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【思考整理】ファッションという実践から、「原衣服」の妄想へ:オブジェクト指向存在論へのファッション研究からの応答として

※この【思考整理】は、論考のような体裁をとっているが、文体はエッセイ的というか、たまに話しかけている感じなので戸惑う方も多いかもしれない。一応、これは論考ではないかもしれないし、エッセイかもしれない。そんな風に思って読んでいただければ幸いである。多分少し文字が走っていると思う。それを整理するために書いているとご理解いただきたい。(2022年6月7日補足)

「衣服とは一体なんだろうか?」

「衣服とは一体なんだろうか?」

この問いは止むことがない。なぜなら、彼らは私たちの一番身近に存在し、私たちを生きさせ、時に勇気づけてくれるモノだからだ。衣服の研究領域としては「服飾史」をはじめ、「衣服解剖学」、社会学的な研究(流行や消費のメカニズムなど)などが挙げられるが、こういった領域を横断するものが「ファッションスタディーズ」と呼ばれるものだろう。今年、2022年に入ってフィルムアート社から『クリティカル・ワード ファッションスタディーズ ──私と社会と衣服の関係』(蘆田裕史、宮脇千絵、藤嶋陽子編)という書籍が刊行されたが、この本はまさにそうしたファッションスタディーズの領域横断的な実践の書物であると言えよう。

しかし、まだ問いは止まない。「衣服とは一体なんだろうか?」これは私個人にとっても重要な問いである。ここ1年ほど、私は自分のからだを戦ってきた。(身体に関わるような研究をしているのにもかかわらず)全くもって自らの身体性についての意識が希薄であった私のからだは、ある日突然私の目の前に現れた。突如として私のからだは内臓の動きを感じられなくなり、心臓の鼓動も加速し鳴り止まなくなった。それは不思議な体験だった。私はからだを「持っている」のだと、そしてそれと同時にからだ「である」ということが、感じられた。それは、恋に落ちた時のような感動として、私に経験された。

私は今、自分の「輪郭」、あるいは「境界」を探っている。衣服のような柔らかくて脆いものを自由に着ること、またアクセサリーのように固いものを身体に同化させていく行為は、私が自分自身を獲得するために行なっていることだ。《精神としての身体が衣服を知覚することで意味が現れる》。これはモーリス・メルロ=ポンティを参照した衣服の現象学的理解であるが、日本におけるその第一人者の鷲田清一は「身体こそが第一の衣服」(鷲田、1989年)と書いていることはあまりに有名である。

Instagramのストーリーズで自分の境界・輪郭を探す。あえて24時間で消えてしまうという緊張感の中で、残していくという実践=ファッションという「消費財」の流動性を固定していく。
衣服≒柔らかいものと、装飾品≒固いものは自分自身を留めておく「装置」になる。また、他にも境界・輪郭になりうるものはたくさんある。(Instagram: @shihokoansai

しかし、それでもまだ「衣服とは一体なんだろうか?」という問いは止まない。なぜなら、知覚対象としての衣服は、その「表れ」が意味として知覚されるにとどまっているのであって、「衣服とは一体なんだろうか?」という「衣服そのもの」へ到達するものではないからだ。

不透明な道具:「出来事」の契機

ここで、グレアム・ハーマンの「オブジェクト指向存在論(OOO)」を参照したい(ハーマン、2017年)。OOOは、四方対象とも呼ばれており、文字通り4つの対象が設定されている。実在的対象(RO)、実在的性質(RQ)、感覚的対象(SO)、感覚的性質(SQ)の4つである。

図1)四方対象図式

この図式に、現象学者であるフッサールの木という対象についての経験が以下の図である。

図2)「感覚的対象における2つの緊張(フッサール)」

ここでは木の様々な特徴=「形相的特徴」(≒RQ)が、「統一された感覚的な木」(≒SO)を通じて「射影」=知覚される。だが、ここでは「実在的な木」(≒RO)は考慮されていない。

