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シリーズ「新型コロナ」その41:「コロナ時代」の変化はどのように起きるのか?

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■「コロナ時代」の「舵取り」は誰がするのか?

この「コロナ時代」は、人類史の大きなターニングポイントだ。それは疑いようがない。
この時期、個人も国も、どのような方向へ舵取りするかで、その後の運命は大きく変わるだろう。
おそらく、ドイツ、ニュージーランド、台湾、あるいはフィンランド、ノルウェー、デンマーク、アイスランドといった国々は、国家元首の手腕もあって、さらなる民主主義に向けて舵取りするだろうと期待している。
日本はどうだろう。
政府は相変わらず「ダブルバインド」「ダブルスタンダード」のメッセージを発信し続けている。「自粛」を呼びかけつつ、GOTOキャンペーンを張る。GOTOを中断したかと思えば、国の中枢メンバーが平気で大人数の「忘年会」を開く、など。中央行政と地方行政の牽制のし合い、非連携、ちぐはぐさも相変わらずだ。
この「政治的ダブルバインド」の危険性については、シリーズ39でも触れた。わが国の政府は相変わらずブレーキとアクセルに両足をかけている。「踏みとどまりながら暴走する」という体質は変わらない。ある日突然ブレーキをかけたかと思うと、またある日突然アクセルを踏む。前もって何の説明もない。国民は身構えもできないまま、そうした政策に振り回され、右往左往し、時に実害も被る。
そんな中、昨年4月に引き続いて二度目の緊急事態宣言が出された。
しかし今回は「人との接触最低でも7割減、極力8割減」といった具体的で強めな要請は省かれている。しかも「夜8時までなら、外出・飲食OKか?」といった印象さえ持たれかねない曖昧なメッセージに終始している。昨年より状況は悪いのにもかかわらずだ。感染収束に舵を切りたいのか、経済に舵を切りたいのかはっきりしない。

コロナの封じ込めに成功している台湾、ニュージーランド、北欧諸国(スウェーデンを除く)などに共通するのは、まず「きんちゃく袋」の紐をきつく締めて、様子を見ながら徐々に緩める、という方策だ。それに付随するのが、しっかりした科学的根拠にもとづく説明責任、そしてスピーディーで手厚い社会補償だ。これこそ感染症対策の基本セオリーである。
しかし日本はまったく逆をやっている。のらりくらりと様子を見ながら、感染者が増えて医療現場が逼迫してきたら、仕方なく段階的に引き締めに入ろうか、といった具合だ。そして相変わらず、政策の根拠も将来的な展望も、いっさい説明する気はないようだ。補償も後手後手で、痒いところに手が届いていない。
こんな調子では、第4波・第5波が、さらに大きな波となって押し寄せても不思議ではない。そうなったとき、当然医療現場は崩壊し、市民生活も破綻するだろう。
生活が破綻するだけではない。多くの国民の脳がいつ機能障害を起こしても不思議ではない、と私は見ている。心身症、鬱、ノイローゼ、パニック発作、挙句の果ての自殺などが今後増えるに違いない。私の予想が当たらないことを祈るが、もし当たらなかったとしても、それは政府の手柄ではない。

今の日本政府の「懲りない対応」を見るにつけ、残念ながら、神戸女学院大学名誉教授の内田樹氏(思想家)の次のような懸念が現実のものになるだろうと、私も予測している。

このあと政府は「今回の感染対策に日本政府は成功を収めた」と総括するでしょう。成功した以上、改善すべき点はない。だから、再び医療費削減路線に戻る。
ですから、このあと日本ではCDC(疾病予防管理センター)もできないし、保健所も増えないし、感染症病床も増えないし、医療器具の備蓄も増えません。そして、いずれ次の感染症のときにまた医療崩壊に直面することになる。

このような「懲りない対応」が最終的になされるとしたら、もちろんワクチンや特効薬などが開発され充分普及し、感染がある程度収まった後だろう。「喉元過ぎれば、熱さを忘れ・・・」の類だ。
なぜ、こうなってしまうのか。そうならないためには、どうすればいいのか。
今後、日本はどのような方向へ国を舵取りすべきなのだろう。
政府にそれを任せておけないとしたら、いったい誰が国を舵取りするのか・・・?

「会社は船に似ている。だれもが舵を取る用意がなければならない」(モリス・ウィークス)

そう、この「株式会社・日本」という船は、私たち国民一人一人が舵取りしなければならないようだ。でも、どうやって?
「私は政治学も経営学も学んだことはないし、一等航海士でもない」と、あなたは言うかもしれない。私も同じだ。では、どうする? 大学に入り直すか? 今から選挙に打って出るか? 今の政治に揺さぶりをかけるために? あるいは「株式会社・日本」をM&Aするために・・・?

