「私はこうして夢を学んだ」(その6)
何か怖いものに追いかけられる夢をみる人は多いと思います。
私も、物心ついて以来、夢の中でありとあらゆるものに追いかけられてきました。猛獣、怪獣、得体の知れない黒い影、半透明のモヤモヤしたもの、などなど。
そうした「追っ手(チェイサー)」から、ただひたすら逃げる場合もあれば、物陰に隠れてやり過ごす場合もあります。都合のいいことに、追いつかれて襲われそうになるところで、あるいは物陰に隠れてやり過ごすことができた時点で目が覚めるのです。
もちろん、そうした夢の中のチェイサーたちは、現実の世界まで私を追いかけてくることはありません。そういう意味で、私は常にまんまと逃げおおせるベテランの「逃げ手(エスケイパー)」だったわけです。
しかし、エスケイパーである限り、チェイサーの正体を知ることはできません。
さて、そんな私にある日、夢で決定的な瞬間が訪れます。
その夢の中で、私はゴジラになっていました。私は黒々とした巨大な体を持ち、全身硬くゴツゴツした皮膚に覆われています。しかしもちろん中身は私自身のままです。東京の高層ビル街のような街並みが目の前に広がっています。ところが、その高層ビルは自分の膝か、せいぜい腰あたりまでしかないのです。自分はただ街を歩いているだけなのに、心ならずも街を破壊しながら前へ進む、という成り行きになってしまいます。私が大きすぎるのでしょうか、それとも街が小さすぎるのでしょうか。
もちろん私には、「破壊」の意図も、誰かを脅かす意図もありません。いわば、ただの「散歩」なのです。
ゴジラである私が、ふと下を見ると、ビル街の路地から突然一人の男が飛び出してきます。もちろんサイズは通常の人間のサイズです。黒っぽいスーツ姿のその男は、手に持ったマシンガンを構え、こちらめがけて撃ってきました。しかし、いかんせんサイズが違いすぎるので、ゴジラである私には水鉄砲ぐらいのダメージしかありません。
私には虫けらほどにしか見えないそのマシンガンの男をよく見ると、何とそれは私自身なのです。ゴジラである私は、無駄な抵抗を示すその通常サイズの自分を見て、「何と健気な姿だろう。オマエも頑張っているな」と、ほのぼのとした気持ちで眺めているのです。
もうおわかりのように、夢の中のチェイサーとは、自分では信じられないほどパワフルな自分自身ということです。そういう自分がいることに気づかないでいればいるほど、そのパワーは得体の知れないチェイサーの姿となって、自分自身に気づいてほしいがために、激しく追いかけてくる、というわけです。私は夢でゴジラとなることで、その事情を想い知らされたのです。
追われる夢の中の巨大な黒い影としてのチェイサーも、この夢の中の小さな黒いスーツ姿の自分も、ともに私の「影(シャドー)」を表すでしょう。シャドーとは「元型」と呼ばれるもののひとつで、「無意識の中に眠っている自分の未発達の可能性」を表します。かつて巨大だったシャドーは、今やちっぽけな虫けらほどになっている、という夢ですから、私は自分で思うよりかなり可能性を発達させている、という意味でもあるでしょう。
同時に、ゴジラとしての私も黒っぽい姿ですから、これもシャドーと言えます。ただしこれは「これから発達する可能性のある自分」という意味合いが強いでしょう。つまり、かつて自分を襲ってきたチェイサーは背景に引っ込み、ゴジラほどの自分に統合されつつある、という暗示でしょうか。
逆に言うとこの夢は、私が実際にゴジラになってしまう前の警告ともとれます。もし私がこの夢をみせられなかったら、私は知らず知らずのうちに、自分の秘められたパワーによって、現実の自分の人生にとんでもない破壊をもたらしていたかもしれないのです。
自分が夢のチェイサーと同じほどのパワーの持ち主であることを自覚できてこそ、初めて人はそれをうまくコントロールできるのでしょう。
夢でもたらされた謎が、夢でタネ明かしされることもあるのです。