宮台真司が落合陽一に期待するテクノロジーについて

以下、2019年2月22日TBSラジオ「荒川強啓デイキャッチ」内の「 宮台真司のデイキャッチャーズボイス」コーナーについての感想です。


 今回のテーマは「もう一度、目線を合わせよう」ということで、具体的には、昭和と平成の違いを、他人と目を合わせなくなった/合わせられなくなった、という点におき、そして同時に、SNS上のコミュニケーションが攻撃的になってしまったことを指摘する。

 目が合うこと、について、宮台真司はもう少し具体的に、目が合う瞬間、「見た/見られた」の因果関係があやふやになる現象でもあると指摘する。目が合うということは、因果関係や事象が発生した順序があいまいになることで、ルールや法による価値判断(評価)や結果予測がひどく難しく、面倒くさくなる。その面倒くささ、厄介さを避けるがゆえに人間は次第に目を合わせなくなるのだ、と。

 この点について僕は、バタ臭い例だが、エリアーデの『聖と俗』で「カオス」と「コスモス」という二項対立をつかった説明が展開されていたことを思い出す。カオスとはあらゆる法則や規則、因果関係が未解明・未定義・未設置な「そもそもの」「自然の」「原初の」プリミティブな状態を意味し、そこに因果関係の発見や定義、群れや仲間うちでの共通認識や紳士協定、さらに人間を離れた客観的な外部規約や基準=法を設置することで発生する秩序だった空間が「コスモス」である。人間社会は後者であり、さらに、元々はカオスが広がる世界において、コスモスの範囲を切り開き拡張しながら設営し続けてきたのが近代社会である、ともいえる。

  「目が合う」という現象は、因果関係(AをしたからBが発生した)が不安定化することで、因果関係を法に照応し評価や判断が自動的にもたらされる「法の支配」が行き届いた(ように見える)社会の中で、唐突に発生した「法の支配」の穴におちて「自分で判断しなけれなならない」事態である。平成が終わろうとする今、昭和という時代から照らした平成が「目が合わなくなった/合わせなくなった」時代であるとすれば、平成という時代は「カオスを忌避し、コスモスが所与化された」ように思い込んでいる人が増えてしまった時代、なのである。

〇人間は元来、カオスに惹かれる
 宮台真司は続いて、そもそも人間とは、法の共有や法則の所与化・規定化がされない「やってみないとわからない」状況に惹きつけられる生き物である、ともいう。森林で暮らしていた人類が、「何があるのかわからない」「行ってみないとわからない」荒野へ踏み出していったのもそのためだし、結果的に、人類はそこで狩猟や農耕、貯蓄や配分の着想を発展させ技術として定「型」化してきた。このカオスへの衝動は、人類をしばしば新しい地平へと衝き動かし、閉塞を打開してきたのである。

 新たな生活を手に入れた人間は、数を増やし、生産力を向上させることで、大規模定住「型」の社会を実現させた。より多くの人間が長く一定の暮らしを営み続けるためには「安定」が重視された。未知の状況、個別の条件、新しい解決方法を常に要求される生き方は安定さに欠けた。そこで、「何がどうしてどうなった」か、因果関係の説明が整備され、その為の法則や法規が規定された社会が求められ、発展していくようになる。
 世界中の神話や説話を見てもわかる通り、古くなれななるほど、人間の生老病死や世界の成り立ち、どのようにして社会の中で一人前になるか(通過儀礼)など、人間の誕生、成長、死や、人間の生きる世界の成り立ちを説明する創世神話のようなパターンが目立ってくる。人類は「説明≒因果関係の明示」を「必要としてきた」のである。最初は神霊や信仰によって説明され、秩序が打ち立てられ、やがて、属人的な秩序よりも客観的な「外部規約」としての法が作り出された。