「上に立ちたいと思わなければ優秀な社員ではない、という馬鹿げた考えをもった会社が実際に存在する。例えば『わしの地位を乗っ取りたいと言う奴しか採用しない』という誤った信念に取りつかれた社長がいる。(中略)オオカミの群れの中では、全員がリーダーになろうとはせず、それぞれが狩りの名手、養育係、あるいは道化役に徹し、得意な役割にベストを尽くす。(中略)彼らの姿勢の根底にあるものは、『群れのために何をすべきか?』という自分に対する問いだ」(トワイマン・L・タワリー)

「日本丸」の航路を見定めつつ、まずは自分の立ち位置でベストを尽くすことにしよう。

■日本政府がコロナという「黒船」に対応できない理由

さて、もしあなたが、デフレスパイラルに陥ったある企業に新任のCEOとして赴任したとする。まずあなたは、社内の現状を充分調査し、それをもとに、うまくいっていない原因を分析し、その分析をもとに計画を立て、原因をひとつひとつ取り除いていくところから改革を始めるのではないだろうか。私もそうするだろう。
私はこのシリーズで、日本のコロナ対策を随時モニターしてきた。分析がまだ途中のようだ。次の段階として、分析結果をきちんと出し、日本政府(あるいは官庁、あるいは政権与党)の現状に関する報告書(あるいはカルテ?)を作成することになるだろう。そこから新たに対策を考えるつもりだ。

まずは分析の概論から。
間違いないのは、日本のコロナ対策の原点ともなってしまったダイヤモンドプリンセス号での検疫の不手際、あるいはPCR検査がいつまでたっても需要を満たさない、といった事情が物語っている通り、「省庁の壁」「縦割り行政の壁」が「ボトルネック」になっている、ということ。これは時の首相が「ポロリ」とこぼしたことでもある。
もちろんこれは、コロナ対策に限った話ではない。原発事故の後始末に際しても、あるいは台風や洪水といった自然災害への即時対応の際にも、この「ボトルネック」が原因の様々な「目詰まり」が起きた(起きている)。こうした緊急事態に際し、いつまでもこの調子では「二次被害」はなくならない。

とはいえ、「タテのものをヨコにする」あるいは「隣の家との壁を取り払う」ことの難しさは計り知れない。一朝一夕にできることではない。
それは国の体制を持ち出すまでもなく、企業や団体組織の構図に置き換えて考えてみても同じだ。
「ピラミッド型」から「ネットワーク型」へ、この構造改革の必要性はもう久しく叫ばれていながら、いまだに捗々しい進展を見せない。なぜか?
その理由は明らかだ。この構造改革の必要性は誰でも理解できるが、具体的な方法論については、ほとんど誰も知らない(経験がない)し、そもそも構造改革しなくても、それなりに成立してしまっているので、内部の人間が必要性を感じていないのだ。「知らない→やったことがない→方法がわからない→前例がないことはやめておこう」という日本人の(特に行政機関の)保守性・事なかれ主義・官僚主義が、違う方向へ大きく舵を切らなければならない時に、「今までの方向」へ相変わらず舵を強く握り続けさせている。
「懸崖撒手(けんがいさっしゅ)」という言葉がある。仏教の言葉だが、「崖にかけた手を、思い切って放す」という意味で、「勇気をふるい、何かを思い切ってする」ことの喩えだ。変化には不安と恐怖がつきものだ。それを乗り超えた先にしか進化はあり得ない。これは仏教の教えであると同時に、最先端の発達心理学的成果でもある。
残念ながら、永田町や霞が関の住人に、「懸崖撒手」ができる人間はいない。一方、コロナだけでなく国の政策の不手際によっても破綻の危機にさらされている企業や店舗や個人(あるいは医療機関も?)は、まさに「懸崖撒手」を強いられている。