ハーマンの図2に戻ろう。簡単に言えば、ROは「空間」を通してSQとして経験され、そして、ROはまたSO(私と出会うもの)を通じて「時間」をも経験する。しかしながら、普通、ROは「道具連関」(ハイデガー)のなかで退隠する。つまり、ROとしての衣服は透明な「道具」として経験されているのである。したがって、道具としての衣服ではなく実在的対象としての衣服にたどり着くとき、「空間」そして「時間」が開かれる、つまり「出来事」が生まれるのではないだろうか。

上妻世界は、ハーマンが「感覚的対象とその性質との分離は、「魅力(allure)」と呼ぶことができる」(ROはSOを通じで経験される)と述べ、またROに接触せずに触れる唯一の方法として「魅力」をあげていることに疑問を投げかける。くみ尽くせない「何か」としてのROは、例えば道具が壊れたとき、つまり不透明になった時(道具として順調なときはその対象の存在は意識されず、透明になる)にその存在感を浮き彫りにする。それがRO、つまりくみ尽くせない「何か」(「衣服とは一体なんだろうか?」)と出会い、関係することなのである。

僕たちはところ構わず何であれ恋に落ちるわけではない。すべてのオブジェクトを「この性」を持った他者として扱うことは現実的に不可能である。日常生活のうえで僕たちは一般性-特殊性という集合概念を操作することでシステムの中で生きるのだ。そして、だからこそ、僕は経験的には、この「壊れる」に相当する出来事を発明すること、「使うこと」だけでなく、さまざまな仕方で関係性を結びたいと思わせることを「魅惑」であると再定義したい。美術家として、初めから備わっている「魅力」に頼るのではなく、僕たちはほかのオブジェクトを「魅惑」する技術を必要としているのだ。僕たちは魅惑されるとき、ツアーのスケジュールや明日の計画を忘却し、時間の許すかぎりさまざまな仕方で「芸術作品」に触れたいと思う。それは御岩神社の「自然」や飴屋法水《何処からの手紙》で僕が体験したことである。そして、それはどんな仕方であっても「完全に」汲み尽くすことができないが故にありありとした「時間」が生成される。つまり、魅惑されること、恋に落ちることによって「秘密」が露わになるのである。あるいは恋に落ちることによって、「時間」がひとつではないことを知るのである。

(上妻、2016年)

上記引用の最後の文章がとても素敵だと思ったので、先の自分のからだとの出(再)会いの表現として、流用させていただいた。そう、自分のからだが壊れたとき、私は私のからだへと「恋に落ち」、止まっていた時間が再び流れはじめたのである。私は衣服にもそのように恋に落ちるようになった(今までは実はそんなに、という感じだったのだが)。私にとって衣服に「出会う」ことが、「出来事」の創出につながるのである。

被覆物(建築/衣服)が生む「出会い」の空間:クレランボーの器質論的衣服観より

ここで衣服から一度離れ、建築に拡張して考えてみよう。なぜなら建築は衣服とスケールは違えども、双方は(マクルーハン的理解にもあるように)皮膚の拡張物であり(マクルーハン、1987年)、被覆物=膜であるからだ。現象学的に言う「意味が現れる」空間とは、ROが経験されることによって実はすなわち「出来事」が起こる空間である。「出来事」が起こるには膜が必要だ。でなければこの世界は混沌としたカオス、あるいは単に宇宙なのである。

衣服でいう膜は、形相か質量かで言えば、すなわちその素材である布である。形の現れは科学的な特徴であり、ここでは一度考慮から外しておこう。布に魅せられた人物と言えば、ガエタン・ガシアン・ド・クレランボー(1872〜1934年)だ。彼については以下の拙稿を参照されたい。

Photo by de Clérambault, 1918-1919, Morocco.

