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死産・産休|理性と感情のはざまで

死産後、産休に入っておよそ1週間が経過した。
理性と感情の間で揺れ動きながら、過ごしている。

入院のあれこれを残すのは、まだ時間がかかりそう。
だけど、少しずつ言語化できそうな気がしてきている。


今日は、今の気持ちを残しておきたいと思う。


ーーー

昨晩は、涙が止まらなかった。
我が子の姿が鮮明に浮かんできて、我が子に会いたくてしょうがなくて。

なんだかお腹も痛くなってくるし、震えながら泣いていた。
朝早い旦那に申し訳なくて、リビングに移動した。

気づいたら朝だった。
たぶん泣きつかれて、いつのまにか眠りに落ちたんだと思う。



先週は、やるべきことをした。
・分娩予定の病院に、予約金の返金に行った。
・自治体の妊婦アンケートに回答するために、保健センターに電話した。
・ずっと棚上げにしていた住宅ローン控除のために、税務署に行った。
・年末調整の書類を仕上げて、職場に郵送した。
・今後は使う見込みのなかった地方銀行の口座を解約した。
・ペーパードライバー講習が受けられそうな場所を探した。

そうやってやるべきことをやっているうちは、何も考えなくてよかった。
泣いていたって我が子は戻ってこない。何もしなくても日常は過ぎていく。やるべきことをやることで、気持ちは楽になった。



案外、やるべきことはすぐに終わる。
これからあと2か月、大してやるべきことなんてない。

今日はやりたかったことをやった。



おうち用のメガネをつくりたくて、作りに行った。
手続き含めてものの1時間もあればメガネが手に入った。今まで使っていたおうち用のメガネは8年前に購入したもので、ずっと買い換えたいと思っていた。だけど行動に移せていなくて、その時間を捻出しようという気にすらなれなくて、ずっと後回しになっていた。

たった1時間で解決できてしまうことすら、後回しになっていただなんて。

私は何のために、何を優先して生きていたんだろう。自分が心地よく過ごすための行動を後回しにして、何を優先していたんだろう。その何かを優先した結果、私には何が残ったんだろう。自分を大切にできていなくて、それで命のすべてを私に依存していた我が子を死産した。つらい。



本を買いに、本屋に行った。
1か月に一回は本屋に行ってたんまり買っていたけれど、今日はそれを何か月ぶりにできたのだろうか。1年とは言わないけれど、数ヶ月どころではないような気がする。私にとって本屋は、世界を広げる場所で、凝り固まった頭をほぐす場所でもある。本を買うことも読むこともできていなかった時期は、どんどん頭も心も凝り固まっていっていたのかもしれない。

本屋には【努力・効率・生産性】なんて言葉が、並んでいた。
今までは私も、そっちの世界にいたんだと思う。だけど、子供のいない産休を過ごす今、なんだか全部どうでもよく見えた。そっちの世界に浸っていた私は、我が子を守れなかった。努力も効率も生産性も大事だけれど、今は少し見え方が違う。労働の成果を求めることが目的ではなく、愛をもって生きることが目的になったんだと思う。



平日の昼間は、子連れや妊婦さんが多いことに気づいた。

別に自分の居場所がないとは思わないけれど、なんだかちょっとつらい。
誰も悪くないし、みんな幸せであれと思うけれど、ちょっとつらい。

土日は人が多すぎるし、平日の夕方以降は知り合いに遭遇する可能性が高い。万が一にも、生徒には遭遇したくない。だけど、平日の昼も、ちょっと居心地が悪い。もちろん誰も悪くない。



最近、表情筋が疲れている。顔が痛い。
そして、呼吸が浅い。うまく呼吸できていないのを感じる。

きっと気を張っているんだと思う。
理性と感情のはざまで。



少しずつ、少しずつ。




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