舞台「東京演劇道場 赤鬼」の感想
久々の「赤鬼」の観劇に非常に嬉しさを感じて、東京芸術劇場に向かいました。初演の富田靖子さん、段田安則さんのときの衝撃は忘れられない。再演のときもやはりすごかった。これはやっぱり野田さんの描いた絶望の深さだと思います。
で、今回はオーディションで選ばれた東京演劇道場のメンバーの皆さんでの公演、非常に期待値が上がっていました。メンバーは今までも演劇活動、俳優などを経験されてきた中での選出。基礎的な指導云々ではなく、それぞれのメンバーが持つ表現力が如何に訴求してくるか?だと思います。そういう意味では自分はこの日に出るメンバーも含めた予備知識ゼロで望むことを前提として、劇場で楽しんでいます。
最初に浜辺での住民の様子を見せていきます。ここがまず面白かった。この日は織田圭祐さんが演じていた作り物がすごく気になって(笑)手元の作業で何かを工作していたのですが、それがなにかすごく気になりました。そういう惹きつけるものが得られるのが、やはり演劇なんだと再実感。映像ではなく、劇場という空間でこその世界がそういう場所で感じられたことが嬉しかったです。
その後は手元にある桶やたらいなど、いろいろな道具から音を出して楽器のような動きからのオープニング。まさに野田さんの演出。「贋作・罪と罰」とかでも見せていましたが、自分はこの始まり方好きです。高揚感がぐっときます。静から動、という観客側の気持ちがぐっと作られている感じがして。自分は最初っから気持ちがぐいぐい入り込んでいった中での観劇でした。
さて、この話、今回の野田さんのコメントが「見えないものへの恐怖」「精神の自粛」「精神の爆発、差別」という言葉を使って作品を説明しています。この話は海の向こうから来た異邦人を、港のとある村の住民が拒絶し、見世物にし、そしてその村で異邦人を受け入れた住民と合わせて迫害した結末がどうなるか?を描いています。同時にここでは異邦人と心を通じ合わせる村の女性「あの女(ふく)」の絶望を描く作品でもあります。
まあ結果として、コロナウィルスに関する今の社会情勢が重なったことは、作品への受け止め方へ大きな影響を与えていると思います。異邦人は「赤鬼」と認識されます。鬼は赤子を食べる、と村人に風評されるが、それを正す人は仲間と言われて迫害される。異邦人は花を食べるということがわかるが、花も食べるが赤子も食べるのでは?と言われる。まさに今回のウィルスへの世間の風評と同じです。そして関わった人への世間の対応も同じ。このあたりは初めての感染者が出た岩手県での状況が、こういう迫害を連想させます。そして一度は異邦人を受け入れた「あの女」の努力もあって、異邦人は一旦受け入れられたかのように見えますが、その女に惚れていて嘘つき男・水銀の言葉に、周りは乗せられて結局は迫害をまた初めていく。人間の感情の愚かさがくっきりと見えます。最終的に「あの女」を助けるために、水銀、あの女の兄(知恵遅れ・とんび)と赤鬼、あの女の四人で船に乗って、逃げ出しますが、食料もなく赤鬼が乗ってきた船はすでに彼を見捨てたあとで、最後は赤鬼は死に、残った三人は嵐によって再び元の村に戻ることになります。ただ「フカヒレ」の味が違うことから、ある事実に気がついた「あの女」は絶望し、自殺をする、、、、、、。
村社会に限らず、迫害・差別は日本という島国では宿命かもしれません。多様性は昔よりはぐっと広がりましたが、それでも閉鎖的な空間は根強く残ります。これは単純に良い悪いだけで語るのは難しく、閉鎖的な社会が作る安定という側面を否定はできないからです。もちろんこの安定は維持できるかが鍵です。閉鎖空間における社会の安定は、個人的には定期的な外部刺激が必要だと思います。結束性の再確認でしょうか。これは有効に働くと思いますが、この作品にもあるように犠牲を伴うケースも多いかと。その犠牲は得てして弱者が引き受ける。そして残った人は排除したことへの安心感を得る。自分はどっちにいるのか、、、、、ここは非常に心が苦しいところです。この残酷さはまさに今の世界での様々な差別主義のわかりやすい構図だと思います。
