外見は中からつくられる
あの人はあの映画のとき何歳だったのだろう・・
ふとそんなことを思う。
きっと、その人物に惹かれると同時に自然と自分(年齢)と比較しているのかもしれません。
スティーブマックインは大脱走の時に32歳、ウッディアレンのアニーホールは42歳。イメージとしては相反する二人ではありますが、その存在感は特別なものを感じます。
特に我々の業界では昔からよくお手本にあげられる二人でもあります。
いつの時代もファッションはめまぐるしく移り変わるものですが、彼らはスクリーンの中で何十年と止まっているにも関わらず、その格好良さはゆるがない。
常に動いている者たちがどうしてその格好良さに近づけないのか?
ファッションは止まったら終わりのような強迫観念の中、新しいものを常に追い求めさせられる。
そう、この追えば追うほど離れていく存在が彼らなのである。
なんとも皮肉な話だ・・。
世の中がどうであれ、彼らの中の世界観や美学は揺るがない。
そんな自信とスタンスこそが大きな存在感につながっているのだろう。
人は簡単に「色褪せない」と口にするけど、半世紀生きてきたがそんな人間にはそう出会うものでもない。
その時代時代にたくさんの著名人が出てきては消えていきますが、生き残ることよりも消えていったのちに影響を与え続けることの方がうんと難しい。
今の世の中を見ていると、見て見て感が強い人が多い、そんな人たちほど会うたびに雰囲気の違う洋服を着ている気もする。
もちろん、ファッションのあり方としてはそれで良いのだろうが、正直そこには美学のかけらも感じない。
映画「アニーホール」ではダイアン・キートンのセンスが取り沙汰されるけど、ウッディ・アレンの一つ引いた存在感、着こなしこそ見逃せないのだ。
ファッションは点で輝くもののように思うかもしれない。
本当にそうなのか?
実は点ではなく、その点が繋がって線であるからこそ輝くのではないか。
ファッション=刹那、そして華やかで輝かしいとたくさんの人は言う。
しかし、わたしの考えるファッションや格好良さはそんなものではない。
少しずつ色々なものが積み重なって型ができていき、それでいてただ静かにそこにある。
正に陽というよりは陰であるからこその美。
よく、ファッションは自分自身の写し鏡といいますが、物事の捉え方や考え方がふらついてしまうひとは、洋服をとってもふらついてしまうもの。
あなたの洋服を自分自身が見てどうでしょう?
もし、自分はよくわからないけどみんなが着ているからと答えてしまうようであれば、その存在には程遠い。
アンケートにやたらと「どちらとも言えない」と答えている人がいる。
あれって何だろうね?