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シリーズ「新型コロナ」その11:「PCR検査を増やすと感染者が増える」?

■日本はもう「無条件降伏宣言」か?

今、マスコミの報道などを見ていて、呆れて開いた口が塞がらない論調がある。それは「PCR検査を増やすと感染者が増える」という論調だ。これは明らかに間違いだ。「増える」のではなく「わかる」が正しい。
これは、3.11原発事故のときにもあった「なるべく被曝者の数を少なく見積もりたい」という関係者の思惑に類似する論調だ。「都合の悪いことには目を背けていたい」「臭いものには蓋をしておきたい」式の心理だ。マスコミであろうと民間人であろうと、ましてや専門家ならなおのこと、こんな見え透いた「目くらまし」の片棒をかついではならない。
下手をすると、このバカバカしい論調に、「PCR検査は不正確な面もあるから」というようなさらにバカバカしい理由付けが続く場合さえある。そのように言う人間は、もっと性能のいい武器を医療現場にさっさと届けるべきだ。言っておくが、台湾も、中国も、韓国も、同じ性能の武器で闘って、善戦しているはずだ。日本が苦戦している理由は、PCR検査の性能にはない。

現場の医者は「これはウィルスとの戦争です」とはっきり言っている。もちろん特定の国との戦争ではない。「人類VSウィルス」という戦争だ。PCR検査を増やすのは、感染者を増やそうという意図ではなく、敵が忍び込んでいる居場所をはっきりさせようという意図だ。敵の居場所がわからないで、どうやって戦えるのか? 把握できていないところに敵が忍び込んでいる、という事態こそがもっとも危険なのだ。
「もしPCR検査を増やしたら、検査関係者への感染リスクを増やすことになる」という論調なら、確かにリスクは増える。「だから増やさない方がいい」とするなら、検査よりもさらにリスクの高い医療も増やさない方がいい、という論調になる。これは闘いの放棄に等しい。日本は、このウィルスとの闘いに、早々に「白旗」を挙げたいのだろうか。ろくに闘う前に、「無条件降伏宣言」をしたいのだろうか。
もし、検査機関も含めて、あらゆる医療現場が「私たちには、闘う武器も兵員も資源も圧倒的に足りないので、この闘いを放棄します」と言ったらどうなるか、私たちは真剣に考える必要がある。Xデーは目前に迫っているのだ。

■忍び寄っているものの正体

PCR検査を増やすことで増えるものがあるとしたら、それは漠然とした不安感かもしれない。私は、いたずらに人々の不安感を煽っているだろうか。闘うべき敵の姿が見えず、「後ろを振り向いたらそこにいた」という状況の方が、よほど不安ではないか。
正しく敵を認識することで生まれるのは、不安ではなく覚悟のはずだ。
どれだけ状況が悪化しても、相変わらず「様子見」と「調整」に明け暮れて、肝心な対策が後手後手に回ったり、施策の根拠や理由をきちんと伝わるかたちで説明しない日本政府の態度こそが、国民の不安を煽っていないだろうか。知らず知らずのうちに忍び寄っているのは、ウィルスだけではない。
台湾が早期収束できた最大の要因は、キメの細かい施策を徹底して断行し、なおかつ正確で迅速な情報公開に基づいた、きちんとした説明をし続けることで、国民に少なくとも政治的な不安を抱かせなかった点にあるのだと思う。

これは次回改めて取り上げようと思っているが、この新型コロナウィルスは「最強忍者ウィルス」だ(あるいは「無差別ゲリラ部隊」か)。同族のSARSやMERSウィルスと比べても、その忍者ぶりは抜きんでている。ウィルスのサバイバル能力としては、SARSやMERSの有利な部分を兼ね備えていると言っても過言ではないだろう。ましてやインフルエンザなどとは比べものにもならない。知らず知らずのうちに忍び寄り、気づいたときにはすでに天守閣を乗っ取られている、という有能ぶりなのだ。
この最強の敵と闘うには、経済が(生活が)どうのこうのと言っている場合ではない。自分の命を守り、人の命も守るため、「出歩かない、人に接触しない」という消極的な行動を積極的に、しかも長期間にわたって断行しなければ勝てないのだ。

■日本人に警鐘を鳴らす

昨日、都内在住のある知り合いと電話で話をした。その人の96歳になる母親は、近所の高齢者施設にいるが、高熱を出して、一時意識不明になった。救急車で病院に搬送しようとしたが、40箇所の病院に連絡して、すべて断られたという。仕方なく施設で様子をみることにした。施設付きの医師が診察したところ、肺に異音はないとのことだったが、面会謝絶状態なので、ご本人は母親に近づくこともできない。最悪の場合、施設側が最期の看取りをするそうだ。
「医療崩壊」かどうかは別にして、今、医療現場は間違いなく飽和状態だ。コップの水は表面張力の状態にまでなっていて、もうこれ以上水を入れようとしても溢れるだけ・・・。
闘いの最前線である医療現場を守るという意味で、私たち民間人にできることは、少なくとも自分自身が医療のやっかいになる事態を、できる限り回避し、ひとつでも病床を空けることに貢献する以外にはない。

想像してみていただきたい。
ある朝目が覚めると、熱っぽい。風邪様の症状が出ている。テレビをつけると、どの局も放送中止している。病院に連絡してみたが、どこも取り合ってくれない。仕方なく解熱剤を買いにドラッグストアに行ってみたが、どこも売り切れ。食料品や日用品さえ軒並み売り切れている・・・。
こんな日が来ないとは、誰も保証できない。それを避けられるのは、私たちの「今」の行動しかない。

かくいう私は、仕事は100%リモート状態に切り替えた。仕事のために外出することはいっさいない。もともと基礎疾患を持っていて、持病が悪化してもいるので、出たくても出られないが・・・。稼ぎは明らかに減っている。長期戦で貯えが尽きたら、路頭に迷うことになるかもしれない。それでもやむにやまれず、1円にもならないこのシリーズを書き続けている。警鐘を鳴らす意味で、「憎まれ口」を叩き続けるだろう。
それでも感染リスクはゼロではない。必要に迫られて最低限の食料の買い出しには行く。その分、食べる量を減らしてもいる。栄養が足りているのかは不明。
さらに、宅配の荷物を出しにも行くし、玄関先で受け取りもする。

もうひとり、やはり都内在住の知り合いが話してくれたこと。
その人は、誰に対しても優しく接する人で、宅配の配達員の人とも顔見知りで、気軽に話をする。つい先日、いつもの人が届けに来て、こんな話をしたという。「さっき届けた家で、玄関を開けるなり消臭スプレーを顔に吹きかけられました」
これは、明らかにタチの悪い犯罪行為だ。医学的な意味でも、社会的、心理的、倫理的、あらゆる意味で間違っている。人間としてお粗末極まりない。こんな調子でウィルスとの戦争に勝てるわけがない。

私たちは、いい加減目を覚まし、覚悟を決めなければならない。どんな敵と闘っているのか、はっきり自覚しなければならない。
「形勢不利」な状況は、私たち自身が作り出しているのだ。たったひとつのミス、「ついうっかり」の油断、慢心、迂闊、あるいは心得知らずを、ウィルスは見逃してはくれない。

前回も言ったが、もう一度言おう。
こうした緊急事態において、人はウィルスが原因でだけ死ぬわけではない。医療体制の不備や、社会制度の不備、人や社会との関係性のストレス、あるいは単に漠然とした不安や絶望感といった原因でも死ぬのだ。


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アンソニー  K
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