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運転・生き方|運転が怖い理由を考えてみたら、そこには生き方の課題があった。

私はペーパードライバーである。
運転が怖いって思っていたけれど、私が怖いのは自己主張だ。

と、今日、気がついた。



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ペーパードライバー講習に行ってきた。

講習は1時間ごとに申し込める。1回で終わってもいいし、何回通ってもいいスタイルだ。お値段も高くはないし、入校手続きは要らないし、ネットで予約できる。おかげさまで、石橋を叩き割るほどに慎重な私でも、講習にありつくことができた。

1回目はエンジンのかけ方から始まり、教習所内をいくらか回った後に、公道に出た。1車線の比較的交通量の少ない場所。1回目の講習で感覚は思い出したものの、ここは東京である。交通量が多い中で車線変更をすることができなければ、運転なんて怖くてできない。あと車庫入れ。



今日は2回目、2時間の講習にした。

今日は主に車線変更の練習をするべく、2車線の道路を中心に、1回目よりも複雑な道を走行した。1車線を進むときよりも気にすることは多い。車線変更をするためには、後続車を気にしなくちゃならない。そして、ウィンカーを出さないと始まらない。
ある車は、少し後ろを並走する形で前を譲ってくれた。別の車は加速して先に行ってくれたから、私は後ろに入ることができた。別にどっちだっていいんだけれど、いずれもウィンカーを出さないと始まらない。



これは、私の苦手な自己主張だ。

私は、私よりも他者を優先してしまう。自動的によりよいと思われるようにふるまってしまう。それが相手にとって本当によりよいかどうかはわからなくても。例えば、どれだけ空いているお店でも、遠慮して1人席を選んでしまうような感じ。だって、そのあとに満席になったら、私が一人席に座っていれば、って思うかもしれない。まさに、かもしれない運転。



運転はかもしれないだなんて、遠慮していられない。

路上駐車の車があったら車線変更をしなければ、自分は前には進めない。遠慮してウィンカーを出さなかったら、その路上駐車の車の後ろにいるしかない。ウィンカーを出して車線変更したいんですよーって意思表示をすれば、となり車線の車は加速したり減速したりして、いれてくれようとする。でも、意思表示をしなければいれてくれようとはしてくれない。黙っていてもわかってくれない。そんなの当たり前だ。



これは私の苦手な自己主張だって思った。

自分より他者を優先してしまう、「自動かもしれない運転」をしてきた私にとって、自己主張をするというのは怖いんだ。いま、少しずつ自己主張をするようにしている。カフェで「あのブラインド閉めてもいいですか?」という具合に。とっても小さな自己主張に書いていると自分でもおかしいくらいだけれど、それでも私にとってはドキドキする一歩。で、意外と大丈夫と思える経験を重ねている。



運転が怖いって思っていたけれど、私が怖いのは自己主張なんだと思う。

そう思ったとき、運転に対する恐怖心が不思議と小さくなった。運転しながら気にしなきゃいけないことは多い。そのすべてで他者を優先していたら、運転なんてできない。人間関係だったら、他者を優先したふるまいをする時間的余裕があるけれど、運転はその場限りの出会いの連続だ。そのすべてにおいて、この人はこうしたいかもしれないから自分はこうしようと思ってなんかいられない。そもそも交通ルールがあるわけだから、どちらが優先かは法律で決まっている。



周りがどんな運転をしようとも、法律にならって自分の運転をすればいい。

周りが飛ばすからって同じように飛ばす必要はない。もちろん流れは大事だし、高速道路に乗れば最低速度だって定められている。何よりも大事なことは、安全に事故なく走行することである。その目的さえ見失わなければいい。



自分の運転を貫くっていうのは、自分軸を持つということともいえる。

結局は自己主張と自分軸が弱いことが、私の運転に対する怖さの原因なんだと思う。運転をするという技術そのものに対する不安ではない。実際、教習所に通っていた頃、運転が怖いだなんて思ったことはなかった。何かが極端に苦手だと思った記憶もない。



運転をする怖さの原因に気づけた今、運転をすることが楽しみになった。
自己主張と自分軸、これが私の課題だ。





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「エフォートレス思考」という本を読んでいる。最近、いろいろなことがつながってきているように思う。時間的にも精神的にも余裕があるからこそ、なのかもしれない。いい時間を過ごせている。

この時間をくれた我が子に感謝したい。



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