貼ることは、特定の心理学理論に意味を与えることになったとしても、個人の人生に意味を与えることにはならない。むしろそれは、ダンスを停止させる。一方、魂は、何と何の間でダンスを踊らせたいか知っている。
■魂は緊張を伴う成長の道へと人を追い込む
K:ヤドカリは、現段階での成長が限界を迎えても、その段階に自己同一化している限り、ただ何となく「ヤド」が手狭な感じを抱いているにすぎない。
そこから抜け出すには、一段階上位の構造を、自己の代わりに見ている何かが必要だ。それこそが魂の働きだろう。魂はヤドカリに言うのだ。
「ヤドが狭く感じるのは、お前のサイズが一回り大きくなったからだ」
そのとき魂は、混乱や行き止まりの先にある、ほんのわずかな希望の光(暗いトンネルの先に見える出口)のようなものを、自己に指し示すだろう。
M:われわれが性急に洞察や変容を追いもとめるのに比べ、魂の成長は、生き物が成長するときのようにゆっくりしている。R・W・エマソンは、魂は直線的には進まない、と語った。虫が卵から幼虫をへて成虫になるように、「段階的に」進んでいくのだ。(中略)いずれにせよ、魂は執拗な記憶や反復的な夢を通して、昨日の心の傷にわれわれをつなぎとめておく働きをする。
M:魂は愛着し、巻きこまれ、にっちもさっちもいかなくなることさえ望む。というのも、魂が栄養を引き出し、より深みのある成長をとげるのは、そのような親密さを通してだからだ。
K:卒業するためには入学する必要がある。
統合が起きるためには、分化・分離・分裂が見えている必要がある。
脱同一化(解放)が起きるためには同一化(執着)していることが前提となる。
現状に不満が生じて、一段階上への成長が促されるためには、現状への完全な満足が前提となる。
進化・超越・変容が起きるためには、順調な変換が臨界点に達する必要があり、タナトスがエロスに勝る必要がある。
魂は、人を進化(成長・発達)へと向かわせるために、緊張感を強いるような、複雑で、込み入っていて、曲がりくねった、障害だらけの道を選ばせようとする。
■魂は愛着すると同時に離れる方法を強いる
M:たまに、自分の適性が気になるという形で、問題が浮かびあがってくることもある。私は結婚すべき人間なのだろうか、それとも、独身で生きなければならないのだろうか? 大企業で仕事をすべきなのだろうか、それとも自営業で生きるべきなのだろうか? どこかの思想の流派に所属すべきなのだろうか、それとも独自の道を見つけるべきなのだろうか?
こうした疑問に対する最良の答えは、相反する疑問を両方とも頭と心で受けとめ、緊張のなかで生きることだ。そうした緊張のなかからかけがえのない解決策が、すなわち愛着すると同時に離れる方法が生まれてくるかもしれない。
M:疑問、対立、葛藤、矛盾・・・こうした状況は、弁証法の「正→反→合」のうち、「正」に対する「反」が示されたときに起きる。「正」だけでは安住・安定はあっても成長は起きない。「反」が示されて緊張が高まった状況は、最終的な統合が起きるまで続く。しかし、緊張感がなければ、誰が「愛着すると同時に離れる」などという芸当ができよう。
K:着ている服を脱いでみない限り、自分が本当に着るべき服が何なのかはわからない。もちろん、いったん服を脱いで裸になることは、極度の緊張を強いられる。しかし、一度脱皮を経験した人は、別の壁にぶちあたっても、同じように脱皮できる。魂はそのことも知っているのだ。
明るみに出る前には、必ず暗いトンネルがある。
■ここまでのまとめ
トマス・ムーアによれば、魂は、単純さよりも複雑さ、上昇運動よりも下降運動、解放よりも執着、進行よりも退行の方へ、私たちを導くという。それは、一見アートマン・プロジェクトと矛盾するように思える。しかし、タナトスの<引き>に抵抗している間は、「変換」は起きても「変容」は起きない。トマス・ムーアが言う「大胆さ」とは、まさにタナトスを受け入れる力のことである。その時点で自分がもっとも恐れていることに、あえて大胆に切り込んでいく勇気のことである。
魂は、必要なら、上へ引っ張り上げるために、いったん下へ突き落そうとするだろう、離陸した飛行機に不具合が見受けられたとき、管制塔が「引き返して着陸せよ」と命じるように。
進化はときに、まっすぐ上へ向かう動きではなく、螺旋を描いたり、反復したり、堂々巡りしたり、解放ではなく執着したり、あるいは退行(つまり分離)したり、といったことも起きることを、ウィルバーも認めている。