クレランボーは「精神自動症」という症例を提唱し(別名「クレランボー症候群」)、さらには布に対する性愛的情熱についての症例、「接触愛好症」も発表している。「精神自動症」は、妄想など精神活動が意識や意志に無関係に「器質的」に起こるものであるとしたものだが、「接触愛好症」についても「器質的な動機」から性器の「共感覚が常に最初に出現する」としている(クレランボー、1908年、拙訳)。「器質的」、つまり精神ではない脳や臓器のような「他者」がトリガーになっているというのだ。

彼の一枚布の衣服研究においても、その「器質的」な原因論の考え方が現れている。彼は一枚布の衣装の構成要素を「固定」と「動き」とした(クレランボー、1928年[1981年]、拙訳)。これは「固定」、すなわち「器質的」なトリガーによって、「動き」、精神的と言えるようなドレープの動きが「症候」として現れているということを言いたかったのではないか? そんな気がしている。

「接触愛好症」については、これは純粋な布への触覚と性的快楽の関係を追求したもので、布に異性(クレランボーの理解による。しかし、これは「異性」だけではなく「自身の性的指向の対象」と解するのが良いだろう)という大文字の「他者」のイメージを融合させないものである。ここで想起されるのは、他人との関係を他者の不在と捉えるエマニュエル・レヴィナスの「愛撫」の定義である。レヴィナスは「愛撫とは、逃れ行く何ものかとの戯れ」であると述べている(レヴィナス、1986年、90頁)。クレランボーもまた衣服を大文字の「他者」なき他者性を持つ「個別的他者としての衣服」と捉え、「接触愛好症」の患者に自らの嗜好をも重ねていたのではないだろうか。

「原衣服」という妄想:アーキグラムの実践から

ここで私は「原衣服」という、想像上の理想の衣服を提案したい。それは触覚的(感受性があり)で、ホメオスタシスを維持する装置であり、膜の圧力に支えられる(そしてあるいは栄養を摂取さえする)有機的な宇宙服という、フィクショナルで「自律(自立)」した衣服である。ここには建築とファッションを越境した活動をしたアーキグラムの実践が参照されている。彼らの実践の一つとしての「ソフトな住宅」は空気構造を用いたもので、例えば、マイケル・ウェブの《クルーシル》(1964年)は「全体を支える『脊椎システム』と、その上を包む『覆い』の部分からなっており、締めるとバックパック式に背中に背負うことのできる空気構造の住宅」である。また、同じくウェブの《スータルーン》(1968年)は、「身体を包んでいる衣服それ自体を空気を吹き込んで展開することによって、一つの住宅を作り出すという発想」によるものである(遠藤、1990年、822-823頁)。

マイケル・ウェブ《クルーシル》(1964年)
マイケル・ウェブ《スータルーン》(1968年)

アーキグラムの実践はあくまで住宅におけるものであるが、「原衣服」へのヒントが多分に含まれているのではないだろうか。

(1/3、了)

2022年6月7日追記:本記事の番外編として以下を書きました。エッセイ的なものになっております…!

参考文献(登場順)

蘆田裕史、宮脇千絵、藤嶋陽子編『クリティカル・ワード ファッションスタディーズ ──私と社会と衣服の関係』フィルムアート社、2022年。
鷲田清一『モードの迷宮』中央公論社、1989年。
グレアム・ハーマン『四方対象──オブジェクト指向存在論入門』岡嶋隆佑他訳、人文書院、2017年。
上妻世界「芸術作品における「魅惑の形式」のための試論──4 魅惑について」artscape(https://artscape.jp/focus/10128591_1640.html)、2016年(最終閲覧日2022年6月2日)。
マーシャル・マクルーハン『メディア論──人間の拡張の諸相』栗原裕、河本仲聖訳、みすず書房、1987年。
Gaëtan Gatian de Clérambault. “Passion érotique des étoffes chez  la Femme,“ in Archive d’anthropologie criminelle de Médecine légale et de psychologie normale et pathologique, 1908. (http://psychanalyse-paris.com/1908-Passion-erotique-des-etoffes.html). (最終閲覧日2022年6月2日)
— “Classification des costumes drapes, “ 1928.(in Serge Tisseron. et al. La passion des étoffes chez un neuro-psychiatre, Gaëtan Gatian de Clérambault, 1872-1934. Solin. 1981. )
エマニュエル・レヴィナス『時間と他者』原田佳彦訳、法政大学出版局、1986年。
遠藤徹「 空気の(再)発見──60年代後期から70年代初めにかけて空気構造が担った社会的な意味をめぐって」『言語文化』1(4)、781-836、1990年。

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