思考のスパイラルとともに

眠れない
と言っても、子どもを寝かしつけて今まで寝ていたのだが、ふと目が覚めて脳内をいろいろなことが錯綜し騒がしい。
でもほんとにやばいときほど緊迫してはいない。
原因はうっすらとわかっている。
ここ数年ほんとに考えなかった日はなかった。最近距離をおいてやっと荒野に一人で一歩踏み出せた境地だった。
それがすぐ引き戻されそうになる。ものすごい引力。平静だった精神状態がさざ波立つ。思考が忙しい。
まだリハビリ中なのだ。わたしの一歩はまだまだ心もとない。
とらわれている。きっと相手はそんなつもりはないだろう。純粋に単純に心と体の赴くままに行動しているだけ。
わたしがうまく自分自身で歩けないのだ。

数日前のカウンセリングでもそのことを話したかった。
でもその時はちょうど振り切れた時期で、もう一つの職場の問題も落ち着いていて、自分もさほどあふれ出る感情もなかった。カウンセラーはさほど大きな問題ではないと判断したみたいだ。

相手の顔色、場の空気を読みすぎてしまう。いつからだろう。小学生のころからだ。なにかと一緒に行動したがり自分の思い通りにならないと不機嫌になる子が近くにいた。今思えば大嫌いだったけど、そんな風に思うのはいけないことのような気がしていた。怖くて拒否もできなかったし距離をおいてもその子はすぐ私のところに来た。(近所の幼馴染だった)
相手が不機嫌にならないよう、相手の顔色を見て怒らせないよう自分の行動や言動に日々集中した。今思えばしんどかった。その子もいろんなことを抱えていたからしんどかったと思う。中学、高校と交友関係も範囲が広がり、パワーバランスも崩れだいぶ平和な関係になってきた。しかしそれ以降、そういう人とは距離を置くようにしてきた。
それなのにここ数年そのような呪縛の中にいる。かなり慎重に人とつきあってきたはずなのに。相手が支配しようとすると、そっと距離をとるようにしてきた。意思表示するよう心掛けた。それなのに…油断したか。

「好意」とは自分が思うほど透きとおった心地よいものではなかった。それは何十年か生きてきて自分の感情も含め感じたことだ。好きと嫌い、愛と憎しみは紙一重というけれど、きっとそういうことなんだろう。
始めはきらきらした「好意」が、関係性の中でバランスが崩れると「支配」や「嫉妬」「執着」「依存」に変わってしまう。それらはもはや好意とはかけ離れた攻撃や暴力にさえなりうる。
そうならないよう自分はしっかり自分の足で立たなくちゃいけない。
そうしないと自分が相手を傲慢に仕立てあげてしまうこともある。大好きだった人がそう思えなくなってしまうこともある。

そう、そんな自分の弱さの話をしたかったのだけど、職場の制度のカウンセリングだし、無料だし、時間も短いし、なんとなく気が引けてさらりと終わらせてしまった。
ようやく前に進めたと思ったけど、いや進んではいるんだけど、すっきり別世界、別人格とはならないよね。
うむ、思考のスパイラルとともに手、からだ、動かそう。全身で感じることできっと脳みそも少しずつアップデートされていく。

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