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「違う」ことは「悪」じゃない

いつかの冬のこと。
実家で何気なく開いた新聞で、とある記事が目に留まった。


それは読者の意見を投稿できるコーナーに寄稿されていた、60代女性による記事。

ある冬の日に外出した際、外でおしゃべりに夢中になっている赤ちゃん連れのママさんたちを見かけたことに対して
寒いしインフルエンザも流行っているのだから、もっと子どもを考慮しておしゃべりを我慢できないものかというものでした。

確かに、冬にずっと外にいるのは寒いし
インフルエンザの感染も否めない。


ただ、ひとつだけ気になったのが

【我慢できないものでしょうか】という一文。


ここで先にお伝えしたいのは、別に投稿者の女性とその女性が遭遇したというママさんたちのどちらが正しい、悪いという話ではありません。

投稿者の女性は世代的に、たくさん我慢をされてきたのかもしれない。そしてご本人も子育てを経験し、子どものために必死に頑張って育て上げられたかもしれない。
子どもを大切に思う、やさしい方なんだと思います。

これについては記事には書かれていないのであくまで私の予想であって、事実はわかりませんが、ただなんとなく文脈から「最近の若者は・・・」的な雰囲気を感じました。

時代世代それぞれ価値観はあると思います。
でも自分の中の「こうあるべき」というものを自分以外の人に当てはめようとすると、自分の正しさを他人に押し付けてしまったり、事実が歪んでしまうと思うのです。


もしも、おしゃべりに夢中になっていたママさんたちが、実家が遠く普段子供と旦那さんとしか接点がないような状況だったとしたら?
日々の子育てにいっぱいいっぱいだったとしたら?

家族以外の人と話す時間も、心を安定させるひとつの方法かもしれません。

これも私の想像でしかないけれど、背景がわからない状態でこうするべきではというのは何か違和感を感じるのです。


子育てに正解はないというけれど、時代の変化とともに子育て観も変化し今ではコロナもあってこれまでの【普通】というものが通用しなくなっている。

人が正しいと思うことは、【自分が】正しいと思っていることであって自分の視点を通した主観。それは必ずしも他人には当てはまらない。


他人と書いたけれど、これはたとえ親兄弟でも同じ。
右向け右で「正しい答え」を見つけるように教わっている私たちは、違うということに対して相手もしくは自分が「間違っている=悪」にしてしまうことがある。けれどそれが合っていようが間違っていようが、ただ違うだけなのだと受け入れられたら、自分は自分の選んだ道を行くだけ。
正しさを振りかざす必要もないんじゃないかと思うのです。

自粛警察とか、今はなんだかピリピリした世の中だけれど
自分との「違い」を「悪」にしないやさしさがもっと日常的になればいいなと思います。

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結季子|WEB好き農家の嫁
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