変な人でありたい
私は人と話すときは、表面上では今でも普通の人の振りをしています。周りから変な人とはあんまり思われたくないからです。「出る杭は打たれる」とも言うし、あまり目立ちたくないという思いが強いです。みんなと一緒の振りをしておけば、変な人とは思われないから、そんなに目立たないし、ひっそりと変な自分でいても攻撃されない気がします。うまく嘘をついて迎合するというのは、私の自己防衛でもあります。
私は、表向きだけは平凡で普通な人を装っておいて、裏では存分に変なことをいっぱい考えている変わり者でありたいなって思っています。昔は“普通”に憧れていたけど、最近は、本当の私はずっと変な人のままでいいかな…と思うようになりました。なぜかというと、変な人や人と違う部分が多い人って、すごく面白いからです。私はやっぱり変な人が好きだから、自分の変わった部分をもっと増やしたいです。
私の変わった部分や人と大きく違う部分が、私の言動にも実はたくさん表れているのかもしれません。普通になりたいとか、没個性的になりたいとか、そんなことを思っていた一方で、実は人と違うことがしたい…という思いを持っているんだと思います。私は、マニアックな知識や雑学、いろんな分野に造詣が深い変な人でありたいです。大学の先生みたいに、いろんな事を知っている人からは、自分にはない新しい刺激をもらえるから、そういう人になれたらいいな…と思うんですよね。
経験値が多かったり、知識が豊富であったりすれば、非常に引き出しの多い人になることができます。私は人とは全然話さないけど、自分の引き出しをいつも増やし続けていたいです。それが私の趣味でもあります。他の人からだけでなく、自分から自分に教えて、自分からも教わって学ぶ、ということを大事にしようと思っています。あんまり人と関わりたくはないけど、新しいものを得られるという点では、たまに人と話すのもそこまで悪くはないかな…と思います。
私はどちらかというと、少数派に属することが多い人間です。人とはちょっとずれてるところがあって、違う価値観を持っているのかなって、よく思います。「面白いね」って言われたこともあれば、「頭おかしい」とか「馬鹿」って悪く言われたこともあるけど、それも私の個性なのかもしれません。他人に比べて変わっている部分が多いというのは、すなわち個性が強いともいえるのではないでしょうか。
私は見た目だけでなく、内面も変わったところが多いような気がします。あまり素の自分を知られたくないから、人に合わせるのが得意にはなったけど、正直みんなと一緒なのは嫌だな…って思います。その理由は特殊な人間、特別な人間でありたいから、という感じです。注目されたいとは思わないけど、変わり者ではいたいです。普通の人・平凡な人って、悪い言い方をすると、つまらない人とも取れるような気がするんですよね。
「みんなと同じ=正しい」は、ある意味で普遍的な真理だといえるのかもしれません。でも、「みんなと同じ」というところから逸れた人・逃げた人は間違いであるとか、おかしいとか、そんなことはまったくないはずです。普通じゃないとか、普通であるとか、それってその人個人の価値観でしかないし、その人の物差しで勝手に測った物だと思います。
世の中には、自分の中の普通を押し付けるのが好きな人が結構います。今まで私のことを普通じゃないと認識してきた人たちは、自分の中の普通を私に押し付けてきたようなものです。個人差があるのは当たり前で、私の場合はたまたまそれが大きかったというだけなのにな…って思います。私は別に人に迷惑をかけたり、不快な思いをさせたりしていたわけではないはずなのに、変わり者であったからか、昔は何かと周りから目を付けられやすくて嫌でした。
多くの人と同じということは、自分にとって安心を招くものでもあります。若い人は、人と違うと不安になりやすいから、自分の精神を安定させるためにみんなと同じでいたいと思っているのかもしれません。だから、人と馴れ合って、周りのいろんな人と仲良くして、一緒に同じことをしようとするんでしょうか。自然に周りに合わせることが出来るのは、日本人の美徳だとは思います。だけど、そういうことができないと、自己中心的とか、空気読めない奴って言われるだけなんでしょうかね…。
私は、人と一緒にいたいとか、みんなと同じでありたいという気持ちは少なめです。私は前例がない人になってみたいです。一人でいる自分も私の理想ではあるけど、「こんなに変な人初めて見た…」って、そうやって思ってもらえるような人も私の理想です。そのような初めて見る人から与えてもらえるものには、とんでもない大きな価値があると個人的に思っています。初めて出会う人って、未知の部分が多いからこそ、面白いと思うんですよね🤔