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論理的であれ

大学の先生は「学生は論理的にならなければならない」と考えているそうです。論理的になれる人が意図的、一時的に非論理的になるのは問題ないけれど、論理的になれないことは学生として致命傷ではないかと…、思ってるらしいです。

論理的とは

そもそも、論理的とはどういうことなのでしょうか。

「論理」の主な意味のひとつは、「理屈」です。この意味の場合、「論理が正しい」=「理にかなっている」ということになります。


たとえば、こんな文があります。
太郎は昼寝をしたかった。だから、昼寝をしなかった。

はにゃ?と思いませんか。「だから」の前後がつながっていない、と思ったはずです。この文からわかることは、「だから」の前後が「だから」でつながっていない感じがするときは「論理的」ではなく、ちゃんとつながっている感じがするときは「論理的」であるということです。

この文が論理的になるようにするには、
太郎は昼寝をしたかった。だから、昼寝をした。
に訂正しなければいけません。

これだと「だから」の前の願望部分が、後ろの行動のもっともな理由になっています。だから、論理的と言えます。つまり、理由部分に「もっともな感じ」があるとき、それを論理的と呼ぶんです。


しかし、何を「もっとも」と感じるかは人それぞれです。ある行動や意見が、ある人にとっては論理的であって、また別の人には論理的でないということは頻繁にあるみたいです。論理的か否かを判断するにあたって、絶対的な基準は存在しません。そのため、「多くの人にとって論理的であるもの」「多くの人にとって論理的でないもの」があります。

だから、自分が意見を述べる場合、その意見は読み手や聞き手にとって論理的であるようにしなければならなくなります。自分にとって、言いたいことが論理的である必要は必ずしもないんです。


今度は、太郎の行動を少し変化させて考えてみます。
太郎は授業中に昼寝をしたかった。だから、昼寝をした。

太郎のこの行動は論理的でしょうか。これは難問というか、奥の深い問題です…。太郎の行動は、理にかなっている(論理的)とも言えますし、理にかなっていない(論理的でない)とも言える気がします。でも、「したいことがある場合、それをしてはいけない理由がないなら、それをすることは理にかなっている」と言えると思います。

したがって、この例文の場合は、授業中の昼寝がしてはいけないことであるか否かが、太郎の行動を論理的か否かを決めるわけです。「授業中に昼寝なんかしちゃダメだ」と強く思っている人なら、その人にとって、太郎の行動は論理的ではないでしょう。しかし、「太郎の行動は論理的だ。でも、それとは話が違うけれど、太郎は悪いことをした。」と考える人もいるかもしれません。


太郎の行動が論理的であるかどうか――その問題に対しては、絶対的な正解はないんだと思います。

自分にとって、太郎の行動が論理的に思えないなら論理的ではなく、論理的に思えるなら論理的ということです。「論理的」というのは、そういう曖昧なものなんです。


論理的を難しく捉えすぎ

「論理的であれ」と言うと、学生はもとより、多くの人が非常にハードルが高い印象を持ちます。しかし、論理的であることは実はそれほど難しいことではないのだと思います。「当たり前」とも言えるレベルのことが多く、ポイントさえ押さえてしまえば、比較的簡単なのかもしれません。

論理的であることは、学問の世界だけでなく、みんな意識していないだけで日常生活にも溶け込んでいます。普段意識していない人が急に意識したところで、論理的に話せたり、書けたりするはずがありません。でも、相手に自分の言いたいことをしっかりわかってもらえるように意識するだけで論理的になることができます。

論理的であることは、問題解決能力の向上や、コミュニケーションの明確化、批判的思考の促進といった重要な利点につながるとも考えられます。

また、論理的かどうかを判断する際には、怖い落とし穴があります。それは、自分が結論に賛成である場合、論理が正しいか否かが見えなくなりがちであるということです。「結論には賛成だけど、この論理は変」というように、結論に賛成か否かとは別に論理を考えることができる人が、まさしく論理性の高い人間であるといえると思います。

自分から論理的であろうと意識し、その習慣をつけることが論理的になるための第一歩ですね。

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