日本の行政機関は、自己(内部)改革や自浄作用の体質を持たない。いずれ詳しい「分析報告書」を書くつもりだが、結論から先に言うと、日本の行政機関は内部から改革を推進したり、体外的に説明責任を果たしたり、といった習慣(体質あるいは文化)をもともと持っていない。なぜなら、そういう必要性がないからだ。今ある習慣・体質・文化といえば、間違いなく「忖度」である。これに異論はないだろう。この習慣・体質・文化で間に合ってしまっているのだ。(ただし、今そうだからといって、未来永劫そうだとは言わないが・・・)
国の中枢にいるある政治家は、「日本が欧米諸国に比べてなぜコロナによる死亡者が少ないのか」を問われて、「民度の違いだ」と答えた。もちろんこの政治家は「お国自慢」のつもりで言ったのだろうが、日本の国民の方が政府よりレベルが上であることを、暗に示してしまった。統率する側よりも統率される側の方がレベルが上である場合、統率される側は足を引っ張られ、いわば統率者の「子守り役」や「尻ぬぐい」までやらなければならないことになる。会社で言えば、中間管理職が苦労するパターンだ。はからずも、日本でいちばん大きな自治体のトップが同じ意味のことを言った。

すでに出来上がっているものを維持することは簡単かもしれない。しかし、世界が大きく変化しようとしているときに、その変化に対応できない組織や国の運命を想像してみていただきたい。そういう意味で言うと、この新型コロナウイルスは、日本にとって「21世紀の黒船」の役割を果たしている(このことは、シリーズ38でも述べた)。
現に、「コロナ時代」という大きな変化に対応できなくなった企業や組織は解体ないし崩壊を余儀なくされている。
12月29日の時点で、「新型コロナ」関連の経営破綻(負債1000万円以上)は、2月からの累計で全国843件、負債1000万円未満の小規模倒産も含めると885件になったという。国が「壁」を超えられないままの「急場しのぎ」に追われる中、変化への対応力を持たない企業はどんどん淘汰されていく。生命進化の法則で言っても、環境の変化に適応できない「種」は絶滅するしかない。

ここであえて「生命進化の法則」を持ち出したのには理由がある。そこに、国や組織の生き残りの大きな「ヒント」が隠されているからだ。
ダーウィン以後の最新の進化論によると、いわゆる自然淘汰の法則は、ミクロレベルでのみ成立するだろうと言われている。つまり、あるひとつの「種」が絶滅する(あるいは生き残る)理由は、自然淘汰の法則だけでは説明できない、ということだ。では、マクロレベルでは、どのような法則が成立しているのか? おいおい詳しく述べるとして、キーワードだけ挙げるなら「創発」ということだ。意味は「含んで超える」ということ。創発が起きなければ、進化はない。進化がなければ、生き残りもない。
もちろん、生命進化の分野で成立する法則が、そのまま人間社会(政治・経済、社会システムなど)の分野にも成立するかどうかは、充分な検証が必要だ。
たとえば、生命の進化には当然「遺伝子」が関わっている。その有機体がオオカミになるのかヒトになるのかを決めているのは、もちろん遺伝子だ。だからといって、ある人がその人らしく生きたり、人とは違う欲求や願望を抱いたり、人間としての成長を果たしたり(ましてやあるひとつの組織なり国なりが廃れるか発展するか)、といったことすべてを遺伝子が決めているとは、私は思わない(そう思っている人もいるようだが・・・)。
これは壮大なテーマなので、回を重ねることになるだろう。しかし急がなければならない。このシリーズも41回目を迎え、テーマの大きな「舵切り」をしなければならないようだ。

■大きな変化はどのような順番で起きるか?

私は、個人的には、社会全体の大きな変化とは、次の順番でしか起こり得ないと思っている。
「個人の変化→小集団の変化→大集団の変化→地方自治体レベルの変化→国全体の変化」
つまり、国全体の変化とは、個人の変化が始まって、そうとう経ってからいちばん最後に起こる、というわけだ。「種」の進化も、個体の「突然変異」から始まるはずだ。
これはまさに、個人の意識が「エゴ」のレベルから「自他意識」へ、そしてより広い集団意識へと進化していくプロセスと合致している。
だからといって、個人が国家体制の影響を受けない、と言いたいのではない。もちろん、個人はあらゆる環境要因から影響を受ける。しかし、ただ影響を受けているだけではない。「(自分を含めた)世界を変えたい」という欲求は、能動的主体の働きだ。そして、主体の働き方にはレベル(段階)がある。

