改めて「インテグラル夢学」事始め
■私の原点
さて、前回までで、「インテグラル夢学」の概論部分はほぼまとめ終えたのではないかと思う。これから先は各論編になっていく。
今私は、そのとば口でハタとたたずんでいる。「インテグラル夢学」の各論編とは、どのようなものか。それをどのように展開したらいいのか。そもそもの「原点」に戻った、といったところだろうか。
私が今回、新しい「夢学」理論を体系化するにあたり、全面的にその「骨組み」として借りてきたのは、ケン・ウィルバーの「インテグラル理論」だった。
その概論部分を終えて、各論へ移行しようとするなら、概論では言い足りなかった部分を補いつつ、より網羅的に、より細部を深めるかたちにする必要がある。常に全体を見ながら、細部を掘り下げる・・・。
一筋縄ではいかない。何しろ換骨奪胎しようとしている相手は現存する世界最大の知の巨人である。この世界全体、この森羅万象、この一切衆生、このコスモスのまるごとを、巨大なかたまりとして目の前に差し出され、「さあ、料理してみろ」と言われているようなものだ。
単に「夢」という窓を通して、この世界を眺めるとしても、事情はおそらく同じだろう。逆に普段は見えない部分にまで光をあてることにもなる。
概論編を振り返りながら、よりディープでより専門的な内容を織り込みつつ、少しずつ歩みを前へ進めるしかなさそうだ。
■ウィルバーの原点
ケン・ウィルバーという人は、人類史上稀にみる思想家で、おそらく誰も成し遂げられなかった(いや、考えもしなかった)ことを、すでに成し遂げてしまった人だろう。
通常、学者とか研究者と呼ばれる人は、ある分野やあるテーマを深く掘り下げはする。しかし、他の関係ない分野には、ほとんど関心を示さないか、示したとしても、せいぜい周辺分野をうろちょろする程度だろう。心理学者は素粒子について語ろうとは思わないだろうし、物理学者は人間の内面や宗教について語ろうとは思わないだろう。そもそも、西洋の学者で、東洋思想に首を突っ込もうという人は変人扱いされるのが落ちだ。
たいていの専門家は、あらゆる学問分野をひとつの俎板の上に乗せ、いっぺんに料理してみせようとは思わない。誰もそんな「離れ業」をやってのけようとは思わない。
ウィルバーは、二十代前半の頃から、はっきりその辺りを意識しつつ、自分のキャリアをスタートさせた。大学での最初の専攻は医学だったが、やがて生命科学に鞍替えし、そして心理学へ移行し、ついには西洋と東洋を股にかけるようになる。最初から頭の中身がインテグラルなのだ。
ウィルバーは、細部を見る前に、全体を見ようとした。
「物理学者はこう言っている、心理学者はこう言っている、哲学者はこう言っている、生物学者、宗教学者、神話学者、人類学者、社会学者、神秘学者はこう言っている。そして、東洋思想はこう言っている。では、結局彼らは何が言いたいのか?」
ウィルバーは常にそのことを考え、そしてついに、あらゆる知の最前線の考え方に、あるひとつの「共通項」を見出してしまった。つまり、物質であろうと心であろうと、この世の森羅万象が持つ共通点ということだ。大発見である。アルキメデスのように「ユーレカ(わかったぞ)!」と叫んだかどうかはわからない。
この「世紀の大発見」、誰も成し遂げられなかった偉業を、ウィルバーは、「個々ばらばらな数珠玉を一本の糸でつなぎ合わせることで数珠を完成させる試み」だと言っている。
ウィルバーは、その主著「進化の構造」の冒頭で、次のように述べている。
「さまざまな知の分野(物理学から、生物学、心理学、神学にいたるまで)から大きな合意点を求め、それを数珠のようにつなげてゆくことにより、驚くような、またしばしばとても深い結論に達することができる。それは確かに驚くような結論ではあるが、すでに合意された知識以外のものを体現しているのではない。知識の数珠玉はすでに受け入れられている。それを数珠に仕上げるのに必要なのは玉に通す糸だけである」(「進化の構造」序論より)
だいぶ謙虚で控えめな言い方だが、このような偉業に対して、うっかり近づくと大怪我をしかねない。事実、ウィルバー批判をしようとするたいていの人間が、どうしても部分をもって全体を批判するという成り行きになってしまうため、大怪我をしている。せいぜいマイナーチェンジを要求するぐらいが関の山だろう。しかも、全体的な骨組み自体、あらゆるマイナーチェンジが可能なようにできている。あるひとつの「数珠」が旧くなったら、最新のものに取り替えればいいだけの話だ。数珠を通す糸に何ら変更を加える必要はない。
そんな理論には、ゆっくり少しずつ、それこそ螺旋(スパイラル)を描くように核心に近づいていくようなやり方が正解なのだろう。言うならば、自分で悟りを啓いてみない限り、本当の意味でウィルバー思想を理解したことにはならない。ウィルバーも繰り返し言うように「地図は現地にあらず」である。つまり、いずれ「現地」に赴くためにウィルバーを読むのである。「ウィルバーを読むことは、ひとつの修行である」と誰かが言ったとか。悟りにはゆっくり近づくものだ。
■ウィルバー理論を辞書化する
30年ほど前から、ウィルバーというテキストを少しずつ読み解いていく作業のなかで感じてきたことがある。それは「辞書」の必要性だ。ウィルバーはこの世の森羅万象を紐解いてみせるなかで、様々な概念を提示している。
代表的なもので言えば・・・
ホロン(ホラーキー)
4象限
AQAL(全象限、全レベル、全ライン、全ステート、全タイプ)
前-超の虚偽
ヒエラルキーとへテラルキー
エイジェンシーとコミュニオン
ビッグ・スリー
存在の大いなる連鎖(入れ子)
同一化、差異化、脱同一化、統合
独白的と対話的
フラットランド(深みのない平板な世界観)
プレローマ、ウロボロス、ケンタウロス
支点(フルクラム)と重心
ウェイキングアップ、グローイングアップ、ショーイングアップ
インテグラル・マインドフルネス
ワン・テイスト(一味)
目撃者
進化と内化
ヴィジョン・ロジック、粗大(グロス)/微細(サトル)/元因(コーザル)
非二元(ノンデュアル)
これらの用語に対して、訳書によっては巻末に簡単な「用語集」がついているものもあるが、それではとても足りない。詳しい解説文つきの網羅的な用語集が必要だ。それを読むだけでも、ウィルバー思想の全体像を把握できるような辞書。今のところそういうものはない。ないなら自分で作ろう、といったところだ。これは一生かかりそうだ。
ウィルバー用語の辞書作りという骨の折れる作業は、インテグラル夢学を前へ進めるためにも必要なことだろう。夢の窓を通して、この世界を「辞書化」する、といったところだろうか。ドリームワークの究極のかたちは、自分専用の夢辞典を編纂することだった。哲学書の究極のかたちは「定義集」かもしれない。
もちろん、辞書だけを編纂するわけではないが、たとえば外国語をひとつマスターしようとするなら、メインの教科書、文法書、副読本、参考書、そして辞書という「教材セット」が必要だ。
さあ、ウィルバー思想、あるいはインテグラル理論のマスターへ向けて、船出しよう。船の窓から、夢の海原を眺めつつ・・・。