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ヒーロー

ヒーローは英雄という意味で、「強くて賢い正義の味方」「悪を倒し、世界に平和をもたらす主人公」「完全無欠のかっこいい人」みたいなイメージがあるかと思います。魅力的なヒーローに憧れる人は多いです。私もかつてはヒーローのような人に憧れていました。ひょっとすると、今もそうなのかもしれません。

ヒーローの対極の存在として、ダークヒーローもいます。ダークヒーローは反英雄という意味で、「目的のためなら手段を選ばずに非合法を好む人」「自分の掟にしたがい、悪に属しながらも敵を倒す者」「人格者とは言いがたい性格の持ち主」みたいなイメージがあります。でも、常識的なヒーロー像から大きく逸脱している感じが、逆に闇の中で活躍しているみたいでかっこいいと思います。

私は、正義のために悪と戦うヒーローよりも金のため、私利私欲のために悪と戦うようなダークヒーローが好きです。正統派よりも異端や規格外の人の方が、ヒーローという概念を大きく揺さぶるから、面白いんじゃないかな?と個人的には思います。


昔の私はヒーローみたいなときがありました。「真面目で努力家。人一倍頑張り屋。正義感や責任感が強い。何事も完璧にやろうとする向上心の持ち主。自分よりも他人優先。」…そういうヒーローっぽい性格の人に近づくことで私は初めて自分を認められていたような気がします。周りの人から「できる人」「意識高い人」として一目置かれるようになれたときに、ようやく自分の居場所を見つけられていたのかもしれません。

「優秀な人間」や「リーダー的存在」といったまさしくヒーローのような人は、周りからは頼れる人に映ります。優秀で真面目で責任感が強く頼られる存在であるヒーローは、華やかな人、人望がある人など、一見何も問題がない人に見られがちです。でも、ヒーローの内面においては、責任感に押しつぶされそうな恐怖や自分の弱さを見せられない孤独など、ネガティブな感情を我慢してしまっている場合が多いんです。

それは、本当の自分を周囲に知られることを極端に恐れ、ネガティブな自分を優秀さという盾で懸命に守り、弱さを隠しているともいえるのかもしれません。私はヒーローじゃないけど、それと似たような気持ちは結構あります。失敗や挫折、批判、失望に対して、ものすごく恐怖を感じるし、周りの評価や期待にとても敏感です。自分の非や失敗、間違いというのを認めるのがいつも苦しいです。

知らず知らずのうちに他人と自分を比較しては、一喜一憂していることにしんどくなっているのかもしれません。失敗やミスを恐れるがあまり、些細なことで自分を責めすぎている気がします。「何のためにこんなに頑張っているんだろう?頑張るって何だろう?」と時々途方に暮れることもあります。「ちゃんとやりたい」という強い気持ちが、自分自身を息苦しくさせてしまっているのかな…って思います。


最近は、学生相談室で自分の今までの人生の話をする場面が多くありました。私って意外といろんなことをやってたんだなあ…って、自分の過去を客観視できました。昔は優等生だったんだな…って、たまにその時の栄光にすがりたくなります。

今の自分に自信がなくて、現実逃避がしたいから、今よりも自分に自信があったときを思い出して、自己肯定感のバランスを取ろうとしているのかもしれません…。今の自分にちゃんと自信を持っている人は、過去の自分の栄光に執着することなんてしないはずです。私は未だに、過去に自分を取り残してきたままで、今を生きられていないような気がしています…。

「昔は良かった」と過去に固執して、現在の自分を肯定的に捉えられていないのがきっと今の私です。たとえば、おじさんが「昔は良い時代だった」と若者に話すことがありますよね。そのおじさんと私は同じ状態です。今を生きる人は今日をより良く生きようと前向きな姿勢でいるけど、昔の栄光にすがる人は過去ばかり見つめて、結局、現実逃避をしているんです。



「優等生たちの孤独」という話があります。

子ども時代の優等生とは、成績が良好である、受け答えや態度がいい、何事もそつなくこなす、などの理由で成り立ちます。つまり、大人たちにとって都合のいい子どもが優等生として認知されるわけです。

子どもは単純だから、褒められると嬉しいし、評価されると自信が付くので、ますますいい子になって優等生になろうと頑張ります。私もそういう感じでした。他者評価を自分の自信にしていました。でも、それは自分の個性を伸ばすというよりも、大人たちに気に入られる子どもになろうとする態度に他なりません。

その結果、大人にばかり意識が向くようになり、反面では、同級生たちとあまりうまくいきませんでした。大人たちに褒められることが多いがゆえに、大人の方を向いて行動するようになると、いつの間にか他人軸・大人軸になってしまいます。本当の自分というものがいなくなってしまうんです。

子ども時代は大人が主導するので、大人好みの他人軸・大人軸の子どもがちやほやされます。ところが、その子どもが大人になると、急に「個性を発揮して生きなさい」と言われてしまいます。「優秀だけど個性がない」とか、そんなことを言われてしまうんです。

まったくもって理不尽な話だけど、ずっと優等生で生きてきた人からすれば、それは本当にびっくり仰天なこの世の事実なんですよね。だから、失敗や挫折の経験を得て、「自分とは何か?」という哲学的命題に出会い、その上で自分探しを始める必要が生じるんです。他人軸の人は、自分軸で生きられるようにシフトを変えていく必要があるんです。他人の評価よりも自己評価を優先できる人生にシフトチェンジできれば、彼らは生きやすくなるということです。


私は今でもたまに人から褒めてもらえます。優等生ではなくても、周りから褒められるだけの資質は少しだけあるんです。それは紛うことなき私の長所と言ってもいいような気がします。長所が完全に0なわけではないはずだし、長所を持ちつつ、それを自分軸にて生かしていくことがこれからの人生の指針となるのかもしれません。

私の今の状況は劣化でも何でもなく、新しいステージに入ってどう生きようかを模索している状態ではないかと思います。これからの人生は自分探しの旅とでも思って、もっと気楽に構えて生きていきたいけど、できるかな…。生きるのに疲れているときは、死ぬまでの暇つぶしだと思って生きてみるのもありかもしれないですね。長生きするつもりはさらさらないので、残り少ない余生をどう生きるか、考えているところです。

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