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肯定されたかった
他人の肯定が欲しくない人なんていないと思う。「それいいね」とか「大丈夫だよ」っていう言葉をかけてもらえるだけで私はこの上ないほど救われる。
肯定を得ようと思うと、他人の期待通りに振舞うしかない。期待に沿うことができなければ、あっけなく否定される。期待に背くことはとても辛いこと。当たり前に傷つくことを覚悟しなければいけないくらいに…。
そこには最初から選択の余地がないんだ。自己の存在を否定されることが苦痛でない人間なんていないから。肯定されるために積極的に周囲の期待に応えようとするのか、あるいは、否定されないために周囲の期待にひれ伏すのか。微妙な違いがあるだけ。
肯定が欲しかったということは、私はそれをくれるかもしれない周囲のことを肯定していたということになるのか。肯定を欲する程度には、周囲を愛していたということになるのか。だとしたら、周囲の期待通りであることは、私にとって喜びだったはず。なぜ、そうじゃなかったのだろう…。
否定されないために周囲の期待にひれ伏すと、私は肯定される。だけど、私の中には周囲にひれ伏すことなく生きてみたいという渇望が潜んでいて、それがずっと解けない。自分自身として生きてみたい、それを肯定してほしいという周囲に対する期待が私の中にはあった。なのに、期待するものは何も得られなかった。
それなら、自分自身であることを受け入れてくれない連中なんていらない、と言ってしまえればいいのだけど、そのためには周囲の肯定など必要としないほどの強い自己肯定をしなければいけない。けれども、私はかつて一度も自分自身であったことなんかなかった。そんな人に、周囲の否定に揺らがないほど強い自己肯定なんてできると思う?
ひょっとしたら、私は周囲の期待に応えていなければ成り立たなかったのかもしれない。いつも流されて人の言うことしか聞けない自分を知っていたから、その束縛を離れて期待に背いてみたかった。だけど、期待されることがなければ、私自身にもどこへ行けばいいのかわからなかったのかも。
右へ行けと言われて、これに従って右に行く。言うことを聞きたくないからあえて左に行く。どっちにしても、こちらへ行けという指示がなければ、進む方向すら自分で決められないということ。みんなに見捨てられたら、もう誰にも期待されなくなって、こちらへ行けという要求もなくなるから、どこを目指せばいいのか自分でもわからなくなってしまいそう…。
ものすごく嫌ってきたはずの周囲の期待がなければ、自分は成り立たないと自覚したとき、私は何を思うだろう…?きっと自分にとてつもなく失望してしまうだろうね。それこそ死んでしまいたいくらいに…。