進化も退行も、どちらも弁証法的な統一の試みであることにかわりはない。
「インテグラル理論」と「魂理論」の結婚(その5):「魂」と「自己」との関係
■魂、夢、下位人格
M:魂はたくさんの下位の人格からなっている。ユングはそれらを独自の意識と意志をもつ複合観念としてとらえ、魂の「小人」と呼んだ。夢に登場する人物をそのような魂の人格の現れとみなすなら、かれらもまたお互いのつきあいを楽しんでいると言ってよいだろう。私の魂の母親は魂の子供たちと関係をもち、魂の泥棒は私から物を盗み、魂の警官に追いかけられる。
もし、自分が多くの人格から作られていることに気づかなければ、あるいは、われわれが自我と呼ぶものが私という存在のすべてであると考えるなら、私の人生は、魂の小人たちが無意識に関係しあう舞台になってしまうだろう。私は自分自身の豊かな内面生活にも、自分が関係している人々の複雑な内面生活にも気づかないだろう。その結果、人間関係のとらえ方が薄っぺらとなり、自己愛的な傾向が強まるだろう。注意が魂ではなく、狭い自己の概念にむけられるからだ。
K:夢の学びにおいて、まず真っ先に指摘されるのは、夢に登場する人物であろうが、動物であろうが、場所や出来事や現象であろうが、すべては自分の一部である、と認識することだ。自分から派生した、そういう諸々の「下位の自分」が象徴的なキャラクターとなった「小人」たちが、夢のなかでどんなに好き勝手なドラマを演じようが、舞台監督はあくまで自分自身だ。そうしたキャラクターに勝手な振る舞いを許すのも、きちんと自分でシナリオを書くのも、舞台監督次第ということだ。
K:「夢に登場するものはすべて自分の一部」という大前提に立ち、夢について学べば学ぶほど、人は自分の内部にどれほど豊かなイメージやシンボルやキャラクターたちが住んでいて、それらが毎日千変万化のドラマを演じているか、ということを実感する。いわゆる、怖いものに追いかけられる「悪夢」でも、その「怖いもの」が自分の一部であると知れば、愛しささえ感じるだろう。
このように、夢というかたちで、いったん外部に出されたそれらのイメージやシンボルやキャラクターを、再び自分の内部に取り込む(夢を読み解く)作業によって、あなたの心のキャパシティは広がり、逆にエゴの居場所は相対化される。自我などというものは、自分のほんの一部にすぎないことを思い知らされるのだ。そう、まさに大樹の枝葉末節の部分にすぎないと。
まず「魂」という太い幹が意識されていることが大前提で、次にその魂の反映である「先天的自己像」が意識され、そこから枝分かれしたものとして「後天的自己像」があり、その先っぽの葉っぱの部分として「エゴ」がくっついている、ぐらいの認識がちょうどいい。
もしあなたが、魂を構成するこまごまとした「小人」(下位人格)たち(つまり、夢に登場する不気味な存在や、悪さをするキャラクターなど)にいちいち強く影響され、その影響の分だけ自己を矮小化するなら、あなたは自己コントロールを失うだろう。あなたは夢の意味を知る前に、夢に乗っ取られることになる。
■今回の用語解説:「近接自己」「遠隔自己」「下位人格」「究極の自己」
※この項の執筆には、「インテグラル心理学」(日本能率協会マネジメントセンター)を参照した(ウィルバーの引用も)。
<「近接自己」「遠隔自己」>
「自己」(「私」として体験されるもの)は、次のように大きく二つに分けることができる。
〇近接自己:観察する自己、内なる主体、観察者、「私」として体験されるもの
〇遠隔自己:観察される自己、「私の一部」あるいは「私のもの」として体験されるもの、見たり知ったりすることのできる客観的な自己(父親である私、サラリーマンである私、太っている私、など)
<「全体としての自己」>
「近接自己」、「遠隔自己」、さらに自己の感覚をもたらす他のあらゆる要因を合わせたものを「全体としての自己」と呼ぶ。
<「遠隔自己」の構成要素>
「遠隔自己」の構成要素として、次の3つが考えられる。
〇「下位人格(サブパーソナリティ)」
交流分析でいう「親の自我状態」「子どもの自我状態」「成人の自我状態」、ゲシュタルト療法でいう「勝ち犬」「負け犬」、精神分析でいう「自我理想」「理想自我」「超自我」「偽りの自己」「本当の自己」「良心」「厳しい批判者」「肉欲的な自己」など。
下位人格は、特定の心理社会的な状況をうまく乗り切るために用いられる様々な種類の「機能的な自己」が表現されたものにすぎない。下位人格は、内なる対話を行なうときに、様々な「声」として体験される。