 因果関係の説明や定義は、社会で機能する限りにおいて個人の利益や人生を制約したり富や権力をもたらす。ゆえに、その定義は常に富と権力の集中に関係してきたし、安定と引き換えに不平等や格差、理不尽や差別を生んだ。法を神話や属人的な根拠に基づかず、理屈や理論や経験によって「特定の人間の損得勘定から切り離して」「人間の外部規約として設置する」ことの意義は、法律を学んだ人間ならば必ず見聞きする概念である。それだけに、法が客観的で公平に働くことは人類を良くするもの=Goodsとしての法にとって重要なのである。

 カオスに引き付けられて森から荒野へ進出し、そこで大規模定住型の社会を作り出した人間は、さらに、カオス≒未規定性による不安定。不確定要素をなくしてより安定した社会を作るために様々な法を作り出し、その法をさらにさらに安定した健全で公平なものにするために「人間」の外部におく「外部規約」装置として発展させていった。のである。

〇法の不備とタダ乗り野郎
 法の整備と発展普及は、あらゆる物事の因果関係の説明や評価を自動化する。言い換えれば、あらゆることを「一から考えずに済む」ために法によるルーチンがあるからである。もう少し法律の話をするならば、例えば、ユダヤ教の教義をつかさどりコミュニティにおける教師でもあれば時に裁判官のように規律を司ることもあったラビのもとには、日常生活の中で起きた疑問や諍いについて「どう判断したらよいか」の問い合わせが書簡などでへき地からも殺到した。そのたびに、ラビたちはミシュナー・トーラーや故事に照らし合わせて解釈と判断を行っていき、これが積み重なって十個だった戒律(元々は五個だったらしい。ユダヤ思想史の高木先生によれば、後半五つはどうやら定住社会での諍いを律するために付け加えられた形跡がある、そうである)は判例で雪だるま式に膨れ上がっていった。どうでもいいことだが、結果、どの宗教よりも複雑膨大な教義を抱える羽目になったユダヤ教は様々な外的不幸も重なって衰退した。そこで、アレキサンダー大王に捕まっていたことでもお馴染みのベン・モーゼス・マイモニデスが自身のラビとしての生命と引き換えに教義の大幅な整理を行った。神殿に入るときは左右どちらの足から入ったらよいかについて長々書いてあったりしたらしい当時の膨大な教義を整理しなければ、難渋で冗長なユダヤ教はより整理され整備された新しい宗教であるキリスト教やイスラム教に飲み込まれてしまうと感じていたからだ。こうしてもめにもめて大規模なリストラクチャリングを経たものをマイモン・コードと呼ぶ。保身と承認欲求を満たすために不要な告発や難癖のつけ合いに明け暮れた挙句に本質を外れて枝葉末節にこだわり続け、「無意味なルール」「ルールの権威をまもるためのルール」で膨れ上がった法で破綻寸前であったのが当時のユダヤ教であり、ま、どこの分野にもある程度続いた段階で起こりうる話であるが、それだけに、僕はこの「人間臭い」ユダヤ思想が嫌いになれないのである。もっとも、「うるせぇ、好きなら全部やれ全部!」と書いて見せた道元の「正法眼蔵」におたくの理想像を見るボクとしては、どうにもいけ好かない話でもある。が、本稿においては本当にどうでもいい。

 さて、法というものは万能ではないし、属人性を排して客観化できたところで、永遠に公平安全に自律稼働し続けるわけでもない。何せ人間が作ったものである。いつか壊れるし無理もでる。そもそも、当の人間が法の想定範囲を超えた営みを爆誕させ続けているのだから、人間の作った法にしても神にしても、常に進化しアップデートされなければならないのだ。宗教学者も法学者も世の中にあり続けねばならず、常に考え戦い悩み苦しみつづけねば人も世も救えぬのだ。レヴィナスがラビについて書いた記述に、ラビとは教義を司るだけでなく「未解明の問題を継承する」役職である、という旨のものがある。学問という言葉が門でなく問という字を使う点にもこの節があると勝手に思っているのだが、宗教学者であり法学者でもあるラビは、「分からないこと」「判断の付きかねること」も継承し、「自分の代が無理なら次の代で」解決するために執念深く抱き込んでいるのである。つまり、宗教学者も法学者も、本稿ではルールを司る人間は須らく、そのルールの不完全性を誰よりも認識しているはず、なのだ。それが、専門職がその道の学問をせねなならず、学問をするからには「問いを受け継ぐ」という大原則の謂れである。答えだけ、答えの出ていることだけ知っている、なんてのは半可通だし、「答えだけ教えてください」というのは学問どころか落語に出てくる与太郎か何かなのだ。