今のコロナに関しては世界的な規模での出来事と言いつつも、実際最初の観光船に関しては日本以外の国は受け入れを拒否しました。まあ結果として拒否しても感染者は他の国でも出ていますが。この芝居での赤鬼は刺激であると同時に、排除される運命でした。決して共存にはならない。話の中でこの異邦人である「鬼」は自分たちの仲間が受け入れてもらえる土地を求めてさまよっていることが語られます。潜んでいた洞窟に鬼は理想郷の絵を描きますが、あくまで理想に過ぎない。そんなものはどこにも存在しない。そう赤鬼にはないわけです。かつて移民の人達が新天地に理想を描いて住んだときに、そんな場所があったのか?ということと通じる。この「鬼」は自分たちを受け入れてくれる場所を探すために上陸しましたが、そして迫害されたあと、一度は道が少し開けたかのような空気になりつつ、結果として一人の言葉で、そんなものがかんたんに壊される現実が待っている。それが社会なんだと自分も思います。それが言葉の持つ強さと怖さだと思います。よく「言霊」という話が野田さんの作品では使われてきましたが、本当にそのとおりで言葉の持つ力の怖さ、そこから始まる人の感情の連鎖を実感します。
この作品は最後「あの女」の自殺、そして兄・とんびが初めて感じる絶望によって幕を閉じます。あの女はどんなに迫害されても、最初は世間を拒絶することで生きています。ただ赤鬼と交流することで、まったく違う世界とつながることができたという事実から希望を持つことの喜びを知る。だから彼女は土壇場まで「希望を捨てない」と叫ぶ。ただ最後に自分が生きるために、結果として先に死んだ赤鬼の肉を食べたという事実が、彼女の心を壊す。そう自分のために結果として他人を犠牲にしていること、その事実に気が付かなかったことか、あるいは感づいたが知らない思考が働いたことか、、、、いずれにせよ「鬼が人を食べるんじゃない、人が鬼を食べるんだ」と村人たちに叫んで差別を批判した自分が、まさに鬼を食べたという行為に耐えられなくなっています。人肉を食べるというカニバリズム云々への批判は別として、ここでのポイントは結局の所、理想と生命維持への欲求で、本能が上回ってしまうという現実への絶望だと思います。ただこれが「ある女」の絶望になってしまうのは厳しいなあ、、、、、あまりにも辛い。人は生命保存への本能的欲求を理想で上回ることができるのか?という命題への答えを持っていない気がするので。肉体関係があったかどうかは、正直どっちでもいいしそれがあってもなくても、自分の希望であった鬼の肉を食らう自分に、女は絶望しただろうなあ、、、と考えたりしています。
すみません、思いついたことをなんとなくつらつらを並べて書いていて、まとまってはいない気がしますが、数回、この作品を見ている自分としては、改めてこの新しいキャストで見ることができたことをすごく嬉しく思っています。今回はAチームで拝見していて、主要メンバー四人はどの方も素晴らしい演技だったと思います。ある女を演じた夏子さん、素晴らしい演技でした。特に動きが出たときにはすごく躍動感を感じる演技で、鬼との交流での感情の爆発もいいなあと思って見ていました。河内大和さんの嘘つき男・水銀の嫉妬は情けなさが伝わってきてよかったです。最後の肉を食らうことを告白したシーンも、愛憎が混じった空気がすごくにじみ出ていたと思います。助けたいと、嫉妬によって肉を食らうことで存在を消すという両面で。木山廉彬さんは知恵遅れの兄・とんびを演じますが、もうこれは最後の初めての絶望を知るがすべての演技の集約。感情のほとばしりがない分、そこに向けて如何にキャラクターが作られていくか、ですが自分はあの淡々とした絶望への道が、妹が遠ざかっていく演出と重なってよかったなあと思います。赤鬼の森田真和さんはあれだけの動きもそうですが、鬼という異邦人の難しさがよく出ていたと思います。昔の赤鬼では実際に外国の方を使っていたりしたので、また違う空気があるのですが、今回は衣装も含めて「異質なもの」という状況を如何に観客に感じさせるか、そして鬼が感じる僅かな喜びと大いなる絶望という部分がにじみ出ていたと思います。あのキング牧師のスピーチを話すシーンでの叫びは、最初は希望が含まれますが、後半は実は絶望しかない。それでも叫ぶあの姿は良いものでした。
この作品、他のチームもぜひ見たかったです。いろいろな役者さんが演じる空気の違いを感じ取ってみたかった。今回、劇場はすごく工夫されていて、客席前にシートがありますが、照明の当て方などの工夫から観劇中はほとんど意識することなく見ることができました。今回の公演の難しさがある中で頑張ってくださったことに感謝します。
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