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ウクライナ問題に寄せて(その7):「二者択一」からの卒業

■人生は弁証法的に進む

私の本来の専門は「夢学」である。
ケン・ウィルバーのインテグラル理論を全面的に援用して、「インテグラル夢学」という新しい学問分野を体系化したのが、私の去年の仕事だった。
その際、私自身の1999年から2021年に至る22年間の「夢日記」と日常の出来事の「日記」の両方を掘り起こし、私の夢に頻繁に登場するあるひとつの「シンボル」とそれが意味するもの、それらの夢と実人生とがどのように絡み合っているのかを詳細に検討してみた。
1999年当時、私は40代前半。いわば自己成長、自己実現の真っただ中といったところだ。こうした、人生の最も重要な時期における自分自身の内面の成長・発達のプロセス(意識変革のプロセスと言ってもいい)を、夢というサーチライトをあてて、照らし出してみたわけである。

そのプロセスの詳細については、この場では書かない(※)が、そのような長いスパンでの検討によってしか見えてこないものが、確実に明らかとなった。

(※)このプロセスの詳細は、以下の記事(有料)を参照。
インテグラル夢学概論編:「夢と実人生とのシンクロ」

この分析・検討作業の最も重要な成果は、自己というもの(あるいは人間の意識、あるいは人生そのものと言ってもいい)は、弁証法的なプロセスを踏んで成長・発達する、ということである。
私の22年間の夢が示した人生航路のプロセスとは、次のようなものだった。
まず、その時の自分にとって、最も優先度の高い人生の課題が夢で示される。すると、その対立軸がすぐさま提示される。さらに、その二つを両立させる(統合する)にはどうしたらいいか、という課題がさらに示さる。その課題が達成されると、また次の対立軸が現われる。
こんな具合に、私のこの間の人生は、明らかに弁証法的に進んできたことがよくわかるのだ。つまり、旧い自分を捨てながらの前進ではなく、旧い自分を内側に「含みつつ超える」というかたちの前進だったのだ。
ここで重要な点は、夢によって課題が先に提示され、現実の方がその課題に合わせて進行する、という点だろう。

私たちは、誰一人例外なく、人生航路の節々において、「Aの航路を進むか、それともBか」といった二者択一の岐路に立たされ、悩んだ末に、必ずどちらか一方を選ぶことになる。ところが、実は選ばなかった方の選択肢が消えてなくなるわけではなく、形を変えて、必ずもう一度自分の目の前に現れるのだ。ここで言う「形の変化」とは、「同じ意味を持つ別の現象」という意味である。言い換えるなら、現象として現れてきたものは、その時のその人の心のありようを反映している、ということでもあるだろう。

まるで、私たちには一生の間にこなさなければならない成長・発達の課題というものがすでに決まっていて、その人の人生の進行に合わせて、それらの課題の一つ一つが順番に提示されるかのようだ。順番の入れ替えこそあれ、どの課題も免除されることはない、といったところだろうか。このことは、ウィルバーのインテグラル理論にも示されている。

■国の運命や国際関係にも働く弁証法

実は、ひとつの国家の発展にも同じことが言える。国家も国民という個人の集合体であるからには、個人が克服すべき課題は、国家が克服すべき課題でもあるわけだ。もちろん、独裁国家なら、その独裁者の個人的な自己成長(自己変革)の度合いが、政治的判断(国の運命)を左右する。世論を色濃く反映するような国家体制なら、世論の成長度が国の運命を左右するだろう。
厳しい言い方で恐縮だが、コロナ禍のような事態が起きたとき、「感染症の蔓延防止か、それとも経済活動か」といった二者択一を迫られて、どちらか一方を選択したり優先させたりしている間は、弁証法的プロセスは起きない。対立軸の両方を一度に成立させる第三の選択肢を導き出さない限り、どちらの問題も解決しないのだ。私たちは、現在進行形でそのことをイヤというほど体験させられているはずだ。
国の政治体制が、相変わらず「二者択一論」に終始しているなら、国民ひとりひとりが、自分の個人的な人生の選択として、「二者を含んで超える」第三の道を見つけ出してみせる必要がある。それこそが真の意味での「ウイズ・コロナ」なのだ。
これは、今回のウクライナ問題にも言えることである。
ロシアのウクライナ侵攻を止めさせようとするときに、「ウクライナへの軍事的支援やロシアへの経済制裁という方法しかない」と思い込んでいるうちは、つまり、対立する一方の極を支援し、もう一方の極に制裁を加える、というやり方に終始しているうちは、やはり弁証法的なプロセスは起きない。二者択一論に終始している限り、問題を解決するどころか、むしろ東西対立を激化させる方向に働くだけである。