 ものすごく脱線してしまった。本題に戻ると、大規模定住社会を出現させ、「みんなで仲良く気持ちよく暮らしていく」ためのどんな法律にでも、「問題点≒欠陥」が、穴があるのである。無い!と言っている人は狂信者なので近づかないことをおススメする。
 法の支配は絶対ではない、というのは間違いだが、法の支配は万能ではない。万能ではない法の支配を絶対化させると、法の不具合まで絶対化してしまうので危険、なのである。そこで、人間はいろいろな知恵を働かせてきた。

〇祝祭、社会構造としてのカオス、目線の衝突
 宮台真司がよく使う「祝祭空間」とか「祝祭的」な営み、というのは、そのまま、お祭りのことなのだが、このお祭りには、社会学的数量的裏付けだけでなく民俗学的な知見の裏付けもなされている。例えば、折口信夫は古来からお祭りの際に共同体の外からやってきて神霊の役を担ったり特殊な儀式を営んで去っていく来訪神的な集団のことを指摘していた。この場合、お祭りという時間は、空間は、時空は、普段共同体のなかに存在しない「異物」が紛れ込み、「異物」とともに「異なった理屈(コトワリ)」が流入する非日常状態である。また、さまざまな地域でさまざまに営まれるお祭りの中には、その期間中だけ許される無礼講や性的乱交、あるいは、子どもと大人の境界線を飛び越えさせる通過儀礼が社会構造として組み込まれていることがある。これは、社会の安定を図るために法によって植物の細胞壁よろしくガッチンガッチンに定型化された共同体から、一時的に法の拘束を取り除いて流動性を持たせることで新陳代謝や子どもから大人へといった役職の「移行」、鬱屈した不満や不安のガス抜きが行われることを企図している。そして、本稿の文脈で言えば、法の抜錨によってコスモスとしての住空間の中に一時的にカオスを幻出させることで、日常化することで所与化したコスモスの存在意義を思い起こさせ、お祭りが終わったらまた日常=コスモスを維持運営していく動機付けと確認を行う意味もある。祝祭とは、コスモスとしての共同体・社会に構造的にカオスを組み込むことで、コスモスの維持管理、メンテナンスをする社会制度でもある、ということである。

 で、目線が合う合わないの話はどこに行ったのか。まだここにある。祝祭空間が構造化された、社会内存在としてのカオス=因果関係の混乱状態であるのなら、目が合うことで発生する「見た/見られた」の因果関係の崩壊・混乱は、日常生活の中で起こりうるささやか崩壊であり祝祭、ネットスラング的なニュアンスも含めた「まつり」状態といえる。目と目が合う、とは、他人という「関わりの無い」「縁のない」という細胞壁で区切られた状態の人間同士が偶発的に「壁を越えて出会ってしまった」状態なのである。

 で、偶然目が合ったことの気まずさや居心地の悪さは、起こりえないランダムエンカウントについて(いや、そういうもんだろ普通。と思えなくなっているのが平成的である。と宮台氏は言っている)、いきなり対立や戦闘も含めた「個人非常事態宣言」状態に陥ってしまう気持ち悪さでもある。ぶっちゃけ僕も苦手である。他人と目を合わせるのは苦手じゃないが、その先で「防衛的に拒絶される」「加害者にされる」感覚がどうにも腹が立つ。そんなに見られたくないなら穴でも掘って埋葬されてりゃいいだろうに。そのくせ、趣味は人間観察です、とか、『箱男』も読んだことがないようなアホに限って豪語するもんだから余計にヘイトが溜まるっつーの。