ケン・ウィルバーは、ごく簡単に言うと、個人レベルがいかに世界の全体性へと同一化していくか、その筋道を次のように巧みに表現している。

「コミュニケーションからコミュニオンに、コミュニオンからユニオンに、ユニオンからアイデンティティ―至高のアイデンティティ―に・・・」

訳すなら「意思疎通から交わりに、交わりから合体に、合体から同一化―至高の同一化―に・・・」といったところか。この筋道がいかに遠く困難で、その到達点がいかに究極のものかは想像に難くない。しかし誰しもが避けて通れない筋道だ。
保守的で、事なかれ主義で、官僚主義で、変化を嫌い、「忖度」の文化に甘んじている日本の国家体制に対し、「あなた」という「個」がどのようにコミュニケーションするのか、それと交わり、合体し、同一化するのか、それともそれに反発し、対立し、それと訣別するのか、あるいはそれのことを充分知ったうえで、それと「同一化」するのでなく、それを「含んで超える」(より進化した「何か」と同一化する)のか、それはあなた自身が主体的に選ぶことができる。

あなたが、このコロナ時代に生き残るべく、世界全体の、あるいは少なくとも日本全体の変化(進化)を望むなら、まず真っ先にあなた自身が意識の進化を果たしてみせる必要があるだろう。

アメリカ・インディアンのオガララ・ラコタ族のブラック・エルクという長老が、次のような言葉を残している。

「いちばん重要な、最初の平和は、人の魂のなかに生まれる。人間が宇宙やそのすべての力とのあいだに、つながりや一体感を見いだせたとき、その平和が生まれるのだ。宇宙の中心にはワカンタンカ(大いなる神秘、創造主、宇宙の真理)が住まい、しかもこの中心はいたるところにあって、それはわしらひとりひとりの内部にもある、と理解したときにな。これこそが真実の平和なのだ。ほかの平和はすべて、この真実の平和の似姿にすぎん。二番目の平和というのは、二人の人間のあいだに生まれる。そして三番目の平和が、二つの部族間にあらわれる。しかし、わしがしばしば言うように、人の魂のなかに生まれるものこそが真実の平和なのだから、その平和をまず知っておかない限り、部族間の平和などとうてい実現せぬということを、なによりも理解しなくてはならん」(めるくまーる刊「それでもあなたの道を行け」より)

これは大変なことだ。
世界に平和をもたらしたいなら、まず隣にいる人間との間に平和な関係を構築すべし。隣にいる人間との間に平和をもたらしたいなら、まずあなた自身が宇宙と繫がってみせろ、というのだ。
この言葉を簡単に言うなら、世界平和とは、「(宇宙との繋がりによる)個の確立」→「関係性の確立」→「集団間平和の確立」→「世界平和の確立」という順番でしか起こらない、ということだろう。
前述のウィルバーの言葉をもう少し詳しく言うと、コミュニケーション(意思疎通)から至高のアイデンティへと至るプロセスのうち、最後の(至高の)アイデンティティまではいかないにしろ、少なくともユニオン(同一化)のレベルまでは、個人レベルで到達することがまず望まれるだろう。そしてその同じプロセスを今度は集団レベルが辿ること。次に自治体レベルが辿ること。そしてその先に国家の変化がある、ということだろう。

では、個の確立、個人の意識の変化(進化)とは、具体的にどのような筋道で起きるのか、そしてそれがどのように国家レベルへとつながっていくのか、という話になってくる。
世界平和に先んじて、個人の魂の中に生まれる最初の平和とは、どのようなものだろう。
人間が宇宙やそのすべての力との間に見出すつながりや一体感(繋がった後に一体化する、という意味では、最終的には同一化と言ってもいい)とは、どのようなものだろう。
一人一人の人間の内部にもあるという「宇宙の中心」とは、どのようなものだろう。
このシリーズでは、これらの疑問に対しても、ひとつひとつ答えていくことになるだろう。

この回を終えるにあたり、最後に次のような言葉を引用しておこう。

新型コロナウイルスの感染拡大を抑えるため、中国湖北省武漢市が封鎖された2日後(2020年1月25日)から、武漢在住の作家・方方(ファンファン)氏が、自身のブログ上で武漢の実情を伝える日記を書き始めた。その中に、次のような一節がある。

「一つの国が文明国家であるかどうかの基準は、高層ビルが多いとか、クルマが疾走しているとか、武器が進んでいるとか、軍隊が強いとか、科学技術が発達しているとか、芸術が多彩とか、さらに、派手なイベントができるとか、花火が豪華絢爛とか、おカネの力で世界を豪遊し、世界中のものを買いあさるとか、決してそうしたことがすべてではない。基準はただ一つしかない、それは弱者に接する態度である」

世界中のあらゆる人々が、自分の属する国の方針に関係なく、方方氏のような意識を持ち、行動している様を想像してみていただきたい。
今こそそれが求められているのではないだろうか。

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