■「二者択一」からの卒業

さて、そこで教訓だ。
「いかなる物事にも、二者択一しかないということはありえない」

あなたは、目の前の問いに対して、Yesである証拠を探しているだろうか、それともNoである証拠を探しているだろうか。
実際には、Yesである証拠を探せば、いくらでも見つかる。Noである証拠を探しても、また同じようにいくらでも見つかる。
物事に白黒つけたがる人間は、片方の目を閉じているにすぎない。
「白か黒か」「YesかNoか」「正しいか間違っているか」「善か悪か」を問いただそうとする人間は、物事を平面的にしか捉えていない。しかし、私たちは二次元ではなく三次元の世界に住んでいる。つまり、広がりと同時に奥行きのある世界だ。
両方の目を見開いてはじめて物事は立体的に見える。二つの目を見開くことで、右と左、遠と近がはじめて融合する。目が二つあることの意味は大きい。

「二兎追う者は一兎も得ず」と言うが、実際には、二兎追わなければ一兎も得られない。二つのうちの片方を諦めることは、欲しいものを手に入れる方法論の半分しか覚えないことに等しい。方法論の半分で得られるものは、半分ではなくゼロである(むしろ、マイナスの効果を発揮してしまう場合さえある)。
「せめて~だけは」と思う気持ちが自分を追い詰め、おとしめ、その「せめて」さえも不可能にしてしまうのだ。
二兎を同時に得る方法論は、一兎を得る方法論とは次元が違う。二兎を得るコツは、三兎目も含めて視界に捉えておくことである。ただし、三兎とも得ることが目的ではない。三兎を得るつもりで一兎を得よ。この方法論によって、兎を得ようとする目的自体が変わってくるのだ。

いかなる物事にも、二者択一しかないということはありえない。選択肢は常に三つ以上存在する。二元論的発想こそ、今私たちが超えるべき目前のハードルである。
二者択一を迫られたら、両方を可能にする第三の選択肢を探すべし。第三の選択肢とは、二つの選択肢の「他に」あるのではない。もしそうなら、あなたはそれを選ぶ気にはなれないだろう。第三の選択肢とは、二つの選択肢を同時に満たし、なおかつその二つを超えたものであるはずだ。それを見つけたとき初めて、あなたの両目が開かれる(場合によっては、第三の眼も)。

「そんなものが考えつくのか?」
そのように考えているうちは考えつかない。
あなたが卒業しなければならないのは、「これ以外に答えはない」という考えそのものである。

それでも人生にはどうしても二者択一を迫られる場面があるだろう。もちろんそのときあなたはどちらかを選ぶ。しかし、選ばなかった選択肢が消えるわけではない。
二者のうちの一方を選ぶことは、答えではなく、答えに至る第一段階を踏み出したにすぎない。卒業とは入学の別名である。
選ばなかったもう一方は、いずれ姿を変えて再びあなたの前に立ちはだかるだろう。
したがって、ひとつの問題に答えを出すということは、次の問題の出現を準備することに他ならない。
そのときあなたは一段階上の開眼を迫られる。そしてあなたは初めて気づく、三兎目を視界に捉えながら一兎を得ることの真の意味に。
人生のステップアップと目が開かれることは常にセットだ。

二者択一を迫られたときに、両者を可能にする第三の選択肢を見つけ出す努力により、あなたは「宇宙人の視点」を獲得する第一歩を踏み出すことになる。

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アンソニー  K
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