〇見ることには慣れているが、見られることには不慣れである
 ともあれ、これも見ることは日常していても、見られることには著しく不慣れになっている状況もまた、インターネットの普及と時期的に同期していると宮台真司は指摘する。それについては世代的にあまり実感が持て無いのだけれども、ただ、インターネットやスマートフォンといったメディアやガジェットによって「覗き見ることが容易化」し続けた社会で生まれた世代が、自分が普段、他人を覗き見るときに発揮している冷酷さや凶暴さが自分に向けられるのだと本能的に察知して怯え、一部の頭の弱い動物がしばしばとるような過剰な防衛反応をとるようにして、他者の視線を拒絶してしまうのではないか、という推測は立つ。なんとも情けない話だ。他者に対して理不尽に攻撃的になったことのない人間は、他者と接するにあたっても「自分がそうする程度の」善意は期待できるが、平素から野良犬のような他者観察を行っているとそうもいかない。「自分がそうする程度の」悪意を見てしまう。自業自得というか、実際、いかんともしがたい状況である。

 では、どうしたらよいのか。他人を嘲笑ったり見下す視線を捨て、自分もそういう視線に晒されないようにするにすることで、目を合わせるという日常のささやかな祝祭を取り戻すには、どうすればよいのか。
 宮台真司は既に祝祭の例を挙げて答えている。祝祭とは、コスモスとしての「規定された日常」に組み込まれたカオス=規定から解放される時間と空間である。つまり、他人を嘲笑したり見下す価値観や規範意識を脱ぎ去ることができるのも、祝祭的空間の性質なのである。そうした空間では、普段は馬鹿にしたり見下されたりしている間柄でも付き合うことが許され、そのことをもって日常での地位や評価は低下しない。ただ、普段は目を向けずにいることで理解できなかった他者の性質や美点、魅力に気が付くことができるのである。仮にも、現代日本は階級社会ではないし誰かに話しかけたことで罰せられるような社会では表向きは無い。ことになっている。そうであるなら、目が合う、という現象が日常的な祝祭空間として採用されても不具合はないだろう。目が合ったことで、とりあえず壁や規則を一時捨ててみる、袖振り合うも他生の縁という風に。そして、祝祭という「ルールやムードの外側を意識する機会」に恵まれた社会では何がおこるのか。宮台真司は続ける。

