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私の哲学的な考え(2)
何を目指しているの?
親や先生の言うことを聞く良い子でいる。
テストで良い点をとる。
友達が沢山いる。
いつも笑顔で前向きでいる。
いい学校やいい会社に行く。
仕事ができる + 収入が多い。
SNSのいいねの数が多くつく。
こういった周りが好意的な反応をするものを獲得しようと頑張る人は多いと思います。褒められると「うれしい」とか、「俄然やる気が出てモチベが保たれる」とか言う人が大半です。
でも、私たちが頑張っている姿勢や結果が出たことに対して、褒めること・認めること・愛を注ぐことは条件付きの愛と言えます。「結果を出したから認めてあげる。良い子にしてたから愛してあげる。頑張っているから優しくしてあげる。」これらは、当たり前と言えば当たり前のことのようにも、私は感じます。しかし、この条件付きの愛がいつも自分に向けられるようになると、結果的に自分を苦しめることも多くあります。
条件付きの愛
条件付きの愛は、調子がいいときは周りからも自分からもたっぷり注げます。そして、その注いだ愛がエネルギーになってまた成果を出そうと頑張ることができます。そうやって好循環が生まれていくはずです。反対に、結果が出てないときや頑張れないときは、条件付きの愛は注がれないし、自分でも注げなくなってしまいます。苦しいときこそ愛がほしいのに、そういうときに自分を愛せなくなってしまう。愛せないどころか逆に自分で自分を責めてしまう。これは自分にとっての大きな苦しみの一つです。
自分に対して条件付きの愛を注ぐようになると、他者に対しても条件付きの愛しか持てなくなります。外側の状態や周りからの評価で判断してしまうことになるため、相手を無条件に愛したり、本質的なつながりを感じたりすることはできないのだと思います。だからと言って、条件付きの愛がダメというわけではありません。
人間誰しも、ご褒美のようなものがあるから頑張れるものです。無条件の愛ばかり受け取っても、ずっと現状に満足したままになって、人はあまり成長できないかもしれません。条件付きの愛を獲得するために頑張ってきたとしても、その頑張りは尊いものだし、否定されるものでもないのかな…と思います。それらの頑張りで培われた能力もあるし、今の私につながっているものもあるといえます。
評価に対する違和感
私は「頭がよさそう」とよく言われます。でも、私はそんなことを言われても、ちっとも嬉しくありません。そうやって印象を褒めるということは、一見人間関係を良くしようとしている感じがするけど、実はそこには上下関係をはらんでいます。
人を評価するということは、その時点でいわば上から目線でしゃべっているようなものです。だから、その内容がたとえプラスのことであっても、言われた側は何か違和感を抱いてしまうんだと思います。そもそも、人を評価できるということは、その人のことを相当な程度理解していないとできないはずです。それなのに「あなたはこうだ」と関係が浅い人から言われると、「なぜ、あなたにわかるのか?」という疑問が生じると思います。
その内容が自分の認識と合っていればいいけど、自分では頭がいいと思っていないのに頭がいいと言われると、それは自分の認識とは違うということになります。その認識の違いから違和感が生じて、人と距離を取りたくなるのかもしれません。私の頭がいいのかどうかは、判断する人によって大きく変わります。ある人は私のことを馬鹿だと言い、ある人は私のことを秀才だと言いました。人によって私がどうやって目に映るのかは、こんなに違うものなんです。だから、人が言うことはあまり信用できないな…と思います。
頭がいいって何だろう…
頭がいいというのは、勉強が出来て、知識が豊富であるということだけではなく、いろんな場面でどのように物事を判断するかで決まってくるのだと思います。頭の良さというのはたくさんあります。
相手のレベルに合わせて会話ができる頭の良さ。
一を聞いて十を知るような頭の良さ。
事前準備や手回しなどをちゃんとやっておける頭の良さ。
鋭い洞察力や推理力からくる頭の良さ。
知識と知識を結びつけることができる頭の良さ。
誰もが常識にとらわれているようなときにまったく違う視点を持てる、いわゆる柔軟性のような頭の良さ、などなど。
学業成績がいいことや高学歴、そして博識ということ=頭がいいということではありません。実際、私はそういったものがずば抜けて優れているというわけでもないし、世間一般で見れば、そこらへんにごろごろいるようなレベルです。これは謙遜とかじゃなくて、事実です。事実を知っているからこそ、私も頭がよくなりたくて、優秀さを求めて、色々と努力する必要が生じるんです。
欲しかった言葉
でも、私は生き急いでいたのかな…なんてことを思いました。自分には何かが足りない気がして、いろんなことに手を出した結果、どんどん首が絞まってしまいました。私はいつも先行きが不安で考えすぎてしまいます。生きていきたくもないし、今を生きる気力もそんなにないのに、タガが外れたように何かに没頭するようになりました。「もう頑張らなくていいよ」って、少しでも声をかけてくれる人がいてくれたら、何か変わっていたんでしょうか。そんなタラレバの話をしても、意味はないんですけどね。