考え方・行動|大事にしたい人の中に自分も入れてあげる。
こう思われるんだろうなって思うと、
やりたいこともできなくなる。
正確に言うと、できないのではなく、
やらないという選択をしてしまう。
でもさ、別にいいじゃん、思わせとけよ。
とも思う。
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忘年会でお酒を飲まなかった女性がいた。
お開きになった後、その女性の知らぬところで「妊娠したのかな」と言う人がいた。別に何でもよくないか、どうでもよくないか。
体調が悪いのかもしれないし、翌日に大事な予定があるのかもしれないし、気分じゃなかったのかもしれないし、妊娠以外の理由だっていくらでもあるだろうに、どうして妊娠と結びつけるのか。私は、わざわざ妊娠と結びつけて考えることが気持ち悪いと思った。
その後、その女性が妊娠していたことがわかり、別の人は「お酒を飲んでなかったから、そうだってすぐにわかった!」と言っていた。だからなんなんだろう、って思った。
私は、こんなふうにゴシップ的に人の挙動を評価する人が苦手だ。
その女性は、お酒を飲まなかったことと妊娠がこんなふうに語られていることを知る由もないのだけれど、そういうことを口にしている人は、私のことだってそんなふうに邪推するんじゃないかって、警戒してしまう。
そういう人がなんと言おうと関係ないのだけれども、それでもいい気持ちにはならない。そういう人とは、私は距離を置きたい。
こう思われたい自分がいる。一方で、こうしたいって思う自分がいる。
だから、距離を置きたくなるんじゃないかって思う。私の中には、自分のやりたいことと、こう思われたいとか、こう思われたら嫌だとか、そんな気持ちとの間にすれ違いがある。そのすれ違いを解決する手段を人と距離を置くことに求めているだけなんじゃないか。
自分のやりたいことをしたときに、それに対して私がこう思われたくないと思っていることを噂するような人を遠ざけてしまえば、私の中の気持ちのすれ違いを棚に上げて、自分のやりたいことをすることができる。遠ざけなければ、こう思われたいという世間体を優先して、自分のやりたいことをやらないという選択をしてしまう。
でもさ、やりたいことやればいいじゃん。
明日は死産後、初の出勤日である。早めの産休に入ったと思っている人もいるだろう。明日、私が出勤したら、噂好きな人はコソコソとし始めるかもしれない。私はそれが怖いし、どう振舞ったらいいのかわからないでいる。
頼りになる仲間もいる。だけど、噂が好きな人も少なくない。
でもさ、そんなこと気にしていても、私の人生に責任を持てるのは私だけ。私はそういう人たちの幸せのために生きているのではなく、私は私と私が大事にしたい人の幸せのために生きていればいい。
どう振舞ったらいいのかわからないというのは、他者に対して自分の行動を決めようとしている発想である。社会性は必要だけれども、別に自分が振舞いたいように振舞えばいい。
大事にしたい人を大事にする。
遠ざける以外の手段を覚えないと、いい関係さえも断ち切って、いつのまにか孤独を感じてしまうことになるような気がする。遠ざけるのではなく、大事にしたい人を大事にする。その大事にしたい人の中に自分も入れてあげる。それでいいんじゃないかな。
死産後、大好きな日本酒も焼酎もたくさん飲んだ。
不妊治療を再開する。お酒はとうぶんおあずけ。