〇掟ひろき器もの
 祝祭空間をもつことによって体験、発見し得る外側の存在や、ルールやルールに沿って動く人々によって醸し出される空気=ムードに馴染めない/馴染まないことでつまはじきに遭う人間が持つ美点や魅力が社会を変えたり、意外な局面で助けになることある。社会に適応しにくい、とされるこの手の人々を適応障害とかADHDとかアスペルガー障害とかいうことがあるようだけど、人間の脳みそなんて個体差がつきものなのだから、だれしも必ずどこかが偏っているのだ。自閉症スペクトラムというように、脳の偏り=個性は、例えばADHDとアスペルガーの間のどこかに必ず分布するわけで、要するに程度の問題であって障害とか病理と断じたり素人了見で「人間観察」するのはモッテノホカってものではなかろうか。どぉせ人間観察モニタリングとか見て喜んじゃってるアホなんだろうけどさ。見てる側がいつベッキーになるかわからんのだぜ?
 で、こういう人たちのことを、最近はニューロダイバーシティとかニューロマイノリティと呼ぶことがあるそうだ。脳の偏り方が少数派であるとか、希少な偏り方をしているのでその存在自体が人間全体の云為行動に多様性を担保する役割を果たしている、ということだろう。
 宮台真司はこういうタイプが社会を変えたり豊に楽しくした実例としてスティーブ・ジョブズを挙げている。確かに、ジョブズは社会のルールや他人が定義したり醸し出すムードにおもねらず、自分が素敵だと思うものを描き形にした。だからアップルコンピュータはアップルコンピュータであったし、他をもって代えがたいものだった。いなくなっちゃったけど。
 そうなのである。「他をもって代えがたい」ものであることは、近代以降、あらゆる個別の存在にとっての重大な命題なのである。本当に気まぐれにしか書かないここの以前の記事でも近代主義とデザインの問題について触れているので、詳しくはそこで読んで補っていただきたいが、近代主義が実現した「宗教や民族や伝統や国籍からの自由」は、「そのもの自体を直視する」=分けて考える=科学主義を導き出したことで技術的にも精神的にも産業的にも大きな変化をもたらした。新しい技術、新しい思想、新しい立場が出現し、貴族や高僧、軍人、王族に加えて市民という新たなプレイヤーが世界に参加することになった。近代とはプレイヤー種別の増加の時代でもあったが、同時に、くびきであり制約でもあった伝統や信仰から遊離したことで「自分が何者かである証は自分で建てねばならなくなった」。姜尚中はこれと似たような現象を「自由の眩暈」と書いているが、実際、多くの思想家が、建築家が、政治家が、個人が、「自由になった先で何者かであることを証明するためのデザイン」を模索して挫折した。近代の後先。ポストモダンの難点である。むろん、以前の記事で漫画家・デザイナーの永野護を例に挙げたがこれを成し遂げ続ける才能もいる。彼らのような存在を、毎度アニメで恐縮だが、『無責任艦長タイラー』最終話から「掟ひろき器もの」と僕は呼んでいる。

 掟ひろき器もの、とは、主人公ジャスティ・ウェキ・タイラーをして、ミフネ中将が言わせた言葉である。掟ひろき、とは、既存の集団内部のルールや規律、ムードに拘束されない/遵守できない困った人間のことで、こうした人間の中に、大事をなす器もの=大器が潜んでいる、ということである。
 掟ひろき者とは、タイラーを例に考える限り、ルールに縛られないというかルールを遵守して生きるのが苦手なダメ人間、社会不適合者である。しかし、こういう人間の一部に、自分の理屈や美学を貫き通して事をなす人間がいたり、彼らが持っている着想や思想が世の中に既存の法やアイデアの不備を補ったり、難局や閉塞を打開するきっかけになったりするのである。ジョブズの生きざまは前者にあたるし、宇宙戦争を回避したタイラーの活躍は後者にあたる。そして、ミフネはさらに、掟ひろき者は、その群れすら飛び越えて外へ出て、出ていった先で新たな群れを作るという。これは最終回のセリフなので、これ以後のフォローはその後も続く「無責任シリーズ」を読むほかなく、やや投げっぱなしのようにも感じるが、閉塞感に対しては救いのあるような話に思える。

 カフカは、「人の輪を観察するものは決して人の輪に入ることはできない」と書いているそうだ。確か、断食芸者が収録されている薄い短編テキストのあとがきで読んだ覚えがある。人間社会を客観的に見つめ、何が必要でどうするべきかを分かっているような人間は、しばしば社会の中、人の輪の中には入っていけないのである。カフカらしいといえばカフカらしい言葉だが、社会や会社や学校において、その仕組みが健全で公平であるために監視をする立場の人間が内部の人間関係における評判や出世を気にしてしまうから「癒着」や「忖度」が生じる。最近のこの国を見ていると思わず唸ってしまうところがある。宮台真司は、こういう状況を、周りから「イイネ」ボタンを押されるためだけにあらゆる正義や公平さを度外視してしまう人間の増殖の原因とみている。彼らは正しさよりも自分の損得だけのために行動をしてしまうので、本来はだれかを思いやってする忖度が保身に堕してしまい、世の中の根幹まで腐らせる。アイヒマン問題に通じる悪の凡庸化は、悪が悪であると自覚できない状況に起因する。それは、叱責や不興を買うことを恐れるあまり、褒められたりイイネを集めることが絶対化し、そのためならば法に背くことすらいとわなくなる、法への不信と、その行為によってさらに法が社会的信用を失うという悪循環を引き起こす。法も人間も、メンテナンスが必要なのである。