〇発達の「ライン」
意識の発達を登山にたとえるなら、そこには様々なルート(ライン)が考えられる。
たとえば「認知」「自己」「価値」「倫理」「人間関係」「霊性」「欲求」「運動感覚」「感情」「美学」など。
これらのラインは基本的には独立して発達するが、関連性はある。
〇「究極の自己」
意識の進化が極まった状態としての超越的自己、先験的自己、絶対的目撃者といったもの。
自己の一部として体験されるが、現時点の近接自己よりも上位に位置すると感じられる何か。
W:私の見方では、近接自己の発達こそ、意識進化の中核をなすものである。なぜなら、近接自己こそが、舵取り役として、存在の大いなる入れ子の諸段階の中を進んでいくからである。
W:たとえサブパーソナリティがどれほどたくさん存在していたとしても、そうしたすべての声を、何らかの形でひとつにまとめて、そこに調和(ハーモニー)をもたらすことこそが、近接自己が果たすべき仕事だからである。
W:これらすべての自己が、今この瞬間における自分という感覚に関わっており、そしてこれらすべての自己が、意識の発達や進化を理解するうえで重要な役割を担っているのである。
W:全体としての自己とは、こうした「さまざまな自己」の複合体であり、今この瞬間において現前しているものである。すなわち、全体としての自己は、近接自己(すなわち「私」)、遠隔自己(すなわち「私の一部」)、そして私たちの意識の背後にある究極の目撃者(超越的自己、先験的自己、すなわち「私-私」)の複合体である。
K:意識の成長・発達あるいは進化とは、自己中心的で薄っぺらで狭く浅い自己から、より広く深い自己へ(その分、相対的に自己中心性が少なくなる方向へ)変容することである。
「変容」とは、簡単に言うと、ついさっきまで「自分(近接自己)」(観察の主体)だと思っていたものが、ある瞬間に「自分の一部(遠隔自己)」(観察の客体)として体験される、ということだ。「もう一人の私が、この私を見ている」「私が私を観察対象にしている」という瞬間を意識する(そうした瞬間に立ち会う)ということだ。そのとき人は、今まで自分が何を抑圧していたかに気づくのだ。その気づきの分だけ、人は狭く浅く低い自分から解放され、より自由になる。
このようにして「近接自己」は一段階上へと進化・発達する。つまり、「近接自己」も絶対不変のものではなく、常に変化している、ということだ。アートマン・プロジェクトは瞬間ごとに発動しているのである。つまり、あなたが意識していなくとも、アガペーはあなたをどこへどのように引っ張り上げるか知っている、ということだ。
K:魂が内化のプロセスにおいて、あなたが今生を生きるのに必要な多くのものをすでに「創造」しているなら、魂が「先験的自己」の別名であることは疑いようがないだろう。そうした魂の「声」が下位人格の総体以上の何かであることは、近接自己がいちばんよくわかるはずだ。なぜならその声は、近接自己が下位人格に煩わされたり振り回されたりしている事態そのものを告発するだろうからだ。つまり、その声があなたに煩わしさをもたらすのか、それとも「知恵」をもたらすのか、の違いである。そうした魂が、近接自己にぴったりと寄り添い、自分という大樹の幹である限り、遠隔自己が肥大化することはないだろう。
K:進化における主体はあくまで近接自己だが、進化が進めば進むほど、「近接自己」「遠隔自己」「魂」の三者は統合されていく。この三者は、究極的にはひとつの「自己」である。そして、どうやらその究極への導き手としての「魂」の役割は大きい。つまり、近接自己が魂への注目度を高めれば高めるほど、進化は起きやすくなる、ということだろう。
結局のところ、大樹の根も幹も枝も葉も、すべて自分である。大切なのはバランスだろう。もちろん「葉」(エゴ)が肥大化すればするほど、樹木としての全体のバランスが悪くなることは疑いようがない。
■魂は「面」の外に新たな「点」を打たせる
M:魂を養生するために必要なのは、何を考えるにせよ、それに無限に豊かな想像力をもちこむことである。(中略)想像力は創造的であるばかりではなく、因習を打破する性質をもっているからだ。想像力は単純きわまりないイデオロギー、自己防衛的な原理、恐怖に怯えたかたくなさといったものを打ち砕き、人生を豊かにしてくれる。だからこそ、心を解放してくれる一方で、人を挑戦的な気持にさせ、怯えさせもするのだ。
