見出し画像

第一の掟:神を愛しなさい

キリスト教の第一の掟は、「神を愛しなさい」です。今回はそれについて考えてみました。

「私はなぜこの世界に生まれてきたのか?」「何のために生きているのか?」 という問いに対して、次のような考え方があります。それは、物事の意義や価値は存在しない、自分自身の存在を含めてすべてが無価値であるとする、ニヒリズム(虚無主義)に基づく考えです。一人の人間の命など、宇宙全体の中で見れば、また大きな時代の流れの中で見れば、あまりにもちっぽけなものに過ぎません。偶然、たまたま私はここに生まれただけのことであって、私の存在に特に意味はないし、価値もないとする、ニヒル(虚無的)な捉え方です。

しかし、キリスト教ではそういうふうではなく、神がこの世界の全てのものに存在を与えていると考えるそうです。「神の創造」という考え方です。この世界に存在する一人一人の人は、神によって存在を与えられて、今ここに存在し、生きているとされます。私たちの存在と命は、神からタダで頂いたもの、神自身の意志、神の無償の愛(アガペー)によって与えられた、いわば神からのプレゼントだそうです。そして、神の意志(愛)によって、私たちが今ここに生きているのだとすれば、私たちの命はどうでもよいものではなく、私たち一人一人には、かけがえのない価値と尊厳があることになります。

自分の生き方には、自分に責任があります。神の愛によって無償で与えられた自分の命を大切に生きること、自分という存在を大事にすること、できるだけ良い人間になること、これが神の愛への応えであるとキリスト教では考えられています。「神を愛する」とは、つまり、利己主義的な意味ではなく、自分の存在と命を大切にするということになります。自分自身の人間としての品格と尊厳を大切にするということが「神を愛しなさい」という掟の意味、という結論になります。

私は、自分や世界の存在を徹底して肯定的に捉えるキリスト教の考え方よりも、自分の存在に価値はないとするニヒリズム的な捉え方の方が共感できます。私たちの存在や命が神からの無償の愛によって与えられたものであるのなら、生まれてこなかった者、存在していない者には、神は無償の愛を与えていないということなのだろうかと疑問に思ってしまいます。存在の欠如は、違う意味での神の愛の形態なのでしょうか。

ダラダラ生きて大して立派な人間に成長できなかったら、神の無償の愛に応えることができていないということになるのかもしれないけど、自分を大切にして生きることって、実はとても難しいことだとは思いませんか?身近な人に自分のことを大切にしてもらえていると感じられなかったのに、どうやって自分を大切にできるんでしょうか。健康や幸福とはかけ離れた自堕落な生活も悪くないかな…と私は思います。社会や周囲の期待に惑わされることが付き物であるのに、自分の存在をどうやって肯定的に捉えていけば良いのだろうか?と思ってしまいました。

いいなと思ったら応援しよう!