悩んだら知識とスキルを。
助けてくれるのは,知識だと思っている。
だから,悩んだら本を読む。
「無償の愛だね」への反発
人を育てる仕事は,聖職だとも表現される。無償の奉仕,無償の愛をもって,身を捧げる。そんなふうに思われる,あるいは,無意識に期待される職業であると言っても過言ではないだろう。
管理職に「いいね,無償の愛だね」と言われたときの違和感を消化したくて本を読んだ。
私は人間性や母性で仕事をしているのではない。人間性や母性の対価として賃金を得ているのではなく,スキルに対して賃金を得ているのである。でなければ,免許制度なんていらない。
愛することはスキルである。
本能的に心から誰かを愛することと,職業として愛をもって接することは,同一視できない。私という個人がどんな感情を抱こうとも,どんな人間であろうとも,職業人としての私がもつ愛は揺らがない。なぜならば,それがスキルだからである。
愛するスキル,話をきくスキル
愛することはスキルだ。同様に,話をきくことも,寄り添うことも,スキルだ。
ときとして,話をきくことは話し手の力を引き出す。何もしていなくても「問題」が解決されることがある。「問題」と呼ばれるものは多々ある。それらのすべてに介入し,解決策を見出す必要はない。自らで生きていくためには,常に介入していてはならない。「失敗」することが見えていても,その失敗が必要なときもある。大事なのは,安心して失敗できることである。安心して,悩めることである。
そのために,話をきく。そばにいる。
何もしていない,わけではない。
話をきくこともスキルだ。
聞く力だとか,傾聴だとか,そういうテーマの本も増えてきた。カウンセリングだって,誰にでもできることではない。
話をきくことは,誰にでもできそうである。しかし,傾聴とそれは違う。ただ話している人のそばにいれば,ただ相槌を打てばいいわけでもない。
それ以前に,話をきくためには,話してもいいと思えるだけの信頼関係の形成も欠かせない。話をきくことは,聞き出すこととは違う。
この信頼関係の形成だって,スキルだ。
他者のスキルへの甘え
あまりにスキルを軽視している人がいる。
スキルは知識と経験に裏付けられた努力の賜物である。向き不向きはあろうとも,スキルである以上,身につけ,高めることはできる。
子育てした人はいい教員になれるのか?
親の介護をした人はいい介護師になれるのか?
風邪を引いた子供の世話,怪我をした子供の世話をしたことがあれば,小児科医になれるのか?
逆でもいい。
教員は,子育てもよくできるのか?
介護師は,親の介護もよくできるのか?
小児科医は,風邪を引いた,怪我をした子供の世話もよくできるのか?
これらは,イコールではない。
つまり,全く同じスキルを使って達成されることではない。それぞれに特徴的なスキルが必要だ。たとえ重なるスキルがあろうとも。
特に対価として賃金を得ているのであれば尚更,そのスキルを身につける,高める必要がある。自分の努力なしに,他者の身につけたスキルに甘えてばかりいては,労働とは言えない。
非認知能力も同様に数値として目に見えるものではない。目に見えるものだけが,すべてではない。
目には見えないものを見ようとする。
まずはそこから始めたらどうだろうか。