K:理性や論理的思考の働きとは、点と点をつないで面を構成することにある。一方、直観や想像力の働きとは、面の外に新たな点を打つことにある。理性や論理的思考は、直観や想像力によって打たれた新たな点に抵抗するかもしれない。その「点」によって、面全体のかたちが大幅に変わってしまうからだ。因習、特定のイデオロギー、ある種の偏見に固執している人は、面のかたちを変えたがらないのだろう。しかし、面は常に変化する運命だ。面が一回り大きくなったとき、人間の幅も一回り大きくなる。
人が意識を構造的に成長・発達させるということは、「自己中心的」な世界観から、「自集団中心的」、「世界中心的」、「宇宙中心的」という具合に、自分の意識の「面」を拡張させていくプロセスである。それは、ときに自分が所属する集団や国家の平均的な世界観を超越してしまうことにもなるだろう。そうなると、とたんに孤独感や疎外感が襲ってくる。場合によっては、あなたは周りから迫害を受けるかもしれない。それでもあなたは自分の「魂」を偽ることはできない。自己成長は、周りからの反発を覚悟のうえでの大きな「チャレンジ」とならざるを得ない。
さあ、覚悟を決めて、面の外に新たな点を打ち続けようではないか。
■魂は多面的で不合理で矛盾に満ちている
M:魂に精通している人間は、魂がきわめて複雑なもので、合理的思考の規準や、合理的思考がもたらす予測にしたがわないことを知っている。心理的に目覚めている人間は、魂の多面性を知っているゆえに、親しい友人、家族、伴侶などがどのような体験をし、何を表現したがっているかを読みとることができる。かれらは物事がかならずしも見た目通りではないことを知っているのだ。
M:魂はもともと多神論的な構造をもっている。
K:人間の魂は、肉体に宿ってこの世に生まれる前から、すでに充分複雑であり多面的である。
魂は、天国で過ごしたにしろ、地獄で過ごしたにしろ、すでに多くのことを経験し、さらに多くの魂たちと交流して情報交換し、何かに憧れ、何かに幻滅し、自分独自の判断基準や明確な優先順位をつけて現在の人生(生まれてくる両親、環境、生きるうえでの信条、生きる目的)を選んでいる。
その経験値に基づく選択の意図が、単純なはずはない。
■魂はときに否定的で抵抗を覚える道を示す
M:自己愛は本質的に魂を愛そうとしない徴候とみなすことができる。ひょっとしたら、愛と喪失という陰と陽を好まないゆえに、われわれは自己愛にとらわれ、不平をこぼすのかもしれない。けれども、魂がわれわれに要求するのは、矛盾を包容し、矛盾のなかに潜む智恵を十分に評価できる大きさと深さを備えた人生のビジョンなのだ。
K:ここでトマス・ムーアが言う「愛と喪失という陰と陽」とは、ウィルバーのアートマン・プロジェクトでは「エロスとタナトス」に置き換えることができるだろう。
M:魂へと通じる道は、肯定することによってのみ、開かれるとは限らない。否定することによってしか開かれないこともある。自分がさまざまな手だてを尽くして、人生の辛辣さから身を守ろうとしていることに気づくときだ。そのようなとき、自分がもっとも抵抗を覚える状況のなかで、痛みや脅威をもたらすものが何かを探究し、どのようにしてそのつらい状況から逃れようとしているかを探ってみればよい。
■ここまでのまとめ
「自分とは何か?」という根源的な問いがある。
人生とは、その問いに答えようとする試みかもしれない。
心理学は、「自己」という概念を定義するのに、様々なフレームワークを用いてきた。ウィルバーも、「アートマン・プロジェクト」においては、「自己システム」(意識、自己、自我、埋め込まれた無意識など)という言葉を使い、「インテグラル心理学」においては、「近接自己」「遠隔自己」「下位人格(サブパーソナリティ)」といた概念を導入している。
私の場合は、「誤-変換」の主体であり、タナトスに抵抗し、収縮ないしアートマン拘束に関与するものを「自我」と呼び、ウィルバーが「自己に埋め込まれた無意識」と呼ぶものを「魂」と呼んでいる。
実はウィルバーも「先験的自己」という言い方で、魂の存在を匂わせてもいる。
トマス・ムーアの場合、魂とは、様々な「下位人格」の姿を借りて(特に夢の中に)現れるものと考えているようだ。
三者に共通して言えることは、「成長とは、魂(あるいは直観や想像力)の力を借り、近接自己(本来の自分)が舵取り役として、遠隔自己(下位人格)をうまくコントロールすることによって、タナトスへの抵抗を緩め、自己愛的傾向を弱め、自己のキャパシティを段階的に拡大していくことである」という認識だろう。