〇宮台真司がテクノロジーに期待するもの
 22日のデイキャッチャーズボイスは、「もう一度目線を合わせよう」というテーマで、昭和と平成の違いとして目と目が合わなくなったことを例に挙げながら、その問題性と解決策を軸に展開されたが、これは、宮台真司が落合陽一とテレビ番組で対談したことが前日譚となっている。平成?生まれの落合陽一は科学者で教育者でアーティストであり、現代の魔術師の異名を持つ。対談は、宮台真司から落合陽一への期待を伝えるという種子も兼ねていたようである。アーティストでありエンジニアでもある落合陽一に社会学者の宮台真司が寄せた期待とはどのようなものであったか。これが、ボイスのコーナーで宮台真司が提唱した解決策への展望にもつながっているような気がする。

 
 社会とは、カオスの広がりとしての世界において人間が確保し拡張し続けるコスモスの空間、秩序だった生存圏、である。人間は、この生存圏=コスモスの外では基本的に生存できない。という前提で、社会を潜水艦か宇宙船に例えてみる。潜水艦にしても宇宙船にしても、船の外、船外は生きていける空間ではない。
 社会を船に例える場合、そのメンテナス=保守点検、修理などのためにしばしば船外活動が必要になる。先ほどらい触れている、ニューロマイノリティやニューロダイバーシティと呼ばれるような「掟の外」に出られる人々、「人の輪を見つめることはできても輪の中に入れない」人々は、船「外」活動において状況確認や精密作業が行えるのではないか。社会が長期にわたって安定化し、その「外」や法の例外、範囲外について極端に興味が希薄になっていくと、船の中を世界そのものと捉えて天動説を唱えたり、その中で機能「することにしている」法に寄生して私腹を肥やす「タダ乗り野郎」が出てくる。密航者や長期航行計画を狂わせるような輩は航行計画を狂わせるので即刻海に放り出さねなならないのだが、まぁ置いておこう。そんな中において、船を外から見渡せたり、船自体の機能を監視したり修正修理できる異能の人間は甚だ貴重であり、これは本来、長期航行の命綱とも呼ぶべきものである。彼らは船=社会の外にしばしば立ちながら、誰よりもその不具合や大切さを知っている。そういう人材をこそ、専門家と呼ぶし先生とも呼ぶべきであろう。誰でも知っているようなことを、誰にでも共感できるような美辞麗句で巧言令色するような輩(って、タイラーはこれやってるんだけども)は本来、人間集団において忌避すべき存在なのである。

 と、まぁ、船内の治安や風紀に目くじらを立てて、あいつがルパンだとかあいつを吊るせとか言ってもどーせうまくいかないので、打開策は船外活動に見出す。船外活動には宇宙服や潜水服が必要だし、彼らの仕事をしやすくするための道具や技術も必要だろう。そして、船外で活動する彼らが船内の人間とつながりを保つためのコミュニケーションツールも必要となる。多分だけど、宮台真司が落合陽一に期待しているといったのは、ここでいう宇宙服や潜水服のような「船外活動のための技術」であり、また、「船外と船内をゆるやかに連帯連携させておくための技術」なのではないか。そして、宮台真司という人は社会学者であり、社会制度設計の研究者でもある。おそらく、彼自身も、社会という船の中で、船外活動者たちを擁し続けるための制度設計としての技術を模索し続けているのだ。

 っていうかさ、世の中に外部の知見をもたらしたり、何かをつなぎ留めておくためのデザインって、それどっちもアートだよね。と。


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