母から送られてきた強烈な愛のエネルギー
母の突然の訃報を受け取り、急遽上京した23日以来、ぐっすり眠れない日々が続いていた。かけがえのない存在の死に直面したときの独特の緊張感だろうか。
明け方に目が覚めてしまい、その後寝付けない。仕方がないので、ベッドの中でイヤホンを耳に当て、いつも使っている音源を聴きながら、一時間ほど瞑想をしてから起きるようにしていた。
告別式の日、いよいよ母との最期のお別れという朝も、同じように明け方に目が覚めてしまい、仕方なく瞑想に入った。
すると間もなく、母の顔が浮かび、私に優しく呼びかける声も聴こえてきた。しかも私がまだ幼かったときの母独特の(特に私を手放しで甘やかすときの)呼びかけ方だ。私の耳元に囁くというよりも、私の正面に向き合い、眼前間近に迫るかたちでの呼びかけでもあった。閉じている目が潤むのを感じたが、涙がこぼれる前に信じられないことが起きた。
次の瞬間、母の強烈な愛のエネルギーが津波のように押し寄せ、私の全身を包み込んだのだ。それは、量においても質においても圧倒されるほどの強烈さだ。しかも、いっさいの不純物が抜け落ちた純粋なエネルギーである。恨み、憎しみ、蔑み、怒り、恐れ、不安といったものはいっさい浄化され、後に残ったものだけが増幅されている。私は何の抵抗もできず(抵抗する必要もないが)、それをただ受け取るだけだった。そのエネルギーを受け取ると同時に、私の全身から力が抜けていった。
そのとき私は悟った。これは、母がまだ、おそらく三十代の、もっとも血気盛んだった頃のエネルギーだ。
そして、もうひとつの重要な悟り。
私は今まで、母に対してひとつの不満を抱いていた。おそらく、私が幼い頃から、母は私に背中しか見せてこなかった、ということ。
職業婦人だった母は、平日の昼間家にいない。
その当時、母は姑(私の祖母)から陰惨ないじめを受けていて、祖母は幼い私を嫁いじめの道具として利用していたようだ。祖母は、母への見せしめのために、何かと私をもてあそぶような真似をしていたらしい。それは、下手をすると、私が命を危険にさらしかねない類のものだった。その点、祖母には前歴があった。祖母は、母が最初に妊娠した子どもを無理矢理流産させたのだ。
さらに、祖母の背後に控える血族たちも、祖母に同調し、「嫁いじめの共犯者」になっていた。
(このあたりの詳しい事情は、以下の本を参照)
母が不本意にも、信用できない祖母に幼い私を預けるかたちで勤めに出なければならない、その後ろ髪惹かれるような思いはいかばかりだったか、想像に余りある。「どうか、今日も息子が無事でありますように」と祈るような気持ちだったかもしれない。
しかし、母が家庭の安全より社会的責任を優先させたことも、また否定できない事実である。勤めから帰った後、あるいは休みの日には、母が二人の子ども(私と私の姉)を、油断のならない同居人やその血族から、後ろ手に庇うような身構えでいたことは、想像に難くない。
その結果、私は母の背中だけを見て育つことになった。
「こっちを向いてほしい。ちゃんとボクを見てほしい」
子ども心に、私の不満も募っていた。
母の死後、母から私への最後のメッセージのようにして送られてきたエネルギーは、後ろ向きどころか、真正面からダイレクトにやってくる純粋で無条件の愛だった。
「確かにあのときの私は、あなたの命を守るのに必死だったかもしれない。それでも、私はちゃんとあなたを見ていました。あなたが望みさえするなら、これからもいつでもあなたはこのエネルギーを受け取ることができます」
瞑想から現実に戻った私に、カタルシスが訪れた。
強烈な便意を催し、大量に排便したのだ。そのとき、しばらく便秘が続いていたことに改めて気づかされた。それが一挙に解消された。
私は、思い込みによる呪縛から解放されたのだ。スッキリしたと同時に、余計な力みも抜け、その後リラックスした状態で、母との告別の日を迎えることができた。
母の最後の日記を紐解くと、さすがに老衰した肉体の節々が痛む苦しさが随所に見受けられる。
しかし、今母は、痛みと苦しみに満ちた肉体から解放され、もっとも血気盛んだった頃のまま、自由で純粋なエネルギー体になっているのだろう。
だからこそ、そのエネルギーは、私にだけ送って寄こしているのではないと感じる。
若い母のエネルギーは、おそらくこう言っている。
「愛は永遠普遍なのだから、無限に分け与えることができるはず。私から受け取ったものは、あなたが必要な人に分け与えなさい」