カテゴライズという暴力
先日やすとみ歩さんとお会いし、本を読んでから立場主義ツッコミが止まらない。
この世のほとんどの不具合は立場主義から発生しているような気さえしてくる。
課長だから係長より偉い。
父だから子より偉い。
そんな個人ではなく立場を重視する傾向は、世の中にあふれている。
世の中を見れば見るほど、立場主義は
「私は課長です。だから私は偉い。」という自分立場主義と
「あなたは課長でしょ?だったら課長らしくしなさい」
という相手立場主義で充満していると感じる。
「LBGTなんてない。
あるのは差別だけだ。」
という意見を聞いて、アドラーを思い出した。
「その物事が起こったから怒っているのではない。怒りたいときにちょうど適切な怒りの対象が現れたから、怒っているのだ。」
差別したい。という欲求は、自分の足場が揺らいでいるので、他社の足場をもっと揺らして、自分の立場を安定させようとする意図があるのかもしれない。
そしてカテゴライズするという行為は、無知から生まれると思う。
よくわからない物を、人は本能的に警戒する。
カテゴライズすることによって、未知の恐怖を既知の存在とすることにより安心したいのではないか?
相手の立場をはっきりさせることによって、自分の立場的には相手をどのように扱うか決めることができる。
反対に言えば、あいてがどの立場にあるのか分からなければ、どう扱っていいかわからない。敵なのか、味方なのか。
「LGBTなんていない。」という安冨さんの発言を、
私は
「好きな服を着て、好きな人を好きという自由」
という意味に受け取った。
最近私が生で見て美しい...と感じたのは
やすとみ歩さんと女王蜂のアヴちゃんだ。
たまたまどちらとも性別というカテゴリーを超え、背が高く、小顔で、手足が長いという一般的な外見的美しさ基準に当てはまる容姿、知的で唯一無二の存在感を持っているが、
私が一番シビれるのは、
彼女たちが
「カテゴリーに属さず、勝手に自分の好きなようにしている」ところだ。
現代、簡単に美しくなろう、カッコ良くなろうとすると、人は元ある「美しさの雛型」「かっこよさの雛型」を突き詰めることになる。
ある意味真似が一番簡単だ。
その雛型は細分化されており、「石原さとみ系」「吉田羊系」「菅田将暉系」...など各々が目指すべき細分化された雛型に合わせて進んでいく。
例えば、
肌は白くなくてはいけない、
髪の毛は茶色でなくてはいけない、
目は大きくなければならない。
など。
以前テレビでニューハーフバーに密着した映像を見たことがあるが、顔も体も整形済みのナンバーワンの方がいかに美しいか、みんながその方を目指して美しさを磨き、その路線にいけない人はお笑い系で生き残っていく...という、選択肢が二つしかない生き方に驚愕した覚えがある。
今の自分が枠の中で息苦しいからジェンダーを軽やかに超えたはずが、結局今度はトランス枠の中でのし上がって行かなくてはいけない。
一つの枠を超えると、また次の枠が待っている。
性別も年齢も国籍も非公開で、低い声と高い声を別人のように使い分けて、男性の格好も、女性の格好も自由自在。
オタクでもありギャルでもあるアヴちゃんをカテゴライズすることは、現代では不可能だ。
着心地がよい、楽、楽しい!という気持ちから女性装を実践し、虐待サバイバーとしてそして学者として自らの経験を昇華し、子どもの大事さを説くやすとみ歩先生は、もはや東大教授の枠にとらわれず、智を使って周りの人を助けているハイパーお姉さんだ。
今まで出会ったことのない存在を、人は恐怖し、カテゴライズしようとする。
しかしそれは恐怖ではなく「畏怖」に近い感情かもしれない。
日常に居なかったもの「まれびと」を神とするか、異物とするかで世界は大きく変わっていく。
いままで見たことないものあったことない人を、試しにカテゴライズしないで見てみよう。